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3/21/2012

補習校における授業の在り方

1983年の1月、母の会の求めに応じて、日ごろ感じていた補習校教育というものについて自分の考えをまとめたもので、渉外担当の役員の方から、”先生ー労作ですね”、といわれました。

 ここから、わたしの補習校教育論の展開が公然となされるようになったわけで、私にとっては記念すべき論文といえます。基本的に、この線で、その後展開して行ったわけで、当時はまだ小6と中学数学だけの担当であったため、国語に関しては遠慮しながら、しかし自分自身の高校の時の貴重な体験を思い出しながら自信をもって展開しているのがわかります。結局、わたしは高校のすぐれた恩師田中住男先生から私なりに学んだものを展開しようとしていたのだとわかります。

人生は出会いである、、まさにその通りだと思います。わたしは本当にラッキーでした。

村田茂太郎 2012年3月21日
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補習校における授業の在り方 
   並びに  補習校での学習効果を高めるための学習の基本について


教育には道徳・情操面と知識・学問面とがあるが、わたしはここでは学問的な面について取り上げてみたい。

私は個人の学習において最も大切なことは、学習意欲と探求心であると思う。ソクラテスは自分の仕事を産婆役と表現したが、実際、それに徹することが教師としてなしうるベストであると思う。従って、子供の心に、探求心をかきたて、学習意欲を増大させ、自主的に子供が自分の才能を伸ばしていけるよう尽力することが、学問的な面においての教師の最大の使命である。これらを子供の中に育て上げることが出来なければ、どんなにエラそうなことを言っていても、教師として失敗したといえると思う。

さて、中学や高校の教科書の内容が非常に豊富で、子供のほうでは、休みなく勉強し続けていなければついていけなくなる恐れがあるほどである。どちらかといえば、時間が足りないせいもあって、地理や歴史などは、名前をドシドシ覚えていくだけで、精一杯という感じがし、生きた歴史の動きを肌に感じることが出来るような、楽しい授業は日本においてさえも、持つことが不可能なほどである。

 私はよく考えた。もし、自分が高校の世界史を教えるなら、教科書を順番に追っていくような、何の感銘も受けない授業ではなく、歴史の躍動期を選んで、重点的・集中的に、ある時期をあらゆる角度から調べる形の授業を持ちたいものだ・・・たとえば、古代ギリシャの黄金時代、シーザーの時代、ルネサンス、アメリカ独立戦争とフランス革命そしてナポレオン時代、といった風に。そうすれば、誰が何をやり、何を書いたといった、ただの知識の羅列ではなしに、一つの出来事、一つの書物が現れる背後に、どれだけの人間のおろかさと叡智、苦悩と歓喜、悲惨と栄光の努力を必要としたかを生き生きと感じることが出来るであろう。それによって、歴史意識、歴史への興味を呼び覚ますことができれば、私は使命を果たした事になる。一つの出来事に興味を持てば、それは必然的に次の興味を喚起することになる筈であり、一度、自分で興味を以って調べ始めた子供は、ほうっておいても立派に成長していく筈であり、そのキッカケを与えることが何よりも大切なことだからである。

たとえば、最近、私はコルテスとアズテック文明に関する研究書を読んだが、高校の教科書や受験勉強の中で名前だけ覚えていたのとは全く異なり、いかに教科書的な知識が空しいものかを改めて確認した。コルテスが単に血も涙もない残虐な征服者(コンキスタドール)として登場して、メキシコ文化を滅ぼしたといった単純なものではなく、わずか数百人の軍団でメキシコに乗り込んでいく、その過程に現れる天才的な深謀遠慮の面白さは、歴史を知識としてではなく、生きた人間の変動史として学ぶことの大切さを実感として感じさせるものであった。名前だけ知って、何でも知っているように思い込みやすい今の教育のあやまちは、それを経験してきたひとは、よく承知しているはずである。

