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11/14/2013

Katia Mann カーチャ・マン 「Unwritten Memories」を読む


Katia Mann カーチャ・マン 「Unwritten Memories」を読む

 二十数年前、Burbankの本屋でこの本を見つけて買いたかったが、すこし値段が高いように思って買わなかった。その後、これは失敗した、いくら高くても購入するべきだったと残念に思った。その本屋はBurbankの中心部のMallの開発・展開で、なくなってしまった。

 小塩節(おしお たかし)の岩波新書「トーマス・マンとドイツの時代」というすばらしい本のなかで、小塩節がトーマス・マンの未亡人と会い、親しく話し合ったことを知って、そして「ヨゼフとその兄弟たち」の日本語訳についても話し合ったことなどを知って、一層、彼女の回想録を買っておかなかったことを残念に思った。この小塩節の短い紹介の中でも、カーチャ・マンは魅力的な姿をあらわしていた。

 最近、Amazon.comでたくさんのParapsychology関係の本を購入し、また哲学書を購入したが、そのとき、ついでに“Katia Mann”と検索に入れて探したところ、すぐに見つかった。私は大喜びですぐにオーダーをした。立派な本が届き、わたしはMediumの本と並行して読み始め、今日無事読了した。(8/25/2013).

 すばらしい本であった。なによりもうれしかったのは、トーマス・マンのカーチャ・プリングスハイムとの結婚がSoul Mate同士の結婚のようにぴったりであって、その後の50年を越える二人の結婚生活をお互いに充実したかたちですごしたことがわかったからであった。

 二人の出会いというよりも、この関係はトーマス・マンのほうからの積極的プロポーズで展開していったらしいが、なんとそれはカーチャ・プリングスハイムの5歳の写真をトーマス・マンが見たことから始まっていた。

 カーチャ・プリングスハイムの父親は数学の大学教授で有数のブルジョア家族であった。カーチャの兄弟はみな男の子で、年はあまりはなれていず、最後のカーチャはクラウスという男の子と二卵性双生児として生まれた。二人が4歳のころ、この5人の富裕な家庭に生まれ育ったかわいい子供姿をピエロの衣装で飾って、写真に撮ったことがあった。それを見たある画家が、これはすばらしい画材だと感動して、親と相談し、子供5人の姿を絵にも書き表し、それが評判になって、ドイツだけでなく、ほかの国にまで知られるようになった。

 若いトーマス・マンは、その絵の写真を新聞・雑誌で見かけて興味を覚えたのであった。

 このKatia MannMemoriesのなかに、たくさんの貴重な写真が挿入されている。有名になったといわれる5人の子供のピエロ姿の写真は、どの子供もかわいく、全体として確かに絵になる姿であった。そして、子供のころのカーチャの成長のあとをとどめるいくつかの写真は驚くべき魅力を備えていて、なるほどトーマス・マンが興味をかきたてられたのも無理はないと思わせるほどであった。

 25歳で完璧な作品 Buddenbrooksを出版したThomas Mannはその才能をうまく利用して、プリングスハイム家のカーチャと近づきになり、やがてプロポーズすることになる。数学者である父親は作家という職業をあまり評価していなかったが、母親は結婚に賛成で、父親としてそれを破壊するほどきらってはいなかった。そして、無事結婚に至ったわけである。

 ともかく、この回想録はトーマス・マンの作品と人物を好きな人にはたまらない魅力に満ちている。彼女はマン家のなかでは、ただひとり何も書かないでいるつもりであったが、自分でいっている意志薄弱なせいと彼女の持つ善意でやむなく書くに至ったといっている。

 したがって、トーマス・マンと彼に関係した中での特に重要な人物との関係が描き出され、私にとっては初めての情報も記されていたおどろかされた。

 ここには、トーマス・マンと交流のあったさまざまな人物を、マンのほかに、ミセスの目も通して描かれ、非常に興味深いものがある。彼女は夫マンのかくものすべてに目を通していたようで、後年の大作である「ファウスト博士」の執筆とその事後の問題に関して触れているところが、面白い。わたしはシェーンベルクの12音階技法について小説の主人公が詳しく展開していくのは読んで知っていたが、そしてその音楽の情報に関しては哲学者で音楽家でもあった亡命ドイツ人テオドール・アドルノーの助けがあったということは、世界的に知られた事実であり、小説執筆に関するメモを発表した中でふれられているので、誰でも知っているが、このアドルノーがまるで自分が小説「ファウスト博士」を書いたように言っていたという話は初耳で、アドルノーの哲学も好きなわたしには少し残念な話であったが、このカーチャ・マンの感想・裏話を読んで始めて知ったしだいで、本当にアドルノーのために残念な気がする。アドルノーの音楽知識が小説の展開に重要な役割を果たしたのは事実であるが、そのことと、小説の展開とは直接関係はない。文学にもかなり造詣の深かったアドルノーがトーマス・マンに対してそのような態度をとっていたとは事実であれば、残念な話だと、これを読みながら思った。

