Translate 翻訳

4/01/2012

小・中学生の家庭学習(国語の学習について)

28年程前の文章て゜す.
Since two days ago, my PC keyboard suddenly became Japanese Hiragana input mode.
I can write in Japanese with a lot of effort as shown above.
ABCDEFG is now ち.こ.そ.し.い.は.き. like that.
Yesterday I visited Fry's Electronics and asked assistance.
He suggested to use Dryer for dusting keyboard etc. And if still I had trouble, I can buy wireless keyboard with USB port. By this way, I can have two keyboards.
It will be my last solution for this problem. I will wait for some miracle to happen, adjusted automatically, something like that. I am not so superstitious, but I worry for friends in Japan.
S. Murata 04/01/2012 11:18 AM

----------------------------------------------------------------
小・中学生の家庭学習(国語の学習について)

 補習校という状況の特殊性を踏まえて、家庭学習もそれなりに慎重に取り組まねば後で悔いる事になる。小・中学生の間は、まだ完全に精神的に自立できる状態ではないのだから、親は何でも子供に任せるという自由放任の態度をとるべきではない。親が干渉しすぎるのはよくないが、学習において、少なくとも、まともにやっているかどうか、暖かく見守り、必要があれば、忠告や規律を与えるのが親としての義務であり、また責任でもある。親の関心と教育への姿勢が子供に与える影響は強大なものであり、何らかの意味で国語教育に失敗したケースというのは、ほとんどすべて、この、親の子供への対応の過ちから生じている。


私は、何度も書いてきたが、学習において最も大切なものは、学習“意欲”つまり、“自主性”である。自主性を背後から支えるものが、“好奇心”、“探求心”である。人類の学問・文化は、この人間にとって本性的な“好奇心”のおかげで、進歩・発展してきたといえる。
“好奇心”に満ちた子供は、放っておいても、ひとりでに、つまり自主的に、積極的に学習をすすめるであろう。教師が介入してくるところは、まさにこの好奇心を伸ばすという点と、デタラメに散漫にならないように、忠告・援助を与えるという点においてである。


そして、学習を効果的にするための基本的な姿勢として、集中・反復・持続(継続)が大切なものとなっている。“集中”によって、確実に、学習したことを理解し、“反復=復習”によって、理解の度合いを深め、その反復=復習を繰り返すこと(持続・継続)によって、記憶と理解を確かなものにしていくのである。よほど印象的な内容で、一度、学習しただけで、一生忘れないというものもあるけれど、ふつうは何度か繰り返して取り組んで、はじめて理解ができるというものが多い。そして、理解したものを、反復・復習しないでおくと、瞬く間に、忘れてしまう。


一度、理解したものを、何度も“持続”的に復習することによって、その学習した事柄が、“浅い記憶”から“深い記憶”へと移ってゆき、そのようになってはじめて、本当に身に付いたものとなる。そうなれば、チョットやソットでは忘れない。学習はそこまでいかなければならない。集中・反復・持続という執拗な努力の繰り返し以外に、学習を意義あらしめる方法は無い。“学問に王道なし”は、今も真理である。忘れやすい人は、人一倍努力するしかない。


以上は序論である。それでは、補習校で、週一度しか国語の授業をもたない子供が、どのようにすれば、そのハンディキャップを克服して、国語の実力を充分につけることが出来る出あろうか。その基本と考えられるものを、箇条書き的に抽出し、それを簡単に説明する事によって、私の考える“国語の家庭学習”の方法論とした。


          勉強は、わかるレベルから始める。


          これが、最も大切なことである。自分の学年の教科書を読んでいて、新出漢字でもないのに、スラスラと読めないという場合、何らかの理由で、それ以前の勉強がおろそかになっていたからである。もう一度、一年前、二年前の教科書に戻って、漢字・語句をマスターすること。スラスラ読めなくて、国語が好きになる筈がない。


          勉強は毎日する


          特に、日本を離れている人間にとって、しかも、現在、日本語とその用法を習得中の人間にとって、毎日、日本語の世界に接することは、なによりも大切である。


          家庭では絶対に日本語で話し合おう


          ここが、よくあやまちの発生する場所である。米語に早く習熟させてやりたいと思う親は、善意から、家の中での会話を米語で統一しようとすることがある。このケースは、一年か二年後に、日本語会話がたどたどしくなっているのを発見して、親は例外なく、自分たちの方針が間違っていたのを悟り、後悔するが、手遅れである。子供の米会話は、学校で、友人たちとの交際だけで、充分伸びていくので、余計な心配などせず、家庭内での日本語維持に努めるべきである。


