心霊現象の科学をめぐってーその17 Nandor Fodor その2 コナン・ドイル Fairies
ここに三冊の本があります。
Arthur Conan Doyle The Coming of the Fairies 1922
A.C. Doyle The Edge of The Unknown 1930
Nandor Fodor Between Two Worlds 1964
Fodorはハンガリー人のParapsychologist、Psychoanalyst で、またJournalistでもあったひと。
フロイトとも面会し、ドイルとも面会しています。フロイトはN. FodorのPoltergeistの本に興味を示し、そこから、つまり、なぜフロイトがポルターガイスト研究に興味を持ったのかというところから、Fodorはユングの存在に気がついたようです。フロイトの伝記が出て、ユングのことが触れられ、そのあと、ユングの有名な自伝(回想録)がでて、フロイトの関心の真相がわかったようです。Nandorの引用ではユング自伝の英訳タイトルはMemories, Adventures, Reflections となっていて、現在、私の持っている Memories, Dreams, Reflections と、少し違いますが、1963年出版といいますから、多分同じ本でしょう。ユングについては、前回記しました。
そういう経歴の人が、その1964年の本”Between Two World"の中で、”Fairies should be seen but not heard of" という題名で5ページほどの考察を書いています。ドイルの妖精写真論議をめぐる感想といえるでしょう。
この題名からして、FodorはDoyleが”早まった”と解釈しているように思われます。Fairies妖精というのは、ただ自分で見たというだけでよく、人から聞いたり、人に話したりしてはいけないという言い伝えがあり、コナン・ドイルがその言い伝えにもう少し注意を払っていたら、あとで物議をかもす事になった妖精騒動に巻き込まれずにすんだであろうにという意見だと思います。
ドイルのFairiesの本、昨日(4月24日)、読み終わりました。いやいや難しいものですね。ドイルほどの人、当時で考えられる問題点についてはみな検討しているようです。すでにThought がThings だという Hereward Carrington の 考えを記した Psychic への入門書が1920年には出版されていたのです。ドイルも知っていたはずです。そして、ドイルはSpiritualismの研究家でもあったのです。
1917年の夏、Cottingleyという英国の田舎で、Elsie Wright という16歳の女性と、そのイトコであるFrances Griffith 10歳のふたりが、Fairiesに出会い、それを父親から借りたカメラで撮ったらFairiesがうつっていたということから、このFairies騒動がはじまります。(Fodorはどうしたことか、二人の年齢を入れ違えて書いています。誤植なのか。大事な年齢なので、こんなエラーが見過ごされたのが不思議です。)
これを調べた、当時、シャーロック・ホームズではなくて、サイキック現象のInvestigatorとして活躍していたコナン・ドイルが関係者と会って調べて、1920年に雑誌にいち早く発表し、1922年に有名な上記”The Coming of The Fairies"を出版します。
ドイルはこの写真がHoax つまり、でっち上げ、インチキ工作の結果ではないいうことを証明しようと努力し、さらに、Fairiesをみたというひとの証言をあげて、そして歴史的な証言も引用して、Fairiesは何時の時代にも居た、そして見える人には見えた、つまりサイキックClairvoantの能力を身につけた人や、Sensitiveな子供の時代にいっぱい見えたようだと資料をあげて納得させようとするわけです。
この写真が合計5枚できあがり、随分苦労するわけですが、まあ、これで、世間を説得できるだろうと思ったようです。
わたしがD. Scott Rogo などを読んで、今では写真のFairiesは確かに写真に写ったのだが、Fairies自体は想像力の産物だとする解釈がただしいように思います。、すでにその当時、そういう説もあったようです。ドイル自身、思春期を過ぎたら、繊細な能力が失われて、もうFairiesを見ることも、写真に撮ることも不可能になったとわかっており、最初の現象にしても、ひとりだけではダメで、Elsieと Francesの二人が居て、はじめてFairiesが現れるのに必要なエネルギーがととのうようで、結局16歳ですでに思春期に入っていたElsieは急速に能力を喪失していって、最初の5枚の写真だけが残されたわけです。
写真が成功した(?)のはすべて暑い夏の日中で、ドイルはその点、注意深く、記録しています。写真は当時のカメラ技師の専門家何人かにみてもらい、いろいろ考え付く疑問点をClearしていこうとしています。
わたしはこのドイルの本を読むまでは、単純にRogoのいうとおり、あるいはHereward CarringtonのいうThoughtが現象としてあらわれたものと解釈していましたが、ドイル自身、いろいろ考えており、Thought、Imaginationが具現したものという考えも検討しています。
この二人の若者が見て撮ったというFairiesは、やはりサイキックであった二人が(特に年上のElsieが)自分の子供のころから本で見慣れた妖精をイメージ化して、自然とThought Formが具体化したものだと思われます。写真はインチキな操作はナイといわれながら、わたしが見てもいろいろ疑問点がうまれてきます。ドイルもそれに気がついてClearしようとし、批判者も気がついて、批判したわけで、これは泥沼論争になったのではと思われます。
