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3/21/2012

“学習と意欲”

学習の基本である好奇心と意欲について述べたもので、わたしの自己分析の結果を示しています。

村田茂太郎 2012年3月21日

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“学習と意欲”           
 大学受験に失敗した人が自殺したりすると、新聞では“灰色の受験生活”に疲れたといった記事がよくあらわれ、まるで大学入学試験がダンテの“地獄の門”であるかの如き印象を与える事が多かった。そして、私はマスコミの相変わらずの浅薄な論調を、いつも不思議な面持ちで眺めていた。“<灰色の受験生活>だって? 受験生活を<灰色>ととる人は、はじめから勉強する意欲も資格も無い人だ。そんな人に対してマスコミの調子を合わせないで欲しい。”というのが、私の正直な気持ちであった。

 中学時代の学習内容は、どれも初歩的で、まさに子供用だと思えるものだが、高校に入ると、急に、どれも内容豊富になり、はじめて、本当に勉強しているのだという気になる。つまり、小・中学生の内容であれば、日本の学校であれば、授業さえ真剣に聞いていれば充分理解できる。高校になると、積極的に自分で勉強しなければ、豊富な内容をこなしきれない。実は、高校程度といえども初歩的なレベルに過ぎないが、本格的に修学すれば、一般社会で通用するだけの知識と能力は身につけることが出来る。

 私は、どの科目に対しても、いい成績をとっていたわけではないが、すべての学科に対して真剣に取り組んだものであった。どの科目も、私の知らない知識が満ちていて、私は必死になって吸収しようとした。私は大自然の構造や社会の仕組み、日本や世界の歴史、古文や漢文、私がそれまで知らなかった様々の事を整理して教えてくれるすべての学科を熱心に学んだ。私は工学部希望という事で、理科系のクラスに入ったため、数学もIIIまで、全部学習する事ができたし、物理や化学も身につけることができた。微分・積分に興味を持っていた私は、理科系に入ったおかげで、全てを学ぶ事ができて満足であった。私の知識欲・探求心は絶大で、ほとんどすべてのものに興味を示し、何でも吸収しようとした。高校3年の後半には、ほとんど二日に一冊の割で、岩波新書の自然科学書や文学評論を読み耽った。大学の工学部に入ってからも、数学で微分方程式やフーリエ級数、テイラー展開といった興味深い内容を学ぶ事ができ、苦労しながらもうれしかった。特に、自然科学で、量子力学的世界像を学んだことなど、私が工学部に迂回した事が無駄ではなかったことを今も私に示している。高校英語の勉強も大変ではあったが、私はこう解釈して意欲を湧かせた。“何も受験勉強のために英語の勉強をしているのではない。英語で書かれた本が自由に読めるように勉強しているのだ。そして、何でもスラスラ読めるようになれば、英語に関しては、受験勉強などと特に意識しなくとも、何処の大学にでも入れるようになっているに違いない。”と。 私は、従って、オーウエルの“動物農場”(Animal Farm)やサマセット・モームの“要約すると”(Summing Up)、へミングウエーの“老人と海”(Old man and the Sea)、ナサニエル・ホーソンの“トワイス・トールド・テールズ”(Twice told tales)、ギッシングの“ヘンリー・ライクロフトの私記”(Private paper of Henry Rycroft) といった英語の本と取り組んだ。

 その後の自然科学の進歩は、様々な領域で興味深い発見を生んできた。地球科学における大陸移動とマントル対流、プレート・テクトニクス理論や極点移動、分子遺伝学におけるワトソン・クリックの二重らせん構造の発見と遺伝子組み換え理論、宇宙天文学における準星やパルサーの発見とブラック・ホールやホワイト・ホールの理論、大脳生理学における二つの頭脳の解明、心霊科学における“超能力”の証明 など。様々な領域で、新しく興味深い事実があふれるような勢いで明らかにされてきている。そして、そのどれもが、人間としてこの世に存在している限り、興味を持たざるを得ないような事柄で成り立っている。

 アリストテレスは正当にも、“好奇心”が学問の始めであると説いた。アリストテレス自身、人間界・自然界・霊魂界、すべてのものに興味を持ったのであろう。まちがいがあるのは当然の事ながら、万学を哲学的に整理し再構成しようとした。カントもヘーゲルも、すべての対象に興味を示した。ライプニッツなどは、万学に天才を発揮し、哲学と数学で特に天才と認められているが、法学でも工学でも政治学でも、どれ一つとっても、それだけで歴史に名を残したであろうといわれている。