ギリシャ人クセノフォンの“アナバシス”(一万人の退却)という本には、感動的な箇所がいくつも出てくるが、たとえば、こんな話がある。ペルシャからの退却に懸命になっていた約一万人のギリシャ人重装備歩兵軍団が未知の土地に向かっていて、旅人に出会った。危険をくぐりつつあり、怒りっぽく短気になっていたギリシャ兵は、旅人をつかまえて、道案内をしろ、しなければ殺すといっておどかしたところ、老人のほうは何も言わなかった。仕方なく、兵士はその老人を殺した。そのあとで、老人の連れの男は、ギリシャ兵が向かおうとしている方向に、老人の家族のいる村があるといった。ここは、文体分析をする場所でもないし、本の紹介をするつもりでもないので、これだけで打ち切るが、たとえば、この本一冊の中に、私は紀元四百年ごろの、様々な土地の生活様式や風俗・習慣・生活意識・社会が見事に描き出されているのを読み取り、いつまでも忘れがたい印象を持つのである。

この本に、示されたペルシャ政体の欠陥が、後に“アレキサンダー大王も、クセノフォンなくしては、大王たりえなかったであろう。”と歴史家をして言わしめたほど、アレキサンダー大王のペルシャ遠征勝利の一要因を作ったわけであり、アレキサンダー大王の活躍ぶりも、クセノフォンやアリストテレスを視野において、はじめて、その偉大さも蘇ってくるといえるのである。高校時代に覚えた、クセノフォン“アナバシス”、“メモラビリア”という名前だけの暗記の無意味さは明白である。

それでは、こした形の授業を行った場合の受験勉強との関連はどうなるのか。ハッキリ言って、受験勉強など自分ひとりですべきものであり、自分でやれない人は教師がいても、うまくやれるはずがない。学校で習ったとしても、結局、自分で納得のいくように勉強しなおさねばならないのだから、それなら、受験勉強はいい参考書を使って、家で独力で、じっくりやり、学校では興味深い時期を徹底的に調べるという方法で勉強したほうが歴史の授業としても面白いし、大切なものが身に付くし、いつまでも印象に残るものになるはずである。

もちろん、日本で、こうした私の希望する方法を実際的に適用するのはかなり政治的にむつかしいという感じがするし、いろいろな抑圧を撥ね退けてやるだけの余程確たる自信と信念を持っていなければならない。去年、新聞に連載されていて“教科書”特集を読んでいて、いろいろな教科において、独自な工夫を、大胆にも推し進めておられる先生方がいられることを知り、私は感動を覚えるとともに、自分の考えが突飛なものではないことを知り、自信を持った。

さて、以上のような話をしてきたのは、現在、特に中学生の教科に関して、いろいろ疑問を感じているからである。補習校という限られた環境の中で、日本と同じ教科書を使って、日本と同じように一年間で、終わるべきところまで終わるという形で、授業が進められている。私の見るところでは、所定の領域を各一年間に全部落ち度なくこなせるのは、数学だけである。(もちろん、その際も、家庭での学習が大きな意味を持ってくるわけであるが、それに関してはあとで触れるつもりである。)。

数学だけは、週二時間の授業だけで、日本のレベルに劣らないで、しっかりとやっていける。問題は他の教科である。地理や歴史を、日本と同じように進もうと思えば、とぶようなスピードで、それこそ名前を読みこなしていくだけの授業となる。受験勉強を意識して、それはそれでいいではないかと言えば、いいのかもしれないが、それでは、特別な生徒を除けば、ほとんどわけもわからずに知識を暗記していくだけで、歴史や地理がよくわかり、面白く、大好きだという方向に向かわないであろう。

