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9/24/2016

村田茂太郎 読書感想文集 その3

村田茂太郎 読書感想集 その3


ここに収録した「ユングの自伝」というエッセイは、拙著ー「寺子屋的教育志向の中から」
からの転載です。すでにブログでもOpenしています。

ここには主に私が あさひ学園 で生徒指導中に紹介した文章で拙著から漏れたものが収められています。

村田茂太郎 2016年9月24日


村田茂太郎 感想文集 目次 その3


36 J.A. Jance Mysteryを読む

37 「ワーグナーとニーチェ」Dietrich Fischer Dieskau を読む

38 自殺論 その後

39 夏目漱石 「三四郎」などを読む

40 「風の歌を聴け」村上春樹 を読む

41 Jonathan Kellerman 「Victims」を読む

42 内村鑑三<余は如何にして基督信徒となりし乎>

43 “二重ラセン”をめぐって (ロザリンド・フランクリンとDNA

44 高群逸枝<火の国の女の日記>を読んで

45 “ヘルマン・ヘッセの童話”

46 “アナバシス”の魅力

47 “スコットとアムンゼン”   

48 “醒めた炎”(木戸孝允伝)村松剛 を読んで

49 “カロリーナ・マリア・デ・イエスの日記”

50 “北の国から”(倉本聰)との出会い

51 “ガラスのうさぎ”(高木敏子著)を読んで

52 “太陽の子”(灰谷健次郎)を読んで

53 “兎の眼”(灰谷健次郎)を読んで

54 “死者の書” (折口信夫)             

55 “瓶づめの小鬼”と私とスチーブンソン

56 “ビルマの竪琴”オリジナル映画=感想

57 “ハンレイへの思い”(政治と人生)

58 “中村真一郎 <頼山陽とその時代>を読んで”

59 “交友”(中国史の中の三つの交わり)

60  ユングの自伝        (Memories, Dreams, Reflections)






36 J.A. Jance Mysteryを読む

わたしがRoss Macdonaldが大好きであることは、拙著の「探偵小説の読み方(1)」ですでに述べたことである。ロス・マクドナルドが亡くなって、もう30年近くたつ。今読み直しても、とても面白く、いろいろな意味で感心する。やはり、主人公 リュー・アーチャーという個性豊かで魅力ある私立探偵を創造したからであろう。Mystery、探偵小説で何度も繰り返して読むなどというのは、私にとっては、ロス・マクドナルドの作品だけである。(時には、エドガー・アラン・ポーの作品も繰り返して読むが、ポーの作品は短編で、すぐに読み終わるので、現代のミステリーと比較するのもあまり意味がないと思う。ポーの作品の魅力と意義については、同じく拙著の中の「探偵小説の読み方 (2)」と「メールストロームの渦をめぐって」というエッセイの中で、展開した。)

ロス・マクドナルドに限っては、私はどれも二度も三度も読んでいる。いくつかの作品は四回もよんでいることを発見し、今度読めば五回目かという感慨におそわれる。リュー・アーチャーという魅力ある探偵の行動ぶり、反応ぶりに接したいという気持ちがわいて、何度も繰り返して読むことになっている。この作者Kenneth MillerRoss Macdonaldはペンネーム)はColeridge研究でPh.D.をもつ学者のはずであるが、私にとってはLew Archerを創造してくれたということのほうが大事である。Coleridgeなど誰でも研究できるはずだが、Lew Archerはロス・マクドナルド(Kenneth Miller)だけが創造できたのである。

 ロス・マクドナルドほどではないが、わたしは現代のMystery作家の作品もたくさん読んできた。すでに、このブログでも紹介したJonathan Kellermanは児童心理学などでPh.D.をもつ精神分析医であるが、もう30年近く、みごとなMysteryを描き続けている。わたしは20冊以上読んできて、どれも満足できるものであったという印象を持つ。

 Kellermanのほかに、最近、続けて読んだのは、わが友 デボラー・ボエームさん推薦のTony Hillermanで、これは私にとっては興味深い ナバホ・インディアンのPolice Detective, Lieutenantを主人公としたMysteryであるが、わたしは幸い、アメリカ南西部が大好きで、本を書こうと思ったくらいにScenic Drivingの旅をしたので、土地の描写も興味深く、まだ著者が在世中に読んで、アルバカーキーに会いに行っておかなかったのが残念に思われたほどである。

 ほかに好きなMystery作家として、Michael Connelly、 Michael McGarrity(2005年までは全作品を読了)、そのほか、いっぱいいる。

 1994年ごろ、見つけて、それ以来持続的に読んでいるミステリー作家のひとりが J.A. Janceである。彼女はシアトルのDetectiveを主人公とするミステリーを書いていたが、そのうち、そのほかに、アリゾナの南東部、Cochise CountySheriffを主人公としたミステリーも書き出した。わたしは何冊か、ためておいて、一気に何冊も読んだりして、とても気に入った。

 彼女の作品は、今では4人ほど主人公がおり、シアトルで活躍するJ.P. Beaumont MysteryArizona Cochese Countyで活躍する女シェリフJoanna Bradyを主人公とするMysterySedona在住のもとCeleb アンカー・ウーマンAli Reynoldsを主人公とするMystery,そして、もう一人という具合に、上手に4人を使い分け、ときにはBeaumontBradyを合流させたりして、読者を楽しませてくれる。

 シアトルを舞台としたJ.P. Beaumontものもすばらしいが、わたしは特に女シェリフJoanna Bradyを主人公とする作品が気に入っている。私がよく訪れたArizona 南東部が主な舞台であるため、なんとなく、身近に感じるし、風土がよく描かれていると思うからである。また、LAPDNYPDなどのBig CityPoliceものと違って、このBradyものは、アリゾナの小さな町Bisbeeを拠点としたシェリフで、限られた人数で、様々な問題に出逢うため、乏しいBudgetのなかで、やりくりしながら、すべてに小気味よくBradyが反応していくので、気持ちがスーッとする。彼女は人任せにしないで、自分が陣頭指揮を執り、少ないスタッフだけれども、人間関係のいざこざをうまく読み取りながら、こなしていくわけで、私がこのような、小さな町で大きなTerritory(広大な空間)の最高責任者、選挙で選ばれたシェリフであれば、どのように反応するだろうかというマネジメントの興味もわき、J.A. Janceが見事に描き分け、楽しくこなしているのに感心し、娯楽小説としては一級品であると思う。しかも、Bradyは夫を殉職で亡くし、娘を抱えて、再婚し、生まれた小さな子供をかかえて、家族生活をうまく維持しながら、シェリフの役割を果たしていくという、まさに女性が書けるシェリフものとなっている。ここでは、シェリフの領域の中にAnimal Control の仕事も含まれており、そういう犬猫の問題まで含めて、シェリフが見事に対応していくのをみるのは楽しい。ともかく、Mysteryらしい内容を持つが叙述が自然で無理なく読み進めることができる。

わたしはしたがって、この読みやすいJ.A  JanceMysterySam’s ClubEl Pasoに居たとき)やCostcoLos Angeles)でDiscount Priceで売られているのを見つけると、いつも、すぐにとびつくようにして買い求め、一日か二日で読み終わる。そして、ほとんどいつも満足する。自分がアリゾナを旅している気持にもなり、マネジメントがうまい人間の対応ぶりに満足し、アリゾナ的な問題を教えられ、いろいろ学ぶことができる。

先日、「Fire & Ice」 をCostcoで見つけて、すぐに読了し、今日も、Costcoで「Left for Dead」 を見つけて、購入したばかりである。「Fire & Ice」 はシアトルの J.P. Beaumontが中心の話だが、アリゾナのシェリフBradyと連絡をとり、お互い助け合うことになる。Washington州で起きた事件のルートがArizonaに関係あるということになるわけで、ありうる話である。

 「Left for Dead」 は買ってきたばかりで、まだ中身はわからないが、これはSedonaAli Reynoldsを主人公とする犯罪ものである。このAliという女性も魅力ある人物で、わたしは確か全部買って読んできたと思う。ともかく、J.A. Janceを、私は25冊ほど読んできているはずである。ラクに読めて、さっぱりするので、何かに疲れた後の読書として最高である。彼女はすでに50冊近くも出版しているが、どれも気楽に読めて、後味もよい。いい娯楽になる。

いつか、紹介したいと思っていたが、ここに簡単にその魅力を伝えようと思った。

村田茂太郎 2012年12月29日、30日






37 「ワーグナーとニーチェ」Dietrich Fischer Dieskau を読む

 ディートリッヒ・フィッシャー・ディ-スカウ といえば、私の学生の頃(1960年代)ドイツを代表する世界的なバリトン歌手として、有名であり、シューベルトの歌曲“冬の旅”全曲など代表的なレコードで知られていた。

 そのバリトン歌手がこの「ワーグナーとニーチェ」という、どちらかというと哲学的な著作を著しているということで、最初はチョット意外な気がしたが、考えてみれば、ドイツの歌手がドイツ語で活躍したドイツ人の二人の天才の交友に絶大な関心を抱いても当然なのだ。

 ヨーロッパでは小説家が本格的な哲学書を書いたりして、日本ではほとんど考えられないケースがときどき発生する。フランスの、小説と映画“地下鉄のザジ”で有名な作家レーモン・クーノーがフランスでのイポリットによるヘーゲル哲学復興の一翼を担っていたり、同じく小説家ピエール・クロソウスキーが「ニーチェと悪循環」という本格的なニーチェ論を書くなどということは、外国で起こりうることで、日本ではほとんど不可能に違いない。小説「嘔吐」や「自由への道」そしてたくさんの演劇で活躍したサルトルが、重要な哲学書“存在と無”ならびに“弁証法的理性批判”をあらわしたのは言うまでもないことである。ドイツでは有名な詩人のハインリッヒ・ハイネが邦訳名「ドイツ古典哲学の本質」という面白い哲学書をあらわし、ドイツ古典哲学の持つ革命的本質を見抜いた本としてマルクスたちから賞賛されたりした。

