急いで書いたもので文章にも未熟なところがありますが、これでこのクラスに配ったものなので、歴史的事実としてそのままにしておきました。
いろいろと思い出深いクラスでした。
漢詩まで自分で作るようになるとは思っても居ませんでした。それだけの意欲をわたくしに掻き立ててくれたすばらしい出会いでした。
このあと、補習校教育に関して、すべての領域(国語、数学、社会、理科)に自信をもって自分の意見を述べていくようになりました。それまでの3年間は手探りで真剣に探究していた時期であったということが、わかります。
村田茂太郎 2012年3月18日
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植村直己氏追悼
倣李白哭安部仲麻呂詠詩、哭植村直己氏
弔於雪山 七言絶句 雪山に弔す 村田茂太郎
寒山峻嶺凍風哀 寒山 峻嶺にして凍風 哀し
氷雪包身残夢開 氷雪 身を包みて残夢開く
月落峰中人未醒 月落ち峰中ひといまだ醒めず
白雲愁色亦虚回 白雲 愁色また虚しく回る
マッキンレー山は険しく聳え立って、凍りついたような風が哀しく吹いている。
氷雪が一人ぼっちの身体を包んで、鮮やかな夢が広がっていく
月が落ち夜が明けたけれど 山中のその人はいまだ眠りから醒めない
愁いを帯びた白雲が ただ むなしくとび回っているだけである。
1984年3月1日作
国語の教科書との出会いを契機として、私は植村直己氏の四冊の冒険談を昨年(1983年)読了した。そして、まだ二冊目を読み終わらないうちに、ある種の感銘を受けた私は、スグに感想文を書き上げた。氏の行動力や忍耐力は、私にとっても刺激となり、九月から始めたランニングを現在も(1984年2月)、挫折しないで続けている。
氏のその後の消息を知らなかったが、どこかで南極の最高峰単独登頂をこころみて、フォークランド紛争のため失敗したという記事を読んだ。そして、今回、マッキンレー山厳冬期単独登頂を試みて、史上初めて成功したというニュースに接した。そのあと、女房から、植村氏が行方不明になっているという話しを聞いて、最初は信じられなかった。四冊の本を読み、植村氏の冒険をわが身の体験のごとく感じていた私には、一度も直接会った経験がなくても、とても親しい人であった。
登頂後二週間経ち、遭難死がほぼ確実となった今、私は氏の冒険について考えてみた。今回のニュースと三冊四冊目を読むときに抱いた感想とを交えてみると、なんとなく、今回の事故死が予想されえたように思うのだ。つまり、私は最初の感想文を二冊目を読んでいる途中に書いたが、三冊目、四冊目と読み進んでいくに従って、なんとなく危なっかしい要素があらわれてきているのに驚かされたのである。
どのような批判をしようとも、植村直己氏の前人未到の偉業は事実であり、用意周到といえなくても、氏の努力と忍耐に匹敵できる人は、ほとんどいない筈なのだが、それにもかかわらずというか、それだからこそ、以前の氏と以後の氏とを比べてみて、植村氏自身が四冊目の文の中で述べているように、不注意とも言うべき、いいかげんさが目立ってきており、これはまさに氏のような危険に満ちた領域での行動においては、命取りになるものだと読みながら感じていた。北極とグリーンランドが無事に終わったのは、なんといっても氏自身の判断力や気力・体力のおかげではあったが、文明の利器を活用できた幸運さにもよるのだ。そして、氏自身の運のよさと。
登山などというハイ・アドベンチャーの領域に深く没頭していくと、日常世界の状態がぬるま湯のごとく感じられだしてくる。精神の高度な集中と緊張が要求される真の冒険の世界では、自己のすべての体験が、生死にかかわってくることになり、人はまさに充実した生命の瞬間を生きているという充足感を味わうことが出来る。そして、一度か二度、そういう世界を体験した人は、今度はそれから抜け出せなくなる。まるで、何ものかに憑かれたかのように、つぎつぎと冒険を重ねていくことになる。体力には限度があり、判断力も誤ることがあり、幸運も尽きるときがくる。しかし、その人の運命というのは、まるで何ものかによって、あやつられている如く、その人自身の手ではなかなか変えることが出来ない。ただ、運命のままに、自分の道を歩んでゆくしかない。
植村氏の場合も、氏の南極大陸単独横断、最高峰単独登頂という壮大な夢にもかかわらず、氏の頂点はグリーンランド縦断であったと思う。
単独行には単独行のよさと限界がある。単独行には団体行動では別になんでもないような、ちょっとした失敗が命取りになる。アルプスのクレバスに落ちた苦い経験をもっている植村氏は当初その教訓を骨身に徹して生かそうとしていたようだ。しかし、氏の冒険の成功が数を増し、氏の自信も増加し、体験も豊富になるに従って、いいかげんさも増していったようだ。もっとも、今回がどうであったかは、まだ断定できないが。