          日本語テレビを見る


          普通、いい内容のものでないかぎり、テレビは見ないほうがよいのだが、海外子女というのは特別である。出来るだけ、いろいろな日本語の使用に接するべきであり、日本語のニュースや歴史ものの大河ドラマなどは、見るように心がけるべきである。時代物は、日本の過去の歴史への関心を喚起するという意味で、日本史の教材(本、名所、史跡、旧蹟等)に不足している外国にあっては、特に重要で、積極的に自国の歴史に興味を抱くように働きかけねばならない。


また、この事と関連して、夕食等、家庭の団欒の時間には、そうした中で興味を持ったテーマ等に関して、日本語で質問したりしてしゃべりあうことが大切である。私は歴史上の人物を新しく覚えるたびに、銭湯でつかりながら、父に質問したりして、いろいろ教えてもらった。当時の父の知識は、本もあまり出ていなかった頃で、今から思えば、常識程度であったが、少なくとも小学生を満足させることは出来たし、いろいろと新しい情報も引き出せた。話題は何でもよいから、みんなで話し合おう。フォークランド紛争とかといった時事問題は、日本語だけでなく、歴史や地理や政治・経済・社会等に関する“隠れた実力”を身に付ける絶好のテーマであった。


          教科書の音読を行う


          これは、どの学年でも励行してもらいたいことである。自分の発声を自分の耳でたしかめながら読むということは、特に、日本語の発声の機会に乏しい外国にいるときは大切である。正確で落ち着いた発声は、耳にも心地よく、日本語の美しさを自分でも確認することが出来る。また、親や兄弟姉妹に聞いてもらうことによって、あやまちや問題点を注意してもらえる。時には、そのすばらしい内容が、家族一同に感銘を与え、そこから家族での話し合いが始まったり、深まったりすることも起こる。高校生になっても、音読をすべきである。滞りなく、味わいある読み方が出来るようになれば、そのときには、かなりの実力がついていて、国語が好きになっているのを発見するであろう。


          漢字は毎日書こう


          各学年ではじめて出てくる漢字は、その時点で、正確に覚えなければならない。正確というのは、筆順はもちろん、ハネのあるなしまで、すべてを正確にということである。漢字を好きになり、正確に覚えれば、国語力はグンと増し、自信が出てくる。また、漢字それぞれの個性を知れば、ますます好奇心が増し、勉強意欲も増大する。


さて、この際、注意しなければならないのは、漢字というのは完全に覚えるまでは、何度も繰り返して書いて練習しなければならず、土曜日のテストに備えて、金曜日の夜にあわてて練習するというやりかたでは、そのテストはうまくいっても、記憶に必要な繰り返しが欠けているため、テストが終わって、その後、その漢字を見ないでいると、スグに忘れてしまうということである。そこで、金曜日だけ一時間かけて、漢字に取り組むより、毎日、十分か十五分でいいから、コツコツと取り組むことが、非常に大切になってくるのである。


大体、この補習校生に特別な家庭学習が期待されるというのも、日本と海外との教育環境の違いによる。親は、そこをしっかりと認識していなければならない。日本での国語の授業のように、ほとんど毎日、ゆっくりと、繰り返しながら進んでいく場合、、特に復習しなくても、或いは、家庭学習などしなくても、授業さえしっかりやっていれば、充分理解できて、成績もトップをとれるだろう。毎日のゆっくりとした歩み自体が、既に、反復・復習の役目を果たしているからである。補習校は週一回で、歩みも速い。従って、“反復・持続”は、家庭で補うようにしなければ、どんなにすぐれた子供でも、だんだん学力が低下していくであろう。


漢字の学習は、日本語教育・国語活動の基本である。好き嫌いは言っておれない。コツコツと、毎日、まめに取り組んで欲しい。その際、出来るだけ辞書も使用し、同時にいくつかの単語をマスターするようにつとめたい。その、調べた言葉だけでなく、その漢字をつかった熟語等にも気をつけるようにすれば、単語力・漢字力は、みるみるうちについてくるであろう。


          日記・作文を書く


          書くという作業は、国語力の強化のために重要な役割を果たしている。作文の中に、国語力のほとんど総合的な力があらわれてくる。また、表現をするという作業を通して、自己反省とか集中・発散とかといった、国語の範囲にとどまらない、広い意味での精神活動が行われ、自己の成長に大いに役立つ。出来れば、日記をつけること。作文を書くこと。