 日本では、ひとり小林秀雄だけが、彼が心酔したベルグソンと対決し、未完で終わったとはいえ、本格的なベルグソン体験ともいえる「感想」ベルグソン論を書き、またニーチェ死後五十年で“ニーチェ雑感”という秀逸なエッセイを書いたくらいである。

 ともかく、この書は1974年ごろ、まだ50歳頃のディ-スカウ が書き表したものらしい。ほかに ディ-スカウ で驚いた、または感心したのは、彼がバリトン歌手としてではなく、指揮者として演奏したCDも出回っていることで、やはり多芸というか立派なものだと感心した。本格的な人間は一芸だけでなく、なんでもホンモノとしてこなせる実力をつけているのだなあということであった。

 この「ワーグナーとニーチェ」は楽しい本である。19世紀のそれぞれの領域で天才を発揮した二人の人物が、中国の“忘年の交わり”にひとしい蜜で美しい交友を楽しんだ、その経過をたどったものである。30歳以上年の違う二人が出会い、親密な交友がもたれ、やがて決裂していく、それは二人に関心のあるものには限りなく興味深いテーマである。

 ワーグナーの音楽は、わたしがすでに一度このブログで紹介した本の著者によると史上4位の音楽の天才の位置を占めている。Bach, Mozart, Beethoven, Wagnerとくるのである。わたしはBachTopには異議をとなえたが、ワーグナーに関しては、そんなものかという感じで、この本は音楽の天才たちの業績を交通整理してくれたような、わかりやすさをもっている。ともかく、ワーグナーが天才の世紀、19世紀でベートーヴェンについで2番目の位置を占めている。

 一方、19世紀は哲学の天才の世紀でもあった。わたしは自分の好みで4人を択ぶとすれば、活躍した年代順では、ヘーゲル、キルケゴール、マルクス、ニーチェをえらぶことになる。

 ニーチェは激烈で純粋で、正直に現実と対決し、それを見事な散文にあらわした。哲学者としては比較的短いと思われる彼の生涯で、哲学界だけでなく、文学、芸術、社会思想、その他、あらゆる方面に絶大な影響を与え続ける著作を精力的に書き続けた。

 ワーグナーとの関係は、ニーチェにとっては、運命的なものであったが、ワーグナーにとってはどうであったか。ニーチェはワーグナーに対する驚嘆から離反までの、ワーグナーとの関係をそのつど問題作で展開し続けた。最初の運命的な“悲劇の誕生”から三つの、ワーグナーを表題に含む散文まで、ともかく、ニーチェにとっては真剣に対決しなければならない人物であった。

 ワーグナーにとっては、この30歳以上年少の青年との出会いが、彼の作品に直接影響を与えたようには見えない。しかし、ニーチェという天才的な若きバーゼル大学文献学教授によるワーグナーの音楽に対する肯定的な、あるいは絶大なる評価は、ワーグナーが世界のワーグナーになるうえで大きな効果を持ったのは確かである。ワーグナーはそれを楽しみ、ニーチェを家族的に扱い、息子の後見人に指摘しようとしたほどであった。まさに、年の差など関係の無い、忘年の交わりであった。

 このDieskauの本は、この興味深い二人の関係を様々な資料をつかって解明していく楽しい本である。天才ワーグナーもなかなか平穏な生活をもてなかった。丁度、ニーチェと出遭った頃から、少し経って、やっと、ビューローと離婚した愛人コシマを正式の妻とすることができ、ワーグナーとしてはまともな家族生活を築き上げていくことができるようになったが、彼の壮大なオペラを実演するまでが大変で、バイロイトでの演出をめぐって、苦労をし続けるのである。コシマはまだビューローと離婚しない愛人の状態でワーグナーとのあいだに二人の子供をもうけており、コシマ自身はビューローとの間に二人の子供が居て、ワーグナーとの生活に、自分の子供をつれて入ったので、ワーグナーとの結婚後に生まれた子供を含めると、ワーグナー家には五人の子供が居る所帯であった。リストと愛人との間の娘であるコシマはワーグナーとの結婚で、彼女の天分が開かれ、同時にワーグナーに創造力をたかめる刺激を生んだ様子で、この不自然な関係はPositiveに働いた。正式の結婚が成立して、ニーチェもやっと安心したようである。

 この本の解説を書いている茂木健一郎は、Fischer Dieskauの“ワーグナーとニーチェ”を、“愛の仕事”Labor of Loveと呼んでいる。つまり、Dieskau自身の、この二人の天才に対する愛情がなければ、書けないような本だということである。好きで興味があるから、徹底的に調べて書き上げたという。

 ニーチェはワーグナー単純礼讃から離れていったが、彼がはじめてワーグナー一家に受け入れられ、 Lake LucerneにあるTribschen〔トリープッシェン〕の大きなワーグナー家で何度かの心温まる歓迎・交歓に接した記憶は、二人が別な方向に分かれていった後も、ニーチェに心地よい思い出となって残った。ほとんど一生を病の苦痛の中で過ごしたニーチェが、別れていった後も、いつまでも心地よい記憶をもてるような瞬間を何度か味わったということを知ることは、ニーチェのためにも、私達のためにもすばらしい出来事といえる。この本は、そういう二人の最高の瞬間を見事に再現した、美しい、交遊録・伝記といえる。

 “彼がワーグナーととうに訣別してしまった後でも、彼が次のような文章をしたためることができたということはまことに意義深い。「私はほかの人間的ないろいろな関係ならたやすく手放しもしよう、しかし、トリープッシェンのあの日々を私の一生から消し去ることだけはどんなことがあってもしたくない。それは信頼と快活と崇高な偶然とーーー意義深い一瞬一瞬の日々だった」”(P.70

 ニーチェは「悦ばしき知識」第4書279節に“星の友情”と題する文章を書いている。「われわれは友達であったが、互いに疎遠になってしまった。けれど、そうなるべきが当然だったのであり、それを互いに恥じるかのように隠し合ったり晦まし合ったりしようとは思わない。われわれは、それぞれその目的地と航路とをもている二艘の船である。もしかしたらわれわれは、すれ違うことがあるかもしれないし、かつてそうだったように相共に祝祭を寿ぐことがありもしよう、・・・われわれは、互いに地上での敵であらざるをえないにしても、われわれの星の友情を信じよう。」〔ニーチェ全集8「悦ばしき知識」、信太正三訳 ちくま文芸文庫〕。

 これは、もちろん、ワーグナーに対しての避けられなかった訣別と、ワーグナーとの友情の思い出をなつかしむニーチェの願いをこめた文章といえる。“星の友情”!

 確かに、この一瞬のすれちがいは、ニーチェに絶大な影響を与え、ニーチェの自己確立になくてはならない出来事であった。その成り行きを最初から最後まで追跡した本書は、ニーチェ愛好者にもワーグナー愛好者にも、無視できない伴侶といえるであろう。ともかく、ニーチェが充実した、ハッピーな瞬間をもてたということを資料を通して確認できることはうれしいことである。



「ワーグナーとニーチェ」ちくま文芸文庫 ディートリッヒ・フィッシャー・ディ-スカウ 著 荒井秀直訳 ISBN 978-4-480-09323-3

村田茂太郎 2012年10月16-18日





38 自殺論 その後

 私が“自殺論―残されたものの痛み”(拙著「寺子屋的教育志向の中から」“ロサンジェルス日本語補習校あさひ学園での15年―瞑想と回想と感想と”所収)を書いたのは1985年であった。個人的な感想を生徒達に恥ずかしげも無く配ったのには理由がある。当時、小学生・中学生の自殺が日本ではやっていた。理由は主に“いじめ”であったと思う。わたしは、本人にとっては深刻な悩みに違いないが、まだまだ若い時点でその後の人生をあきらめて自殺をすると、まわりにも甚大な影響を与えるものであり、早急な決断はするべきでないということを、私の体験(クラスメートの自殺に出遭った苦い体験)を踏まえて、ひとつの参考資料として提供したのであった。

 今、私は、もうすぐ69歳になる。自分ではいつまでも若い気持ちで居て、探求心も相変わらず旺盛だが、やはり年をとったと感じる。68歳といえば、もう大概の過去の偉人というひとは病気で亡くなっていた。わたしは幸い、まだ特にどこか悪いと思えるところは無い。どこか悪いといえばどこも悪いように思えるが、まあ、病院に通わなければならないというような状態ではない。これからも頑張るつもりであり、先日もGranada HillsにそびえるMission Peak という約850メートルの山に登ることができた。体力の衰えはあきらかだが、まあ、まだしばらくは頑張るつもりである。

 23歳の時に出遭ったクラスメートの自殺は、わたしの68年の人生で最大のショックであった。小林秀雄は戦後スグの時期の母親の死が最大のショックであったと“感想”冒頭で書いている。母親が死ぬということは、予期できることであり、驚くようなことではないが、母親との関係次第で、ショックにもなるだろう。音楽家のメンデルスゾーンは姉の死がショックで、結局、まだ若い頃に亡くなってしまった。

 今になって、なにを考えているのかというと、今、私の手元に、Arthur & Cynthia Koestler のStranger on the Square という本がある。その IntroductionHarold Harris という人が書いている。それによると、19833月にケストラーが自殺をしたが、そのとき同時にワイフである Cynthia Koestler も自殺した。丁度、乃木稀典夫妻の自殺を思わせるニュースで、わたしも1983年そのニュースを知って、いろいろ複雑な思いが走った。それをめぐって、わたしのその後の自殺観を展開しようと考えたわけである。まずこの自殺をめぐって。事実関係を。

 アーサー・ケストラーは77歳でふたつの大病(Parkinson’s と Leukemia)を持ち、今、まだ意識がしっかりしている間に決着をつけなければどうにもならなくなるという状態で、苦痛もあり、覚悟の自殺であった。ワイフのシンシアはアーサーより22歳若い、55歳で、健康状態はPerfectであった。

 ふたりはそれぞれ致死量の睡眠剤をのみ、自殺を遂げた。Barbiturates.