ここで、補習校ということの、特別の意味が出てくる。補習校なのだから、日本と同じように、日本のやり方に従ってやる必要はないわけだ。それこそ、歴史の教科書を、はじめから終わりまで、黒板で触れながら授業を終える必要はないということになる。私が述べた世界史の教授法で、歴史の焦点をえらんで、より詳しくつっこんでやるという方法をとっても悪くないわけだ。ただ、名前だけを覚えさせて、ペーパー・テストの結果はよいけれど、何も学ばなかったに等しい授業よりも、本当に歴史に興味を持つ生徒が現れるような授業方法をとれるチャンスではないかと思う。歴史や地理は、特に、自分で積極的に調べていくことが大切であり、自分ですすんでやる姿勢がない限り、効果もあがらないし、意味もない。逆に、その方法を身に付け、意欲を持った子供は、受験勉強といって、ことさら意識しなくても、自然と積極的・効果的に学び取るであろう。

私は六年生に社会を教えていたときも、歴史は出来るだけ詳しいほうが面白いという私の信念にのっとって、かなり詳しく、時には高校の内容まで触れて教えてきたし、いろいろな挿話を出来るだけ行うようにしてきた。

桂小五郎と大村益次郎(村田蔵六)の出会いにおける“人間を見る目”とか、高杉晋作の関所破りにあらわれた“天才的な政治認識と行動力”とか、あるいは、時には、幕末の剣聖男谷下総守信友と勝海舟の剣の師島田虎之助の三本勝負にあらわれた“思いやり”と言う具合に、私は出来るだけ教科書の枠をはみ出し、教科書に書いていない事柄を説明することを通して、歴史の中の人間の躍動力というものをつかみとってもらおうと努力してきた。

中学一年の歴史の教科書を見て、私が六年生に教えた生徒たちにとっては、特に、新しいことなど書かれていないと思ったほどである。中学一年の地理と歴史の担当と言う事になり、このたびは、形を変えた授業方法をとろうと思い、発表形式でやろうと考えた。発表形式は、みんなが協力して、自分で調査する形で、やり、発表も工夫して行うようにすれば、実にすばらしい学習方法になる。しかし、今回は、明らかに失敗した。いくつかの班に分けて、調査領域を区分けして、やってもらったけれども、各班の中でも、すべての人がまじめにやったわけではなく、また発表を聞く態度が全然出来ていず、発表する側も一部の人々を除き、まじめではなかった。私はこのまま続けるということに、疑問を感じ出した。たしかに、自分で積極的に調査・発表した人は、すばらしい能力を示したのだが、その発表を、まともに聴いている人がほんの少ししかいず、結局、遊んで過ごす人のほうが多いように思えた。生徒諸君の発表で欠けた部分は、あとで、私自身が補填する予定であったが、それすらうまくゆかず、結局、私は失敗であったと思わざるを得なかった。当初の考えでは、自分で担当になった部分を調べる事によって、調査方法を身に付けたり、発表の仕方を身に付けたり、歴史や地理に興味を覚えるであろう、そして、たとえ微小な部分であっても、興味を覚え、調査方法が身に付けば、あとは一人でやっていけるであろうということであった。

さて、歴史や地理を例にとって、授業の在り方を述べてきたが、以上の事は国語についてもいえる。私は現在、国語の方面にはタッチしていないが、国語教育とその方法に強い関心をもっており、特に、補習校での在り方をいろいろと自分なりに考えている。実は国語こそ、最大の難問が控えているわけである。

高校の国語は、教える側から見れば、ある意味では簡単である。どんなに分厚い教科書を使っていようと、全部終えなければならないと、気にしながら授業を進める必要はない。高校レベルでは自主的な学習が基本となっているため、新漢字とか重要語句・用語といったものは、本人の学習に任せてよいわけで、教科書も本当に重要な部分をいくつかとりだして、緻密に分析・読解していけば、下手に全巻読了というよりも、はるかに充実した理解力が身に付くわけである。もちろん、国語の授業ほどむつかしいものはなく、また、その担任の能力に左右されるところはない。特に、高校のレベルになると、ハッキリとそれがいえる。私は自分の高校生活の実感からそれをハッキリと感じ、また何が良いかをよく承知しているつもりである。