読書感想文は、無理せずに書けるようであれば、もちろん書くのが望ましい。しかし、あまり気が乗らない人に、強制すると、本が嫌いになる恐れもあるので、時たま書かせるという程度ならよいが、毎回というのはやりすぎだといえる。


さて、作文・日記において、大切なことは、書いたものを誰かに見てもらい、訂正してもらうということである。書いたままにしていれば、もちろん表現の練習になって、書かないよりは良いが、文章におかしい点があるかどうか、その指摘と学習のチャンスをなくしているわけで、モッタイナイ話である。


江戸時代、漢詩人たちは、何歳になっても、自分の作ったものを、先生や友人・先輩に見て、添削してもらい、常に自分を向上させようと努力していた。諸君も、恥ずかしがったりせずに、堂々と見せて、出来るだけ正しい文章作法、日本語の使用法を身に付ける機会としたいものである。作文の中にあらわれた漢字使用度によっても、その人の漢字力・国語力を知ることが出来る。また、もちろん、文字は人を表わすともいわれている。正しく、丁寧な字を書くように心がけるべきである。字の上手下手はあるが、誰でもていねいに、わかりやすく、読み易く書くことは出来る筈である。つとめて日記・作文を書き、親・友人・教師に見てもらい、訂正してもらおう。


          本を読む


最近、マンガがはやっているが、私見では、最近のマンガは、精神が散漫になり、集中力に欠ける子供が増えていくようで心配である。(1983年現在)。私もマンガは沢山読んできたし、マンガにもいろいろな内容があり、一概に否定は出来ないが、よほど注意して扱わないと、大変な事になると思う。


マンガ日本史とか、伝記を漫画化したものなどは、興味を起こさせるものとしては重要な役目を果たしている。つまり、それで満足して、そこで終わってしまうようなマンガではなく、それを契機として、更に程度の高い日本史とか、本格的な伝記とかを読んでみたいと思わせるようなマンガであれば、大いにすすめたいところである。そのほか、想像力を刺激し、精神を高めてくれるようなマンガも時たまある。(ここでは、マンガ論は省略する)。


一般に、本をよく読む子供は、どんな場所にいても、その国語力はある程度以下に低下することは無い。その本の中の文章表現や漢字・語句の使用をいつも確認していることになるので、本をしっかり精読して、よく理解できていれば、国語力が低下しないのも当然である。それどころか、わからない漢字や語句を辞書で調べる努力を重ねながら読むようにすれば、隠れた実力ともいうべき、ものすごい国語力がつくことになる。従って、本を読む事の重要性は、いくら強調してもしすぎることはない。


ところが、マンガを読みすぎると、安易さになれてしまって、精神が散漫になりやすくなっているため、活字がいっぱい詰まった本は苦痛に感じるようになり、特に、長編となると、とても集中して読み通すことが出来ないし、はじめから投げ出す事になりがちである。


そこで、まず大切なことは、自分の手に届かないような、難しそうな本に、最初から取り組んではいけないということである。自分が興味を持った本を、読める字で書いてあるものからスタートすることである。つまり、中学生といえども、自分には少し、難しすぎて読み終えそうに無いと思えば、小学生用の本から読み始め、楽に読みこなせるようになったことをたしかめてから、徐々に程度を上げていくことが、何より大切なことである。


本は精読するように努めるべきである。流すように、筋だけ追って、とばし読みしていたのでは、あまり国語力はつかないし、いったん、粗読の癖がつくと、なかなか直せないから注意しなければならない。


特に、読み始めた段階では、内容はどんなものでもよい。推理小説は人気があるが、へんに大人びた、いかがわしいものでなければ、ミステリーものも、すばらしいものであることは、既に“探偵小説の読み方(1)(2)”という文章で示したとおりである。歴史もの、科学もの、文学、童話、何でもよいから興味がわけば、手当たり次第、読み始めよう。そして、特に、印象深かったもの、感銘を受けた作品については、自分自身のために、感想文をまとめておくように心がけよう。出来るだけ早く、日本と世界の古典的名作に親しむようにしよう。


          “百人一首”に早くから親しもう


          日本の伝統的な遊びの一つ、“百人一首”には、できるだけ早くから親しむべきである。これに親しんでいると、国語力の中の隠れた力がつき、様々な方面に、よい結果をもたらす。当然、百首全部暗記するよう心がけねばならない。暗唱すれば、自信もつくし、名歌に早くから暗唱するほど親しんでいれば、その後に出てくる和歌や俳句や詩が、より親しみやすく感じられ、理解力もグンと増す。なによりも、幾多の名歌をそらんじて、気分に応じて口ずさめる楽しさは計り知れない。歴史や古代文学に対する興味も増し、国語というものが、より楽しく親しいものになってくるのは、まちがいない。