 アーサー・ケストラーといえば、わたしの学生時代にスターリンの血の粛清を小説化した名作“真昼の暗黒”Darkness at Noonを読んだだけであった、その後、私のほうはサルトルの弁証法的理性批判などの系統に惹かれたため、ケストラーはサルトルと対極的・保守的な嫌なやつという印象が強かった。

 アメリカに来てから“Roots of Coincidence” などの純然たる科学的読み物をケストラーが書いているのを知り、読んで、興味を覚え、知らない一面を知った思いであった。

 この本の序文とケストラーの略歴を自分で書いているところを読むと、別に驚くべきことでないとわかった。彼はもともと理科系・エンジニアー系の出身であったが、たまたま、ジャーナリズム関係で職に就いたため、そして、Anti-Nazism のムードの中で、Communismが正しいと信じてコミットしていったため、“真昼の暗黒”を書くような情況に追い込まれただけで、彼自身、つねに政治的な面と科学への関心を維持してきたわけで、なんと、いち早く、ノーベル賞を受賞した科学者ド・ブロイ(物質波)にInterviewをしたのもこのケストラーであった。そして、スターリンの血の粛清でCommunismに憎悪を感じて、Anti-Communismにはしるわけで、サルトルたちから見れば、保守・右翼ということになったのであった。

 しかし、今の時点となってみれば、ケストラーがソ連共産党と決裂し、わが道を行ったのは正解であった。そして、戦後、政治のほうを離れて、本来の関心領域に踏み込んでいったわけで、それが様々な, わたしにとっては興味深い科学関係の労作を生む事になった。シンクロニシティのところで、カンメラー Kammererというドイツの科学者の例を挙げていたのはケストラーであった。

 ケストラーの人生は多彩な冒険と苦労に富んでおり、20世紀の知的世界でのGiantのひとりであった。文学的才能と科学的素養と、スターリニズムの苦労と、対ナチズムの恐怖と戦後サルトルらに対抗する生き方、それはまさに激動の人生であった。そしてシンシアという女性は臨時の秘書として広告で雇われた女性であった。

 南アフリカ出身のCynthia Jefferies 22歳の時、Arthur Koestlerの臨時秘書採用広告に応募して秘書となった。その後の6年間、On & Off で秘書の仕事を続け、フランス、イギリス、アメリカがその舞台であった。そして、1955年からKoestlerのテレグラムに即座に反応し、New Yorkでの仕事をやめて、Koestlerのもとへ行った。それは Permanent Job であり、Reunionであった。1965年二人は正式に結婚した。そして、1983年に自殺を遂げるまでの27年(1955-1983)は離れられない関係となった。

 CynthiaKoestlerに初めて出遭ったときは、彼らの年は丁度2倍の差があった(44歳と22歳)。そして、Koestlerは結婚していた。しかし、Cynthiaにとっては、Love at first Sight であったらしい。1955年、Permanent Jobになるまでの6年間は、Cynthiaにとっては、比較的不幸な年であった。この間にCynthiaは結婚し、離婚した。Koestlerのほうは何人もの女性と関係を持ち、離婚してまた別の女性と関係を持つという風だった。

 なぜ、55歳の健康な女性()が、一緒に自殺をしようと決意したのか。(H. Harrisの疑問、そして、わたしの疑問。)

この序文を書いている Harold Harris を引用させてもらおう。Harrisはこの最後の本が未完で終わっているのを編集し、出版した。内容はケストラーの自伝が1940年で終わっていたので、そのあとをいわばCynthiaが手伝いながら1940-19511951-1956と書き続けようとした、その草稿である。第一部はふたりがそれぞれ執筆、第二部はシンシアが執筆。最終的編集はHarold Farris. 以下は序文からの引用 とわたしの意訳。

  As I read through her pages, I felt that they confirmed the answer which I had already begun to form in my own mind to that question `why’. Why had this intelligent, healthy woman of fifty-five ended her life? Why had she written `I cannot live without Arthur’? Other women (and men) have loved deeply and survived the death of the partner. In Cynthia’s case, that cry, `I cannot live without him’, was, I felt, the literal truth.

 わたし(Harold Harris)が彼女のページを読むに従い、私が“なぜ”と抱いていた疑問に対する回答を確認してくれたように思った。なぜ、この55歳の知的で健康な女性が死ぬ事になったのか?なぜ、彼女は“わたしはアーサーなしには生きて居れない”と書いたのか?他の女も(そして男も)深く愛しあい、しかもパートナーの死を乗り越えて生きたものだ。シンシアの場合、あの叫び、“わたしは彼なしでは生きて居れない”というのは、文字通り真実だったのだと感じた。

  He had never made any secret of the fact that he was difficult to live with. He made frequent references to the fact in his notebooks. He never tried to hide his demanding nature, the violence of his moods, his abrupt changes of direction, his obsessional chasing of women (which persisted long after the examples he himself mentioned in Arrow in the Blue). Behind all that was a man of intense intellect, a man who could show enormous kindness and generosity, a man of incomparable humour, and –most of the time –a companion of the utmost charm.

 ケストラーは自分と共に生きるのは困難なものだという事実を決して隠しては居なかった。彼は自分のノートにこの事実を何度も言及した。彼は決して自分の押し付けるような性格や気分に応じてあらわれる荒々しさ、急な方向転換、彼の常習的といえる女性関係(それは彼の自伝の一部である Arrow in the Blue で自分で言っていたことであるが、そのあとも続いていた)といったものを隠そうとはしなかった。これらの事実の背後にあらわれるのは、きわめてインテリで、優しさと寛大さを持ち、ユーモアに満ちた、そして、大概のときは、最高の魅力を備えた伴侶といえる男であった。

 Cynthia was well aware of his faults which he did not try to conceal. Yet, in all the thirty three years of their association, the only times that she was really unhappy were during the first six years when, occasionally, Arthur tried to break the links which bound them together. He did this, as he thought, for Cynthia’s own good, because (at the time they met) he was exactly twice her age and because he knew that no partner of his could ever hope for a conventional ménage. She knew this too – but it made no difference.

 シンシアはケストラーの欠陥はよく承知していたし、彼もそれを隠そうとはしなかった。しかも、33年のかれらの付き合いの中で、彼女が本当に不幸であったのは最初の6年間だけであった、それは、そのころアーサーが彼らをつなぐLinkを断ち切ろうとしたからである。彼はシンシアのために、関係を断ち切ろうとしたと彼は思っていた、なぜなら、(彼らが会ったとき)彼はぴったり彼女の年の2倍の年であったし、彼は自分を知っていて、彼のパートナーとしては普通の家庭は期待できないと知っていたからだ。彼女もそのことは知っていた、しかし、そんなことはたいしたことではなかった。

 There can be no doubt that Cynthia fell in love almost at their first meeting and she loved him for the rest of their lives. From 1955 to the end she shared his life. But even that was not enough. It is hardly an exaggeration to say that his life became hers, that she lived his life. And when the time came for him to leave it, her life too was at an end.

 シンシアが彼らの最初の出会いでケストラーにほれたのは疑いないことである。そして彼女はその後の人生で彼を愛し続けた。1955年から終わりまで、彼女は彼の人生を分かち持った。しかし、それさえも充分ではなかった、彼の人生が彼女の人生ともなったといっても決して言い過ぎではない、彼女は彼の人生を生きたのだ。そして、彼の人生が終わるときが来たとき、彼女の人生も終わったのだった。

この本を読んだ読者は同じような感想を抱くであろう。この本自体は1956年で終わり、二人はさらに27年生きたけれども。アーサーは彼女の献身に報いたであろうか。彼は公衆に自分を見せる人ではなかった、人前では彼は彼女をAngel としか呼ばなかったが。二人は感傷をきらった。もちろん、彼は完全に彼女に頼っていた。アーサーも心からシンシアを愛していた。彼はシンシアが自分の献身に対して彼から何の報酬も期待していなかったのを知っていた。しかし、彼は、死ぬ9ヶ月前に書いた“訣別の辞”の最後に彼が書いた文章をなによりも彼女は献身の報いととってくれたことであろうと感じていた。

“To whom it may concern” - - - `It is to her that I owe the relative peace and happiness that I enjoyed in the last period of my life- and never before.’