今回のマッキンレー(マウント・デナリ)は、冬季単独初登頂という偉業にもかかわらず、氏自身の死に場所となったという意味で、完全に失敗であったといえる。アラスカ政府はマッキンレー山の単独登山は許可していないということであった。今回、氏が許可されたということは、やはり、“世界のウエムラ”、“単独行のウエムラ”という特別の名前に対しての許可であったのであろうか。氏は生還しなかったという事実によって、この“許可”という特典をも無効にしてしまったわけである。アラスカ政府は、今後、どんな理由があろうと、単独行は禁止するという方針に徹するかもしれない。生還してこその登頂である。
Mountain Men というと山男であり、現代の山男とは、ヒマラヤやアルプスの高峰に挑戦しつづけている人を言う。しかし、1810年代から1840年頃にかけてMountain Men と言った時、それは、アメリカのロッキー山脈やイエローストンを中心として、ビーバー狩に精を出していた男たちの事であった。ある種のインディアンたちとは命がけの戦いを行い、あるインディアン達とは仲良く公益を行い、インディアンの女房をめとって山中に生活していた野生的な男たちの世界がMountain Men の世界であった。わずか、2-30年の間に、急速に成長し、消滅していったこの種の人間もまた、冒険を求め、自然を愛し、生死を賭けて生きていた人々であった。アメリカの地理は彼らを記念して、様々な名前を残した。ルイス・クラークの探検隊に参加して帰る途中で山に居残ったジョン・コルターから7-80歳で寿命をマットして死んだ偉大な山男ジム・ブリッジャーまでの間に、幾多のすぐれた自然の闘志があらわれた。彼らもまた。ほとんど何ものかに憑かれたかのごとく、自然の中をさまよい、探訪し、自然の中で死んでいった。
私は、この種の山男にも大いに興味を抱き、いくつかの研究書や伝記を読んだ。ヨセミテ国立公園の生みの親とも言うべきジョン・ミューアも、山と自然を愛した山男であった。彼もヨセミテを歩き回り、自分の確信する氷河渓谷説を証明する手がかりをつかむために、アラスカの氷河を研究にでかけ、危険な目にもあったのだった。
人間というものは、自分が正しいと思ったもの、あるいは、自分がやりたいと思ったことのためには、すべてを犠牲にしてつきすすむところがある。天才的な数学者が過去において、ほとんど野垂れ死にともいえる死に方をするケースがいくつかあったのも、運命のなせる業としか言いようがないかもしれない。
実に注意深く慎重な植村直己氏が、思いがけないような場所で死ぬような目にあうというのも、自分ではどうすることも出来ない運命に違いない。私自身はあれほど偉大な冒険家のマッキンレー山での死という事実になんとなく腑に落ちない思いがするのだが、冒険家としての悟りに徹した氏にとっては、死に場所はどこでも同じであり、厳冬の壮麗な美に輝くマッキンレー山史上初単独厳冬期登頂という事実を味わった後の死は、案外、満足のいくものであったかもしれない。
さて、日本の秀才留学生阿倍仲麻呂は、中国本土でも秀才として、とんとん拍子に出世していった。丁度、玄宗皇帝の時世で、高い位につき、当時最高の詩人王維や李白と対等の付き合いを行った。仲麻呂のほうが官職の位は上だったくらいである。何度か帰国を志し、百人一首で有名な“あまのはら”の歌などを詠んだが、ついに願いはかなえられず、従二品という高い位を追贈されるほど、唐政府から信頼され、唐土に没した。一度、乗船した帰国船は、暴風雨でベトナムに漂着した。船が難破したといううわさを信じた李白や王維は、それぞれ、そのうわさを元に、阿倍仲麻呂を追悼する詩を作った。
哭ちょう卿 李白 ちょう卿を哭す
日本ちょう卿辞帝都 日本のちょう卿帝都を辞し
征帆一片めぐる逢壷 征帆一片 ほうこをめぐる
明月不帰沈碧海 明月帰らず碧海に沈み
白雲愁色満蒼梧 白雲 愁色 蒼梧に満つ
事実はベトナムにたどり着き、無事中国に帰って、また、中国政府役人として、それなりに恵まれた生活を送ったのであった。ただ、李白や王維の詩は、いかに彼らが日本の友人を尊敬し、敬愛していたかを示すことになった。
わたしの漢詩は、“倣いて”とは言っても、かなり情況がことなる。ただ、私は、こういう漢詩があったということを知っており、また、一方、植村氏の本四冊を続けて読み終え、内容をよく了解したので、植村氏の行方が、エベレストで消えた某氏のようには、ひとごとと感じられなかったのである。
それらの本を通して、氏の実績のみでなく、氏の人間性をも愛するようになっていた私は、氏の遭難のニュースを、実に暗い気持ちで受け取らざるを得なかった。
マッキンレー山は、夏でも氏が一人で苦労した山である。雪深いマッキンレーの、エベレストとはまた違った困難さを考えたとき、今度こそ、私は、植村氏を何度か守ってきた幸運も尽きたに違いないと感じた。それは、限りなく悲しいことであった。氏のように、自分の夢を一つ一つ着実に実現させている人間がいたということは、どれ程、人生への励ましとなっていたかしれない。そうした生き方のひとつのシンボルがなくなったということなのだ。
(記 1984年2月28日)村田茂太郎
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