ここに述べたハンレイとゴシショの話は、有名すぎるほどであったのですが、後醍醐天皇のころにはすでにエリートだけの知識となっていたようです。
カタカナ書になって申し訳ありません。難しい漢字が単純なワープロではでてこないのです。
いろいろやり方も在ると思いますが、(たとえばInternetで探し出してコピーするとか)、面倒なのでカタカナですませました。
私にとってはハンレイは現代の政治家、特に共産圏の粛清されたひとびとを思うと、過去の話ではないように思えます。人間は欲望と名誉心から自由であることはむつかしいようです。
村田茂太郎 2012年3月21日
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ハンレイへの思い (政治と人生)
広大な土地に、それにふさわしい長大な歴史を築き上げてきた中国は、その偉大な文化の発展にふさわしい多様な人材を生み出してきた。中国史は、数多の興味あり、傑出した人物を擁していて、私たちに様々な教訓を与えてくれる。司馬遷の“史記”に登場する人物たちの姿は、人間のとりうる生き方を生き生きと鮮やかに示していて、限りなくおもしろい。
日本が縄文土器の野蛮で健康な時代を送っていたころ、すでに世界でも最高度の教養と文化を備えた国が、海のスグ向こうの中国大陸で築かれていたことを知るのは、一つの驚異でもある。日本文化の後の発展は、中国文化伝播のたまものであり、そのすぐれた文化のすべてが、スポンジの吸水作用の如く、あざやかに吸収されることによって、日本は自立できるようになっていった。中国の歴史は、日本の古代知識人たちにとっても、必修の対象であり、彼らは、中国古代文明において活躍する英雄たちの行動や名前は、当然のことながら、みな諳んじていた。
1331年、鎌倉幕府討伐を企てた(元弘の変)後醍醐天皇は、楠木正成らの努力もむなしく、捕らえられ、隠岐に流された。この失敗に終わったクーデターが、鎌倉幕府滅亡の直接の動因になったという意味で、この未然に発覚した政変は、天皇の隠岐流罪と共に、建武の新政に向かう動乱の中でも、特筆に価する出来事であった。
天皇が隠岐に流されると聞き、途中で一族を率いて天皇を奪おうとした児島高徳(こじまたかのり)は、敵に裏をかかれ、結局は何も出来ずに終わった。美作の国(岡山県)院の庄の宿に入った天皇を助け出す方途もなく、仕方なく、児島高徳は、宿の庭にある桜の木を削って、一句の詩を書き残した。
『天莫空勾践 時非無ハンレイ』
天 勾践(こうせん)をむなしうするなかれ 時にハンレイなきにしもあらず
翌朝、警護の武士が見つけて騒いだが、何のことかわからなかった。たまらなくなって、天皇に報告すると、天皇は直ちに、その真の意味を悟り、ニッコリほほえんだ。
これが、有名な“児島高徳と桜の木とハンレイ”の逸話である。児島高徳の名前は、太平記にしか登場しないということで、果たして、実在の人物かと疑われたりするほどであるが、この逸話は、建武の新政を予告する意味合いもあって、鮮やかに輝いている。
ここで、太平記の語り物的な性格が現れて、この勾践とハンレイの詩の意味を解しない人々への注釈のはずの説明が、延々と、文庫本で二十頁近くも続くことになる。これは、当時、文化が大衆化すると共に、当時の教養のレベルも低下し、勾践やハンレイの名前を聞いても、何のことか全くわからない人が増えていたからであり、それは、町民・農民に限らず、武士においても、すでにそうであったことが、この児島高徳の逸話でうかがえるのである。
さすが、天皇だけあって、中国の史書には通じていた。そして、有名な呉越の闘いと、その主要な登場人物については、知悉していた。