“関係者へ、・・・比較的平安にそして幸せにその後の余生を楽しめたのは彼女のおかげである。そしてそれは、それ以前には決してなかったことである。”

つづく。

村田茂太郎 2012年4月30日

Arthur & Cynthia Koestler “Stranger on the Square” 2012年5月7日 読了。




39 夏目漱石 「三四郎」などを読む

 これは、漱石の「三四郎」についての私の個人的な感想であって、全体的な評論文ではない。

 わたしは漱石のまじめな読者ではないが、やはり、明治期だけでなく、日本近代文学あるいは現代文学まで含めての代表であり、森鴎外と双璧をなす文壇の重鎮であると思ってきた。

 漱石では、高校1年の時、社会科の先生の影響で「こころ」を読み、そのほか、「草枕」や「坊ちゃん」など。そして、高校生の国語を指導していたとき、教科書に「それから」が載っていたので、本を図書からかりだして読んだくらい。そのほかに、「門」。最近になって、「こころ」 を再読し、「三四郎」、「道草」 を読み、「彼岸過迄」を読んだ。(「道草」は、「彼岸過迄」の後の執筆で、たまたま、わたしが先に読んだというだけ。)

 「道草」は円熟した見事な作品である。特に、夫婦の関係を分析的に描出して、自然主義とは異なる境地を描いたと言える。漱石のイギリスから帰国後の家庭的な問題を夫婦の心理描写を通して、みごとに反省的に描きだして、まさに円熟した境地を示している。夫婦の心理的葛藤を小説を流れるメインのテーマととれるが、ストーリーは主人公が幼児期の4年ほど養子に出されたことの、それをめぐる養父からの、立身出世して有名になった主人公にたかってくる、悪く言えば“ゆすり”へ至る、そのやりとりだけがこの話の内容で、上手に展開されているが、まあ、話らしい話とはいえない物足りなさが残る。(漱石は父親からきらわれ、経済的な理由もあって、2歳頃から9歳頃まで養子に出されたようで、随分、苦労したようである。漱石が漱石として大成したのは、もともと非常な秀才であったため、奨学金などで、学問的に生きていく道を見つけたからであるが、神経衰弱その他で苦しんだのは、彼のその最初の重要な時期をそのような、親から見捨てられたような生き方をせざるをえなかったことと関係しているだろう。わたしの考えでは、幼児期が一番人間にとって重要な時期である筈で、そんなときに、親から愛されて幸せな子ども時代を送るという人生を漱石が送れなかったのは、悲惨である。立派に成長したのは、奇跡的といえるかもしれない。)

 「三四郎」は「それから」、「門」とつづく三部作の第一作といわれている。わたしの個人的な感想では、この三部作もふくめて、“こころ”も同系列にあたると思う。

 つまり、漱石はこれらで一貫して“男女の関係”を考え、いろいろな場面を想定して小説化しているのだと思う。「三四郎」では、ただ、度胸が無いため、何もおきないで終わってしまうのに対し、「それから」では、後年の“こころ”の場合と違って、愛していながら、義侠心から愛する女性を友人に譲るが、そのあと、結局、友人のほうでうまくいっていないとわかり、友人と話し合って、病人の女性を貰い受けるという、まるで物のやり取りのような関係のあり方を追求した作品である。

 「門」では、まさに、「それから」の続きのような、世間から認められない男女関係に入ったために生ずる日陰者的な生き方、暗い意識のあり方をたどって、仏門にはいるという、贖罪的な生き方が描き出され、その仏門でも満足は見出されないということになる。現代っ子の愛し合う二人で、楽しく奔放に生きるというような形は考えられないような暗さを感じる作品である。

 「こころ」では、友人から告白されたため、“三四郎”と違って、度胸がついて、友人には自分の心境を告白しなかったが、相手の女性の母親には告白して結婚に入る。しかし、結婚が内定した時点で、友人は何も言わずに自殺してしまい、“先生”といわれるその男は、罪悪の意識を持って不幸な結婚生活に入り、その不幸な意識にまけてしまう。

 つまり、漱石は一生、真剣に、“男女の愛欲の問題”を創作化しようとして生き続けた様で、それは、漱石の、ある意味では相容れない不幸な結婚のため、想像の上で、別な愛情関係であればどうであったかという仮定を、いれかわり、たちかわり想定したといえそうである。こんな、愛欲の問題ばかり、ズット考えつづけていたのでは、神経衰弱にもなり、胃潰瘍になるのも無理はないと私には思われる。

 さて、「三四郎」を読んで、おどろいたことがいくつかある。まず、三四郎が列車の中で食べた弁当の空き箱を列車の窓から捨ててしまうこと。今も富士山はゴミの山として世界中に悪名たかいそうであるが、明治の昔から、日本人はゴミを平気ですててきたのだということがわかり、残念な気がした。

 その次には、冒頭の章で、列車のなかの若い女性が名古屋駅で降りるときに、三四郎に自分はこころもとないから助けてくれないかと頼み、三四郎が東京に直行しないで、途中下車して、女につきそい、手頃な宿をさがしだし、部屋があまっていないので同じひとつの部屋で、ひとつのふとんで寝るという話。ひとりでお湯につかりにゆくと、女がはいってきて、背中を流そうといい、それを拒否する。そして、ひとつの布団にまんなかに襞を作って、蚤を理由に、かたくなりながら、同じ寝床で女と何もしないで寝る。翌朝、女から、“あなたは度胸が無い”といわれて別れる。

 この話が今の私には異常である。この女は、子供がどこかにいるのか、京都で子供のおもちゃのようなものを買っている。しかし、やることなすこと、すべてまさに現代的なフリーセックスが身に付いた女性のようで、男に風呂場でもチャンスを与え、寝床でもチャンスを与える。これは、娼婦なのであろうか。子供のある、シングル・マザーがCasual Sexを楽しもうとしたのであろうか、学生であることはわかっているわけだから。この明治の時代にこういう人間が例外的ではなくて、たくさんいたのかもしれない。あるいは、それほど貞操の観念を持たない女性がたくさんいたのであろうか。

 ともかく、へんな女性と一緒に過ごして何も起きず、“度胸無し”といわれ、それがこの小説のメインのテーマとして終始するのである。

 もうひとつ驚いたこと。若い女が電車に飛び込み自殺をする。それが起きる前に、下宿の部屋で、“もうすぐだ”という女の声を三四郎は聞く。そして、しばらくして、女がひき殺された、自殺だとわかる。三四郎は現場に駆けつけ、女の体が二つに切断され、乳房が露出している場面を目撃する。これは漱石の目撃体験を語っているのではないかと思われるほどリアルな描写となっている。

 肝心の三四郎の、美禰子(みねこ)への恋も、婚約者があらわれて、結婚通知をされ、結局、片思いで終わってしまい、すべてが中途半端、つまり“度胸の無い”うぶな三四郎をまず、漱石は描いたわけである。

 小説としては、上記、不思議なともいえるストーリーが展開しているが、中身としては何も無いような小説であった。叙述も、円熟とはいえない。

 「道草」は漱石がイギリスから帰国してからの生活ぶりを10年ほど経って、円熟した境地で自分をも批判的反省的にとらえながら、夫婦間の意識の位相を見事に展開している。そのなかで、妻が出産する場面があり、産婆を呼びにやるが、間に合わず、妻が家でひとりで出産して、夫に“生まれました”と告げる場面がある。ともかく、現代と違って、生殖行為があっての出産であるはずであるが、主人公はあかりもつけないで、ごそごそと赤子を不器用に扱うというか扱いかねるわけで、これも漱石が体験した出来ごとを書いているのであろう。漱石には5女2男の7人が生まれ、この5番目にあたる女の子が2歳ほどで、急に死んでしまい、そのことに関しては、漱石は「彼岸過迄」で展開して、やっと心の重荷が降りたと感じたらしい。この「彼岸過迄」は、探偵小説的好奇心を描こうとして、中途半端で、話題はいつか主人公がかわって、友人とそのいとこの女性との関係について、またまた、決断できない中途半端な男性心理を描き、どうも漱石は、ねちねちと悩むばかりで、決断の出来ない男ばかり描いているような印象を受ける作品である。

 漱石はいわゆる自然主義の私生活描写から距離を置いた文学者・作家であるが、展開する内容はすべて漱石個人の体験やそれに類似した経験が素材となっているのは間違いない。

 今、わたしは村上春樹などを読んでいるが、現代文学の中でも、村上春樹などは小説家としては随分、上手な語り口をもっていて、異質な文学空間を直ちに楽しみ味わえるということで、日本の小説もここまで成長したかとうれしくなる。

村田茂太郎 2012年10月29日、11月7日、11月8日










40 「風の歌を聴け」村上春樹 を読む

 村上春樹は2012年度は有力なノーベル文学賞候補のひとりであったが、どう風向きが代わったか、日本で山中伸弥京都大学教授が生理学医学賞受賞となったことと、そして竹島・尖閣諸島問題で中国・韓国と緊張状態にはいっているため、政治的配慮が働いたのか、今年2012年は受賞からはずされた。しかし、彼の作品はまさに文学としての読む楽しみを読者に喚起するものであり、内容的にも、時にHumanityに深くかかわったりするため、わたしは近未来、この2-3年のうちに受賞は間違いないと思う。

 わたしはこの作品(「風の歌を聴け」)をのぞけば、去年から村上春樹を読み始めたばかりといえるほどで、まさに個人的な感想に過ぎないが、村上春樹の小説はFictionらしさをもったすばらしい作品だと思う。

 「ノルウエイの森」、「羊をめぐる冒険」、 「海辺のカフカ」、 「ねじまき鳥クロニクル(三部作)」が、私の最近読んだ作品である。そして、今、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を読み始めて、楽しんでいる。この「世界の終わり・・・」は。いきなり異次元空間というか、不思議な世界に読者を導入して、文学を読む楽しみを、作者の想像力の見事な展開振りを充分に味わわせてくれる。私小説的な作品には無い、想像力、構想力の魅力を伝える作品である。

