わたしの国語教育に対する基本の考えを示しています。
もっとも、高校生の学習態度が悪く、思うように運ばなかったのですが、もうすこし、自覚的な高校生を相手にしていれば、すばらしい教育が展開できたはずだと残念に思いました。
村田茂太郎 2012年3月29日
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高校国語―その学習と姿勢について
かつて私が二年間クラスを受け持ったことのある生徒の一人が、あさひ学園高等部に入学することを拒絶して、結局、彼にとってのアメリカでの日本語授業への参加が、中学レベルで終わる事になったということを母親からきいた私は、どうして、私に一言連絡してもらえなかったのだろう、私なら高校での日本語学習の必要性を説得できたはずだと、とても残念に思った。
中学レベルと高校レベルとの差というのは、まじめに勉強した子供にとっては、決定的な差異となってあらわれる。それは、源氏物語や漢詩・漢文が原典で読めることというよりも、日本語で書かれたいかなる書物でも読みこなせるだろうという点において、非常に大きな意味を持つ。
もちろん、高校を卒業すれば、自然と国語力・漢文力がつくというのではない。しかし、まじめに、真剣に勉強すれば、日本の古典や中国の古典、あるいは、現代文の難解なものをも読解する能力をつけることが出来る。どんなに、優秀であっても、中学卒程度の国語のレベルでは、現代文である唐木順三の“中世の文学”や河上徹太郎の“吉田松陰”あるいは小林秀雄の“本居宣長”などを読みこなせないだけでなく、長谷川伸の“日本捕虜史”や森鴎外の最大傑作である“渋江抽斎”を読みこなせないといえる。最近では、大学卒といえども、自由に読みこなせないと嘆かれている。
しかし、私は、高校国語をしっかり学習しておけば、古典であれ、漢文であれ、現代文であれ、かなりのものを読みこなせる能力はつけることが出来ると思う。そして、あさひ学園高等部の存在意義も、重要性も、みな、そこから導くことが出来る。もちろん、一年という歳月は、古典古文や漢文をマスターするには充分とはいえない。しかし、今から、しっかりと気を引き締めて、国語の学習に取り組めば、やり方次第では、日本の恵まれた高校生たちに劣らない実力をつけることが出来ると思う。
私は、そのつもりで、この一年、古文や漢文の基本をしっかりと指導するつもりであり、その機会を与えられたことを喜んでいる。諸君も大いに気を引き締めて、真剣に対決するだけの意欲をもっていただきたい。どれだけの事が可能かわからないが、私は自信を持っており、諸君の自覚を高め、誠実なる努力を期待して、最大限の努力はするつもりであるから、諸君もしっかりと頑張ってもらいたい。
勉強は、言うまでもなく、自分自身のためにしているのである。やる気のない人は、さっさと去れとは言わないが、いわば、かなり未知とも言える領域(古文・漢文)に対して、ともかく真剣に対決するだけの意欲は見せて欲しいと思う。
私は高校卒業者の学力として、現代文の十全なる読解を期待したいが、たとえば、中村真一郎の“頼山陽とその時代”を読むと、江戸漢詩人の漢詩が白文(返り点や訓点のないもの)で引用されていて、正しく理解しようとすれば、白文を自由に読みこなす能力が必要となっている。つまり、単に、古典古文や古典漢文を読むためだけでなく、現代人の書く文章を理解しようと思えば、それだけの古典的教養が必要という事なのである。
高校一年は、そうした能力を身に付ける第一歩として、基本的な古典文法などをしっかり身に付けるようにしたい。私は、補修校として、それだけの能力をつけるために、現代文二時間、古典古文二時間、漢文一時間は欲しいし、それくらいは勉強して欲しいと思う。しかし、残念な事に、総合国語の時間は週二時間しかないので、その限られた時間で最大の効果をはかるように努力せねばならない。
ただ、幸いな事に、高校国語は、教科書を全部終えねばならないといったことを気にしながら授業をすすめる必要はない。日本での私の体験した高校国語の授業でも、教科書の半分も終わらなかった。全体を終了することよりも、いかに緻密な内容分析をやるかの方が、はるかに大切だからである。たとえば、小林秀雄の“平家物語”という短いが衝撃的な評論を、ほとんど完全に理解することが出来れば、現代文の様々な難解な評論や哲学・文学書を充分に理解しうる能力を身に付けているといっても、言い過ぎではない。
そういうことを踏まえて、私は吉谷先生と教科書を検討し、取り扱いの予定表を作成した。古典文法にかなりの時間を割かねばならないことを思うと、この予定表どおりにすすめられるかどうかもおぼつかないが、その線に沿ってすすめるといいうことで、予習や音読の参考にっしてもらいたい。そして、もちろん、学校で触れなかった部分も目をとおしておいてもらいたい。
それでは、以下に注意点や最良参考書の紹介、私の授業方針を述べておきたい。
私の授業方針は、諸君の反応を見ながら補正していく予定なので、ハッキリとは決められないが、基本的方針として、古文と漢文の基本理解を徹底したいと考えている。現代文はある意味では誰でも読めるが、古典はそうとはいえない。従って、一年の限られた時間で、古文や漢文の勉強の仕方を身に付けてもらうための努力は充分するつもりである。
