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4/30/2012

自殺論 その後 (アーサー・ケストラーとその妻の自殺をめぐって) 



自殺論 その後 (アーサー・ケストラーとその妻の自殺をめぐって)

 私が“自殺論―残されたものの痛み”(拙著「寺子屋的教育志向の中から」“ロサンジェルス日本語補習校あさひ学園での15年―瞑想と回想と感想と”所収)を書いたのは1985年であった。個人的な感想を生徒達に恥ずかしげも無く配ったのには理由がある。当時、小学生・中学生の自殺が日本ではやっていた。理由は主に“いじめ”であったと思う。わたしは、本人にとっては深刻な悩みに違いないが、まだまだ若い時点でその後の人生をあきらめて自殺をすると、まわりにも甚大な影響を与えるものであり、早急な決断はするべきでないということを、私の体験(クラスメートの自殺に出遭った苦い体験)を踏まえて、ひとつの参考資料として提供したのであった。

 今、私は、もうすぐ69歳になる。自分ではいつまでも若い気持ちで居て、探求心も相変わらず旺盛だが、やはり年をとったと感じる。68歳といえば、もう大概の過去の偉人というひとは病気で亡くなっていた。わたしは幸い、まだ特にどこか悪いと思えるところは無い。どこか悪いといえばどこも悪いように思えるが、まあ、病院に通わなければならないというような状態ではない。これからも頑張るつもりであり、先日もGranada HillsにそびえるMission Peak という約850メートルの山に登ることができた。体力の衰えはあきらかだが、まあ、まだしばらくは頑張るつもりである。

 23歳の時に出遭ったクラスメートの自殺は、わたしの68年の人生で最大のショックであった。小林秀雄は戦後スグの時期の母親の死が最大のショックであったと“感想”冒頭で書いている。母親が死ぬということは、予期できることであり、驚くようなことではないが、母親との関係次第で、ショックにもなるだろう。音楽家のメンデルスゾーンは姉の死がショックで、結局、まだ若い頃に亡くなってしまった。

 今になって、なにを考えているのかというと、今、私の手元に、Arthur & Cynthia Koestler のStranger on the Square という本がある。その IntroductionHarold Harris という人が書いている。それによると、19833月にケストラーが自殺をしたが、そのとき同時にワイフである Cynthia Koestler も自殺した。丁度、乃木稀典夫妻の自殺を思わせるニュースで、わたしも1983年そのニュースを知って、いろいろ複雑な思いが走った。それをめぐって、わたしのその後の自殺観を展開しようと考えたわけである。まずこの自殺をめぐって。事実関係を。

 アーサー・ケストラーは77歳でふたつの大病(Parkinson’s と Leukemia)を持ち、今、まだ意識がしっかりしている間に決着をつけなければどうにもならなくなるという状態で、苦痛もあり、覚悟の自殺であった。ワイフのシンシアはアーサーより22歳若い、55歳で、健康状態はPerfectであった。

 ふたりはそれぞれ致死量の睡眠剤をのみ、自殺を遂げた。Barbiturates.

 アーサー・ケストラーといえば、わたしの学生時代にスターリンの血の粛清を小説化した名作“真昼の暗黒”Darkness at Noonを読んだだけであった、その後、私のほうはサルトルの弁証法的理性批判などの系統に惹かれたため、ケストラーはサルトルと対極的・保守的な嫌なやつという印象が強かった。

 アメリカに来てから“Roots of Coincidence” などの純然たる科学的読み物をケストラーが書いているのを知り、読んで、興味を覚え、知らない一面を知った思いであった。

 この本の序文とケストラーの略歴を自分で書いているところを読むと、別に驚くべきことでないとわかった。彼はもともと理科系・エンジニアー系の出身であったが、たまたま、ジャーナリズム関係で職に就いたため、そして、Anti-Nazism のムードの中で、Communismが正しいと信じてコミットしていったため、“真昼の暗黒”を書くような情況に追い込まれただけで、彼自身、つねに政治的な面と科学への関心を維持してきたわけで、なんと、いち早く、ノーベル賞を受賞した科学者ド・ブロイ(物質波)にInterviewをしたのもこのケストラーであった。そして、スターリンの血の粛清でCommunismに憎悪を感じて、Anti-Communismにはしるわけで、サルトルたちから見れば、保守・右翼ということになったのであった。

 しかし、今の時点となってみれば、ケストラーがソ連共産党と決裂し、わが道を行ったのは正解であった。そして、戦後、政治のほうを離れて、本来の関心領域に踏み込んでいったわけで、それが様々な, わたしにとっては興味深い科学関係の労作を生む事になった。シンクロニシティのところで、カンメラー Kammererというドイツの科学者の例を挙げていたのはケストラーであった。

 ケストラーの人生は多彩な冒険と苦労に富んでおり、20世紀の知的世界でのGiantのひとりであった。文学的才能と科学的素養と、スターリニズムの苦労と、対ナチズムの恐怖と戦後サルトルらに対抗する生き方、それはまさに激動の人生であった。そしてシンシアという女性は臨時の秘書として広告で雇われた女性であった。

 南アフリカ出身のCynthia Jefferies 22歳の時、Arthur Koestlerの臨時秘書採用広告に応募して秘書となった。その後の6年間、On & Off で秘書の仕事を続け、フランス、イギリス、アメリカがその舞台であった。そして、1955年からKoestlerのテレグラムに即座に反応し、New Yorkでの仕事をやめて、Koestlerのもとへ行った。それは Permanent Job であり、Reunionであった。1965年二人は正式に結婚した。そして、1983年に自殺を遂げるまでの27年(1955-1983)は離れられない関係となった。

