気張った表現になっていますが、わたしの補習校国語教育論展開において重要な文章といえます。なにしろ、それまでは小学6年と中学数学を教えていたのが、数学のほかに国語も担当にしてもらえたということで、はりきったわけです。
このクラスはわたしが真剣に取り組むだけの価値があった、最高のクラスの一つでした。
1983年のことで、その後、補習校の内容も大分、かわっています。
わたしは、どちらかというと自分流に好きなようにやるのがあっているので、学校側から指示されるのは苦手ですが、まあ、教師もさまざまですから、よくなってはいるのでしょう。
村田茂太郎 2012年4月7日
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私の“補習校中学国語教育”試論―序論
問題へのアプローチ
補習校での有効な国語教育の在り方については、どの学校においても関係者はいろいろと考え、悩み、苦しんでいる筈である。つまり、絶対量としての時間の欠如をどう学習において補うかというのが最大の問題である。残念なことに、補習校用の中学国語指導案は、まだどこにもなく、各学校で、それぞれ担任の教師に一任されているのが現状である。(1983年現在)。(小学校に関しては、海外子女教育関係のある大学で、試作品を作ったと言う話は、一昨年きいたことがある。)
私は、早くから、この、あさひ学園の学習のレベルを高めるために、つまり内容のある補習校教育をすすめていくために、この内容検討の重要性を、長嶋先生をはじめとして、何人かの先生方と話し合い、問題にしてきた。母の会便りの余白をおかりして、ご父兄方にもそれなりの問題の所在について、自覚を要請してきたことについては、既にご存知と思う。
この一年、私はかなり実験的に国語教育をすすめてきた。そして、自分の生み出した成果にそれなりに満足している。
かなり、斬新な方法を採用しながらも、ある程度、中途半端に終わったと思わざるを得ないのは、教科書問題をどう扱うかという最も重要な問題に対して、自信を持った解答を出していなかったからだと思う。
今は違う。大切なことは、壁を破るという思想、または意気込みである。教科書問題に対決するためには、全面的な意識の変革が要請されている。まず、教育の原点とか、教科書の成立とか、中学国語教育とは何かといった重要なポイントが明確におさえられていなければならない。
補習校中学国語教育の困難さは、日本に比べて時間が半分ほどしかないのに、同じ一冊の教科書を完全に終えねばならないと考えているところに発生している。そこで、教科書とは何なのかという問題への対決の姿勢と、その上に立った発想の転換が期待されているわけである。
私がこの一年、国語指導を行ってきて、一番困ったことは、教科書の枠をはみ出して話をすすめていると、何人かの生徒は、国語教育と関係ないことを話していると解釈して、文句を言ったり、まじめに聞かなかったりしたことである。私の考えでは、教科書に書いてあることよりも、もっと面白く、大事で、本当に考える国語を身に付ける事になると思われるから、出来るだけ深く分析したり、いろいろな関連領域に踏み込んだりしていたのだが、それをそうととってくれず、聞いているだけでも、人の話を聞く能力を身に付け、耳学問で様々な知識にふれることができる貴重なチャンスをなくしている子がいたわけである。あきらかに、そのような子供は、教科書至上主義ともいうべき考え方を、親から植え付けられて育ってきたのである。
この、やっかいな、教科書問題をのりこえるには、思い切った、革命的な発想の転換が必要である。
まず、教科書と言うものは、単なるガイドラインにすぎないということを認識することが重要である。
理想的な教育の原点として、たとえば、ソクラテスとその弟子の教育を考えればよい。世界史上最良の教師の一人と言えるソクラテスは、自分の周りに集まってきた弟子たちに、本も何ももたないで、質問をし、話しかけ、相手の答えを聞いて、さらに質問を深めると言う方法で、教育をすすめたのであり、そのような教育で、世界史上、最大の知者・哲学者の一人プラトンを育て上げたのである。ソクラテスの方法は、プラトンによって、弁証法といわれ、ソクラテスは自分の教育法を産婆術と称していた。
その他、一般的には、古典的な名著が教科書として使われていたが、有能な人達は、自分で指導用の教科書を作っていたわけである。日本でも江戸期までは、そうであったが、明治以降、レベルの均一化や思想統制、教育指導の効率化とかといった問題を踏まえて、検定教科書制度が生まれ、この検定問題に関しては、特に社会科教科書で裁判問題化していることは、誰でも承知しているはずである。
つまり、教科書というのは、完璧なものではなく、ある国家が統制上、半ば強制的に押し付けている教材であり、使用する側としては、それだけで満足するのではなく、その学年で知っていなければならない最低限の知識が盛られていると受け取って、機会を捉えて、積極的に、教科書以外の知識を吸収するようにしなければならないのである。
私は、たとえば、中学一年の国語の教科書を、かなり批判的に見ている。(1983年現在)。内容を、沢山盛り込もうとするのか、構成がバラバラで、まとまりがなく、採用された文章も、どうでもいいような内容のものが多い。私の好みのせいに違いないが、“人間を知るために”などという文章は、“フシダカバチの秘密”のような魅力はないし、井上靖の“赤い実”などは陰気で、中学生向きとはいえないと思った。“緑と青の自然”という文章も、やはり、天才的な魅力に欠け、どうでもいいと思った。漢字や文法に対する説明も、ほんの少しずつ散らばっていて、扱いにくく、どうしてこんな散漫な教育法を採用しているのだろうと思った。
