生徒に作文指導をしながら、読書感想文のサンプルを書き、子供たちに世の中のすべてのできごと、事象に興味を持ってもらおうと、時間の許せるかぎりで、いろいろなことをしました。
わたしはなんでもどっぷりとつからなければ自分の身につかないと思っているので、百人一首でも漢詩でも作文でも文法でも、普通よりも膨大な時間を割いて指導したように思います。
効果は自分でも確認できることなので、1年経ったとき、わたしはゲーテがFaustの最後で"時よとどまれ、お前はあまりに美しい!”とかと叫ぶ、人生で何かをやり遂げたという興奮を如実に感じたほどでした。
1983年の旧い文章です。
村田茂太郎
2012年3月18日
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読書感想文について
私は高群逸枝の“火の国の女の日記”を読んでいる。まだ読み始めたばかりのところだが、私はこの優れた女性のすばらしい自叙伝に感動して、その感動をどう伝えようかと辛苦している。その中で、私は読書感想文の意味について考えてみようとした。
まず、率直に言って、感動体験というものがなければ、感想文を書くということはむつかしいし、無意味ではないかと思う。逆に、感想文とは自分の感動を具体的に表現することでなければならない筈だ。かって、小林秀雄は“ゴッホの手紙”の中で、書けない感動というのは逆上しただけに過ぎないというようなことを書いていた。本当に感動すれば、その感動を文章に表現したくなる、それが感想文というものだ。感動がなければ、感想文を書く気もしないし、無理して書いてみてもウソになるだけだろう。
この読書感想文ということで、私は二人の学者と作家の、それぞれ正しい意見を思い浮かべる。その一人、丸谷才一氏は、小・中学生に読書感想文を書かせることには反対の意見である。読書感想文というのは、本当はものすごくむつかしい仕事であり、その読んだ本を完全に理解し、感動し、自分のものにしていないといい感想文は書けない。小・中学生という、まだ書き方を身に着け始めている段階の生徒に無理に書かせようとすると、その生徒は本嫌いになり、読書を恐れるようになる。小・中学生で何よりも大切なことは、ドシドシ本を読んでいくことなのだから、感想文を書かせることはマイナスの効果になりかねない、というような意見であった。
清水幾太郎氏は“論文の書き方”の中で、大学生等を対象にして、限定した枚数で読書感想文を学生に書かせることの意義を述べておられた。感想文を書くには、やはり読んだ本を、何度も熟読して、すべてを理解するくらいになっていないと書けないから、本の読み方も精読になるし、限られた枚数に表現しようと努力するなかで、何が大切かといったポイントをしっかりとつかむようになるというものであった。
どちらの意見も正しく、同じようなことを言っているわけである。感想文を書くには、よく味わって読んで、何でもわかっているくらいでなければならないから、小・中学生にみだりに書かせるのは問題だし、大学生には書く技術と読む技術の修得のためには好材料だということになる。
それでは、小・中学生は、全然、読書感想文を書く必要がないのか。イヤ、そうではない、いたずらに書かせるのは良くないということなのだ。先にも書いたように、“感動”体験があると、人は無理をしなくても書けるものだ。感動も何もないのに書かせられたら、書けないし、それが続くと読書がきらいになりかねないということだ。
従って、私はどうでもいいような本については、当然、読書感想文など書く必要がないと思う。ある本に非常に感動し、自分の人生を反省する結果になったとか、大いに刺激を受けたとか、その感動を文章にして書きとめておきたいという場合は、無理をしてでも書くべきだと思う。特に感動を受けた優れた本の場合、今の感想と十年後・二十年後の感想とに違いが生じてくるはずであり、その時点での感動を文章化しておくことは、きわめて大切だといえる。