「天よ、呉王夫差(ふさ)に捕らえられた越王勾践と同じような境遇にある後醍醐天皇の命を空しく殺さないでくれ、時には、あの勾践を助けたハンレイのような忠臣があらわれてこないとは限らないのだから。」
太平記は、このあと、“この詩の心は、・・・”とつづいていく。
時は、戦国時代(中国古代の)であった。呉と越は仲が悪く、領土のとりあいばかりやっていたが、いよいよそれも大詰めに近づいた。越王勾践の決死部隊の活躍に敗れ去った呉王コウリョは、息子に勾践が父を殺したことを忘れるなと言って亡くなった。その言葉を肝に銘じた呉王夫差は、毎晩、薪の上に寝て、その痛みで父の恨みを思い返し、復讐の機会をうかがっていた。
夫差には名臣ゴシショが、勾践には名臣ハンレイがついていた。呉王の勢力回復を気にした勾践は、ハンレイの再三の忠告にも耳を貸さず、攻め入って、逆に会稽山に追い詰められ、三十万の軍隊に囲い込まれた。死を決した勾践に、もうひとりの賢臣大夫種(たいふ しょう)が、今死ぬのはたやすい、しかし、生き恥をさらしても生きながらえて再起を期すべきであると説いたので、もっともと思い、種にすべてをまかせた。
結局、兵と息子は無事に帰れたけれども、勾践自身は、光の入らない牢獄に手足を鎖につながれて入れられた。そのうわさを伝え聞いたハンレイは、魚商人のふりをして呉の国に入り、獄のあたりにくると、警護が厳しくて隙がない。そこで、一行の書を魚の腹に入れて獄の中へ投げ入れた。それを読んでみると、まぎれもないハンレイの文体で、昔牢獄につながれたもので、王者になったものがいる、あなたも敵に殺されるなと書いてあるので、生への勇気が湧いてきた。
その頃、丁度、呉王夫差が病気になった。命が危なくなったとき、名医が誰か膀胱結石の石を嘗めて味をしらせてくれれば、治療が出来ると言ったが、誰もそれをしようとしない。伝え聞いた勾践は、恥を忍んで、これが最後のチャンスと思い、自分が嘗めてみると言った。その行為の結果、病気が回復したため、呉王夫差は感激してしまい、勾践を牢から出すだけでなく、越の国まで返して、勾践を送り出してしまった。その時、呉王の名臣ゴシショは、その処置は、虎を野に放つようなものだと注意したが、聞かなかった。
三年の苦労のあと、帰国した勾践は、寵愛する絶世の美女西施(せいし)と楽しく過ごせると思っていたのも束の間、呉王から西施をよこせと言って来た。怒って、拒絶しようとした勾践に、ここでもまたハンレイが忠告を行った。“今、西施を惜しんで戦争になれば、国力もなく、たちまち負けて殺されるのはわかりきったことだ。それなら、一体、何のために苦労をし、恥を忍んで生きてきたのか、呉王は女好きで有名だ。西施を呉王にやれば、夢中になって政治も忘れるに違いない、そうなった時こそ、復讐のチャンスではないか”、と。勾践はハンレイに説得されて従った。
その後、ハンレイの予想通り、西施の魅力のとりこになった呉王は、政治を忘れてしまった。名臣ゴシショは何度もきびしく忠告したが、全然、耳にいれないどころか、かえってゴシショを疑いだし、とうとうこの剣で自殺しろという命令を下した。ゴシショは怒って、自分が死ねば、目の玉をくりぬいて街の東門にかけてくれ、呉王夫差が勾践に敗れて、死刑に連れて行かれるところを、トックリ見てやるといって自殺した。
ハンレイにとって名臣ゴシショだけが最大の難問であったのに、西施を殺そうとして、逆にゴシショ自身が殺されてしまったため、チャンス到来と喜んだ。
この間、勾践は、夫差への復讐を忘れぬようにと、常に肝を嘗めて、その苦い味で、会稽山の恥を思い返し、国力の増強にと励んでいた。慎重なハンレイの忠告に従って、会稽の恥から十一年が経った。夫差は覇者として、諸侯を黄池(こうち)に集めて得意の絶頂にあったとき、ハンレイはようやく合図して、呉を攻めさせた。すさまじい勢いで疲弊した呉軍を破っていく越の兵力を見て、忠臣ゴシショの忠告がすべて正しかったことを悟ったが、すべては手遅れであった。
