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11/01/2012

小学6年生―社会科 日本の歴史 のための拙文集(21)楠木正成

小学6年生―社会科 日本の歴史 のための拙文集(21)楠木正成


楠木正成(くすのき まさしげ) をめぐって

 

 私は日本人の中で、卓越した兵法家として三人を択ぶとき、源義経、楠木正成、真田幸村をえらぶ。みな悲劇的に死んでいる点も共通しているといえる。楠木正成と真田幸村に関しては、子供の頃から好きであったが、今もやはり同じで、スゴイと思う。真田幸村の活躍ぶりなど、全くみごとなもので、他のものが彼のいうとおりに従っていれば、徳川家康も殺されて、天下の様相も変わっていたに違いない。しかし、楠木正成の場合と同様、上のほうは彼らのアイデアを採用せず、従って、負けて死ぬとわかっていて、それに逆らうこともせず、精一杯戦い、そして死んでいった。人間の悲哀というものをつくづく感じさせる生き方であり、死に方であった。

 

 私は大阪生まれの大阪育ち。楠木正成の逸話ははやくから親しんだ。小学5年6年の夏の林間学校では、吉野に2泊3日の旅行を楽しんだ。吉野は南朝の史跡が豊富なところであり、それは常にかなしみに満ちている。如意輪寺の戸にきざまれた楠木正行(まさつら)の歌「かへらじと かねて思へば あずさ弓 なき数にいる 名をぞとどむる」という辞世を見て、感動したり、村上義光(よしてる)というひとが、切腹して、腸を掴んでなげつけたという話をバスのガイドからきいたりして、足利尊氏を憎たらしく思ったりしたものであった。

 

 大阪の豪族・楠木正成は北条政権を転覆させようと計画していた後醍醐天皇側に付き、常に忠実な部下として大活躍をした。建武の中興が成立し、公家を中心にした社会となっても、特に不満をわめきたてることはしない、本当に信頼できる部下であった。北条をめぐる戦術は天才を発揮して、わずかな軍勢で、北条軍をいためつけ、足利尊氏が北朝側として敵にまわった時も、やはり、チャンスがあれば見事に戦うことが出来た。しかし、京都の公家が彼のアイデアをとりいれなかったとき、今度は死を覚悟して、ベストを尽くし、そして死んでいった。

 

 正成の子供の正行(まさつら)の場合も同じであった。このあまりにも忠実な楠木父子の在り方に感激した水戸光圀は、うずもれていた楠木氏を激賞し、ここに大楠公・小楠公への忠君愛国の崇拝が始まった。しかし、そういう衣装を取り払って、単純に見ても、やはり楠木父子には魅力を感じ、悲しみを感じる。太平記もやはり、哀しい世界である。

 

1994年6月13日 執筆

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