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3/20/2012

“予備校の思い出”

 私の本「寺子屋的教育志向の中から」(ロダンジェルス日本語補習校あさひ学園での15年ー瞑想と回想と感想と)は文化論や教育論・方法論などを展開していますが、いろいろな感想を書きながら、自分の過去を振り返っているので、その中から情報を拾うと半自叙伝みたいに大体のわたくしの経歴がわかります。この「予備校の思い出」も、さらに私をさらけだすことになりますが、生徒指導中、子供たちに参考になればと、昔を思い出しながら書いたものです。もう、25年以上も前の文章ですが、こういうものでも、いろいろ思い出す材料にはなっているので、書いておいてよかったと思います。
村田茂太郎 2012年3月20日-------------------------------------------------------------------

“予備校の思い出”     
 はじめに、中学生を読者と想定したこの文章に、どうして大学受験予備校の思い出が必要なのかということの説明をしておかねばならない。この間、ずっと、既にいくつかの文章に書いてきたように、私は中学時代や高校時代の、私が受けた授業を思い出そうとつとめている。あさひ学園で小・中・高の生徒を指導し始めて以来、私は、自分がそれぞれの年齢の生徒として、フレッシュであった時に、受けた印象を、思い起こそうとつとめ、その中から教育的に重要な何かをつかみとれるのではないかと考えてきた。ロサンジェルスのUCLAExtension で会計学や経営学を勉強していた時も、各インストラクターの指導法の違いに注目し、かなり批判的に、私は教育法を学んできた。そして、すぐれた教授法とか素晴らしい授業のあり方とかは、学年とは関係なく妥当するものであり、私の予備校での体験にも得るところがあると私は思うからである。

 私は大学入試に失敗した経験もあり(大阪大学工学部不合格)、ストレートで入学した経験もあり(国立二次静岡大学工学部合格)、工学部を三年の途中で自主退学したので、浪人の経験もあり、そして予備校経由大学入学(京都大学文学部合格)の経験もある。これは、私自身教育的に見て貴重な体験であると思う。ストレートに大学入学したまま、まっすぐ進んでいく人には、なかなか味わえないものがある(ススメルわけではないが)。余裕のある状態ではなかったため、私立を受ける考えなど一度も浮かばなかったので、国立しかしらないが、教育的には充分すぎるほどの体験である。
 静岡大学工学部を退学して、狙った所は京大文学部であり、私には、それ以外のところは考えられなかった。秋に大学を退学して、自分で家で勉強して、三月に受験した時は、まだ自分でも充分自信のある状態ではなかったため、合格できるとは思わなかった。どの程度までいくか試してみて、みごと失敗したわけであった。三月三、四、五日の頃は、京都ではいつも雪が舞った。私は雪の京都に魅せられ、文学部の建物の中庭にある一本の立派な松の木のまわりに、雪が飛び交う光景をすばらしいと感嘆し、よし、来年はきっと合格してやるゾと決意を固めたのであった。

 “あべのYMCA予備校”に行く事に決め、予備校の入学試験を受けた。合格するのはわかっていたし、一番ではいる気などなかったので、のんびりと受験した。合格発表があったとき、私の名前の上にマークがつけてあったので、アレッと思った。マークのついている名前がいくつかあった。私は並んで主事のところまでいくと、主事はマークのあるひとは、父兄同伴で面接した上でないと入学を決められないと言った。それ以上、話しても仕方がないので、“畜生”と思いながら、私は電車で家に帰り、母に告げた。昼を過ぎて、母と一緒に、また、同じ主事に会うことになったが、その時、彼もビックリしたフリをした。“もう、来ないだろうと思っていた。”というのである。私は、“バカな、誰が遊びで金を払って予備校入学試験など受けるか”と思ったが、黙っていた。彼は、私が静岡大学工学部という立派な大学をやめたということに疑問をもったようであったし、たいがい、大学に入って、二、三年経つと、タバコを吸い、いろいろ悪い習慣を身につける人が多いので、このYMCA予備校では、基本的に、高校卒業生の入学しか認めていないのだと告げた。母は、私が酒もタバコもたしなまず、ただ京大文学部に入りたいから退学しただけだと言い、主事も一応、では、様子を見るということで、私は予備校入学を許可された。このことのため、私は予備校生活一年を通じて、主事に対しては、冷ややかな気持ちを抱き続けた。私は、はじめから、“オレが入れば、来年の京大入学生が一人増えるだけではないか、そしてそれは、予備校の名誉となるはずではないか、今に見ておれ”と心の中で思っていた。
 さて、あべのYMCA予備校は、大学並みに90分授業を実施していた。英数国の必修科目以外は選択で、好きな科目をとればよかった。京都大学は当時、英数国のほかに、文科系、理科系関係なく、社会二科目、理科二科目が入試科目であった。社会は日本史と世界史に決め、理科はそれまでは物理と化学であったのを、化学と生物に決めた。高校のとき、理科系にいた私は、生物は一年のときに半分習っただけであった。そのせいもあって、私は予備校で勉強したいと思ったのであった。