 村上春樹の代表作は、「ノルウエイの森」以外は、それぞれ、SFFantasyTeleportation的なParapsychology的要素も含み、童話的で、ストーリーが起伏に富んでいて、興味が尽きない。これらの代表的作品にはつねに茫洋とした感じの柔軟でタフな主人公が登場するが、どれもなんとなく作者の分身というイメージが浮かぶ。そして、これらの代表作を読んだ後で、もう一度、この「風の歌を聴け」を読むと、まさに、古来からいわれているように、最初の作品にすべての要素がもりこまれているというのが本当であるということがわかる。わたしは、ページの最後に記した記録によると、今度で三度目の読了であった。今、上記、代表作を全部読んでしまった後で考えると、この「風の音を聴け」は、作者の方向を決定した重要な作品であることがわかる。

 この「風の歌を聴け」は、自伝的要素と、1960年代を学生として過ごした、もろく、哀しく、むなしさに満ちた一時代をさわやかなタッチと斬新なスタイルで描いている。 彼の作品は、どれも完璧とはいえないところを残すが、小説としての特異な文学空間を見事に生み出している。軽いタッチで性関係も描かれ、時に小説によっては近親相姦まであらわれたりするが、どぎついものではなくて、ストーリーの展開で必要に応じて現れる程度で、それがまさに人物を具体化するのに役立っている。なによりも、Fantasy、メルヘンを読んでいるような楽しさが生まれている。

 「風の歌を聴け」は1970年の夏のひとときを舞台に描かれた、青春のむなしさ、かなしさが強く感じられる、さわやかな小説で、構成も斬新で、まさに内容にふさわしいといえる。

 この小説はデレク・ハートフィールドという1930年代にアメリカのパルプFictionSF, Fantasy, Horror で活躍したという人が重要なキーノートとなって、構成されている。

私はWikipediaGoogle, Bingでこの人を調べてみたが、確かにWeird Talesという雑誌は1920年代から出版されていたが、その代表的作家の中には入っていなかった。このひとについて書いてあるというThomas McClureというひとと、その1968年出版の作品さえ、Web Searchではでてこなかった。それほど、このハートフィールドは忘れられた存在なのである。わたしの確信として、もし村上春樹がノーベル賞を受賞すれば、この、忘れられたアメリカの冒険小説・SF/Fantasy作家デレク・ハートフィールドのある種の作品はRevivalし、再評価が行われるであろう。

 ある本は翻訳などの方が原本より文学的価値があるという場合がときたま発生する。有名なのは通俗小説といわれたアンデルセンの「即興詩人」が、森鴎外の翻訳で、日本では、文学的名作と扱われることになった。

 このデレク・ハートフィールドの場合も、この「風の歌を聴け」に引用されたり、あらすじを紹介される事によって、原作以上の価値が生み出されているのではないかと、私には思われる。少なくとも、わたしの関心を誘ったのは確かである。

 この本の最後の記述によると、著者はハートフィールドのお墓を訪ねるだけのためにアメリカにわたり、バスでNYからOhioまで行き、ちゃんと苦労して探して、お墓を見つけたそうである。高校生の頃神戸の古本屋で外国船員がおいていったらしいハートフィールドのPaperbackをまとめて買ったのがハートフィールドとの出遭いであったという。まさに運命的なといえそうだ。

 行きつけのバーで介抱した若い女性をめぐる、なんとなく物足りない、味気ない付き合いをめぐる話の展開がメインのテーマとなっている。ほかに、たまたま友人になった“鼠”と自称する金持ちの得体の知れない若者とのやりとりが、もうひとつのテーマで、こういう筋らしい筋の無い小説の展開の仕方は、Henry Millerなどがまさに饒舌振りを発揮して展開し、そのあと、On the RoadJack Kerouacなどが展開したように思うが、このあと、村上春樹はFantasySF的趣向をこらして、物語的な興味にあふれた小説を書くように成長していくが、基調は同じ、主人公の青年の偶然の出会いが話の発展のテーマとなっている。

 ラジオのテレホン・リクエストの場面などをはさんで、転調をはかり、それが効果的にストーリーにつながっていくなど、でたらめな展開に見えて実は計算されつくしているわけで、その構成は結果から見れば絶妙といえる。

ともかく、軽いタッチで、青春期のかなしみをさわやかに描いた魅力的な青春小説といえる。ここに、後年、村上春樹が展開するその基本の語り調が完成してあらわれているのが今回の三読目でよくわかった。

「もし、デレク・ハートフィールドという作家に出会わなければ小説なんて書かなかったろう、とまでいうつもりはない。けれど、僕のすすんだ道が今とはすっかりちがったものになっていたことも確かだと思う。」(p。153)。

この「風の歌・・・」のなかで、ハートフィールドの“火星の井戸”という“レイ・ブラッドベリの出現を暗示するような短編がある。”と書いて、大まかな筋が紹介されている。

村上春樹の想像力、空想力の展開は、このハートフィールドから受けた印象が基調になっているということがよくわかる作品である。まさに、彼の文学の方向を決定したような影響を与えた作家ということになる。それも、高校生の頃に古本でみつけた原作が限りない影響力を持ったということで、まさに人生は不思議だと感じさせる出会いであったようだ。

村田茂太郎 2012年10月29日、11月7日、11月8日






41 Jonathan Kellerman 「Victims」を読む

 Jonathan Kellermanは児童心理学でPh.D.を取得した現役の精神科医であったが、1985年に名作“When the bough breaks”〔枝が折れるとき〕で出版会にミステリー作家として登場して以来、世界的なベストセラー作家として活躍するようになった。

 彼の書くものはほとんどベストセラーになるようで、その数も今では膨大な数にのぼる。最初の作品に登場して以来、頻繁にでてくるのが、Alex Delaware という名前の主人公、心理学者・精神分析医で、相棒といえるロサンジェルスの刑事、Lieutenant Milo Stargis と協同して事件を解明するという構想で、今では表紙にAlex Delaware Novelと記されている。

 しかし、それ以外の探偵小説その他も書いており、とてもすぐれたものがある。たとえば、TeenagerHomelessが殺人事件のWitnessになったため、ねらわれるストーリの“Billy Straight”(1998)などは、見事な名作といえる。

 わたしは全作品を読んだわけではないが、最近はPaperbackが出版されれば、Discountですぐに買い求め、400ページ前後のVolumeであるが、1日か2日で読了する。それほど、集中して読ませるだけの面白さをもっているのが、彼の小説である。

この“Victims”もすぐにとびついて買ったわけだが、庭仕事で集中できず、結局2日かかかったが、ものすごく面白かった。一見、関係のないような殺人事件、殺され方から判断して、同じ犯人と推定されるが、殺された人間がそれぞれ、全く関係ないようにみえるにもかかわらず、執拗な探究が解明したのはおどろくべき過去への犯人の妄執であり、それが共犯をふくむかたちで展開されているため、複雑な関係が最後に見事に解明される事になる。主人公AlexPh.D.取得後の精神病棟での勤務体験まで生かされる形で、ストーリーは展開され、非常に興味ぶかく、面白く、また教訓的である。つまり、あるひとは、対人関係が粗暴で、犯人または共犯者の恨みを買い、殺される事になる。

KellermanAlex Delaware Novel は舞台が主にロサンジェルスで、私のよく知っているStreetLocationがでてくるので、読んでいても、より身近に感じられ、楽しいひと時を過ごすことができる。わたしはどうやら既に20冊以上読んでいるようだ。

Alex Delawareが主人公のサスペンスはふつう、主人公Alexの目を通して物語が語られていたと思うが、この“Victims” においては、ホンの少し、Alexが関与していない場面が語られている。どうしたのかと思う。私の大好きなロス・マクドナルドは主人公の私立探偵リュー・アーチャーLew Archerの目を通してストーリーが展開するので、特に方法的になぞを解く正統派としてわたしは評価し(生きた会話とストーリの重みのほかに)、KellermanRoss Macdonaldの系統を引いていると思っていたのだが。いずれにしろ、退屈しないで没頭できるKellermanならではの名作だと思った。“Victims” Ballantine Books, ISBN 978-0-345-50572-9 2012 Premium Mass Marker Edition 村田茂太郎 2012105

42 内村鑑三<余は如何にして基督信徒となりし乎>                                             

小林秀雄の遺作とも絶作とも言うべき未完の傑作“正宗白鳥の作品について”は、いわば、自在の境地に達した達人が、何人かの伝記を通して、“人格”への交渉を確認しようとした作品で、論理が要求するに従って、話しは、正宗白鳥から内村鑑三、河上徹太郎、リットン・ストレイチーに及び、やがて深層心理への言及という形でフロイトとユングに触れられ、ユングの自伝に関する文章の途中で絶筆となった。なかなか味わいのある文章で、とても楽しみながら読めるものであったが、それまで断片的にしか知らなかった、内村鑑三への興味を呼び起こされたのも、この本を通してであった。

正宗白鳥が敬愛した内村鑑三という事で、内村鑑三に関する文章が続くのだが、それがまた、なんともいえない感動的な紹介で、もともと魅力を感じていた内村鑑三に対して、ますます興味をいだかされ、私は日本の友人に、何冊かの本を頼んだのであった。

“代表的日本人”を読み、中公新書の“内村鑑三”を読み、しばらくそのままになっていたが、最近、ようやく、代表作であり、世界的名著といわれる“余は如何にして基督信徒となりし乎”を詠み終わった。

