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11/16/2012

「心霊現象の科学」をめぐってーその30 立花隆 “臨死体験” (上下)を読む


「心霊現象の科学」をめぐってーその30 立花隆“臨死体験”(上下)を読む

 “臨死体験”とは文字通り、死に臨んだ体験、つまり、事故または病気その他で瀕死の重傷を負い、多くの人から死んだと思われた人が蘇生して、その体験を話した結果、「臨死体験」と呼べる特別な体験をする人が多いとわかり、エリザベス・キューブラ・ロスとレイモンド・ムーディの影響で急速に世界中に知れ渡ったケースのことを指す。立花隆はこの二人と直接Interviewしただけでなく、その後の研究で、この“臨死体験”に関する権威と思われるに至った科学者達にも会い、いろいろと疑問を質しながら、自分の結論までを考察・記録したルポルタージュがこの「臨死体験」で、上下で約1000ページにわたる膨大な本であるが、いろいろ面白い体験話などが引用されていて、最後まで退屈しないで読める重要な本である。

 この本は 臨死体験 に関しては、この時点での“総まとめ”といえる。

 立花隆の結論から記そう。

 臨死体験 に関して二つの考え方がある。ひとつは“現実体験説”、ひとつは“脳内現象説”である。現実体験説は、臨死体験した人は実際に“あの世”または“次の世界、次元”を垣間見て生還したというもの。脳内現象説は、臨死にいたる肉体の異常な条件が脳の内部でそういう体験を生み出したというもの。出血多量、心拍停止その他で酸素が欠乏し、炭酸ガスがふえていくなかで、脳に障害が発生し、その結果、臨死体験といわれる体験をしたというケースがたくさん生まれたわけで、別に死後の世界を垣間見たわけではないという。そして、実際、脳研究家が大脳側頭葉を刺激したりすると、まさに臨死体験にあらわれたといわれている現象があらわれるという。

 「死の向こう側に行った人は、誰一人としてそれによって得た知識をこちら側に持ち帰ってくれない。だからこそ、死は永遠の謎であり、永遠の不安と恐怖の対象でありつづけてきたのである。」

 「そういう状況の中にあって、ただひとつ、臨死体験のみは、死のプロセスに関する当の情報を与えてくれるものと受け止められた。臨死体験というものが存在すると知られるや否や、それがたちまち世の異常な注目を集めるようになったのは、これまで謎とされてきた死に対して、それがはじめて光を投げかけてくれるのではないかと期待されたからである。」

 「臨死体験が本当の死のプロセスで起ることそのままなのかどうか、またそうだとしても、死のプロセスのどの部分なのかについては、研究者の間で見解が一致していない。しかし、体験者達は、ほぼ全員がそれが真の死のプロセスそのものであると考えている。自分はたまたま途中で引き返してきたが、もし引き返さなければ、自分はそのまま死んでいただろうと考えている。未来のいつかある日、自分が本当に死ぬ日がやってきたら、自分が臨死体験で体験したと同じことを、もう一度再体験することになるだろうと考えている。

 臨死体験によって、自分ははからずも死のリハーサルを行ってしまった。自分にとっては死はもはや未知の現象ではない。何も知らないときは、死は恐怖だったが、実際にそれを体験してみると、そこには恐怖すべきものが何もなかった。むしろ、気持ちよいといったほうがよいくらいだったというのが、臨死体験者の感想の最大公約数である。」

 「現実体験説の人は、自分の体験は途中までは、生から死へ移行するプロセスだったが、その先は本当に死後の世界へ一歩足を踏み入れた体験だったと考える。自分は死後の世界の一部を体験してから戻ってきたのだと考える。そして、そのどちらにも苦しみはなく、喜びに包まれていたと感じる。特に死後の世界は、神々しいばかりの光に包まれ、筆舌につくしがたいほど美しい、永遠の真理と心のやすらぎに満ちあふれた素晴らしい世界だったと感じる。かくして、現実体験説に立つ人は、死のプロセスに対しても、死後の世界に対しても恐怖を抱かなくなる。つまり、死に対する恐怖がいっさいなくなるのである。」