 人間である限り、人間的現象や自然的現象の解明に向かうのが人間の本性であり、人間は本性的に存在の根拠や行為の起源や原因・理由を解明したいと思う。“意味”を問うのが人間である。ただあるがままに受け入れるのではなく、“なぜか”とその根拠・意味を問う。これらが、探求心とか好奇心と呼ばれるものであり、この本性に従う性向を学習意欲というわけである。

 人間が行う学習は、本来、外から強制的に受けるのではなく、自己の成長に伴う内的必然性の発展に伴う形で行うのが望ましく、その時、学習は探求心の発展そのものとして、本人にとっては遊びのように楽しいものとして現れる。人間は内的必然性に従っているとき、どのような苦労も自然なものとして受け止め、その困難に耐えることができる。従って、学習が楽しいものとなるかどうかは、自己の姿勢次第であり、自分で新たに興味を持ち、その学習を強制としてではなく、必然と化して行くことができれば、すべての学習は遊びと化するであろう。人は外的に強制されたものに対してだけ、耐えられない困難を感じるのである。“灰色の受験生活”とは、自己に課せられた学習を内面化することに失敗したということの言いである。内面化するとは、自分・人間・社会・自然のすべてに興味を持ち、自分を高めるために、自分の意志で対象に向かうということである。何事であれ、みずから意志するとき、対象はみずからを明らかにしていく。

 今、この世界では、ほとんどあらゆる領域において、興味深い真理があきらかにされようとしている。従って、人は、逆に、この興味深い世界の中から、特にどれを選ぶべきかと迷ってしまうのである。此のとき、ヘーゲルの次の言葉は重要な意味を持つ。

 “行為するには、あくまで性格が必要であるが、性格をもつ人とは、一定の目的を念頭にもって、それをあくまで追求する悟性的な人である。何か偉大なことをしようとする者は、ゲーテが言っているように、”自己を限定する“ことを知らなければならない。これに反して、何でもなしたがる者は、実は何も欲しないのであり、また何もなしとげない。世界には、スペインの詩や化学や政治や音楽や興味を引くものが沢山ある。これらはすべて興味あるものであって、それらに興味を持つからといって、誰もそれをとがめだてすることはできない。しかし、限られた境遇にある一個人として、ひとかどの事を成し遂げるためには、人は特定の事を固く守って、その力を多くの方面に分散させてはならない。”(ヘーゲル“小論理学”)。

 “自己を限定する”とは、ある領域にエネルギーを集中する事である。全てのものに対して興味を持つと同時に、自分にとって特にこれはと思うものに対しては、特別にエネルギーを注ぐべきである。同じ、ヘーゲルのベルリン大学での聴講者に対する挨拶は感動的な力強さと希望に満ちているので、少し、紹介しておきたい。“哲学”という言葉がでてくるが、“学問”とおきかえても通じる内容である。

 “わたしが呼びかけるのは、一般に、青年の精神に対してである。というのは、青年時代は、人生の美しい時代であって、それは、まだ生活の必要からくるせまい諸目的の体系にとらわれていず、それ自身利害にわずらわされないで学問にたずさわりうる自由を持っているからである。・・・まだ健全さを失わない心は、なお真理を要求する勇気を持っている。

 “さしあたり、わたしが諸君に要求しうる事は、ただ、諸君が、学問に対する信頼、理性にたいする信念、自分自身に対する信頼と信念をもつということだけである。真理の勇気、精神の力に対する信頼こそ、哲学的研究の第一の条件であり、人間は、自己をうやまい、自己が最高のものに値するという自信を持たなければならない。精神の偉大さと力は、それをどれほど大きく考えても考えすぎる事はない。宇宙の閉ざされた本質は、認識の勇気に抵抗するほどの力を持っていない。それは、認識の勇気の前に自己を開き、その富と深みを眼前にあらわし、その享受をほしいままにせざるをえないのである。”(ヘーゲル 1818年10月22日、ベルリン大学で講義を始めるにあたって)。

 ヘーゲルは、自尊心をもち、自己の精神力を信頼して、真理の探究に向かう事を青年に呼びかけている。自分を信頼し、真理に対して勇気を持ってたちむかえば、必ず、宇宙の真理はすべて明らかになると説く。学問をする姿勢を説いた力強い言葉であり、何かで精神が消耗したときなど、この文章を読むと、勇気が湧きあがってくるのを感じたものであった。学習のバネは意欲であり、それは探求心を内面化(つまり、みずから興味をもつ事)することによって、生産できる。
(完                  記 1986年2月16日)村田茂太郎

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