実は、この本は、私が高校生の頃、一度、読もうと思って買ったことがあった。当時、岡倉天心の"茶の本“を愛読していた私は、河上徹太郎の”日本のアウトサイダー“などを通じて、内村鑑三にも興味を覚え、文庫本を買ってはみたが、いざ、読もうとすると、文語体の難しい文章で書かれていたことと、キリスト教そのものに興味がなかったせいで、読み始める前に挫折してしまった。

かわって、父が読み終わり、内村鑑三がキリスト教国であるアメリカで、スリがいるのに、ビックリした話などを聞かせてくれた。あの時から、既に二十年以上経ち、文語の文章に対しては、逆に、現代口語文よりも好きになり、抵抗もなく読めるようになったことと、内村鑑三への興味が小林秀雄によって新たに喚起されたため、キリスト教徒の作品という点では、少し、抵抗を感じたが、思い切って取り組む気になった。そして、私自身は、どのような宗教とも関係はないが、この本はすばらしい名著だと思った。どうして、もっと早く読んでおかなかったのだろうと、今更に残念に思った程、感動的で偉大な本であった。

“余は如何にして基督信徒となりし乎”<How I became a Christian: Out of my Diary> は、1893年、鑑三32歳の時に執筆され、2年後、出版された。原書は英文で書かれ、はじめアメリカで売れなかったため、著者を失望させたが、ドイツ語版が出版されてからは、たちまち有名になり、各国語に訳されるに至った。日本語訳が最も遅く、1935年にはじめて鈴木俊郎によって完訳された。私が読んだのも、この鈴木訳による岩波文庫版である。

内村鑑三は1861年に生まれ、1930年に亡くなった。日本が生んだクリスチャンの中では、最も独創的で大胆な思想家であり、日本土着のキリスト教信仰を志向して、無教会主義を唱えた。明治の生んだスケールの大きな、型破りの偉人の一人であり、明治という時代のもつ土壌の豊饒さを象徴するような人格であった。

この本は、英文副題にもあるように、彼の日記を土台として、自己の精神の成長過程をふりかえってみた半生の記録であり、自伝である。それは、また、信仰の確立を宣言した宗教的闘争の書でもあった。表題日本語は内村自身によって決定せられ、訳者鈴木俊郎は、鑑三の他の日本語の著書に見られる文語調の風格を生かした日本文に移しており、内村鑑三自身が日本語で書いたと思えるほど、格調高く、味わいのある日本文となっている。

この本は、著者によって、人生という海を航海する“航海日記”とも名づけられている。それは、武士の家に生まれ、育ち、儒教に早くから親しんで育った著者が、札幌農学校でキリスト教に接してから、とうとう、ニューイングランドに留学までし、真のクリスチャンとして回心すると同時に、日本的道徳や愛国心に目覚めて帰国するまでの波瀾に富んだ半生の記録である。

私にとっては、あまり好きでない宗教的内容について書かれたものであるにもかかわらず、私を感激させ、名著だと確信させた原因を探ってみたが、それは、結局、キリスト教とは関係なくあらわれてくるところの内村鑑三その人の人間的・人格的魅力のせいであったといえる。札幌農学校時代の朋友との明るく愉快な体験記録から、ニューイングランド、アマースト・カレッジでの、貧しく厳しい環境の中での感動的な体験に至るまで、一貫してあらわれてくるのは、内村自身の雄大な人格的魅力である。

“ヨナタン”と自分でニックネームをつけた内村鑑三(“余は友情の徳の強い主張者であり、ヨナタンのダビデに対する愛が、余の気に入ったからである”)は、自分自身について、“突進的思想”の持ち主とか、“若く理想的にして衝動的である”という風に的確に自覚しており、その同じ、余裕、大胆、ユーモアが文章にあふれている。あくまでも冷静な、批判的精神を失わず、どのような熱狂の中にいても、クールに自分や周囲を観察すると共に、大胆な行動家であり、信念を貫徹する忍耐の人でもある。鋭敏で率直であり、純粋で楽天家でもある。まさに、この人格は、武士と儒教との血統の産物であり、それだからこそ、アメリカで学びながら、逞しく批判していく事も出来たのであった。

河上徹太郎は晩年の名著“吉田松陰”の副題を“武と儒による人間像”と名付けたが、たしかに、明治期にうまれた幾多の優秀な人物達は、本物の教養ともいうべき武士の精神と儒学の道徳・教養を身につけていて、それが、新しい西洋の知識や教養の土台となる事によって、すぐれた日本的成果が生み出されるに至ったのであった。岡倉天心がそうであり、河上肇もそうである。それぞれの個性は伝統的な武と儒の教養を土台として築かれていったわけであり、そこに彼らの自信も強さも、そして、アウトサイダー性も基づいていたといえる。従って、キリスト教への信仰の書であるにも拘わらず、あまり宗教性を意識しないで、個人の成長の記録として、面白く、楽しく読むことが可能なのであり、著者の魅力の中に没入できるのである。

内村鑑三にとって、三年半のアメリカ生活は、彼が本物のキリスト教徒になるうえで必須のものであったのであり、同時に、日本人という武士道と儒教道徳で成り立っている国民への愛国心をめざめさせるものであった。それは、後年、教会に依存しないキリスト教徒の集合としての無教会主義のアイデアを生み育てるものでもあった。

鑑三は、異国で生活する中で、孤独と国民と郷愁についての認識を深めたのであった“逆説的のように見えるけれども、我々は自分自身について、より多く学ばんがために世界に入っていくのである。自己はいかなる場合にでも、他の国民と他の国に接触する場合ほど明らかに我々に示される事はない。内省は、もう一つの世界が我々の眼に示される時に始まるのである。”

ペンシルヴァニア人医師との接触を通して、キリスト教の教義などよりも偉大な何かを学ぶ事ができた。“真の寛大とは、余の解するところによれば、自分自身の信仰には不屈な確信を持ちながら、すべての正直な信仰はこれを許容し、寛容することである。余は、ある真理は知ることができるという余自身への信仰と、余はすべての真理を知ることができないという余自身への不信仰とが、真の基督教的寛大の基礎であり、あらゆる善意とすべての人間に対する平和的関係との源泉であるのである。”

1887年11月3日、“余ハ<ネバナラヌ>ヨリ、ヨリ高キ道徳ヲ求メツツアリ。余ハ神ノ恩恵ヨリ来ル道徳ヲ渇望シツツアリ。然シ、カカル道徳ハ人類ノ大多数ニヨリテ拒否セラルルノミナラズ、神学校ノ学生ト教授ニヨリテ信ゼラルルコト甚ダ少キガ如シ。余ハ此ノ神聖ナル壁ノ中ニテハ、外側ニテ聴ク所ノモノヨリ何等新シキモノ、異ナルモノヲ聞カズ。孔子ト仏陀トハ、是等ノ神学者ガ僭越ニモ異教徒ニ教ヘントシツツアル所ノ最大部分ヲ余ニ教ヘ得ルナリ。”キリスト教に回心していても、儒教や仏教の優れたところは、はっきりと見て取っていたわけであり、批判的態度は常に失わなかった。

内村鑑三の醒めた意識は、アメリカの文明の中に耽溺してしまうことはなかった。“余は全く基督教国に心を奪われたのではない。三年半のそこでの滞在は、それが余に与えた最善の厚遇と、余がそこで結んだ最も親密な友情をもってしても、余を全くそれに同化せしめなかった。余は終始一異邦人であった。そして余はけっしてそうでなくなろうと努力した事はなかった。”

内村鑑三は、日本的武士道と儒教道徳の上にキリスト教が教化されるなら、それは、世界のどのキリスト教国にも例を見ないほどの、ヨリ高く、ヨリ完全な人類の発展段階に達すると考えていたようであり、そのための教育に心を燃やしたらしい。此の書の各所に教会や教団の腐敗や堕落に対する非難の言葉がばらまかれており、西欧文化がかなりまちがったその種の上部建築で毒されている事をハッキリと指摘する。

しかし、鑑三自身のキリストそのものへの信仰はより深まっていく。はじめて、アメリカに着いた時に、同行の一人が貴重な大金をスリとられて、キリスト教国でこんなことがあるのかとビックリした鑑三も、僅かの間に成長し、次のようにまで言うに至る。“最大の光にともなう最大の暗黒というこの光学現象を観察せよ。影はその投ずる光が明るければ軽いだけ濃いのである。真理のひとつの特性は、悪をより悪とし、善をより善とすることである。・・・もし、基督教がすべての人に対する光であるならば、それが、悪を善と同様に発展させる事は不思議とは思われない。それゆえ、我々は当然に、基督教国において最悪の悪を予期してさしつかえない。”

1888年5月16日“夜半。午後九時三十分。家ニ到着ス。神ニ感謝ス。余ハ約二万哩ノ旅ヲ了ヘ遂ニ此処ニ在ルヲ。全家族ノ歓喜際限ナシ。恐ラク余ノ貧シキ両親ノ嘗テ経験セシ最モ幸福ナル時ナリシナルベシ。弟ト妹ハ大キクナレリ。前者ハ元気ナル若者、後者ハ美シキ娘トナレリ。父ト終夜語リ合ヘリ。母ハ世界ノコトハ知ラント欲セズ。タダ己ガ子ノ無事ニ家ニ帰リシヲ喜ブノミ。余ハ神ニ感謝ス。余ノ不在ノ此ノ歳月ノ間中、余ノ家族ヲ守リ給ヒシコトヲ。”