 最後の一、二月ごろを除いて、ずっと授業体制は厳格であった。必ず点呼があり、理由なき授業拒否は退学につながった。多分、予備校生という、どちらかといえば、だらしなくなり、規律からはみだしがちな生徒をきびしく指導するには、それしか方法がなかったのであろう。その点では、宇野主事は立派な人で、私はそれを認めていた。私は静岡大学でも、まともな生活を送っていたし、もともとまじめな方であったので、ちっとも苦痛ではなかった。私は自分の能力や持続力をよく知っていたので、いつごろから真剣にとりかかればよいかを検討していた。受験の本番の時に最高潮に持っていくようにしなければならない。私は、そういうこともあって、はじめから猛勉強などする気はなかった。

 そのうち、父兄面談があり、母が主事に恥をかかされたと言って、私に不満をぶちまけた。“静大を辞めて、京大受験などといっているが、今の成績じゃ、とても無理だ。”といわれたと言うのである。私は自分の勉強のやり方や持続力とかに自信を持っているので、七月ごろからトップ・グループに入っても、あとがつづかなくなると心配して、全力投入はしていなかったが、母の話を聞いて、それでは、主事に、私の能力を示しておこうと約束した。

 そして、たしか毎月一回実力テストがあったが、八月ごろ、私は全体で二番、国語は一番という成績をとった。成績は貼りだされるので、私は自分の名前がトップ・グループに載っているのを見つめながら、少し、不安であった。“今から、トップに居つづけたら、三月の肝心の入試の時点では、つかれきっているに違いない、まだ早すぎる、今回で、主事も私の能力がわかったに違いないから、今後は少しくらい成績が悪くなっても、母に恥をかかすようなことはあるまい。”と考えた。

 夏に予備校から修学旅行のようなものがあり、私は喜んで参加した。浜村・大山・松江の旅で、私は充分楽しんだ。大山の国民宿舎の前の森で、ヒグラシが美しく鳴いていたのが、今も鮮やかに蘇ってくる。丁度、“真珠貝の歌”という曲が、よくラジオから流れていて、今も時折、この曲を耳にすると、浜村の海岸が思い出される。

 そして、この旅に、私は五百頁の世界史の参考書を持って出かけ、暇があると取り組んでいた。予備校のクラス・メートが、それをどうするのかと訊いた時、私はこの五百頁の本を一週間でマスターするのだと答えた。彼は不可能というか、信じられないという顔をしたので、私は、“この男は、どうせ、この程度だろう、オレはヤルゾ。”と当然の事のように考えていた。そして、旅行が終わって、しばらくして、またテストが行われた時、私は予期したように、世界史でも一番になっているのを知った。それ故、私は、何もあせって勉強する事はない、大切な事は入学試験に最高潮でのぞむように準備する事だと考え、文学書を沢山読み耽った。

 そのあと、私はトップ・グループからは降りたが、その近くにいて、三学期になる頃には、自分でもこれからは全力投入しなければと思うようになった。その頃になると、特に意識しなくても、まともな成績が取れるようになり、京大親学会の通信添削でも英語や国語では、トップ・グループにつづけて入るようになっていた。最後の実力テストでは、数学の一問25点を単純なミスでまちがったため、全体で一番になりそこねたが、英語は一番であった。進学相談の面接があった時、私ははじめから京大一本であったので、相談も何もなかった。丁度、教育内容が変わる年で、来年のチャンスが私にはなく、私立に行く事もできず、京都大学一本という、まさに、背水の陣の気持ちでの受験であった。
 三月の入試の期間中、私は大好きなトーマス・マンの“ファウスト博士”を読んでいた。期待していたように、やはり雪が降ってくれて、うれしかった。背水の陣とはいえ、自信満々で受けたので、特に心配はしていなかったが、第一日目はあまりうまくいったようには思えなかった。あとをしっかりやらないとと思ったが、二、三日目は期待通り、うまくいったので、全てが終わった時、私は、自分は合格した事を全然疑っていなかった。それまでに、私は自分の得点をほとんど正確に計算し、予想できるようになっていたので、試験が終わってから、発表までの約二週間を、のんびりと本を読んで過ごした。