Fairiesはバレーダンサーが妖精の衣装を身につけて、本から抜け出してきたようなイメージ。少女小説に現れる美人のダンサーのような、人間の形、というよりも、きれいな若い女性のような格好をしており、まさに若者の想像の世界で生きているような姿かたち、そして、Gnomeやその他も、いわゆる昔からの言い伝えのとおりの形をしてあらわれているわけです。これはドイルにいわせれば、Shakespeareや他の人たちも実際にFairiesを見ていたから、そういう伝説のような御伽噺のようなものが生まれたのだろうというわけで、これは鶏が先か卵が先かというような論争になりそうです。
FairiesがElsieが16歳前後の若いときにだけ現れて、見ることが出来、Pubertal age を過ぎて、it was said that she lost the power that may have helped the fairies to "materialize" in her presence.妖精を現象させる能力を喪失した。
Fairies がMaterialize ということをすでに当時言っていたわけで、Rogoのいう、あるいはHereward Carringtonの Thoughtから具体的な、Visibleなかたちで、サイキックに生み出した、あるいは自覚しないで生まれでたというのが正解かもしれません。
わたしはこの二人の思春期すれすれの子供が体験したものは、まさにサイキックな現象であったと思います。さて、ドイルはいろいろな情報をひとからもらい、沢山例証をあげています。みな、サイキックな人の話です。
Nandor Fedor は I can subscribe to fairy visions both from my analytic and my parapsychological experiences.と書いています。このSubscribeという動詞の意味ですが、この場合は例をあげるというような意味だと思います。Fairy Visionsといっているところが大事だと思います。つまり、この彼のエッセイの本題のようなもので、Vision見たという人は沢山居るという話です。見たというひとが居ることは信じるということでしょうか。
彼は二十世紀前半に活躍した有名なMedium、サイキック Gladys Osborne Leonard という女性のコントロールにあたるFedaという人物のことばを引用しています。
Yes, they do exist. They are the nature spirits and there are many classes of fairies. Clairvoyance is needed to see them. They belong to another vibration. They don't have quite the same soul as we do. Bu they have spirits. All forms of life are used again. Nature spirits don't die like us. Some are created out of earth or fire or friction. They are all activity and movement. p208.そう、妖精はいるのです。彼らは丁度自然の精霊のようなものです。Fairieにもいろいろな階層があり、透視力があってはじめてみることが可能です。彼らは人間とは違うVibrationにぞくするからです。彼らは人間と同じようなSoulはもっていないけれど、精霊なのです。自然の精霊というのは人間のように死なないので、すべての生命が再利用されます。或る精霊は土からつくられ、あるいは火から、そして摩擦からと様々な形で生み出されます。それらは活動そのもの、運動そのものです。
なぜ、コナン・ドイルがFairiesの本を書いたのか。彼は序文で objective existence of subhuman form of life といっています。有名な第一章の書き出し(p13-14)で、彼の意図・動機を説明しています。
The series of incidents set forth in this little volume represent either the most elaborate and ingenious hoax every played (ever played の誤りでしょう、ドイルのエラーとは思えないので、誤植でしょう、校正が頼りないようです。) upon the public, or else they constitute an event in human history which may in the future appear to have been epoch-making in its character. It is hard for the mind to grasp what the ultimate results may be if we have actually proved the existence upon the surface of this planet of a population which may be as numerous as the human race, which pursues its own strange life in its own strange way, and which is only separated from ourselves by some difference of vibrations.