“余は、夜遅く我が家に着いた。丘の上に、杉垣に囲まれて、余の父親の小家屋が立っていた。<お母さん>余は門を開けながら叫んだ、<あなたの息子が帰ってきました。> 苦労の影を増した彼女の痩せた姿の、いかに美しき!デラウエアの友人の選んだ美女に認め得なかった理想的美を、余は再び余の母の神聖な姿において見出した。そして、余の父、この広漠たる地球上に、一エーカーの十二分の一の部分の所有者、-彼もまた立派な英雄、正しい、そして忍耐の人である。・・・ここは余のホームにして、また余の戦場でもある。・・・余の帰宅の翌日、余は異教徒によって発起されたという一基督教カレッジの校長の地位への招請を受けた。奇妙な組織なるかな。これは、世界の歴史に独一である。・・・此処で、此の書は閉じなければならない。余は諸君に如何にして余は基督信徒となりしかを語ってきた。・・・”

孔子のいう“述べて語らず”の方法をとらざるを得ないほど、叡智と感動に満ちた本であり、充実した本であった。伝記文学としても傑作である。人格への感銘がいつまでも残る名著である。

(完                     記 1985年12月31日)  Word Input 2010年7月23日




43 “二重ラセン”をめぐって (ロザリンド・フランクリンとDNA       

最近(1985年)、私は続けて二冊の本を読んだ。ジェームス・ワトソンの“二重らせん”(“Double HelixBy James D. Watson)と アン・セイアーの“ロザリンド・フランクリンとDNA” (“Rosalind Franklin & DNA” By Anne Sayre)である。ワトソンとは言うまでもなく、1953年の偉大な発見者=“遺伝子の分子構造”の発見者の一人であり、そのDNA構造模型は"ワトソン・クリック・モデル“として、今では、二十世紀の最大の発見の一つとして評価されている。1953年にはワトソンは若干25歳の青年であった。1962年、ワトソンはイギリスのクリックとウィルキンスと一緒にノーベル生理学賞を受賞した。

遺伝子の本体であるDNAの分子構造の解明は、1951年ごろから時間の問題となっていた。これを解明したものがノーベル賞をつかむということも、はじめからわかっていた。しかし、この”世紀の発見“は、プランクの量子論やアインシュタインの独創的な相対性理論とは、全く質を異にしていたといえる。特殊相対性理論が発表されてから、一般相対性理論の完成に至るまでに十年の歳月を要したにもかかわらず、アインシュタイン以外の誰も手をつけることが出来なかったのに対し、このDNAの構造の解明は、実力のある科学者であれば、遅かれ早かれ、解明に成功したに違いなかった。そして、はじめから、その競争を意識していたのが、アメリカのワトソンであった。

1968年に発表されたワトソンの“二重ラセン”は、1951年から1953年の回想記であり、ワトソン・クリック・モデルという生物界最大の発見の当事者による経過記録であり、ノーベル賞獲得への記録ということもあり、誰にも読める体裁をとっているので、ベスト・セラーとなった。“ダーウィンの進化論以来の生物学的発見”の内幕を表明したというのだから、科学に興味ある人が争って読んだのも無理はない。

この“ワトソン・クリック・モデル”が解明したことは、自然はバランスのとれた見事な構造を展開しているということであり、遺伝の仕組みが、その合理的な秩序だった法則によって展開されているということが、はじめて、誰の目にも明らかに示されたことであった。

ワトソンによると、彼が最大の好敵手とみなしていたのは、Cal Tech (カル・テック)の天才化学者ライナス・ポーリング(Linus Pauling)であった。この化学界の巨人は、量子力学を化学の領域に適応して、化学結合や様々な領域で重要な業績をあげていた。ポーロングは、既に、アミノ酸結合の形態としてのアルファー・ラセンを解明していた。そして、1954年には化学界における彼の全業績に対してノーベル化学賞が、1962年には、同じく、彼の平和運動への貢献に対してノーベル平和賞が授与された。(これは、単独受賞としては、ノーベル賞史上唯一の存在である。)

ワトソンの“二重ラセン”は、この輝かしい発見への道を提示したものであったが、それは、この発見への過程における、ある種の曖昧さをも明示するものであった。ワトソンがDNA解明への競争相手として意識していたのが、単にカル・テックの偉大なポーリングだけでなく、イギリスのキングス・カレッジのモーリス・ウィルキンスとロザリンド・フランクリンであったということも明らかである。ケンブリッジ大学のフランシス・クリックと組んだワトソンは、クリックからDNAの構造解明の重要さを学び、若い彼の野心を最大限に発揮するに至るのだが、この“二重ラセン”の中で、ロージィ(Rosy)と呼ばれて登場する女性科学者ロザリンド・フランクリンの存在こそ、彼らの偉大な発見のキーポイントであったと感じさせる。

だが、奇妙なことに、この本の中で登場するロザリンドは、非女性的な、頑固な科学者であり、ワトソンたちによって毛嫌いされ、からかわれ、皮肉られてばかりいる存在である。ただ、エピローグにおいて、37歳の若さで、癌で亡くなったこの女性科学者に対するワトソン自身の最初の印象がまちがっていたことが述べられ、彼女の科学者としての業績があげられている。

しかし、いずれにしても、この“二重ラセン”を読んだ限りでは、ロザリンドという女性科学者のイメージは悪く、あるアメリカの高校のPTAの会合で、ある父親が、立ち上がって意見を述べ、高校で女性に理科を教えることはやめてもらいたい、自分の娘が科学に興味を持ち、ロザリンドのような頑固でわからず屋の女性になるようなことになっては困るから、と言ったそうである。

アン・セイアーの“ロザリンド・フランクリンとDNA”は、このワトソンの“二重ラセンによってつくられたロージィという女性のイメージを粉砕するために書かれ、1975年に発行された。アン・セイアーは、ドクターロザリンド・フランクリンの親友であり、ワトソンが伝えるイメージがいかにまちがったものであるかを、確実な資料によって訂正しようとしたものであった。

1962年のノーベル生理学賞はDNAの分子構造を解明するのに貢献した三人の科学者に授与された。その時、すでにロザリンド・フランクリンは亡くなっていた。栄光は三人の上に輝いた。しかし、もし、ロザリンドが生きていたらどうであったか。ワトソン・クリック・モデルの発見者として、ワトソンとクリックの正当性は誰も拒否できない。しかし、モーリス・ウィルキンスはどうなっていたかという疑問が読者の胸に沸き起こってくる。そして、私も、この著者と同様、ロザリンド・フランクリンこそ、1962年の遅すぎたノーベル生理学賞の受賞者の一人であったに違いないと思う。

遺伝子の分子構造である“二重らせん”の解明に、最大の手がかりを与えたのが、DNAX線回折であったが、この領域でナンバーワンの実力を発揮し、自身でもらせん構造に気がついていたのがロザリンドであった。ワトソン・クリックの“二重らせん”の発見の手がかりとしても、その証明としても、ロザリンドのX線回折は最も貴重な宝物であった。ワトソンが恐れていたように、分子結合解明の巨人ライナス・ポーリングが、このロザリンドのX線回折を見る幸運に恵まれていたら、ポーリングはまちがいなく、自分で“二重らせん”を解明し、いわば、ノーベル賞を三つ受賞していたに違いない。ポーリングが“二重らせん”をミスしたのは、、ロザリンドのX線回折を見るチャンスがなかったからであり、それ程、ロザリンドの仕事は、この“世紀の発見”において、重要な位置を占めていた。そして、ワトソン自身も、このX線回折を、ロザリンドが知らない間に、いわば非合法に手に入れて、彼らのモデル作成の重要な手がかりとしたのであった。

ワトソン・クリック・モデルは、明らかに、ワトソンとクリックの独創によるものであったが、彼らはその栄光を独り占めにしてしまい、結局、ワトソンの“二重らせん”の中では、ロザリンドは“らせん構造”の頑固な反対者として描かれている。一体、どうしたことであろう。この生物学界 “世紀の発見”が、相対性理論のようなものとは、全く質が異なると思えるのも、この辺の事情による。

ワトソンの“本”によれば、彼らが成功したのは、ポーリングのモデル理論とロザリンドのX線回折の結合であったことは明らかである。そして、この本では、ロザリンドはキングス・カレッジでモーリス・ウィルキンスという科学者のアシスタントのような位置に置かれてしまい、ロザリンドとモーリスとの協力関係が曖昧にされている。事実は対等の関係であり、DNAX線回折では、モーリス・ウィルキンスも、ロザリンドに教えを請わねばならなかったのである。そして、ウィルキンスがノーベル賞に浴したのも、“二重らせん”解明の手がかりとして、“X線回折”が果たした役割の大きさのゆえである。そうであれば、一層、ノーベル賞は、当然、ロザリンドのものであったはずだということになる。もちろん、死者には贈られない。ポイントは、この“世紀の発見”への彼女の貢献度を正当に評価することであった。

ワトソンの“二重らせん”は、それを逆に意識したためか、或は、彼自身の1951-1953年の個人的な回想録として、それが、ワトソンにとって、そういう印象付けられていたということであったためか、ともかく、ロザリンドという女性が、この発見への障害物といったイメージで描き出されており、もし、アン・セイアーの記述が正しいとすれば、この、ロザリンドの友人が、ワトソンの著書に対して怒りを覚えたのも納得がいく。“歴史における科学”を書き、自身、優れた結晶学者であったイギリスのJ.D.バーナルは、早くから、ロザリンドの正当性を認めていた。特に、DNAX線回折においては、世界の第一人者であり、DNAA型と B型の違いを、写真で初めて明らかにしたのもロザリンドであった。このB型が、二重らせんの解明に直接つながっていくのだが、彼女の死後、いつのまにか業績はモーリス・ウィルキンスのものとなってしまった。全てを知っているアン・セイアーが怒りを覚えるのはここである。エンサイクロぺディアにまで、まちがった情報が載ることになった。