私の中学時代を思い出してみても、何一つ印象的な国語の授業はなかったが、こういう教科書をそのまま、うのみにして使っているようでは、当然であったと思う。印象的で心に残った授業と言うのは、私の場合、みな、高校時代であった。
私が、この教科書で良いと思ったのは、ファーブルの話、“かもの卵”、“砂糖の味”、“方言の息遣い”、ヘッセ、古典の世界、“時候のあいさつ”、真実に生きる である。面白い事に、<参考>の文章のほうが、本文よりも興味深いケースが多かったことだ。
それでは、この教科書をどう見るか。ここに出てくる漢字や語句は、その学年でマスターしておかねばならないという参考基準と見るのである。従って、学校で扱う扱わないにかかわりなく、マンガを読む代わりに、教科書を読んで、漢字や語句には、親しんでもらわねばならない。
教科書の意義とは、中学三年間でマスターして欲しいと文部省が考える内容が、何らかの形で盛り込まれているということである。ポイントはそうした文部省が知ってもらいたいと考える内容、あるいは、それ以上の内容を身に付けるということであって、ある教科書を全部終えたかどうかという問題ではないのだ。
それでは、どのようなものを身に付ける必要があるのか。
学習の対象
- 漢字・語句 (読み・書き・意味・使用法)
- 文法 (口語、文語)
- 文学史 (初歩)
- 詩・短歌・俳句 (鑑賞と創作)
- 古典古文 読解の基礎
- 現代文 (小説・評論・随筆・解説・日記)読解力
- 作文力
以上のような諸対象を三年間に身に付ければよいわけである。
その学習をすすめるのに、文法なら文法で、ある程度まとまって、集中して取り組んだ方が、完全に身に付くし、そうすれば、その後の学習も容易になる。漢詩や漢文に親しむと、漢字そのものにも興味を持ち始めるし、覚えやすくなる。要は、ある程度、集中して反復することが、学習を能率的にする基本である。
さて、読解力を身に付けるということは、精読と関係することであって、教科書に出ている作品すべてを読み扱うということとは、全く関係ない。現代文一篇を緻密に扱えば、それだけで、他の現代文読解に役立つほとんどすべての内容と出会うことが出来る。つまり、段落、大意、要旨のまとめ方や文法的な判断力を、すべて身に付けることが出来るのだ。従って、漢字や語句にさえ気をつけて、マスターに努めれば、量をいかにこなすかというようなことは、気にする必要が無いということは、明白である。
ただし、教えるほうは、そうした方法に対応できるだけの能力と自信と問題意識とを持っていることが肝要である。
そういう次第で、わたしは各担当教官が、教科書など使わなくても、三年間に必要な内容を教育指導できるだけの自信を持っている必要があると思う。
さて、エラそうなことを書いてきたので、少し、私自身について説明しておこう。
私の京都大学での専攻は西洋哲学史であり、ギリシャ哲学やヘーゲル・マルクス等の勉強であったが、どちらかといえば、認識論に興味を持ち、その中でも、学問的方法の研究等、方法論が、私の主要な課題であった。そして、この方法論ということで、あらゆる学問に、直接関係していけるのである。
そして、いつのまにか、私は国語教育にも自信をもつようになっていった。
私は、高校の時、国語はトップ・クラスで、自信があったが、恩師の授業に感激していて、国語ほど指導の難しい学科はないといつも思っていた。私は最良の例と最悪の例とを、目の前にしていた。恩師もやはり京都大学の国文科の出身であった。卒業して、私が工学部に行くことが決まった時、私は恩師が“ムラタは、国語の教師になれば、すばらしい教師になっただろうに”といわれたので、びっくりした。国語、特に、現代国語ほど教えることの難しい教科はないと私は思っていたし、まして、国語とは関係の無い工学部に行く事になっていたのである。そんな私に、自分が、工学部を三年で中途退学して、京大文学部に入学することになるなどということは、予想さえ出来なかった。
しかし、結果として、自分でも信じられないような、哲学科に自分の究極の目標を見出す事になった。それと同時に、哲学的分析を続けている間に、高校現代国語や国語を教えるということが、非常に易しいと思われるようになっていった。あたりまえのことで、もっとも難解な哲学がわかるようになれば、他のどんなものでも、それほど苦労しなくてもわかるものである。
そのようにして、私は、今も国語には自信を持ち、中学生の全教科に対する教育や補習公教育の在り方などに対しても大きな関心をもっているのである。
私は原点をおさえないで哲学をするということに疑問を感じたし、同様、補習校において、授業時間が半分しかないのに、同じ教材を全部扱うという特異さや様々な問題に対して、明確な答えもないまま、ダラダラ指導するということに疑問を感じていた。各教官は、自信をもって、指導内容の検討を行うべきだと思ってきたので、この文が生まれた。(来学年、国語を指導できれば、この続きを書きたいと思う。本論へ入りたい。)
(記 1984年3月1日)付記―4月から高等部にまわされ、この続きは書かれなかった。
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