 CynthiaKoestlerに初めて出遭ったときは、彼らの年は丁度2倍の差があった(44歳と22歳)。そして、Koestlerは結婚していた。しかし、Cynthiaにとっては、Love at first Sight であったらしい。1955年、Permanent Jobになるまでの6年間は、Cynthiaにとっては、比較的不幸な年であった。この間にCynthiaは結婚し、離婚した。Koestlerのほうは何人もの女性と関係を持ち、離婚してまた別の女性と関係を持つという風だった。

 なぜ、55歳の健康な女性()が、一緒に自殺をしようと決意したのか。(H. Harrisの疑問、そして、わたしの疑問。)

この序文を書いている Harold Harris を引用させてもらおう。Harrisはこの最後の本が未完で終わっているのを編集し、出版した。内容はケストラーの自伝が1940年で終わっていたので、そのあとをいわばCynthiaが手伝いながら1940-19511951-1956と書き続けようとした、その草稿である。第一部はふたりがそれぞれ執筆、第二部はシンシアが執筆。最終的編集はHarold Farris. 以下は序文からの引用 とわたしの意訳。

  As I read through her pages, I felt that they confirmed the answer which I had already begun to form in my own mind to that question `why’. Why had this intelligent, healthy woman of fifty-five ended her life? Why had she written `I cannot live without Arthur’? Other women (and men) have loved deeply and survived the death of the partner. In Cynthia’s case, that cry, `I cannot live without him’, was, I felt, the literal truth.

 わたし(Harold Harris)が彼女のページを読むに従い、私が“なぜ”と抱いていた疑問に対する回答を確認してくれたように思った。なぜ、この55歳の知的で健康な女性が死ぬ事になったのか?なぜ、彼女は“わたしはアーサーなしには生きて居れない”と書いたのか?他の女も(そして男も)深く愛しあい、しかもパートナーの死を乗り越えて生きたものだ。シンシアの場合、あの叫び、“わたしは彼なしでは生きて居れない”というのは、文字通り真実だったのだと感じた。

  He had never made any secret of the fact that he was difficult to live with. He made frequent references to the fact in his notebooks. He never tried to hide his demanding nature, the violence of his moods, his abrupt changes of direction, his obsessional chasing of women (which persisted long after the examples he himself mentioned in Arrow in the Blue). Behind all that was a man of intense intellect, a man who could show enormous kindness and generosity, a man of incomparable humour, and –most of the time –a companion of the utmost charm.

 ケストラーは自分と共に生きるのは困難なものだという事実を決して隠しては居なかった。彼は自分のノートにこの事実を何度も言及した。彼は決して自分の押し付けるような性格や気分に応じてあらわれる荒々しさ、急な方向転換、彼の常習的といえる女性関係(それは彼の自伝の一部である Arrow in the Blue で自分で言っていたことであるが、そのあとも続いていた)といったものを隠そうとはしなかった。これらの事実の背後にあらわれるのは、きわめてインテリで、優しさと寛大さを持ち、ユーモアに満ちた、そして、大概のときは、最高の魅力を備えた伴侶といえる男であった。

 Cynthia was well aware of his faults which he did not try to conceal. Yet, in all the thirty three years of their association, the only times that she was really unhappy were during the first six years when, occasionally, Arthur tried to break the links which bound them together. He did this, as he thought, for Cynthia’s own good, because (at the time they met) he was exactly twice her age and because he knew that no partner of his could ever hope for a conventional ménage. She knew this too – but it made no difference.

 シンシアはケストラーの欠陥はよく承知していたし、彼もそれを隠そうとはしなかった。しかも、33年のかれらの付き合いの中で、彼女が本当に不幸であったのは最初の6年間だけであった、それは、そのころアーサーが彼らをつなぐLinkを断ち切ろうとしたからである。彼はシンシアのために、関係を断ち切ろうとしたと彼は思っていた、なぜなら、(彼らが会ったとき)彼はぴったり彼女の年の2倍の年であったし、彼は自分を知っていて、彼のパートナーとしては普通の家庭は期待できないと知っていたからだ。彼女もそのことは知っていた、しかし、そんなことはたいしたことではなかった。

 There can be no doubt that Cynthia fell in love almost at their first meeting and she loved him for the rest of their lives. From 1955 to the end she shared his life. But even that was not enough. It is hardly an exaggeration to say that his life became hers, that she lived his life. And when the time came for him to leave it, her life too was at an end.

 シンシアが彼らの最初の出会いでケストラーにほれたのは疑いないことである。そして彼女はその後の人生で彼を愛し続けた。1955年から終わりまで、彼女は彼の人生を分かち持った。しかし、それさえも充分ではなかった、彼の人生が彼女の人生ともなったといっても決して言い過ぎではない、彼女は彼の人生を生きたのだ。そして、彼の人生が終わるときが来たとき、彼女の人生も終わったのだった。

この本を読んだ読者は同じような感想を抱くであろう。この本自体は1956年で終わり、二人はさらに27年生きたけれども。アーサーは彼女の献身に報いたであろうか。彼は公衆に自分を見せる人ではなかった、人前では彼は彼女をAngel としか呼ばなかったが。二人は感傷をきらった。もちろん、彼は完全に彼女に頼っていた。アーサーも心からシンシアを愛していた。彼はシンシアが自分の献身に対して彼から何の報酬も期待していなかったのを知っていた。しかし、彼は、死ぬ9ヶ月前に書いた“訣別の辞”の最後に彼が書いた文章をなによりも彼女は献身の報いととってくれたことであろうと感じていた。

“To whom it may concern” - - - `It is to her that I owe the relative peace and happiness that I enjoyed in the last period of my life- and never before.’

“関係者へ、・・・比較的平安にそして幸せにその後の余生を楽しめたのは彼女のおかげである。そしてそれは、それ以前には決してなかったことである。”

つづく。

村田茂太郎 2012年4月30日




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