会稽の恥のごとく、自分も許してもらえると思っていたし、勾践もその気になったが、ハンレイはゴシショ同様、鋭く先を読み込んでいた。ただ一度、ハンレイの忠告に逆らって、会稽山で致命的な敗北を喫した勾践は、それ以来、ほとんどハンレイを信用し、彼の忠告は受け入れた。とうとう捕虜となり、命が助からないと悟った呉王夫差は、国を滅ぼしてしまったのは自業自得だけれども、たぐいまれな忠臣ゴシショを殺してしまった自分自身が恥ずかしいと心から思った。そして、結局、会稽山のふもとで、自分で首をはねて死んだ。
越は、その後、ますます強大となり、覇者となったので、勾践はハンレイの功を賞して大名にしようとした。その時、ハンレイは“たいめいの下には久しくおり難し”(大きな名声のもとでは、長い間、身を安全に保つことはできない)と考えて、すべてを捨てて、一族と共に越を去ってしまった。そして、その地から、同じく賢臣種(しょう)に注意を促した。そうすると、やはり、種をねたむ人間が、種が反乱起こそうとしていると訴えたため、勾践は自殺用の剣を種に送った。
ハンレイは、その冷徹な知性で、勾践の人柄を見抜き、苦難は共にすることができるが、富貴太平は共にすることは出来ないと読んでいた。彼は、“飛鳥尽きて良弓蔵され、狡兎死して走狗煮らる”(鳥がいなくなれば、よい弓もしまわれ、兎が死ねば猟犬は不要となるから、煮て食われる)と言った。その後、ハンレイは、名を変えて商売人となり、そこでも天才を発揮して大富豪となった。そして、それを貧しい人々に分け与えること二度。世に、“陶朱イトンの富”という。陶朱(とうしゅ)とはハンレイの別名である。
この呉と越をめぐる闘いは、そこに名臣や美女がからんでくるため、中国古代史ではもっとも有名な話となっている。絶世の美女西施に関しては、芭蕉も“奥の細道”の旅で、“きさがたや 雨に 西施が ねぶの花”という句を詠んでいる。ここは、また諺の宝庫でもあり、臥薪嘗胆、会稽の恥、そして呉越同舟といった金言名句が生まれた。勾践も夫差も、特に立派といえる人物ではなかったが、その復讐への徹底ぶりは凡人には出来ぬことであり、やはり個性豊かな英雄ということになるのかもしれない。中でも、最も興味ある人物は、二人の忠臣、ゴシショとハンレイであり、一方は悲劇の英雄として名を残し、他方は、その先賢ぶりを生かして、名臣から大富豪となって、幸福な一生を送った。太平記の中の名文をうつすとこうなる。“功成り名遂げて身退くは天の道なりとて、遂に、姓名を替え、陶朱公と呼ばれて、五胡というところに身を隠し、世を逃れてぞ居たりける。釣りして蘆花の岸に宿すれば・・・”。
これらの知識が、この児島高徳の文字の理解に必要だったわけで、太平記には、この詳細が史記、論語、春秋、礼記、白氏文集、文選、孟子といった文書を総動員して展開されており、著者の教養の深さはわかるのであるが、詳細を知っているものには、建武の新政に向かう動乱の記述としては、冗長に過ぎ、平家にくらべて、やはり、少し質的に劣ると思ったりすることになる。
さて、このようにして、名臣ハンレイは最大の功労をたてながら、自分から栄誉を辞退して、よその国へ隠遁し、そうすることによって自由を得、また別の才能を発揮して、命を全うすることが出来た。しかし、功労を立てた人間が謙虚に無名になって退くということはむつかしい。漢の劉邦が項羽を打ち破り、漢を統一するのに成功したが、その時、軍事的に最大の功があったのは、“背水の陣”で名高い韓信(かんしん)であった。韓信はハンレイとは異なり、自分のように大きな功績を挙げた人間を、劉邦は大切にするであろうと甘く見て、昔、ハンレイの言った“走狗煮らる”の忠告を行う人の意見をきかなかった。ところが、漢帝国が安定するや否や、韓信の軍事力をおそれた劉邦は、策略で韓信を武装解除してしまい、小さな国を与えた。そして、そのあと、結局、漢王の妻、悪名高い呂太后(りょ たいこう)の手で、殺されてしまった。韓信だけではなかった。次々と功労者は抹殺されていった。中国古代史の時代は特に皇帝権が強く、大名といえども命の保証はなかった。