この本が生み出されるに至った一連の出来事は、公衆を欺瞞するかつてなかったほどの最も手の込んだHoaxイカサマがおこなわれたのか、あるいは、その性格からして将来人類史において画期的な意味を持つ出来事を構成しているということのどちらかを表明しています。もしこれがほんとうで、この地球という惑星の表面に人類と同じほどの多くの別の存在が居ることの証明になれば、その最後的結果がどのようなものになるのか、考えも出来ないほどです。つまり、奇妙な生命をもって、奇妙な生き方をしている、しかもただVibrationが異なるだけで、人類と隔たっているというこの存在を実際に(この写真で)証明することが出来たとしたら。
We see objects within the limits which make up our colour spectrum, with infinite vibrations, unused by us, on either side of them. If we could conceive a race of beings which were constructed in material which threw our shorter or longer vibrations, they would be invisible unless we could tune ourselves up or tone them down. It is exactly that power of tuning up and adapting itself to other vibrations which constitutes a clairvoyant, and there is nothing scientifically impossible, so far as I can see, in some people seeing that which is invisible to others.ここでドイルは、われわれ人類がものを見るということは、或る波長の圏内においてであって、丁度、赤外線や紫外線その他のVibrationにあるものは、目に見えないように、もしある種の存在がそのような人類の目に直接見えるものでなくとも、そうした違った波長にあわせることができる存在、つまりClaivoyant透視能力を持ったものであれば、見えるわけで、Clairvoyantとはそういう調節能力を保持している人で、だからサイキックにだけ見えて、普通の人に見えないわけで、普通の人に見えないから存在しないとはいえないということを言いたいようです。
ここで、Nandor Fodor を引用します。(p208)。
Conan Doyle thought that the fairies represent separate line of evolution and noted that children often claim to see them; which was factually established by Dr. Evans-Wentz in "Fairy Faith in Celtic Countries", in 1912, 10 years before Conan Doyle's book, by a record of 102 first-hand cases in which living individuals claimed to have seen these legendary creatures.コナン・ドイルは妖精は人類とは異なった進化を辿ったことを示していると考えました。そして子供たちが、よく、妖精を見たと主張していることをあげています。1912年に、のちに(1927年)Tibetan Book of the Dead をヨーロッパに紹介したので有名なDr. Evans-Wentzが”ケルト人の妖精感”とかというケース・スタディを発表し、そうしたデーターもドイルの考えを強化したようです。
Fodor自身も、Subscribeという言い方で、自分も直接に妖精を見たと主張する人から話を聞いたというわけです。Fodorの場合は、そういう話があるという事実を記述するだけで、彼は、”I believe existence of Fairies.” といっていない事に注意しなければなりません。
Fairie Belief (妖精信仰)はComplex Matter(簡単には説明できない) と Andrew Lang というひとが言っているそうですが、それは太古からのEarth-dwellers(この地上に棲み付いたものたち)のメモリーがのこっている、つまりユングの言う集合無意識?も考慮に入れなければならないということかもしれません。
結局、Fairy信仰があり、実際にFairiesを見たというEyewitnessが沢山お、歴史的証言もあって、コナン・ドイルは、このCottingleyの少女たちによる5枚のFairies写真が、それらの伝説をカメラという最新兵器を使って科学的に証明できたと考え、これはふつうの人間のVibrationでは見えない領域に存在している生物に違いないと信じて、まず雑誌Strandに発表し、2年後、The Coming of the Fairies の出版となったわけでした。
従って、ドイルはこれらの写真が捏造したものでないことを証明しようと努力したわけです。
また、Thought-Formに関しては、二人の女性がぷろのArtistの段階でなく、スケッチも幼稚なもので、写真にみえる本格的な衣装や姿などは、まだ描ける情況ではなかったというわけです。
ドイルはThoughtが生み出したという考えも考慮にいれて、p41で次のように書いています。
being by nature of a somewhat sceptical turn, I felt that something closer was needed before I could feel personal conviction and assure myself that these were not thought-forms conjured up by the imagination or expectation of the seers. もともと自分は疑い深いほうなので、これらが、この二人の子供の想像力と期待からうみだされたThought-Formsでないということを自分で確信を持てる何かが必要で、・・・ と書いています。
1930年に出版された”The Edge of the Unknown" by Sir Arthur Conan Doyle のなかの”Dwelleres On the Border"というエッセイは次の文章で始まっています。
I propose in this essay to discuss the evidence for the existence of elemental forms of life, invisible to the normal eye, which inhabit the same planet as ourselves. It seems to me that our knowledge of the ether vibrations which govern wireless are a great help to us in this connection, and that we can readily understand now that what would have been incomprehensible, because there was no existing analogy, a few years ago.
わたしはこのエッセイで生命の基本形とでもいえる存在、それは普通の人の目ではみることができないが、私たちと同じこのPlanetに生息している存在があるということの証明を展開するつもりです。Wirelessを可能にしているエーテル振動という新しい知識(これはマルコニーによる無線電信の開発のことを言っているのでしょう。)が、このことの説明に役に立ちます。数年前には類推の資料が無くて、説明も難しく、理解不可能であったものが、いまではWirelessの時代になって類推することが可能になって、たとえをあげて説明することもできるわけです。
という具合に、ドイルはFairiesは現実存在で、ただ、Vibrationが異なる次元にいるので、Clairvoyantの能力を持った人にしか見えないのだと信じていたようです。
ほかのサイキックの証言をいっぱい読むと、そんなものかなと思ってしまいます。まあ、無理もないという気もします。
しかし、UFOでさえ、サイキックな現象であり、FatimaのMiracleその他も、みなサイキックな現象であって、人間の精神のもつエネルギーは底知れぬ巨大な力を保持しており、それが大量に集積されると、ふつうには予期できない出来事が起こるという D. Scott Rogo の解釈が重要な意味を持ってきます。
なお、わたしの友達、デボラーさんが、このドイルと妖精のはなしが映画になっていると教えてくださいました。Steve Szilagyiというひとが、Photographying Fairies というNovel を書き(1992年)、1997年に映画化されました。Ben Kingsley そして Maggie Smithの息子Toby Stephens が出演しています。
この項、おわり。 英語の訳は意訳、概略その他、適当にしました。直訳ではありません。
この文章は随分しんどいエッセイとなりました。
村田茂太郎 2012年4月25-26日
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