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5/08/2014

「心霊現象の科学」をめぐってー余談 お葬式またはメモリアル・サービスに参加して


心霊現象の科学」をめぐってー余談 お葬式またはメモリアル・サービスに参加して

 この2-3年の間に私は何度か“お葬式”または“Memorial Service”にでかける機会があった。この最近の、私の「心霊現象の科学」、とくにAfterlife & Deathをめぐるかなりの勉強のおかげで、わたしはこうしたお葬式またはメモリアル・サービスに参加するのが楽しみになった。お寺さんや牧師その他のひとが、どういうお話をするのかを聞くのに興味を覚えるようになったわけである。

 この私のブログに展開している“「心霊現象の科学」をめぐって”の、その第一回目のエッセイは、ある美容師からきいたお寺さんのお話からスタートした。その日系二世の美容師は、直接、お寺のお葬式をとりはからう女性に、人は死んだらどうなりますの と訊ねたら、そのお寺さんは、無です、Nothingです、何もありません と応えたという話であった。それを聞いて、学生時代の私なら、マルクスを深く勉強したこともあって、そのとおりと思ったであろう。

 二年前、SFVSan Fernando Valley)の本願寺でお葬式があった。そのときには、私はすでに大分、最近の心霊現象の科学に関する本を読んでいた。そして、そのとき女性のお寺さんが、亡くなった方は霊となって、地上の人間の生活ぶりを見守っておられますといったお話をきくことができた。わたしは、多分、美容師の話していた同じお寺の女性だろう、しかし、内容に違いがあるのは、多分、いくらなんでもお寺の人が、人が死んだら無ですと言っていたのでは、問題だろう、きっと、誰かが指摘したか、自分であのあと勉強して、別の解釈に達したか、自分では無にかえると思っていても、お寺の主催者として、霊の話をしたのであろうと思った。

 その後、最近、葬儀社でのMemorial Serviceに2回参加する機会があった。葬儀社のなかに小さな100人ほどを収容できる会堂が設けられていて、仏教の場合はそれぞれの宗派のお寺さんが招かれて式を運行し、クリスチャンの場合は、また牧師その他が、その会堂で式を運行できるようになっている。これは便利で、わたしも、この葬儀社で火葬にしてもらって、どこかの海か山に灰をまいてもらうように手配しようと思った。リトル東京には合同教会などもあって、私は昔、会社その他の同僚のお葬式、メモリアル・サービスで何度か訪れたことがあるが、葬儀社で全部手配できれば、より簡単ですばらしいと思った。

 一回目のMemorial Serviceは本願寺別院のお坊さんと思われる人が式をとりはからった。彼は日本語と英語でかわるがわる、上手に彼のお話を展開した。彼はほかの宗教と違って、仏教では義務とか制約とかがないという話をまず述べ、みんなVoluntaryの精神で亡き人を弔う、上も下も天国も地獄もないという話で、亡き人の魂は生きている人の記憶に生きると言い、仏教で何回忌とかという行事があるのは、そういう機会を作って亡き人をしのぶということであり、それがなくなるとどんどん忘れ去られていく、というような話であった。わたしはこの、義務も制約もないという話はすばらしいが、このお寺さんは多分、無神論者にちがいないと思った。以前の、本願寺の女性のお寺さんの、霊がうえから、身の回りで見守っているという話とはえらい違いである。でも、確かに記憶の中に生きるのはそのとおりであり、まあ、このお話はそんなに悪いものではなかった。前の女性のお話のほうが、まあ、死者にふさわしいと思ったが。

 さて、2回目は仏教ではなかった。同じ葬儀社の、同じ会堂にあつまって、百人を超える参加者があったが、今回はエホバという名前がでてきて、したがって、私は数珠をもっていったが、ただ黙って座っているだけで、参加者一人ひとりが灰をたむけてお祈りするというような儀式は無かった。ひとりのエホバの関係者がながい説教じみた、オルグじみた話を、聖書を引用しながらやり、それを別の人が英語に通訳するという形で展開し、そのあと、遺族の簡単な話と生前の写真のDVDを見ることでおわった。

