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3/26/2012

“歴史の見方“(ある人物観の変遷)

旧い文章です。

 足利尊氏に関する個人的な感想といえる文章で、吉野への林間学校の思い出ともつながり、ソロバン塾にもつながっています。中村真一郎の「頼山陽とその時代」を読んだのが直接の契機です。子供たちへの楠木正成などへの歴史案内をもかねています。

 今、思うと、わたしは小学校のとき、夏の林間学校(二泊三日、吉野、2回)、冬のいわゆる”うさぎ狩り”〔羽曳野、2回)など、それぞれ印象的な行事に参加しており、小学校の頃にいろいろな行事に参加することが大切だとつくづく思います。学校から映画”海底二万マイル”や記録映画も見に行ったように思います。中学校のときも映画”鉄道員”など2,3 見に行きました。

 
 

 足利尊氏は性格的にはいわゆる源頼朝のようなあくどい強さは持っていなかったように思います。幕府を開いた将軍たちのなかでは、一番、なんとなく頼りない存在であったようですが、その時代の中ではやはりTOPであったのだと思います。

 わたしは大阪出身。やはり豊臣秀吉や楠木正成への崇拝感は強く、徳川家康や足利尊氏に対する客観的評価をもつのに時間がかかりました。

村田茂太郎 2012年3月26日-------------------------------------------------------------------

歴史の見方“(ある人物観の変遷)         

 “歴史の見方”などという大げさな題をつけたが、ここは、そういうものについて大きく扱う場所ではないので、ある歴史上の人物に対する“私”の見方の変化について、私個人の思い出と共に語ることにしたい。 つまり、“足利尊氏”についてである。
 最近、わたしは中村真一郎の名著“頼山陽とその時代”を読んだ。文部大臣賞を受賞したこの膨大な大作には、頼山陽の作品はもちろんのこと、山陽の師、友人、弟子等、山陽に関係のあった人物の漢詩二、三百篇が載せられていて、私は当時の学界や社会の情況を随分面白く、楽しく、読み味わう事ができた。

 その中に、山陽の弟子の一人、藤井竹外という高槻藩鉄砲奉行が吉野で詠んだ漢詩が出ていた。

遊芳野                               藤井啓(竹外)

古陵松柏吼天ぴょう 山寺尋春春寂寥 眉雪老僧時やめ掃 落下深処説南朝


古陵の松柏 天ぴょうに吼ゆ

山寺(さんじ)春を尋ぬれば 春寂寥

眉雪の老僧 時に 掃くをやめ

落下深きところ南朝を説く


 吉野の南朝への懐古を詠んだ非常に有名な詩で、竹外(ちくがい)の名はこの詩一編をもって、日本漢詩人の間で知れわたった。幕末から明治に向かっていく風潮にも合ったのか、この如意輪寺での絶唱は、その荘重な風格と尊王主義的内容との故をもって、発表以来、朗吟され、愛唱され続けてきた。

 “古い、御陵<後醍醐天皇の墓>にある松や柏が、天を吹き抜ける突風にピュゥピュゥとうなり声をあげている。如意輪寺に春訪れると、すでに花は散ってしまって、春の寂しいたたずまいがあるのみである。眉が雪の様に真っ白になった老僧が、おりから、庭を箒ではいていた、その手をとどめ、桜の花が沢山ちり積もったところで、南朝の歴史を語ってくれた。”

 この詩が、たちまちにして、私を少年の頃の思い出へと誘ってくれた。私は、大阪生まれの大阪育ち。小学校の社会の郷土史の内容は、楠木正成や豊臣秀吉の記事で満ちていたように思う。新しく出来た今川小学校に三年生の時、同地域の者はいっせいに入学し、第一号卒業生となった。その五年生の夏、吉野に、二泊三日の林間学校へ行った。吉野は南朝の史跡が豊富なところで、私はたちまち南朝方になり、世の中に、足利尊氏ほど、悪く、ずるがしこく、イヤな奴はいないと思うようになった。

 私はソロバン塾においてあったマンガで、楠木正成・正行の話を読み、、感動していた。そして、南朝という悲劇の歴史を秘めた吉野を訪れて、ますます後醍醐方になっていった。吉野の重畳たる山の中に如意輪寺があり、そして、楠木正成の息子正行(まさつら)が死を覚悟して頭髪を切り、辞世の句を残していったという事を知った。