 発表の一日前に、隣の家で葬式があった。その時、はじめて、私は、もし不合格であったら、どうすればよいのかという、たまらない不安に襲われた。発表の一日前のこの一日だけが、私にとっては最も不安な日の一つであった。私の不安の理由は、自分の大体の成績と過去の合格最低点との関連にあった。もし、今年、ものすごく優秀な生徒ばかり受けて、平均点が10点も高くなっていれば、いくら自信をもっていても、落ちる事がありうるのではないかという思いに突然、襲われたのであった。となりの葬式が暗いムードを誘ったのかもしれない。落ちたら、自分でも、どうすればよいのか考えた事もなかった。当然、合格するということしか考えていなかった。

 発表当日、頼んであった電報が“祝電”の形で届いた時、私は心からホッとし、父も文字通り、躍り上がって喜んでくれた。父の頼みをふりきって工学部を退学した私に対する父の失望も、この京大入学によって、少しは癒されるだろうと私は考え、ともかくも、自分の予定通りに事が運んだので満足であった。そして、私は予備校の主事の顔を思い浮かべた。

 予備校の大学入学祝賀パーティが催され、私も出席した。宇野主事は、私を認め、声をかけ、いわば、私の労をねぎらってくれたので、私も、おかげさまで入学できましたと礼を述べた。その時、予備校の授業の間、ほとんど私が意識しなかった白髪の老紳士が私に声をかけてくれたので、私は京都大学文学部に合格しましたと伝えると、とても喜んでくれた。彼は“英文解釈”の担当であった。私は意識していなかったけれど、英語で一番になるくらいであったので、彼としては、意識していたのであろう。私の授業態度は模範的であったのである。

 この予備校では、主に、大学の先生方が、授業を担当しておられた。古文と漢文は、神戸大学の中国文学の教授が、生物は神戸大学の理学部長の広瀬教授が、数学は大阪市立大学教授が。英語は三人が担当していたが、一人は神戸大学の講師であった。化学はたしか大阪大学の助教授か何かであったと思う。一人だけ、確実に、大学と関係のない人がいた。“現代国語”担当者で、いわゆるプロ(専属)の予備校教師であった。

 私は全部まじめに受けた。特に私が素晴らしいと思ったのは、生物であった。このとき、はじめて、遺伝子の分子生物学=ワトソン・クリック・モデルー二重らせん というのを学んで驚嘆した。遺伝や発生や生殖もわかりやすく、私は予備校に来て良かったとつくづく思った。

 そして、古文・漢文もよかった。これは、私が高校では、すぐれた恩師田中住男先生から教わったのと同じやりかたであったので、ここでも古文・漢文学習法の基本を確認したのであった。入試問題などをやりながら、その本文について、細かく、正確に文法的解読をすすめていく方法である。

 数学は、練習問題を家で解いてきて、それを黒板にやりなおすのである。重要でむつかしそうなところは、詳しく説明を加えられた。これも大体、宿題をやってきた有志が、手を上げて黒板に書きにゆくもので、初めのころは、みんな争って前に出て書いたが、三学期位になると、どうしたことか誰も出て行かなくなった。私はなんだか教授が気の毒に思われて、同じ数学の時間に、二回も三回も書きに出た。誰もいなければ、例題を解く調子で、教授みずから黙々と黒板に向かわれるのである。私は相手がまじめに、真剣に教えようとしている時は、自分もまじめに、真剣に取り組まねばと考えてきたし、いつもそのように心がけてきた。予備校時代を通じては、私は、先生方を失望させたという記憶はない。

 英語の若い講師は、私にとってはどうってことはなかったが、他の生徒には人気があった。そして、ほとんど、学年の終りになって、彼が出席できず、かわりに、どこかの年配の高校の先生が教えてくれる事になった。その時、初めの時間は、生徒が集まったが、次の時間からは、ほとんど全員が授業をボイコットしてしまい、私と数人だけという状態になった。本来なら、退学ものだが、もう二月にもなると、どうってことはないと考えたのであろう。その新しい教師は、私の見る限りでは、前の教師とはやり方が違ったが(やり方を見ていないのだから、知らなくて当然)、教え方は熱心でまともであった。悪い教師ではないのである。私は、見る目を持たないバカな奴らめと思い、また、教師を失望させるというような事を平気でやってのける、“あわれ”の感情も持たない、汚い奴らだと思いながら、最後まで授業を受けた。私としては、生徒としては、当然の事をやっているのであるが、それが通用しなくなりつつあり、逆に、そのために、私は先生方から好感を持って迎えられ、感謝されたのであった。名前など覚えられていないと思っていた予備校の先生から、祝賀パーティで声をかけられたりしたとき、さすがに、私はうれしく思ったのであった。