現代文に関しては、内容分析に時間をかけたいため、漢字や語句は授業では取り扱わない。それらは、授業以前の問題で、家でしっかり予習(自習)しておくべきものである。従って、漢字テストも、私としては基本的にやらないつもりであるが、抜き打ちにテストしてみる可能性もある。
場合によっては、時間を省くために、教科書の音読もしないで、いきなり段落や大意・要旨の話に入ることもありうる。少なくとも、三回、家で音読してきたという前提の上に立ってのことなので、しっかりと予習をしておくようにお願いする。
私は既に教科書を全部読了したが、すばらしい教材があったり、自己分析や反省を要求する文章があったりして、これは、感想分や反省文、体験文などいろいろ書いてもらわないといけないなと感じた。作文力は現在の日本では、各大学の入試でテストされており、なによりも高校生になって表現力を充分発揮できるかどうかは、非常に大切なポイントとなっている。
去年(1983年)、中学生の国語指導を行っていて、私は作文指導に全力を尽くし、すばらしい反応があって、かなり成功し、すばらしく、思いで深い一年を作り出すことが出来た。今年も諸君の反応ぶりによっては、立派な国語文集をつくりだしていけるだろうと大いに期待している。
教材は限られているので、できるだけいろいろな参考資料をコピーして提供したいとも考えている。さて、次の図書を推薦する。できれば、日本の友人、親戚の人に頼んで手に入れることが望ましい。君たちのためである。
文英堂シグマ ベスト 解明古典古文読解の総知識
洛陽社 国文法ちかみち(小西甚一著)
数多い古典参考書の中でもベストと思う。両者とも考える文法、考える古典を説く。両書は、ぜひとも座右に備えて、学習することをおすすめする。以下はその他の参考資料。京都書房“新修国語総覧”、講談社文庫“百人一首”(大岡信)、新潮社“日本文学小辞典”など。漢文では文英堂“シグマベスト解明古典漢文”や数研出版のチャート式基礎からの漢文“、学燈文庫”漢詩“など。古語辞典は必ず一冊そろえていただきたい。角川古語辞典や岩波古語辞典あるいは、小学館の新選古語辞典新版や新装改訂新潮国語辞典(現代語・古語)など、各社でいろいろ出版されているから、自分が読みやすいと思うもの一冊を手に入れて、大いに活用し、古典読解力の向上に努めよう。
どのような読書、どのような学習も、国語の学習につながっていく。そして、直接、関係ないと思われるようなことでも、将来、どのような役に立つかわからないといえる。従って、積極的に読書につとめてほしい。知識に対しては、貪欲でありたいものである。何に対しても、自主性というか意欲が大切であり、探求心をもって、ドシドシ自分の知的欲求を充足するようにつとめて欲しい。そして、出来れば、なんでも暗記していこう。百人一首を手始めに、名歌や名句、名漢詩や名文など、気に入ったものは、何度も眺めて、自然と覚えてしまうくらいに親しむことが大切である。そして、好きになるということが、とりもなおさず、国語力の上達に欠かせない要因となっている。何でも読み、何でも暗記し、興に応じて文章を書くようにしてもらいたい。
日記をつけることも大切である。天才教育で有名なジョン・スチュアート・ミルとその父親は、ミルが十三歳の時に、父が説明するリカードの経済学の大要を、章毎に、毎日、自分の言葉、自分の文章で書き表し、それを完璧になるまで添削することによって、経済学の高度な内容の理解と同時に、表現力や文章力をもマスターすることに成功した。自分で考え理解したことを、書き表していくという作業を通して、理解度を深めると同時に、表現力も高めるという、作文の持つ重要な意義をハッキリと表わしてくれている。人から強制されないでも、自発的に書く習慣をつくってほしい。
高校生という時期は、急に視野が広くなって、何にでも興味を持つ頃である。あらゆる読書、あらゆる学習は、国語の学習につながっていくから、狭い領域にとらわれず、どのような物事に対しても、真剣に対処していって欲しいと思う。過去からの偉大な名作・古典は自分の思考力を練り、成長していく上で欠かせないものである。
限られた時間を有効に使う努力はして欲しい。古文や漢文をマスターしなくても、高校を卒業は出来るが、充分な能力をつけておかないと、後できっと悔いる事になる。現在では、日本の精神風土に関心を持つ欧米人が多くなり、熱心な人は、日本の古典を自由に読みこなすほどである。
日本語を全然知らなかった外国人でも、古文や漢文を自由に読み書きできる野力を身に付けている人やマスターしようと努力をしている人が沢山あらわれている。
日本人としては、文化遺産とも言うべき、過去の優れた古典を直接読解できる能力は、身に付けておきたいものである。その第一歩を踏み出すべく、私も努力し、頑張るから、諸君もしっかり頑張って、ついてきてほしい。
(記 1984年4月11日)
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