 「脳内現象説に立つ人はどうか。彼らは、臨死体験を死後の世界体験とは考えない。臨死体験は、はじめから終わりまで、死のプロセスの体験であると考える。それは真正の死のこちら側、すなわち生の最終段階における意識体験であると考える。だから、臨死体験によって、死のその部分に対する恐怖はなくなる。死後の世界に対する恐怖は、どうかというと、脳内現象説に立つ人たちは、もともとそういうものはないと考えている。死のプロセスのあとにくるもの、生の最終段階のあとにくるものは、無だと考えている。死後の世界は存在せず、意識の存続もありえないと思っている。意識を保持しているものは、脳なのだから、脳の死とともにすべてが終わるのだと考えている。」

 「では、私(立花隆)はどう考えているのかというと、基本的には、脳内現象説に立っている。つまり、基本的には、物質的一元論で、この世界は説明できるだろうという科学的世界観の側に立っている。

 しかし、一方では、本当にそうだろうかという懐疑心も常に持っている。

 科学というのは、まだあまりにもプリミティブな発展段階にある。科学をよく知らない人は、現代科学が達成した華麗な業績の数々にただ目を奪われているばかりだが、・・・科学はまだ知らないことばかりなのである。科学は自然の謎を解くことに挑戦しつづけてきたが、解かれた謎はほんの一部で、大部分はまだ依然として謎のままに残っている。

 ・・・特に、この臨死体験の問題がからむような、生命科学、脳科学、あるいは人間の意識、心理がからむような問題になってくると、科学はほとんど何もわかっていないのに等しいといってよい。

 ・・・人間存在の中核にあるのは、自己という意識の主体である。それは同時に行動の主体であり、思惟の主体であり、情動の主体でもある。自己というものはそのようなものの統合体としてある。その自己意識の座が脳のどこにあるのか、その意識はどのように作り出されるのか、そういったことはまるでわかっていないのである。

 ・・・脳には、視角系が集めた情報を受け取る認識主体がどこかにあるはずである。・・・ところがそういう肝腎かなめのところが全然わからないのである。

 ・・・脳機能の世界的研究者であるペンフィールドの業績をいろいろ紹介したが、彼も若いころは、脳研究が、人間の精神世界の神秘をすべて解き明かすだろうという一元論的信念に燃えていた。・・・いくら研究に研究を重ねても、脳の内部に自己意識の中枢が見えてこない。そこで晩年、ペンフィールドは一元論を捨てて、二元論の立場に立ち、脳は意識の中枢ではないと考えるにいたった。

 ・・・ペンフィールドは、臨死体験という現象は知らなかったから、生前、臨死体験については何も言及していないが、もし彼が臨死体験の解釈をめぐって二つの立場からの論争があるということを知ったら、どうしただろうか。若いときなら文句なしに脳内現象説の立場に立ったろうが、晩年の彼なら、確実に現実体験説の側に立っただろうと思われる。

 ・・・脳内現象説には、現実の脳研究から、脳と自己意識の問題がさっぱり解明されないという大きなウイーク・ポイントがあるのである。

 ・・・そういうわけで、わたしも基本的には脳内現象説が正しいだろうとは思っているものの、もしかしたら現実体験説が正しいのかもしれないと、そちらの説にも心を閉ざさずにいる。

 ただ、実をいうと、私自身としては、どちらの説が正しくても、大した問題ではないと思っている。

 臨死体験の取材にとりかかったはじめのころは、私はどちらが正しいのか早く知りたいと真剣に思っていた。それというのも、私自身死というものにかなり大きな恐怖心を抱いていたからである。

 しかし、体験者の取材をどんどんつづけ、体験者がほとんど異口同音に、死ぬのが恐くなくなったというのを聞くうちに、いつの間にか私も死ぬのが恐くなくなってしまったのである。

 これだけ多くの体験者の証言が一致しているのだから、多分、私が死ぬときも、それとよく似たプロセスをたどるのだろう。だとすると、死にゆくプロセスというのは、これまで考えていたより、はるかに楽な気持ちで通過できるプロセスらしいということがわかってきたからである。

 そして、そのプロセスを通過した先がどうなっているのか。現実体験説のいうようにその先に素晴らしい死後の世界があるというなら、もちろんそれはそれで結構な話である。しかし、脳内現象説のいうように、その先がいっさい無になり、自己が完全に消滅してしまうというのも、それはそれでさっぱりしていいなと思っている。

 ・・・いずれの説が正しいにしろ、いまからどんなに調査研究を重ねても、この問題に関して、こちらが絶対的に正しいというような答えが出るはずがない。少なくとも、私が死ぬ前に答えが出るはずがない。・・・どちらが正しいかは、そのときの(自分の死ぬときの)お楽しみとしてとっておき、それまでは、むしろ、いかにしてよりよく生きるかにエネルギーを使ったほうが利口だと思うようになったのである。

