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9/09/2012

「アメリカにおける秋山真之」島田謹二 を読む


「アメリカにおける秋山真之」島田謹二 を読む

 著者島田謹二は、この秋山真之(あきやま さねゆき)研究書のほうを先に手がけたらしい。秋山真之に対する島田謹二の思いいれは、この研究書が完成する(1969年)30年ほど前から始まったという。

 有名な日露戦争での日本海海戦は第一報告電報“敵艦見ユトノ警報ニ接シ連合艦隊ハ直チニ出動コレヲ撃滅セントス本日天気晴朗ナレドモ波高シ”の文言で知られ、それは誰もが親炙するほど有名な表現となり、なかにはユリウス・カエサルの、これもまた有名な“来た見た勝った”に比較する人が居るほどであるが、この“本日天気晴朗ナレドモ波高シ”は秋山参謀自筆の伝言だと当時から知られていた。

 島田謹二はこの格調の高い第一報告の文言に魅せられ、秋山真之という人物に興味を抱いたようである。

 そうして、秋山真之が1897年夏〔29歳〕から1899年末までの2年半ほどのアメリカ滞在の期間において、どう反応していったかを追及し、6年ほどかけて2千枚の研究書を完成する事になった。その間、たまたま東京大学の図書館で手にした書物に“広瀬武夫”蔵書の印鑑が押されていたのに気がつき、蔵書の印鑑をこしらえて書物に押すほど軍人広瀬武夫が書物を集め、読んでいた事に感銘を受けたことがきっかけで、秋山研究は中休みのようにして、広瀬武夫を調査研究し、先に本として完成したということであったらしい。

 「ロシヤにおける広瀬武夫」伝はロシア滞在中の広瀬の行動が中心とはいえ、広瀬武夫の全実在が解明されたように感じるほど、見事な人物伝として完成し、それは同時にロシヤをめぐる当時の世界情勢、日本情勢の解明でもあった。そして同時に、日本男児としての面目を世界に示したともいえる、魅力的な人間像が描かれ、ロシヤの貴族の女性がその魅力にひかれたのもわかるような印象が生まれ、若くして亡くなったにもかかわらず、広瀬武夫は充実した人生を生きたと読者に感じさせる結果となった。

「アメリカにおける秋山真之」は人物が広瀬武夫と異なるせいもあって、全く内容も展開も異なる。2年半ほどのアメリカ滞在中に秋山真之が何を学び、どう自らの思想を鍛えていったか、当時のアメリカの状況はどうであったのか、アメリカの海軍や世界情勢はどうであったのか、特に秋山真之滞在中に起きたアメリカのキューバとフィリッピンをめぐる軍事的な介入とスペインに対するアメリカ側の圧倒的勝利は、秋山真之にとって、なまの海戦体験でもあり(観測武官として)、当時の世界情勢の中での貴重な見聞であった。そうした軍事的な資料をこまめに、全体にわたって渉猟し、まるで人物伝とか滞在記というようなものではなくて、この秋山真之のアメリカ対米記録が海軍史の研究書のような様相を呈するに至るのも、秋山という人物がしからしめたものであろう。

非常な秀才として選抜され、アメリカに派遣された秋山は、短い滞在の間に、あらゆる能力を発揮して、日露戦争の海軍参謀のNo.1に値するだけの実力を身に付けていくのを私達は知らされる。

 ものすごい頑張りようであり、明治の武人の本当のすごさを感じさせるものである。これは陸奥宗光の岡崎久彦による伝記を読んだときも感じたが、本当にまじめに、しっかりと勉強して、確実になにものかを身に付ける。いいかげんさなどどこにもない。いい意味の軍人の見事さを証明する研究書である。

 秋山真之は日露戦争の日本海海戦で参謀として大活躍をし、東郷平八郎連合艦隊司令長官のもとで、海軍を戦勝にみちびく主導的役割をはたし、のちに海軍中将にまで至るが、多分、日露戦争での過労がもとで、まだ若いうちに亡くなった。軍人は若い間は妻帯すべきではないという兄(秋山好古)の考えを引き継いで、晩年に結婚し、子供も生まれたようであり、夫人は1984年に85歳で亡くなったという。秋山真之自身は大正7年2月に逝去というから50歳前後で亡くなったようである。