 「Story of a Novel」(小説 ファウスト博士の成立過程)というなかで、アドルノーについては言及し、感謝の表示をおこなったマンであるが、アドルノーがマンの家を訪ねて、そのなかにアドルノーの友人Horkheimerホルクハイマ―に触れていないとミセスに文句をいったので、HorkheimerDear Friendだがこの小説とは関係ないから、名前が出てこなくても当然だとミセスが言ったところ、それでは困ると彼が言い、今更どうにもならないので、どうすればよいのかとミセスがアドルノーにたずねたところ、アドルノーは、唯一手立てがある、それはHorkheimerの新著についてNew York TimesReviewをかくことだといった。それがトーマス・マンの名前で、実はAdornoHorkheimerの共著Dialectic of Enlightenment啓蒙の哲学 に関するReviewが載ることになったが、マンにはこの本は難しすぎて、何が書かれているのかわからないので、息子のGoro Mann(歴史学者・大学教授)に書評を書いてもらい、トーマス・マンの名前で発表されたという裏話が書かれていて、これも私の驚きであった。 この「啓蒙の哲学」は「否定弁証法Negative Dialectic」発表前のアドルノーにとって批判哲学を代表する名著となるのであるが、そしてアドルノーよりも8最年長の先輩ホルクハイマーをアドルノーは終生尊敬し、お互い影響しあったなかであったが、しかし、直接 小説「Doctor Faust」の成立にはぜんぜん関係していない人物の名前を感謝のことばのなかに含めろと要求するのは異常である。ホルクハイマーはSanta Monicaにあるトーマス・マンの家のすぐ近くに住んでいたそうであるが。この件に関しては、なかなか実態がどうであったのか決めるのは難しいようだ。カーチャ・マンがそう信じたというのは事実かもしれないが、「アドルノー伝」(ドーム著)にも、この辺の事情が説明されていて、なかなか判定はむつかしい。

 Bruno Walterとの交流やGustav Mahlerその他、いっぱい有名な人物がミセス・カーチャとトーマス・マンの目を通して描かれていて、なかなか面白い。そしてなによりも大事なことはマンの小説手法とも言うべきものがミセスをとおしてあらわれてきていることである。

 マンは小説を書き始める前に膨大な資料に接して人物の背景や内容をよく理解してから書き始めるようで、その時点では膨大な知識を収集した人間ということになるが、小説が完成してからは、そうした小説のために得た情報はすべて忘れてしまうように努力したようである。

 トーマス・マンは非常に遅筆であったが、書けばそれがFinalで、書き改めるようなことはめったにしなかった。

 彼は朝の3時間だけ執筆をし、すべて手筆で、一日で2ページも書けばそれはめずらしいほどであった。

 名著「魔の山」が生まれたのは妻であるカーチャがDavosのサナトリウムに半年ほど滞在し、それを訪ねたマンが妻の語る話を聞き、自分が滞在中の見聞を素材にしてかきあげたということがわかる。この物語には何人かの重要な人物が登場するが、そのひとりである女性Claudia Chauchatショーシャらしき人物も実際いたようで、ドアーを、音を立てて閉め、最初はマンの気に障ったようだが、そのうちに魅力をみいだしたとか。ただし、ミセス・カーチャはトーマス・マンがなんらかの情緒的関係をこの女性ともったことはないと断言している。

 トーマス・マンはちょっと会っただけで、その人物の完全な画像をただちに読み取る様子であった。誰かを一度見ると、小説執筆中に必要な人物像を描く段になって、意識しないで、過去に出会った人物像が浮かび上がり、独特の色彩を添えることになった。

 諧謔小説として有名な傑作「詐欺師フェリックス・クルルの告白」の場合、そのモデルはたった一度ライン川の船の中で30分ほど観察する機会があっただけというケースであった。

 カーチャがまだ学生のころ、自転車をつかわないときは、通学するのに、朝も昼も市電をつかっていた。トーマス・マンもときどきこの同じ市電に乗っていた。あるとき、電車を降りるときになって、車掌がやってきて「切符は」と訊いたので、カーチャ「私はここで降りる」、「切符を出しなさい」。「私はここで降りるのだからといっているでしょう。ここで降りるのだから、切符はもう捨てちゃった。」、「切符をもらわねばならない、私は切符といってんだよ!」、「ほっといてよ!」といって、怒って私は飛び降りた。車掌は「勝手に行くがよい、小悪魔め!」と私の背中に投げかけた。このシーンを目撃したのがトーマス・マンで、彼は自分にいい聞かせた。「おれはいつも彼女に会いたいと望んでいた。これで決まりだ。」そして、自ら努力して、正式に会う伝を探し、公的に会い、交際し、結婚にこぎつけた。彼が25歳で大作「Buddenbroks」を発表していたことも大いに有利に働いた。

 しかし、本当のきっかけは、このStreetcarのエピソードが決定的なものであった。トーマス・マンはThis one or no one.この娘か、そうでなければ、だれも駄目。ということで、彼女も気がつかないうちに、トーマス・マンの真剣さが家族にも伝わり、母親が承認し、というかたちで深まっていった。

ともかく、トーマス・マンの作品と人間を愛するものには非常に面白く有益な回想録である。

1975 Alfred A. Knopf, Inc.

ISBN: 0-394-49403-2   Total 165 Page

Katia Mann 「Unwritten Memories」 Translated by Hunter and Hildegarde Hannum
 
村田茂太郎 2013年11月14日

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