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3/28/2012

犬と「いろはカルタ」など

犬と「いろはカルタ」など



これは、”犬の八方美人” で触れた犬(Hana)のはなしで、どこかのエッセイ・コンテストに応募して没になったものです。内容的に重複する部分がありますが、わたしの感想と思って、お許しください。

拙著に載せた”こうもり”の話は、"文芸思潮" というところのエッセイ・コンテストに応募して、第三予選までは通過しましたという”おめでとう ?”の連絡を主催者からいただきましたが、入選はしなかったようです。

なかなか入選するのはむつかしいようです。

2008年か2009年ごろの話で、犬はHana一匹、猫はEureka一匹という段階で、トラウマの犬 Thumperが家族になったのは2011年5月です。


これは前の家に居たときの話で、その後、引っ越しました。

村田茂太郎 2012年3月28日

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犬と「いろはカルタ」など


 わたしは最近、むかし「いろはカルタ」にあった「犬も歩けば棒に当たる」という言葉の意味をようやく理解したように思う。うちの犬と近所を散歩していて、本当に木にぶつかるのを目撃したのだ。カルタの意味は、もともとはどういうことであったのだろう。子供の頃のカルタとりでは、あまり意味を気にせず、百人一首に比べれば単純すぎるという感じしかなかった。


朝夕、家の近所、約一.五キロメートルを一匹の犬と散歩をするのは私の楽しみで、鳥が鳴き、リスがたわむれ、植物が繁っているのを見ながら散歩するのは気持ちのよいものである。犬のおかげで近所の見知らぬ人とも話し合うことにもなり、犬の社交生活だけでなく、人間の社交にも貢献していることになる。もちろん健康管理に貢献しているのは明らかである。


うちの犬は人間がすきで、近所には、特に好きな人の居る家が何軒かある。散歩のとき、その家が道の向かい側にあるとき、うちの犬は横を向いて、好きな人が居るかどうか、出てくるかどうかを気にしながら、全然、前を見ないで、しかも私がゆっくりとはいえ、立ち止まらないで歩いていくものだから、横を向いたまま歩いていく。いくら犬といっても、前方を見なければ、何かにぶつかるのはあたりまえである。たまたま道に高い木から落ちてきた木の枝が横たわっていた。前を見ていれば、避ければすむことであったが、横を向いて普通に歩いていたため、まさに棒にぶつかったのであった。


そこで、この「いろはカルタ」を思い出したのであった。犬は前を見ながら敏感に匂いをかぎ、上手に道を歩いていく。犬が何かにぶつかるなどということは、普通は考えられないようなことである。その犬でも、他のことに気を取られていると障害にぶつかるということから、人間への教訓を呼び覚まそうとしたのがこのカルタの意図であったのだろうか。何事にも慎重であるべきで、物事すべて、なめてかかってはいけないとか。この「いろはカルタ」は江戸時代にできたらしいが、当時、犬が何かにぶつかる光景がよく見られたのであろうか。現代では思いつかないほどの着想である。


今まで、何匹も犬を飼い、同じように近所を散歩してきたが、こんなに横を見ながら普通に歩いていく犬をみたのははじめてである。特に好きな人が居る家の前を通るときはいつまでも振り返りながら、名残惜しそうにみているので、腹が立ってくるほどである。


この犬は二時間もかけてドライブして収容所から引き取ってきたもので、ほぼ二歳であった。かわいい顔をしていたが、やせ細って、「ほねかわすじこ(骨皮筋子)」だね、といっていたほどである。今では、来たときに比べてサイズは同じだが体重は二倍ほどになり、たくましく堂々としている。一つ気に入らないのは、まさに八方美人であって、人間であれば、誰にでも愛嬌を示すことである。もうすこし、人を見て愛嬌を示せといいたいほどで、それは相手の人が犬は苦手だといっていても、お愛想を振りまこうとするのでわかる。


私たちにとって空白の二年間。しかし、苦労をしたらしいのは、そうした八方美人ぶりからも見当がつく。最後には野良犬になっていたから、収容所にいれられ、次の運命を待っていたわけである。わたしたちが引き取ったとき、二歳ほどの小さな犬であったが、子犬を生んだあとらしく、まだ乳が張っていた。


その他、この犬が示す目だった反応は、大きな犬に特に挑戦的になること、トラックや掃除のクルマに過敏に反応し、追いかけ、とびかかろうとすること、子供が好きで、これも相手かまわず、おべんちゃらをすること、そして人を見ると尻尾を振り、その人のご機嫌をとろうとすること、最後に、今も時々だが、来たときは頻繁に、悪夢をみるらしく、夢の中で悲鳴をあげたり、哀しそうな声をだしたり、うなったりすることであった。それと、他の犬がうしろのほうの匂いをかごうとするのを極端にいやがること。


そこで、わたしは推理をした。


子供の沢山居る家でかわれていたこと、何かの理由で家出、または追い出されて、野良犬生活をつづけねばならなかったこと(これは収容所にいれられ、管理番号まで刺青されていたのであきらか)、大きな犬に襲われ、子犬を生み、その子犬たちが他の大きな犬におそわれ、母性本能で、相手かまわず、必死に子犬を守ろうとしたこと、そして結局、自分だけになり、飢えをしのぐため、人間を見れば愛嬌を振りまき、食べ物をもらってしばらくは生きていたのだろうということ、そして、最終的につかまって、収容所にいれられたということ。


けんかをして勝てると判断して大きな犬にかかっていくのでなく、ともかく、気に入らない大きな犬には戦闘的になるため、これは子犬を守る母性本能のあらわれと思い、そういう危機的な場面があったのに違いないと判断した。今の家の前で、去年、大きなハスキー犬が通りかかったとき、自分からかかっていって、のどをかぶられ、四百ドルほどの怪我をした。こちらからかかっていったのだから、相手の持ち主に賠償請求など出来ない話であった。


「釣った魚にはえさをやらない」という文言がある。わたしはこの犬の、ほかの人に対する八方美人ぶり、おべんちゃらをみていると、いつもそれを思い出す。わたしたちは釣られたほうである。わたしたち飼い主に対してはあまり愛想もよく無く、普通の犬のように、飼い主を見ればよろこんで尻尾を振るとか、じゃれつくとかといった仕草はせず、飼い主だから、面倒を見るのは当然と思っている風で、まったく無愛想。ところが、いったん、外に出て近所の人に会うと極端なまでに媚を振るのだから、頭に来る。いったん、成長期に身についた習性は生涯付きまとうのであろう。犬といえども人間同様、個性をもち、生活環境の影響を受け、それを個人史として持ち続けるものだということがよく分かる、そんな犬である。


最近、悪夢をみることは減少し、夢の中で尻尾をふってよろこんだり、歯を見せて笑ったりということで、徐々にトラウマも消えていくのかなと、これからも一緒に楽しく暮らせることが期待できる。ともかく、自分をしっかりもった個性の強い犬である。

















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