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4/07/2012

「あさひ学園高等部」(私の位置づけ) 1987年現在

昔の、あさひ学園高等部の実態というのも、いまでは歴史的史実となっているわけで、まあ、その頃を思い出す資料といえるでしょう。

その後、高等部は大分様子がかわったようです。
なによりもBubble崩壊後の日系企業のありかたがかわったため、高等部の学生も僅少になったようで、まあ、情況に応じて対応するということで、よくなってはいるようです。

まだ、私の考え方では、改良の余地はあるようです。

村田茂太郎 2012年4月7日


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「あさひ学園高等部」(私の位置づけ) 1987年現在

 あさひ学園高等部をどのように位置づけるか。これはきわめて重要な問題である。なぜなら、それによって、高等部教育の方針も姿勢も決まってくるからである。

 では、現在のあさひ学園高等部の実態はどのようなものであろうか。私が四月以来もった印象は、Juvenile Delinquentのスクール、Retarded Childrenまたは、Mentally Handicapped Childrenの学校というものであった。

 男子も女子も、教室の窓からの出入りは平気でするし、注意されてもスグにはやめない、(これは、最近、少なくなったようだ。)、授業中でも厳禁のガムを平気でかんでいて、これも注意されても、同じことをスグ繰り返す。授業中、マンガの本を平気で眺め、注意されてもやめない。授業中、立ち上がって、用も無いのにウロチョロする。始業の合図があっても、なかなか教室に入らない。授業時間である筈なのに、外を何人かでうろついていたりする。これでは、まともな人が見たら、あさひ学園高等部とは、未成年補導所と勘違いするに違いない。もちろん、まじめな生徒も沢山いる筈なのだが。

 去年、親しくしていた教え子の何人かに、高等部の実態をたずねたとき、彼らも今、私が実地に見たようなことを報告してくれた。“あさひ高等部は、社交の場、遊びの場と化してしまっている。だから、さあ、今日一日頑張るぞと学校へ行っても、他の生徒達大部分のだらけた、ヤル気のない態度を見ると、こちらまでゲッソリしてしまう。教師の中にも、いい加減な人が多い。だから、先生なんか、絶対、来ちゃダメだよ。”と言ってくれた。

 彼らは、私が、いかに真剣に取り組むか、そして、ヤル気のない生徒達を相手にしていると、私のほうまでヤル気をなくしてしまうということをよく知っていて、言ってくれているわけで、私は、たしかに、学問的には、高等部の方が面白いが、ヤル気のない部分を相手にするよりは、小六や中一の、真剣に反応する生徒達を指導する方が、どんなにすばらしいかと思い、今年も中一を希望していた。

 やむおえない事情で、高等部に移ってきた時、私はなんとかしなければならないと心から思った。モラルの悪さもともかく、意識の低さはどうしようもない。教師の側にも責任がある。位置づけがハッキリしていないのである。始業の合図で教室に入らない生徒を、一人ひとり説得してまわるという感心な先生もおられるが、ハッキリ言って、私はそういう在り方がどこかおかしいのではないかと思う。大体、補習校は、義務教育ではない。特に高等部は。何らかの勉強意欲を持った人だけが来るべき学校なのである。ハッキリ言って、ヤル気の無い人は、はじめから来るべきでないし、来てもらっては困る。

私は、自分の子供を持っていないので、もし、自分があさひ高等部の生徒の親であれば、あさひに何を望むかとか、自分があさひ高等部の生徒であれば、なにを望むかという発想をとる。そうすると、今のあさひ高等部の、私にとっての異常さは明らかである。

アメリカン・スクールでマスターできるような科目が、かなりのウエイトを占めて、あさひの教科の中にあることが、まず不思議である。出来るだけ、日本並みのバライエティをということかもしれないが、肝心の日本語力に劣るのに、そんなことをしていていいものかと私はいぶかる。数学も物理・化学その他の教科も、やり方違うかもしれないが、アメリカン・スクールでも、ちゃんと学ぶことが出来るのである。そして、ノーベル賞やフィールズ賞の学者が沢山出現しているわけで、アメリカ的方法が劣っているなどとはいえない。(高校の平均レベルとしては、日本が一番高いといわれているが。 注、1985年ごろの話。今、2010年では違う。)

私の友人の科学者がロックフェラー大学で研究していたとき、そこはノーベル賞密度が世界で一番高く、五十人ほどの科学者のうち、十人ほどがノーベル賞学者であったと、私に言ったことがある。そして、もちろん、あさひ学園高等部の生徒のすべてが、日本での教育並みに、総合的な国語力を身に付けていれば、話は別である。

しかし、実態はどうであろうか。漢文も古文もまともに読めないだけでなく、現代口語文でさえ、正確に読解できないような状態が一般的といえる状況の中で、(もちろん、中には、すべてに熟達した生徒もいるに違いないが)、日本の生徒並みに、一般教科を学習してよいものであろうか。

私の考えでは、日本でもそうなのだが、高等部というのは、まじめに真剣に総合的な国語力を身に付ける最後のチャンスである。国語・国文科を大学で専攻するつもりの人を除き、ふつう、古文・漢文を真剣に学習できるラスト・チャンスが高等部なのである。そして、ここが大切なところなのであるが、古文や漢文を学習しなくても、現代に本文は読めると考える人がいるかもしれないが、それがとんでもないあやまちなのである。

