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11/04/2012

小学6年生―社会科 日本の歴史 のための拙文集(24)勝海舟


小学6年生―社会科 日本の歴史 のための拙文集(24)勝海舟
 
 
勝海舟 (かつ かいしゅう)をめぐって

 

 幕末から明治にかけて大活躍をした勝海舟は、柔軟さと剛直さを兼ね備えた豪傑であり、人間的にも政治的にも世界的なレベルの人物であった。勝海舟に心酔した小説家の子母澤寛(しもざわ かん?)は、「父子鷹」、「おとこ鷹」、「勝海舟」という小説をあらわした。勝海舟の父小吉(こきち)からはじまっているわけである。

 

 勝海舟の叔父の養子が剣聖といわれた男谷下総守信友(おだに しもうさのかみ のぶとも)であり、勝海舟の剣の師・島田虎之助の先生であった。海舟はオランダ語の勉強を必死にやり、辞書を全部書き写したとかという有名な話がいっぱいあるが、晩年、洩らした感想では、剣道ほど真剣にやったものは無かったということであり、その剣の道において、師の島田虎之助から免許皆伝を受けたほどであった。しかし、刀は切るものではないという信念のもとに、刀が抜けないように紐でしばっておいたという。幕末、暗殺が大はやりの時代に、そして自身、何度も狙われた時代に、海舟のとったような行動が出来たことは、まさに人物の大きさを示して余りあり、全く驚嘆に値する。

 

 この海舟の肝っ玉の太さで直ちに子分を作り上げた例が有名な坂本竜馬との出会いである。1862年のある冬の夜、勝海舟(麟太郎りんたろう)の家に二人の武士が面会に来た。坂本竜馬・千葉重太郎という。二人は開国論者・勝海舟を切り捨てようと訪れたのであったが、勝にそれを見抜かれ、先手を制される。そして、地球儀をまえにして、有名な日本とイギリス、海軍と軍艦、鎖国と開国に関する説教をきかされる。天才・坂本竜馬は直ちにすべてを理解し、しばらくは勝つの一番弟子として活躍し、そして後に薩長連合・大政奉還という二大業績を達成して、暗殺される事になる。勝は坂本竜馬の天才を愛し、その死を惜しんだ。

 

 能力がありながら、一生職につけなかった父・勝小吉は、すべての夢を子供の麟太郎(海舟)に託して亡くなった。それからしばらくして、勝海舟の人物を聞き知った幕府目付・大久保忠寛(おおくぼ ただひろ)の援助で、老中安部正弘の注目するところとなり、海軍の仕事に関係するようになった。それからは、どんどん才能を発揮して、海軍奉行、はじめて太平洋を渡った幕府軍艦咸臨丸(かんりんまる)の艦長などの大役をこなし、勝安房守(かつ あわのかみ)という、父小吉が生きていればびっくりするような役職にまでつくに至る。14代将・軍徳川家茂からも信頼され、また、15代将軍になる徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)からも信頼された。このことが、のちに西郷と勝との江戸城無血開城の談判につながることになる。

 

 勤皇思想の濃厚な水戸出身の15代将軍慶喜は、朝廷から朝敵という汚名をもらうことに耐えがたかった。この慶喜の態度が、幕末の鳥羽伏見の戦以降の戦争の性格を決定した。薩長の討幕隊に対して、幕府側は対戦組と恭順組とにわかれ、勝は恭順組の代表であった。そして将軍慶喜も恭順派であったため、勝海舟にそのための権力を与えた。小栗上野(おぐり こうづけ)達対戦組の立てた作戦は、徳川幕府衰えたりといえども、まだ薩長連合軍を打ち破る戦力も方法もあるというもので、アトでその作戦を知った薩長軍の参謀・大村益次郎は、もし、幕府軍が作戦通りにやりとげていたら、討幕軍は負けていたであろうと、事なきを喜び、またその作戦に感心したのであった。だが、作戦は実行されなかった。それは、慶喜が恭順派であったし、勝海舟も恭順の必要を痛切に感じていたからであった。

 

 勝が何よりも恐れたのは、戦争のどさくさにまぎれて、外国の勢力が日本の政治をかき乱し、日本の領土が外国勢によって、分割されることであった。勝にしても、徳川軍がまだ軍事的には薩長連合軍に対抗できることは知っていた。しかし、フランスが幕府を援助し、イギリスが薩長を援助するということになれば、どちらが負けても、勝った方に援助した国は、それ相応の報酬を求めるはずであり、それがいかに悲惨な結果を生むに至るかは、アヘン戦争やその後の太平天国の乱の事後処理で、中国がどんなにみじめな状況に追い込まれたかを知っている勝海舟には、そのような事態に至ることは、なんとしても避けたかった。

 

 従って、幕府代表・勝安房守海舟対倒幕軍代表・西郷隆盛の歴史的な会見が生まれる事になる。1868年3月14日、江戸田町の薩摩蔵屋敷で行われ、江戸城無血開城が決定された。しかし、この会見に備えた勝は、談判決裂に対する準備は完璧に整えていた。1812年のナポレオンのロシア遠征とロシアのクツーゾフ将軍のモスクワ焦土作戦を知っていた勝海舟は、合図ひとつで、江戸全体を火の海にする手配と同時に、江戸市民を救済する作戦を立てていた。

 

 また一方、この勝・西郷会談が成立する上で力があったのは、幕臣・山岡鉄太郎(鉄舟)であった。北辰一刀流の達人で、幕末最強の人といわれ、春風館道場を開き、明治になって、各地の知事や明治天皇の侍従などを歴任した、温厚・誠実・大胆な人物で、この山岡が勝海舟を訪ねて慶喜の恭順を西郷に伝える相談にきたことから、勝と西郷との会談が成立するに至った。

 

 勝海舟はこうして、1899年77歳で亡くなるまで、その才能と胆力を発揮し続け、豪快で偉大な人生を生きつづけた。その才能は、剣や政治やオランダ語に限らず、漢詩・俳句・短歌・随筆・書道・茶道等の何でもこなし、趣味・情操豊かに、まさに充実した人生を生きたのであった。 (1823年ー1899年)。

 

国土社 勝海舟 勝部真長著

 

1994年6月22日 執筆

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