 五年の夏の林間学校では、いろいろと、ものめずらしさにひかれて、特に何かを心にとどめるということもなく、私は正行の辞世の歌を刻んだ碑を見たにもかかわらず、忘れてしまった。ところが、幸いな事に、六年の夏にもう一度、同じ吉野に林間学校で行く事になった。今度は歌を覚えて帰るぞと心に決めて出かけた。そして、再び南朝の遺跡を訪ね、如意輪寺で正行の歌碑を見た。この時も、私は特にノートにとるということはしなかったが、何度か口ずさみ、たしかに覚えたと思う。

 それから29年経った。友人から太平記の原典を送ってもらって、その歌を確かめようと思ったが、文庫本はまだ完結していず、いまだに、私の記憶が正しいかどうか、確かめられないでいる。でも、太平記の中には、きっと載っているに違いないと思っている。

 かへらじと かねて思へばあずさゆみ なきかずにいる なをそとどむる -楠木正行

 というような歌で、四条畷の戦で事実討ち死にをした楠木正行が、当時の武士らしく、名を後世に留めたいと念じたものであった。

 さて、建武の新政から、その挫折、そして南北朝時代、室町時代への移行は、複雑で、単純に天皇方を正しいとすれば、解釈は簡単でスッキリするが、その後の歴史の動きの理由が正しくつかめないで終わってしまう。歴史は北朝と足利派を正統として、足利将軍による室町時代へと突入して行った。

 忘れられていた楠木正成の名を発掘したのは、諸国遍歴をした水戸光圀であった。この光圀による南朝の忠臣楠木父子の名誉回復が、大日本史編纂の中で位置づけられ、幕末に水戸学における勤皇思想として、天下を支配する風潮がつくられていった。頼山陽も藤井竹外もその同じ線上にあったといえる。

 さて、私の姉が中学生の時の社会科の教師が、生徒にこういうことを言っていたと、学校で起きたことや聞いてきた話をなんでも忠実に話す事を得意とした姉が伝えてくれた。つまり、その教師は、自分は日本の歴史の中で、三人の大きらいな人物がいると思っているが、その一人は岩倉具視であり、その二人は足利尊氏、三人目は誰それ(多分、徳川家康)というようなことを生徒にしゃべったのであった。その当時、私は、自分も、それはその通りだ、足利尊氏ほど憎たらしい奴はいないと思っていた。なにしろ、楠木正成、正行という英雄の姿が、何処から見ても欠点がなく、見事な美しさをもっていて、その二人とも、自分の作戦が後醍醐天皇やその近臣の者に受け入れられず、仕方なく死を覚悟して戦い、いさましく死んでいったため、、その敵であった足利尊氏が憎くなるのも無理はなかった。

 そのうちに、歴史の流れというものに目をすえるようになり、南北朝や建武の新政を後醍醐天皇方の目からではなく、社会の動きという面からとらえるようになると、話が全く違ってくるのが解った。どう見方を変えても、楠木正成、正行達は主義に殉じ、天皇方の忠臣として悲劇的な死を迎えた魅力ある英雄であることにかわりはなかった。しかし、後醍醐天皇とは、何者であったろうか。私は小学校にいたあるとき、どこからか、三人の天皇をえらべば、建武の新政の後醍醐天皇がその三大天皇の一人として入るほど偉大であったと読んだか、聞いたかした。或は、吉野のお墓でであったのかもしれない。しかし、今の私はそうは思わない。

 建武の新政までは、足利尊氏も新田義貞も楠木正成も或は九州の菊地武時・武光等、みな天皇中心の健全な政治を目指して必死に働いた。ところが、いざ、北条氏が滅び、出来上がったものは、武士以前の社会ともいえる貴族達公家中心の政治制度であった。

 鎌倉に武士が政権を建てて既に百年以上経っている社会にあって、律令制度の昔のあり方を理想とした公家だけによる政治制度は、歴史の流れへの逆行であり、当時の社会の指導的階層であった武士達に激しい不満と怒りを与えた。後醍醐天皇が、もし、世の動き、情況を正しくつかみとっていて、武士を忠臣とした社会を作り、その頂点に自分がいようとしていれば、その後に起こった南北朝の悲劇は避けられたはずである。

 自分が中心になって、“公家の政治”をおこないたいという野心しかなかった暗愚な天皇は、結局、北条討伐の最大の功労者達に、それぞれの仕事にふさわしい地位と栄誉を与える事に失敗した。武士達の不満を的確につかみとり、武士達がもとめる社会をもう一度たたかいとるしか、自分達の生きる道はないと判断したのが足利尊氏であった。天皇方、朝廷方にさからうというのは大変な仕事である。家康の再来かと桂小五郎を心配させた第十五代将軍徳川慶喜でさえ、天皇を敵に回して闘うだけの気力はなかった。