現代口語文は、明治以降成立してきたものであり、言語としては比較的若い。したがって、過去から連綿と連なる重い文化を背負っており、それは私たちが日常使う言語において、すでにそうなのである。よく使う、四字熟語を例に挙げるまでも無く、日常言語も、古文・漢文とその歴史的背景に関する知識なくしては、正当に使いこなせないのである。

私見によれば、海外にいる日本人、或いは日本語を学ぼうとする高校生は、当然のことながら、海外で学べないことを学ぶべきであり、日本語力の仕上げ期にいる高校生としては、いうまでも無く、古文・漢文・現代文をまず学習することが、第一の課題であり、更に余裕があれば、日本歴史を学ばなければならないのである。この、すべてに通じた生徒が(そんな人は、あさひ学園高等部にはいない。)いれば、他に何を選択しようと自由である。

たとえば、現代文である丸山真男の“日本の思想”や、小林秀雄の“本居宣長”、或いは唐木順三の“中世の文学”を読んで、充分に理解できる生徒が、あさひ学園にどれくらいいるであろう。私は多分ひとりもいないのではないかと思う。しかし、日本で、堂々と大学受験しようと思えば、そうした書物を、かなりの程度理解できるだけの力量をつけておかないと、入学で失敗する可能性があるだけでなく、もし入学できても、自分で積極的に勉強できないであろう。

日本歴史の知識は、日本語と日本文化の理解に不可欠である。この四教科(現代文・古文・漢文・日本史)を充分よく理解して、更に余裕があれば、何をとろうと自由であるが、古文も漢文もまともに読めない生徒が、数学を三時間取ったり、世界史や物理を取ったりしていれば、少なくとも、認識不足、または意識の低さを指摘されても、文句は言えないであろう。しかし、それが、このあさひ高等部で現実に起きていることなのである。

私に、自分の子供があって、あさひの高等部で、日本人として身に付けておくべきものをさておいて、あさひ“社交会”を楽しんでいるようなら、私はそのようなあさひの在り方にたいして疑問に思い、なんらかの断固とした行動をとるであろう。私の知っている何人かの生徒は自主的に退学した。あさひ高等部は、求めるものをあたえてくれないというのである。

あさひ高等部が、現在のような曖昧な状態を続けていく限り、意欲を持ったまじめな生徒は幻滅し続ける違いない。自分がナゼ、あさひで勉強をしなければならないかをハッキリと自覚することなく、ダラダラと無駄に時間を浪費する生徒は、いつまでも居つづけるであろう。

私たちに必要なことは、あさひ学園高等部の位置づけをハッキリさせることである。日本に帰国して通用するだけの国語力、それは何もやさしい日常会話が日本語で出来るといったようなものではなく、日本人の書いた文章なら、どれでも読解できるという極めて高級な能力であり、それは真剣に古文・漢文・現代文の勉強を行ったものにして可能なことなのであるが、その国語力を身に付けさせるという目標を立てれば、そういう意識を持たない人は入学してくる必要なないし、いったん、自覚して入学した生徒は、低モラルのだらしない行動をとることはないであろう。

高校時代、基本的な国語力をつけるために、ものすごく勉強した体験をもつ私は、現在の生徒たちの切実感を喪失した在り方に接して、どこかおかしいと思わざるを得ない。そして、単に、国語力としてだけでなく、原典で古文や漢文といったすばらしい古典を読み味わえない生徒が増える一方なのを、私は哀しい気持ちで眺めやる。そして、私は、週一回の授業だけでも、両者が真剣に取り組めば、かなりの漢文力や古文読解力を身に付けることが出来、必然的に、現代文読解力も高まるに違いないと思っているので、今のあさひの生徒一般の在り方は、私にとって、見るに耐えないものである。

クレジット・テストもまたヘンである。アメリカン・スクールがクレジットを認めるということは、日本の高校並みの国語を身に付けたという印としてであるに違いない。したがって、正式の期末テスト並みのテストで八十点以上に対して、Aを与えるという形でなければ意味が無い。現在、どんなに成績が悪くてもAを発行したりして、それを目当てにくる生徒もいるらしく、まさに本末転倒とは、このことである。もっと姿勢を正し、きびしく取り組むことが、将来のあさひのためにも、生徒のためにも、最良となるに違いない。

(記                     1987年5月15日)

 以上の文章は、私が“あさひ学園”高等部で国語と倫理を指導していた1987年に書いたものである。今、2010年。あれから、二十年以上経った。

 私の文章がなんらかの刺激をもたらしたのか、私と同じように考えていた先生方が沢山おられたからなのか、知らないが、あさひ学園高等部は変わったようである。教科にたいする改良は明らかである。相変わらず数学はあるが、ほかの教科に関しては、わたしの考えていた線に沿ったものとなっている。国語がメインであり、古文・漢文という教科はないが、国語表現と日本史があり、それ以外にはないというカリキュラムである。わたしは、やはり古文・漢文用の古典のクラスが毎週必要と思う。

 学習態度にしても、指導が厳しくなり、特に態度の悪いワルは排除できる体制ができているようだ。本当に勉強したい生徒だけが、集まれば、教師も効率よく教育に専念できるわけで、 学習効果も目に見えてあがるであろう。

 問題は、今のところ、全体のレベルの低さと教科の指導のやりくりで、まだまだ、改良の余地はあるようだ。高校生のレベルの学習というよりも、小学・中学の漢字・語句の学習から必要な生徒が多いクラスの指導は大変である。


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