 私が尊敬していた国語の先生の授業は、単に熱がこもっていただけでなく、その内容分析が実に充実していた。たとえば、高村光太郎の“秋の祈り”という詩一篇をひもとくのに、何時間もかけられ、小林秀雄の“平家物語”のところなど、その分析・読解が徹底していて、私は隅から隅まで了解し、ついには、そこから出発して、現代批評の難解な文章をあさって読み求め、自信を持って現代国語に立ち向かうことが出来るようになった。

 これが、もし、飛ばすように流していく授業であったならば、結局、何も身に付かないで終わったに違いないと思う。その経験を踏まえて、結局、十篇の異なった内容をとばし読みして進んでいくような授業(これは、教え方の上手下手をいっているのではなく、限られた時間で全部終えようとすれば、そうせざるをえないということ)よりも、一篇か二篇の内容に、充分時間をかけて、読解を徹底させる事のほうが、はるかに大切なことであると私は信じている。従って、私が高校の国語を教えるのであれば、現代国語であれ、古典古文であれ、漢文であれ、すぐれたものを択んで、徹底的に分析・読解する方法で授業をすすめるつもりである。

 さて、中学国語に関しても同様に考えるわけであるが、困った事に、中学教材は新漢字、用語、語句の関係から、すべて必修の内容となっており、スキップしてしまうと大変な事になるという意識があるため、学校側としても、これまで、問題意識をもちながらも、そして重点化につとめながらも、それを徹底できず、結局、駆け足ででも、全部を終了するという形をとってこざるをえなかった。ここでも、補習校の特性が問題になってくるわけである。上に述べたように、国語においては、特に、緻密に分析・読解していくことが大切なのであるが、どんなにすぐれた教師でも、限られた時間で、すべてを緻密に読みすすめていくことは不可能である。しかも、本当に身に付いた授業を行うためには、一つの篇に、かなりの時間をかけなければならないとすれば、どうすればよいのか。

 ここで、補習校であるという認識の上に建って、思い切って、最重要単元をセットし、一年間の予定表をその最重要単元をうまく時間をかけてこなすという形で組み立て、学校で取り上げることができない単元は、はじめからわかっているわけであるから、特にその部分にあらわれた漢字や語句は家で自主的に勉強してもらい、時々、範囲を決めて学校でテストする事により、生徒諸君の自主的な学習振りをチェックするという形をとれば、すくなくとも、より深くつっこんだ授業も行えるのではないかと考える。

 国語を現に教えていない人間が、国語授業の在り方を云々するのもおこがましいが、私はすでに述べたように、以前から、国語教育のあり方に強い関心を持っており、今も、私自身、日常的に、徒然草や平家物語や漢文を原典で愛読しており、日本人の国語力や漢文力の維持と発展ということに強い関心をもっているので、一応、私見を述べさせていただいた。

最後に、付け加えておきたい。

学習態度の基本は、集中・反復・持続である。このどれか一つが欠けても、学習効果は減退する。週一回のあさひ学園での学習を意味あるものにするかどうかは、日々の家庭学習にかかっている。元サンフランシスコ補習教室の校長柴田洋吾氏が“補習校は子供たちの学習意欲を触発・喚起・継続させる役割を担うものであり、学習の定着は家庭での努力によらなければまらない。”と海外子女教育に書いておられたが、全くその通りである。

 私は数学を指導していて、学習していた当座は、むつかしい内容もほとんど完全に理解していたはずの生徒が、二、三ヶ月あとには、ほとんどあやふやと言えるほど忘れてしまっているケースに何度か出会ったが、それは、明らかに、家庭での反復・継続学習が欠けていた事によると思う。はじめて理解・吸収した事柄が頭脳の深部に浸透していくのには、必ずある程度の時間と繰り返しが必要であり、本当に身に付くまでには、何度もコツコツと繰り返して学習努力する以外には道はない。