 このエホバの話をしたひとは、多分、その種の宗教団体の主要なメンバーのひとであったのであろう。わたしは聞いていて、これはまずい、こんなMemorial lService など場違いで、まるで、エホバの宗教の勧誘をされているようだと感じざるを得なかった。なんと、何度も聖書を引用しながら展開した内容は、アダムの原罪で罪を得た人間の子孫の救済は聖書にかかれたように忠実に、熱心にお祈りしなければならないというような話で、死んでしまえば意識も記憶もなにもなくなり、ちりに返り、Dust to Dustで復活のときがくるまでお墓で待っていなければならない、そして復活のときがきたら、みなさんとあの世で再会できるというような話で、お寺の女性の、霊となって見守っているというような心休まる話ではなく、灰Dustになって、意識も記憶もない状態で、復活のときを待つというむなしい話。わたしはこれを聞いていて、このエホバの宗派は、教会カトリックの、例の紀元325年二ケア会議と500年代のユスチニアヌス帝の時代の教会統一その他の影響で、教会カトリックが経典を固めて、同じクリスチャンでも他派を排斥、抹殺していった(12-13世紀Cathar-アルビジョワ十字軍、異端審問 その他)、そのカトリックの流れを汲む宗派であるに違いないと思った。

 この人たち、宗教を専門とする人たちも、心霊現象の科学の最近の展開を勉強して、それを経典に取り組むかたちで展開しないと、多くの人たちに受け入れられる宗教とはならないであろう。時代遅れで、勉強不足も明らかだというのが私の感想であった。

 すでにこの「心霊現象の科学」をめぐるエッセイで展開してきたように、どうやら臨死体験その他でも明らかなように、人間には魂Soulがあって霊魂不滅であり、人は肉体がほろんでも、Soulはより健在で、そのひとのもっていた意識も記憶もそのまま保持しており、エネルギーの次元が異なるだけで、よりすばらしい次元に移行できるという話であり、亡くなれば、生前の家族や友人たちと霊的に再会でき、この地上よりもすばらしい世界に移れ、そこはいわゆる地獄などはなくて、自分がさめた意識で自分をJudgeするという世界、そして大いなるエネルギー、それは愛と慈悲と寛容に満ちて、あたらしい魂を受け入れてくれ、次の次元への案内をしてくれるという話である。

 このSpiritualな世界では、多分、釈迦(仏陀)やキリスト、マホメット、道元、親鸞、空海その他の天才的な宗教家たちは、みな愛と信頼、慈悲と寛容に満ちたおおいなるマスターであり、人間たちをリードする役割を果たしているに違いない、そこでは宗教上の宗派を超えた、あかるいエネルギーの世界が展開しているに違いない、したがって、無神論者であれ、どの宗教の信者であれ、誰もが愛と寛容、慈悲と許しの恩恵をうけて、次の次元へと移行していくに違いない。

 最近、日本ではお寺も寂れてきているとのことである。わたしが勉強した心霊現象の科学から学んだことは、“お祈り”というのは科学的にも効果があることを証明されており、馬鹿にできないということであった。儀式としてのお寺の利用ではなく、お寺の祈りや啓蒙が若い人々にも受け入れられるような展開が望まれる。

 ゲーテGoetheとはまた違った意味で万能の達人・天才であったThomas Jeffersonは自分の墓碑銘に三つの業績をかかげた。Jeffersonは自分で墓碑銘を選び、デザインをし、Scriptを書いた。その三つとは、独立宣言の執筆、Virginia州での宗教の自由の宣言、そしてUniversity of VirginiaFATHERということであった。Jeffersonといえば、アメリカの国土を飛躍的に増大させたLouisianaのナポレオンからの買収も大きな業績のひとつだが、それよりも、彼にとっては自分の出身地であるVirginia州に信仰の自由を確立したことのほうが大事な業績であった。

 現代、多くの戦争は宗教戦争といってまちがいない。石油その他の資源など、おおきな利権が絡んでいるが、どうみても人種、宗教がらみの戦争がいつまでも絶えることなく、この地球を悲惨な世界に追い込んでいる。愛と寛容、慈悲と許しに満ちた明るい世界がいつになったらこの地上に実現するのか。

 心霊現象の科学を勉強すると人種や宗教の違いなどまったく意味が無いことが判明する。まだまだ啓蒙は必要だと感じさせる。

村田茂太郎 2014年5月4日

 

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