 この私にも、しかし、一度だけ、自分が犯したイヤな記憶がある。高校三年のクラス担任の数学の時間であった。三学期のほとんど学校も終りに近い頃、私は全部問題を解いてしまい、前と後ろでクラス・メートが黒板に書いているので、私は机の引き出しから、最近、買ったばかりの土居光知の“文学序説”を引っ張り出して眺めていた。それを担任にみつかってしまったのである。私としては、数学のすべてがわかってしまい、問題も全部解いてしまったのだから、他の人がブラブラしている時間に、本ぐらいながめてもよいだろうと考えたのである。私は担任が私のその行為を見つけたのを知ったので、本はしまった。彼は私には何も言わなかった。二月の最後の父兄懇談会になって、担任は母にその事を告げた。このときも、母は、息子は模範的な生徒だと思っていたので、担任の授業中に他の本を読むなどという失礼な事をしていたと知って、驚き、まさに恥をかいたのであった。そして、私は、そのことから、逆に、その担任が、優秀な生徒のハズの私が、そのような行為をしたことによって、いかに、心に傷をつけられたように感じたかを理解した。私は自分のした行為よりも、教師を失望させたということを大いに反省した。

 今、私は、自分が教えている生徒が、授業が始まっても、途中でも、平気で本を読んでいるのを見かける。私は自分の苦い経験を踏まえて、親に訴える前に、生徒達に直接注意する。ところが、どうしたことか、一向に効果がない。平気なのである。今の若い世代というのは、恥も外聞もない、ハレンチな世代なのであろうか。誠実さも、思いやりも通用しない世代なのか。

 さて、ここで、問題の“現代国語”になる。現代国語はプロの予備校教師が担当していた。プロとは、予備校専属という'意味である。私はそこに何らかの“あわれ”を認めたくなる。ともかく、あわれな授業であった。予備校での教育というのが、悪いイメージでもって、ささやかれるとしたら、それは、この教師のような教育のせいであろう。それ以外は、どうみても、まともであったし、生物や古文・漢文はすばらしいものであった。受験用のインスタント・テクニック指導といったものではなかった。

 ところが、この教師の現代国語は、全くそうしたものとは異なったデタラメなものであった。現代国語を教えるという事は、もともと、学校教育の中で、一番難しいものであるのだが、彼は、自分が良くわかっていないのに、自分がわかっていないということをわかっていなかった。いわば、論語の“由よ、汝にこれを知るを教えんか。これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らずと為せ、これ知るなり。”がわかっていなかったのである。

 私が質問をもっていっても、トンチンカンな答えをやり、しかも、それを断固と主張してゆずらないので、私はバカらしくなったくらいであった。もっと悪かったのは、国語のよくわからない連中に、なんとか試験で点を稼ぐ方法を教えたいと彼が思ったのか、職業的に受験問題を集計した結果、たとえば、○×式の問題の場合、正解はたいがいこういう具合だから、もしわからなければ、こことここに○をつけろ、とか、四つの要旨から一つ適当なものを択ぶ場合には、正解はここかここあたりであることが多いから、ともかく、その辺にマルをつけろといった調子の指導である。

 まじめに信じた生徒がいたのかどうか知らないが、全く、こんなにひどい国語指導は私も生まれて、はじめて目にしたのであった。そして、つくづく情けなく思うと共に、その教師をあわれに思ったのであった。彼ははじめから、国語を教える能力などないのに、なんとか、ダメな生徒に、点数を偶然にでも稼ぐ方法を教えてやるのが、予備校指導だと考えたのに違いない。現代国語の教育は確かに一番難しい。それには、速成の方法などはないといえる。ただ、出来るだけ細かく読み取り、整理して、分析し、理解を深めていくしかない。そして、それは、一つ一つの入試問題を精密に読み取っていく中で養うしか、予備校としては手がないのである。

たった一年の予備校であったが、私はまじめに通学し、夏の旅行も楽しみ、古文や漢文の学習法も確認し、生物では新しい情報を獲得し、英語ではもうこれ以上いけないというところまで行き、私は大いに満足であった。京大にはいってからも、私は英語はもうとらなかった。必要を認めなかったし、読解では充分自信があった。今も、英文なら、特に難しい哲学書でなければ、二三百頁の本は一、二日で読了できる。高校での猛勉強の成果を予備校で復習・発展させただけなのだが。こうして、私は予備校生活の中からも、様々な大切な事を学んだのであった。今から21年前の思い出である。

(完      記 1986年1月12日)村田茂太郎 

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