 “死ぬのが恐くなくなった”ということ以外に、もう一つ、臨死体験者たちが異口同音にいうことがある。それは、“臨死体験をしてから、生きるということをとても大切にするようになった。よりよく生きようと思うようになった”ということである。死後の世界の素晴らしさを体験した人は、生きるより死ぬほうがいいと考えるようになるのではないかと思われるかもしれないが、実際には、逆なのである。みんなよりよく生きることへの大きな意欲がわいてくるのである。それは、なぜか。体験者にいわせると、“いずれ死ぬときは死ぬ。生きることは生きてる間にしかできない。生きてる間は、生きてる間にしかできないことを、思い切りしておきたい”と考えるようになるからであるという。それはそうだと思う。・・・生きてる間は生きることについて悩むべきである。」

立花隆「臨死体験」からの引用が随分長くなった。大事な話なので、そして立花隆が上手に要約しているので、そのまま引用させてもらった。立花隆は自分は脳内現象説に立つといっている。なぜ、そういうことになったのかは、この本で述べられた彼自身の様々な体験からきていると思われる。探求心旺盛、知識欲旺盛な立花隆は、イルカの研究やAltered State of Consciousnessの研究で有名なJohn Lilly ジョン・リリーの“瞑想タンク”やスタニスラフ・グロフの“ホロトロピック・セラピー”などに積極的に参加し、臨死体験者が語ったと同じような体験があらわれるのを自分で確認し、臨死体験者が語った体験はまさに脳内でおきる現象であると確認したわけである。そして、この自分の体験で、いわゆる宗教界の教祖がもったとおもわれる宗教的体験その他、あらゆることを臨死で無い状況で体験したため、これが死後の世界との接触と解釈することは出来ないと考えるにいたった。

ただ、脳内現象説で説明できないケースがいくつかあり、その大きなものはいわゆる体外離脱Out of Body Experienceらしきものであったが、これがまた自称派が研究室で体外離脱をこころみても、成功したためしが無い。いろいろな器具を身体に取り付けて体外離脱をこころみても、自分の家にいるときと違って、調子が外れるのか、どれも科学的に納得できる成果をうまなかった。しかし、臨死体験者の話の中には、本当に体外離脱して、外から見ていたと判断するほか無いケースがいくつか確実にあり、もしかして、現実体験説が本当かもという懐疑を残すわけである。そこで、立花隆も、結論はでず、自分が死んだときに自分でわかって納得するだろう、それまでは、どちらでもよい、Openでいよう、ただ、死というものへの恐怖はなくなり、今の生を大切にしようと思うにいたったと書くわけである。

すでに私は、このブログで公開した「心霊現象の科学をめぐって」というエッセイ集の中で、Out of Body Experience(体外離脱または魂離体験)が魂の存在有無の検証に重要であるということは述べておいた。また、Rosemary Brownの話も記した。小林秀雄が科学の扱える範囲に関して、限界を知っておくことの重要性を若者につげているという話も書いた。立花隆も現在の科学の段階としては、まだプリミティブであると考えていることは、先の引用で明らかだ。

立花隆のこの本「臨死体験」は、まさに臨死体験をめぐっての研究・ルポルタージュで、様々なサイキックを調査というものでないので、特に“死後の世界”の研究には欠かせないと思われるMedium霊媒については触れていない。わたしはすでにCarringtonEileen Garrettをめぐる意見などを紹介してきた。CarringtonEileen GarrettというすぐれたMediumに出会って、死後の世界を確認できたという。わたしはRosemary BrownUnfinished Symphonyを読んで、彼女の書いていることが本当なら、“この世”は“あの世”の準備段階、違う次元に移るだけというのは、本当かもしれないと思う。

ともかく、面白い本であった。立花隆の本ではほかに“脳を鍛える”とかという本を以前読んだが、これも面白かった。東大生への講義であったとか。

村田茂太郎 2012年11月15日
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立花隆 Tachibana Takashi「臨死体験」文春文庫〔上〕ISBN4-16-733009-1 〔下〕ISBN4-16-733010-5 2000年3月
(初出 文芸春秋 1991年8月後~1992年9月号、単行本1994年9月

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