 ここで、日本での授業との違いを、ハッキリと認識しておく必要がある。日本での授業は、ほとんど毎日で(国語や数学など)、進度も遅く、毎日繰り返しながら学習する形をとるので、まじめに授業を聴いている人は、特に家で勉強しなくても、ほとんど完全に理解できるが、ロサンジェルスにおいては状況は異なる。ここでは、一回一回が全く異なるところを学習していることが多く、そのとき、そのときを熱心に授業を聴いてよくわかったつもりでいても、定着化に必要な反復が欠如しているため、どんなにすぐれた生徒でも、内容によっては、しばらく経つと、すっかり忘れてしまうことが多い。ここに、家庭学習の重要さと、宿題の持つ意味がある。中には宿題に反対する教師もいるようだが(海外子女教育誌に載った意見など)、私から見れば、状況の違いを認識していない愚かな意見と言える。定着させなければ、意味がないのに、中途で放棄しているようなものであり、何のための補習校教育かということになろう。

 父兄の中には、子供の学習は、あさひ学園にまかせて、“我、関せずエン”という態度を取っておられる方もいるようだが、これも誤解もいいところである。海外における児童の教育は、子供・親・教師の三者が一体となって努力して、はじめて本当に身に付くものとなるのである。週日五日のアメリカン学校での教育のほかに、苦労して土曜日をあさひ学園で学習している児童の努力を無駄にしないためにも、親は自分の子供の学習に関心を持ち、適当な助言を与えられる姿勢を維持していることが必要だ。

 岡村富美子女史(UCLA比較教育学Ph.D.)のあさひ学園生徒を対象とした、二言語維持能力の研究結果を見ても、親の関心・姿勢が重要な要因となっていた。日本との状況の違いをよく認識して、どんなによくできる児童であっても、今、上に述べた反復・持続の欠如で、曖昧なままになっていく可能性が強いことをわきまえて、家庭学習を怠りなくつとめるようにしていただきた。

今まで、授業の在り方等に関して、問題意識を持っていても、なかなか具体的に展開できるところまではいかなかった。最近、ようやく、高田敏夫先生や長嶋昭子先生を中心とする諸先生方の努力で、学校管理は落ち着いてきた。そして、高田先生から、指導と内容の充実化の話が持ち上げられてきて、私も、このときとばかり、長年気にかかっていながら、思い切って実現できなかった、教科単元カットの問題に触れたわけである。そして、例の柴田洋吾氏がサンフランシスコで、私とは違った展開の形ではあるが、同様の問題意識をもって分析・カットを実践しておられたのを知って、この問題はあさひ学園全体でも検討してよい時期だと悟った。

十一月の個人面談においても、ご父兄側からは、繰り返し、基本・要点の徹底指導を期待する意見が多く出た。それも、中学のレベルに限らず、小学校の低学年においてもそうだと言われて、私は、事は中学だけの問題ではなく、全体の問題なのだと了解した。

ともすれば、父兄からの過大な期待にこたえようとして、日本の学校並み、あるいはそれ以上の努力を払いがちなのであるが、時間という絶対的な限界を超えることは出来ないのであるから、補習校という限界をよくわきまえ、逆に、その特性を生かす形での授業が望ましいし、父兄のほうでも、その辺の兼ね合いをよく了解していただければ、各教師も、その能力を最高度に発揮できるのではないかと考える。

この問題は、学校全体の授業の方針や指導計画を左右する大きな問題で、一朝一夕にベストの解答が得られるとも思えないし、何がベストかも人によって違いがあるにちがいないので、今後、地道に検討していかなければならない問題であるが、一応、どのような問題が、今、検討されているかを知っていただきたいと思った次第である。

(         19831月、母の会だより 2月号所載) 村田茂太郎

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