ともかく、文章化するにはある種の感銘が必要だと思う。読んでなんとも思わなければ書けるはずがない。逆に、何かに感心すれば、それを文章化したくならなければならない。中一国語の教科書を見てみると、何らかの感銘を受ける文章がいくつか載っている。先日、私はこの教科書にも出ている植村直己氏の本を読んでみようと想い、日本の友人に四冊送ってもらって、執筆順に直ちに読み始め、四冊全部読了した。北極を扱った本は内容が大変なものであるだけに、読了するのにひどく疲れたが、私はこれらの本を読んでいて、自分を反省しなければならなかったほどの感銘を受け、まだ全部読了しないうちから、“植村直己氏の本を読んで”という読書感想文を書き始めた。
教科書には、山本周五郎の“鼓くらべ”という文章も載っている。山本周五郎は、人間を信頼し、人間の心の美しさ、崇高さをほとんどすべての作品で書き表したひとである。私は“長い坂”や“樅の木は残った”、“さぶ”などかなりの作品を読んできた。江戸時代を舞台にした短編にもすぐれ、中でも、いつまでも心に残っているのは“小説 日本婦道記”である。この短編小説集のなかには、自分にはとても及ばないと、精神を恥じ入らせるような話がある。特に、友情と信頼を主題とした作品など、読み返すたびに胸が熱くなるのを覚えた。そしていつも同時に中国の故事、有名な“管鮑の交わり”を思い浮かべた。今、手元に持ち合わせていないので省略するが、山本周五郎の作品は心に訴える何か大切なものを持っていると思う。“鼓くらべ”もその例に洩れない。
ファーブル“昆虫記”から採り出された“フシダカ蜂の秘密”も魅力があり、今まで一度も手にしたことのない“昆虫記”を読んでみたいと思わせるようになった。この場合、私が感動したのは、ファーブル自身の研究態度である。その根気のよさと、ひとつひとつ丹念に調査していく態度はやはり偉いと思わざるを得なかった。
このように、何らかの意味で感銘を与えた本については、できるだけ詳しく、わかりやすく感想文を書くようにすべきだと思う。これは教室で宿題として課せられるとかということと関係なく、自分で日記か感想文集か何かに書きとめておくように心がけるべきである。ことはすべて自分の問題なのだ。何度も書いてきたように、人間というものは苦労し努力したものだけが本当に身についていく。これは何も難しい事柄に限らない。卵がゆでてあるか、生であるかを見分けるような簡単なことについても言える。
昔、私は姉に、ゆで卵の見分け方は、回転させてみれば、すぐわかると教えておいた。ある時、衛生研究所で卵を見分ける必要が生じ、私の言葉を思い出した姉は、卵をまわしてみて、これはゆで卵だと言って、割ってみたところ生であったという失敗談があった。実際、二つの卵を回転させてみれば、ひとつは固まって重心が不変なので、ものすごくスムーズに回転し、生のほうは重心が流動的なので、ゆっくりと重苦しい回転の仕方をするので、一度でも実験をして確かめておけば、そのまわりかたで直ちに区別がつくわけだ。姉の失敗は、実験と観察に裏づけされていないところからおきた。
文章の表現力といったものは、もっと複雑で、一回や二回スキップしても何ともないように見える。しかし、このように、コツコツと鍛え上げられていくもの程おそろしい。努力してもなかなかすぐには効果があらわれず、後になって気がついても手遅れで、その遅れをとりもどすためには、普通以上の努力を強いられることになる。
従って、学校側からの強制としての感想文ではなく、自分で実績を積み上げていく、自分自身のための感動体験の定着化として感想文を書くようにすれば、その将来への効果ははかりしれないものがある。その際、注意すべきことは、本の内容の紹介で感想文のほとんどを占めるという書き方ではなく、内容はそのエッセンスをほんの数行であらわし、その内容に対する自分自身の感想や作者とその表現・叙述の方法あるいは自分の体験・他の作品との関連等、広く大きな視野にたって遠慮せずに自分を主張することである。
(記 1983年10月)村田茂太郎
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