 ともかく、この本は秋山がアメリカ滞在中に勉強した本のすべてを読み調べ、そして、アメリカ史において、モンロー宣言の時代から、帝国主義の国として、アメリカが世界的に飛躍してゆく時代に起きた主要な事件、キューバやフィリッピンをめぐる事件に関するあらゆる研究書に目を通して、当時を理解しながら、秋山の目にうつった情勢と彼の姿勢を解明し、秋山のその後の展開にどう影響していったかを描きつくした大変な労作である。

 明治の武人の魅力を伝える名著だと思う。秋山真之の分析力や明晰な判断力、そしてそれを文筆で見事に伝える文学的才能はすでに若くして顕著であり、例の有名な電報が生まれ、すべての軍人のスピリットを高揚させたのは、偶然ではないということがはっきりわかる。

 一軍人のある期間のある場所での研究書とはいえ、ここに明治時代の緊迫した世界情勢、日本情勢、海軍の日本国に対する強烈な信念などが同時に鮮やかに描き出され、良い意味でのNationalismの勃興を解明した良書のひとつともなっている。

 秋山の行動はマネジメントという視点から見たとき、統率者のもつべきあらゆる能力が彼自身の成長に応じて確保されていくのが手に取るようによくわかり、それが日本海海戦で文字通り生かされたのを私達は知る。

 これは広瀬武夫の魅力とは別なものである。広瀬武夫はいい意味での日本男子の魅力を世界に示し、まさにそのような献身的な人間として、彼の信じる国のために身をささげ、死んでいった。広瀬武夫が生き続けても、秋山真之のような実践的にマネジできる働きを示したとは思えない。いろいろなタイプの人間がいるわけで、同じく、すぐれた人間であり、すぐれた海軍の人間であったが、その働く方向は違っただろうという印象は残る。

島田謹二は、この海軍のふたりの人物を描きあげることによって、一般読者に不朽の名著を送ったという事になる。ともかく、このニ著は、読後、全然、違った印象を持つが、文学者が軍人に興味を持ち、その魅力を解明した書物という意味でも、それぞれ、すばらしい作品であった。

著者は序文にあたるところで、“この研究の志向について”という文章を展開し、「明治期日本人の一肖像」ということで、秋山をとりあげた理由などを述べている。やはり文学者が軍人を取り上げるということで、誤解されることをおそれたものであろう。出来上がった作品は本当に最高度にまじめで、充実した、誰が見ても本格的な研究書であり、人物伝である。

私が秋山真之という名前を知ったのは、司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読んだからである。この本は日本で一番人気のある小説だという。明治という時代の魅力を秋山好古、真之兄弟を中心に描き出す事によって、明治という時代の持つ困難と活力を面白く、楽しく描き挙げた名作であると思う。わたしは三回ほどしか読んでいないが、また読み返したいと思う。特に秋山好古の活躍を描いた“黒溝台”の場面を。

 「ロシヤにおける広瀬武夫」 を読んで、ロシヤだけでなく、広瀬が訪れた国々や地方の地理・風俗・気候・文化状況がわたしにははじめてリアルに感じ取られたが、この 「アメリカにおける秋山真之」を読んで、秋山がアメリカの艦隊のなかの“ニューヨーク”に座乗の艦隊司令部付として実地見学を3ヶ月ばかり体験してくれたおかげで、メキシコ湾の諸国やカリブ海の風土がどのようであたのか、手に取るようにわかる。キューバをはじめ、カリブ諸国の地形・自然環境・民族その他、当時の生活の一部があきらかにされる。まさに情報に富んだ、内容豊かな、素晴らしい本である。

村田茂太郎 2012年9月8日、9月9日

 

「アメリカにおける秋山真之」著者 島田謹二 1975年12月発行

朝日新聞社 朝日選書52,53 上下二巻
オリジナルは1969年出版

 

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