私は、小学三年の時に教えてもらって、その冬、スグに百首全部暗唱した。好奇心に任せて、またたくまに覚えたが、そのためどれ程自分の能力に対する自信がついたか、その後の私の国語や社会の勉強にどれだけすばらしい効果をもたらしたかは、簡単に言い尽くせないほどである。高校の時、すべて、興味をひかれたものは暗記しようとするのに、それ程苦痛を感じなかったのも、様々な国語の領域を楽しみながら勉強できたのも、みな、私が早くから百人一首に親しんできたからだと思っている。


百人一首は、私は過去の遊びだとは思わない。日本語が存在し続ける限り、短歌と俳句という定型による表現法は残るであろうし、人々はこれからも、その時々の気分に応じて、すぐれた歌を詠み続けるであろう。そして、このすぐれた日本語による表現法の入門書的な役割を、中世以来果たして来たのが、百人一首なのである。これは、単に、大学受験用高校演習課題として扱うようなものではない。小学一年生から教えて充分に理解しうる挑戦的で知的な遊びであり、芸術なのである。


10      何でも暗記しよう


頭脳とは使うべきものである。暗記すればするほど、暗記することがやさしくなってくる。何でもドシドシ暗記するよう心がけるべきである。


“百人一首”を手始めに、名歌・名句・名詩・名漢詩など、なんでも、自分の気に入ったものは、出来るだけ多く暗記することが望ましい。そして、いったん暗記したら、時々、気分に応じて、思い起こし、復唱してみることも大切である。


この“百人一首”の暗記のおかげか知らないが、私はソロバンの中でも、特に読み上げ暗算が得意で、小学高学年から中学三年でやめるときまで、出場するほとんどすべての競技会で優勝か二位になった。中学二年の全大阪市の中学部の大会で、残念ながら二位になってしまったが、ともかく、自信はついた。ロサンジェルスの二世祭で1973年にはじめて出場して、大人の部で全種目完全優勝をし、翌年にも読み上げ暗算だけは優勝した。ただの五桁の計算なのだが、これも修練によるというのか、私は徐々に位をあげていき、六桁くらいまでは出来るようになったのであり、やはり、努力だと思っている。


さて、以上で主な注意点については述べ終わったので、次に少し例を挙げて説明しておきたい。


たとえば、小学五年生の子供が、あさひ学園の五年生の授業についていけなくなったと仮定しよう。まず、親は、自分の子供がどこまでわかっているかを調べなければならない。数学・算数の場合も同じである。一年か二年下の教科書を取り上げて、子供がスラスラと読めるかどうか、漢字や語句の意味を理解しているかどうかをテストしてみて、ともかく、どの時点からわからなくなっているか、漢字をマスターしていないかを知らなければならない。その上で、たとえば、三年まではちゃんとわかっているということが分かれば、四年の教科書をとりあげて、毎日、あわてず、徐々にその教科書をこなしていかねばならない。


読み・漢字の書き方・語句の意味といった基本的な事柄にコツコツと取り組んでいかねばならない。同時に副読本も採用すべきで、面白く興味をもてるやさしい本を読ませるようにする。これは、日曜日から木曜日の間に行い、当の五年の授業の準備並びに復習として、金曜日と土曜日をつかうべきである。もちろん、これは、私のひとつの提案にすぎないが。


そのようにして、五年の当面の授業に対して何とかついていけるように心がけながら、それ以外の時間を、それまでで欠けていた部分を補う学習に利用するようにすべきである。早く基本をマスターすることが大切で、そうでなければ、あさひ学園での授業を無駄にすることになる。


そして、もちろん、既に述べたように、教科書の音読は、励行しなければならない。


そのようにして、いったんある程度わかるようになれば、自信もつき、興味も湧き、また勉強の仕方もわかるようになって、一人でなんとかやっていけるようになるであろう。後は、冷静に観察し、時々、わかっているか、どのようなことをやっているのか、子供にたずねてやればよいのである。


以上は一例であるが、参考にして、大いに頑張ってもらいたい。


そして、自信もつき、能力もつき、余裕もある子供は、遠慮しないで、何でも読み、何とでも取り組み、ますます実力を高めるように励まなければならない。そうすれば、国語は楽しくてたまらなくなるだろうし、別に特に意識して勉強しなくても、国語の成績はよくなるだろうし、本当の実力、教養が身についていくだろう。
(記                     1984217日)

No comments:

Post a Comment