 歴史の流れは、足利尊氏に味方し、忠臣楠木正成、新田義貞は滅んでいった。誠実な楠木には、たとえ天皇が自分の努力に充分報いてくれなくても、天皇を裏切る事はできなかった。京都での尊氏包囲という天才的な作戦を後醍醐天皇達が採用してくれなくても、あくまでも天皇に忠実であった。それも一つの生き方であり、己の人生に徹して生ききったわけである。

 足利尊氏は天皇の新政を認めず、それを倒した。後になって、天皇の霊を弔うために天竜寺を作った。全国に、この戦争の死者の冥福を祈るために安国寺利生塔を作った。大衆の願望をひきいて、反朝廷の戦いに立ち上がらねばならなかった尊氏の胸中の苦悩を物語っているといえる。尊氏の政治認識・時代の流れの把握力の方が正しかったのである。

 その後、私は、何かで、足利尊氏は気宇の大きく、度量の広い人であったという話とそのたとえ話を知った。昔も今も贈賄といって、権力を持った人に貢物をして、取り入ろうとする人は絶えない。尊氏が征夷大将軍になると、やはり、尊氏に貢物を持ってくる人が多かった。しかし、尊氏は適当にあしらい、彼らが置いていったものは、見向きもしないで部下に勝手に分け与え、何一つ、自分のものにしなかったという。そのため、家来達はますます尊氏を慕った。

 私の解釈では、自己の欲望のコントロールに厳しくて、世の人のために心を尽くす事ができる人に悪人はいない。尊氏とは、歴史の流れが、その時代を正確に反映させるものとして、武士が選び取った一つの象徴であった。彼も歴史の流れには逆らえず、後醍醐天皇を敵に回すという大胆な行動をとらされたのであった。

 明治から昭和へと南北朝正閏論が何度も争われた。一時は南朝の“忠臣”を誉めたたえ、足利尊氏らを“逆賊”とする風潮が栄えた。形式的な形で論じれば、たしかに、後醍醐天皇に反抗した尊氏は逆臣である。しかし、歴史の流れを仔細に眺めれば、事実は、時代の流れに反抗し、もうすでに過去のものとなってしまった古代の制度を再現しようと非現実的な考えを抱いた後醍醐帝の方が、異常であった。悲劇は、その後醍醐帝のまわりに素朴な忠臣たちがあつまっていたために発生した。楠木父子など地方の一豪族達の献身的な戦いが、すなわち南北朝の悲劇となっていった。

 現代の歴史学はどう解釈しているか。楠木正成は田舎の豪族であったが、よく献身的に戦い、北条氏を倒すのに功があった。が。政治的な視野を欠いた一豪族にすぎなかった。一方、足利尊氏はどうか。彼は当時としては、一番的確に歴史の動きをつかみとり、それに適切に対処した人物であり、その後の世の中の動きから見ても、彼はやはり征夷大将軍に値した偉大な武士であった。

 妥当な解釈だと思う。それでは、一体、どうして、姉が教わった中学教師のような、“足利尊氏ほどキライな奴はいない”というような解釈がうまれてきたのであろうか。それは、多分、一つには天皇中心主義の考え方、他方には楠木父子等の英雄譚にからむ南朝の悲劇の歴史が、地元、大阪の英雄崇拝の気持ちと合わさって生まれたに違いない。天皇制国家日本にあっては、その体制に反逆することが、既に犯罪だとする考え方が生まれやすい。現代風の解釈を適用すれば、尊氏は革命家であったといえるかもしれない。そして、人は悲劇の英雄を好む。

 歴史を見るということは、やさしいことではない。特にある人物への個人的な好みの問題が歴史を見る目を曇らせる事になりやすい。歴史を考える場合、かならず、自分自身のある人物への偏見は捨て去り、歴史の流れの中にたって、その人物がどのように行動し、世の中の動きは、その人物に対してどう反応したのか、全体的な視野のなかで考察していく事が大切である。

 歴史の流れを大きな視野から眺めると、そこには単純な善玉、悪玉はでてこない。歴史の流れに翻弄される人間達の姿と、その流れをうまく捉えることに成功した人たちとのどうしようもない悲劇的な争いで満ち溢れているのが、歴史の動きというものであった。歴史には、歴史の内的必然としか呼べないものがあり、誰もそれを乗り越える事ができないと言える。

(完      記 1984年2月20日) 

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