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3/12/2012

“死者の書” (折口信夫)

 もう25年以上前の文章です。中学生に文学と風土と歴史を紹介しようと、”おりぐち しのぶ” のめずらしい小説の感想文を書きました。私自身の回想録にもなっていて、なつかしさを感じます。

 二上山と当麻寺は何度かゆき、その田舎のムードが、私が見た原田泰司の絵の世界にあらわされているように思え、泰司の絵を好きになりました。

 大津皇子に関しては、女帝持統の権力欲の犠牲になった悲劇の皇子であることが一層あわれさを強めます。和歌も漢詩もすばらしいものを作り、文武にすぐれていたといわれていました。
村田茂太郎 2012年3月12日  
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“死者の書” (折口信夫)
 私は大阪市内でも平野や大和川に近い東住吉区で成長していった。当時は、高い建物もなく、少し裏手に出れば、田園が続く環境の中で、私はわりと自然に親しんで育った。スモッグなどもなかった時代で、金剛山・生駒山のなだらかな山並みがいつもくっきりと見渡せた。大和川には子供の頃から何度も遊びに行った。その源流に当たるところに二上山(にじょうざん)があった。そんなに高くない山だが、かたちのよい雄岳と雌岳に分かれていて、なんとなく親しめる山であった。万葉の時代には“ふたかみやま”とうたわれた大事な山であり、もちろん、わたしにも少しの知識はあった。

 静岡の大学と京都の大学に行っていた間に、三度ほど、わたしは毎年のように、春になると父と二人で二上山に登った。近鉄南大阪線に乗り、名前は忘れたが、たしか二上山口を過ぎた駅で降り、通常のルートとは違う、けもの道のような、なだらかな山にしては険しい山道を、二人ではうようにして登っていくのが、いつものコースであった。全然、人と出会わないため、丁度、尾根に出たところで何人かの人々を見つけてビックリしたものであった。

 このハイキングの目的は、もちろん、ぶらぶらとくつろぐ事が第一であったが、そうした山道ともいえない道を登る事で、山登りの気分を味わう事もそのひとつであり、山頂のお墓に詣でることもその一つであった。そして、帰りは必ず当麻寺(たいまでら)を訪問し、充実した気分になって帰ったのであった。

 山頂のお墓とは、言うまでもなく、大津皇子(おおつのみこ)の墓である。父天武の子として、文武に優れた大津皇子は、皇位継承争いにまきこまれ、自分の子供(草壁皇子)を天皇にたてようとした皇后持統によって、謀反の罪をきせられ、天武没後二十四日目に死罪となった。二十四歳であった。皇子の屍は二上山の頂上に葬られた。謀反の罪で死罪となった皇子への畏怖と鎮魂の思いが、その墓にこめられていた。

 万葉集の中にも、皇子はいくつかの名歌を残した。

ももづたふ いはれの池に 泣く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ (416)

は、その絶作であった。

 弟、大津の身に不安を感じた姉 大伯皇女(おほくのひめみこ) は弟を思ういくつかの感動的な歌を作った。

わが背子を 大和へ遣ると 小夜深けて 暁(あかとき)露に わが立ち濡れし(105)(謀反の罪で捕まる前)

うつそみの 人にあるわれや 明日よりは 二上山(ふたかみやま)を いろせとわが見む (165)(屍体を二上山に移葬されてから)

 これらの歌は、私が高校生の頃から親しんだものであった。こうして、二上山・大津皇子・当麻寺は私の内部でつながっていた。その後、大学生になって、折口信夫の“死者の書”を読んだ。古代に関する最高の学者としての学識と歌人釈ちょう空としてのすぐれた感性とが融合して生み出された、みごとな歴史小説であり、その過去の再現力は、どのような歴史小説からも味わえないような、創造的な復原性を示していて、一度読んで忘れがたい印象を生んだものであった。今、また、文庫本で出版されているのを知り、私は久しぶりに読み返してみた。

 “かの人の眠りは、しずかに覚めて行った。まっ黒い夜の中に、更に冷え圧するものの澱んで居るなかに、目のあいて来るのを、覚えたのである。

した した した。 耳に伝ふやうに来るのは、水の垂れる音か。ただ、凍りつくやうな暗闇の中で、おのづと睫(まつげ)と睫が離れて来る。“


 冒頭である。二上山の頂上に葬られた大津皇子の意識が、皮膚感覚を持って、長い死の眠りから蘇ってくる描写から、この名作は始まっている。異様さに満ちた、強烈で印象的な場面である。

 しかし、亡き大津皇子は、この物語の主人公ではない。大伴家持と恵美押勝が登場するこの作品の中で、本当の主人公は藤原の南家の郎女(いらつめ)という若い女性である。奈良の邸宅で、二上山に沈む夕陽を眺めていたこの女性は、突然、その谷間に、黄金に輝く荘厳な男の姿を認めて心をうたれた。その後も、何度かその男の裸体が姫の目に入った。姫は毎年の彼岸の中日の夕陽の中にあらわれる金色の肌を、それにふさわしい布で覆ってあげたいと思う。一方では、深い宗教心から、仏典の写経に熱中する姫は、蓮糸を使って織りたいと考えるようになる。そして、とうとう姫は、二上山の上に認めたおもかげびとの姿を心をこめて描き現す事に成功した。姫にとっては、幻を描いたに過ぎなかったが、その画面は、見る見る菩薩の姿にかわっていった。見事な蓮糸曼荼羅が完成したのであった。

 この物語は、山越(やまごし)の阿弥陀像と当麻寺の曼荼羅と二上山の大津皇子の墓とを関連付けてつくりあげたものといえる。そして、この曼荼羅制作の動機として、大津皇子を墓での長い眠りから蘇らせ、南家の郎女(いらつめ)に感動を与えさせているのである。短編だが、簡単には紹介できない深い内容に富んでいる。ここでは、古代人が力強く息づいているといえる。そして、なによりも、いらつめのなかに、過去の文化の担い手のたくましさ、みごとさが美しく描き出されている。筋は簡単だが、この物語の持つ強烈なエネルギーを感じ取るには、一読してもらうほかない。
(完                  記1986年5月1日) 

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