しかし、これは、何も古代にだけ起きた性質の出来事ではない。何時の時代にも、繰り返し発生してきた。近くは、1917年のロシア革命とその後の変貌史が、その事実を明白に語っている。ロシア革命の当事者ではなかったスターリンが、レーニンの病気をいいことにして、書記長の座に着くと、それまでの革命の功労者たちを次から次へと抹殺していく仕事にとりかかった。ロシア革命の最大の功労者であるトロツキーをまず取り除いてから、1938年のブハーリンの処刑に至る、いわゆる血の粛清の間に、事実上の革命の功労者はすべて殺されてしまった。
今では、ソ連は、マルクスやレーニンの考えていたものとは全く違った体質の国になってしまった。しかし、ある意味では、こうなってしまった責任は、この権力闘争に敗れたもの自身にもあったのである。彼らは、革命の中で、功労をたてたと思い、それは普通の人よりも高く評価されるべきだと考え、いい役職に付こうとする。誰でも勲章を欲しがるのである。しかし、もともと、マルクスやレーニンの夢は、そんな勲章のエリートたちのいない国をつくることであった。そこには、考え方の革命的転換が要求されていた。しかし、ほとんど誰もそのことに気付かなかった。
功労を立てた、従って、自分は表彰される資格があり、いい給料といい地位、いい名誉をもらわねばならないと考える。これでは、ロシア革命がなされたといっても、ただ支配する階級が大地主・資本家から共産党員になっただけで、中身はちっともかわっていない。自己犠牲・自己変革を経過しない革命は真の革命とはいえない。
彼ら、革命の英雄たちも、あの賢臣ハンレイのように、あっさりとすべてを投げ打って、無名にかえり、どこかの農夫か商売人か学者にでもなっているべきであったろう。そうする態度をとることによって、彼ら自身の命がまっとうできたはずであるだけでなく、自分の活躍をひとつの権威として、政治に口出しをし、民主的であるべき政治がそうした影響力によってゆがめられるといった形の政治がうまれにくかったに違いないからである。権力闘争の次元にうつしてしまえば、革命の功労者とか何とかは関係なく、書記局を握った権力の鬼が勝ちをなのるのはわかりきったことなのである。
名臣ハンレイの教訓は何を語っているのであろうか。人はその中から、様々なものを読み取ることが出来るはずである。ハンレイは苦難の中にあっては忠臣として、策謀の必要なときには賢臣として、その才能を思う存分発揮させながら生きることが出来た。自分の忠告に勾践が従わなかった時でも、裏切ることはなかった。まさに忠臣の英雄に値する。しかも、彼のもっとも偉かったところは、すべてが無事うまく運んで、最大の功労者として表彰されようとしたとき、ものすごい洞察力を使って、すべてを読み取り、あざやかに、すべてのものを捨てることが出来た点、つまり、洞察力と自分に忠実な実行力、そして、欲望を無とすることができる抑制力によって、あの動乱の時代に悠々と生き延びる力を持っていた点である。
人は何か目立つことをし、権力に近づくとおごりやすい。しかし、政治に必要なのは謙虚さである。そして、これこそ、現代の自己主張の世の中では、最もむつかしいことである。中国古代史は、果たして、私たちに何か考える材料を提供してくれているのであろうか。
(記 1985年9月26日) 村田茂太郎
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