アン・セイアーの“ロザリンド・フランクリンとDNA”は、この夭折した女性科学者の人間と業績を辿り、特に、有名な“二重らせん”モデル発見に至る貢献度を解明したものであるが、それは、同時に、女性であって、科学者であるということが、いかに困難なものであるかを示したものであった。当時、戦後すぐの英国では、女性の科学者は稀であり、いわば、男性と平等に扱われる状態にはいなかった。キングス・カレッジでは、食事さえ、女性は男性とは異なる場所であった。そういう情況の中に入っていった優れた結晶学者ドクターロザリンド・フランクリンを待ち受けていたものが、モーリス・ウィルキンスであった。彼がキングス・カレッジでは唯一DNAと取り組んでいて、その共同研究者の一人として、ロザリンドは入っていった。そこに悲劇が生まれた。

この関係の不幸は、性格の違いにあった。あるドクターは、“Crash Of Character”(性格の衝突)と呼んだ。二人の関係は、最初から、水と油のようなものであり、陽気で議論好きでオープンなロザリンドは、モーリス・ウィルキンスの陰性な性格とは肌が合わなかった。

イギリスに来たワトソンは、ウィルキンスとは、うまくつきあい、ウィルキンスを通して、ロザリンドという女性科学者を知るようになった。“二重らせんに描かれたロザリンドのイメージの悪さは、一部、ロザリンドと犬猿の中といえた、モーリス・ウィルキンスの色眼鏡を通して語られているのは、間違いないであろう。ウィルキンスは全く自分とタイプの違う女性科学者を扱いかねていた。(アン・セイアーは、この二十年、ウィルキンスが大学院生を指導したのは男性ばかりであるという、いわば、彼の女性蔑視の事実を指摘する。)

ロザリンドは、しかし、その2-3年の間に、重要なX線回折を行って、ウィルキンスとは決裂し、淋しく、ドクターバーナルのもとへ、去っていった。その後も、重要な研究を発表し、1958年37歳の若さで、癌で亡くなった。既に、結晶学の第一人者といえたロザリンドの病床に、カラカスの研究所から、一年間招聘したい旨、手紙が届いていた。彼女はなくなり、手紙は返事されないで終わった。彼女の論文は、科学誌で最も権威のある“ネーチュアー”〔自然〕にも、いくつか載せられた。女性らしい緻密さと明晰さを示したものであるらしく、それは、DNAX線回折においても、既に示されていた。

すぐれた女性科学者ロザリンド・フランクリンの名前が忘れられ、或は、ゆがめて伝えられたため、アン・セイアーは、“生き残ったものが勝ちを独占する”という。ワトソンが示したことは、科学的発見や業績の確立のためには、合法であろうとなかろうと、利用できるものは利用し、一番乗りをしたものが勝ちであるという方法であったと彼女は言う。そのため、以降の科学者たちの多くは、これまでの科学者達を支えていた筈のモラルを喪失し、自分の業績のためには、人を押しのけ、蹴倒し、踏みにじって平気といことになった、と。もちろん、ワトソンの業績は偉大である。しかし、その業績が生まれるためには不可欠であったロザリンドの業績に対する正当な評価もなく、彼女の死後、反論も出来ないような状態になってから、私的回想録とはいえ、歪んだイメージをふりまくのは、死者に対する冒涜である。友人としては、この本を書かざるを得なかった、ということになる。

ワトソンの“二重らせん”は、“発見”への競争という緊張に満ちた劇であり、青年らしい野心と豪放さで生きていた時を、その時の資料を下に回想したものであり。発見が発見だけに、とても興味深く、没頭して読めるものであった。そして、これを読んだ私は、やはり、ロザリンドという女性科学者を頑固で、どうしようもない女性と受け取った。ロザリンド・フランクリンとDNA”を読んで、私は驚いた。ここには、生涯、独身で通し、研究に生き甲斐を見出し、緻密さと独創性を持った、快活で明るく偉大な科学者の姿が描かれていた。さらに、DNAのラセン構造が、ワトソンの主張するのとは異なり、彼女によっても、独立して認められていたこと、ノーベル賞は当然、彼女も値したことなどを知った。

“二重らせん”構造の発見は、確かに、語られるに値する出来事である。そして、それに至る過程が、ある意味ではスキャンダルに富んだといえるものであったことは、ワトソンの著書によって明らかである。そして、回想録が個人的なものである限り、たとえ、歪んで解釈していようと、文句を言えた筋ではないかもしれない。しかし、事実を歪曲することは許されない。ノーベル賞という科学者として最高の栄誉を掴んだワトソンが、世紀の発見の内幕を叙述する必要を、その解明の当初に感じていたのも当然と思えるが、いくら、その序文で、この“二重らせん”が、発見当時の雰囲気を描くため、たとえ偏見や独断に満ちていようと、自分がその時感じていたように書いたという註釈をつけても、アン・セイアーにその不当ぶりを指摘されれば、文句は言えないに違いない。

ここで、明らかになるのは、回想記を書く困難さであり、登場人物に対する配慮の必要である。影響力を持った人は、それだけ、一層、慎重でなければならない。特に、既に、死んでしまった人を登場させるときには。

(完                 記 1985年12月15日)  Word Input 2010年7月22日






44 高群逸枝<火の国の女の日記>を読んで                                                 

私がいつか日本に行く機会があれば、鎌倉の東慶寺にあるという小林秀雄のお墓参りを是非したいと思っている。今度、この<火の国の女の日記>を読んで、完全に彼女の偉大さに魅せられた私は、熊本県松橋町にあるという、彼女の“望郷の碑”も必ず訪れたいし、お墓参りもしたいと思った。

これは、素晴らしい本である。こんなに感動的な本にはめったに出会う事がない。私が日記や書簡集に興味を持っている関係から、ある日、友人に、題名を見て、興味を覚えて送ってもらう事になったが、それまで、このような本がある事すら知らなかった。読み始めるなり、大きな感動が私をとらえた。友人には早速、感謝の手紙を書いた。

“日記”となっているが、日記を中心にして、著者の死の一年前から執筆された自叙伝であり、死後、夫の手により完成された。私は、今、この自叙伝を読み終わったばかりで、彼女のライフ・ワークに接していないが、ここに書かれていたことから察すると、彼女の日本歴史上に占める位置は、“源氏物語”を書いた紫式部に匹敵すると言える。彼女の日本女性史に関する三十年に及ぶ緻密で膨大な研究は、まさに天才的といって言い過ぎでない。

ところが、この自叙伝の魅力は、そういう、彼女の天才性だけにあるのではない。多事多難で波乱に富んだ充実した生涯を鮮やかにも美しく生ききったところにある。実社会の動乱にもまれても、常に天性の気品を失うことなく、純粋な詩魂を維持しつづけ、大きく成長していった、そのまれにみる人間性の美しさが、激しく胸に迫ってくる。私は朝の通勤バスの中で下巻を読了したが、その間、感動に襲われて、何度か目頭があつくなり、時々湧いてくる涙をぬぐわねばならなかった。こんなに感激したのは、本当に久しぶりの事だ。私は高群逸枝を大好きになった。こんな素晴らしい女性が、実在していたということを知ることは、人間としても、男性としても、限りない喜びである。この本は、一人の人間の成長の記録であり、明治から昭和までの社会史であり、そして、夫婦和合の最も美しい記録である。

高群逸枝は明治27年、熊本県下豊川村に生まれ、昭和39年に70歳で亡くなった。父勝太郎は小学校の校長で、人徳を慕われる暖かい人間性と高い教養を身につけた人であった。この父と母の夫婦愛はきわめてこまやかで、終生かわることがなく、このすぐれた両親の下に育った彼女は、その点ではなによりも恵まれていたといえる。早くから漢学の教養をたたきこまれ、詩才を縦横に発揮した。(この日記には、ほとんど全編に、詩・短歌・俳句があふれたいる。)彼女は病弱であったため、熊本師範を退学し、最終的には熊本女学校を卒業した。(大学へは行っていない。)

23歳で婚約してから、37歳でハッキリと目標を日本女性史に据えて、孤独な研究生活に入るまでは、お互い(夫婦)の成長にとって、欠くことが出来なかったに違いない激しく劇的な体験がおりこまれねばならなかった。

二十歳(はたち)そこそこの若さで、一人、西国八十八箇所の巡礼に出て、途中、七十過ぎの老人と連れ合いになって、最後まで貫徹していく姿は、感動的な美しさをもっている。家族・友人との交友の細やかさも、心温まるばかりである。お互いにひと目で愛し合った夫婦であったが、思想も信条も違う夫との生活に調和できず、何度か家をとびだしたりするが、彼女の一途な性格の純粋な美しさと彼女の稀有な才能が、ついに夫を目覚めさせるときが来た。彼女が37歳の夏、夫は自分のこれまでのあやまちを反省し、今後は彼が後援者になり、生活の保証はするから、彼女は自分の長所と才能を生かし、女性史の体系化につとめるべきだと説き、その実行にかかった。そして、一作を生み出すのに七年とか十三年とかという膨大な努力をつみかさねて、三十数年にわたって、それまで誰も手をつけなかった女性史の研究を完成させていった。

“母系性の研究”、“招婿婚の研究”、“女性の歴史”、“日本婚姻史”と、男女の関係の在り方、家族制度という最も重大でありながら、誰も解明できずにいた問題に、科学的に厳密な解答を与えたのであった。古代・中世の漢文日記や和文日記をすべて緻密に読解していく彼女の、その能力と徹底した方法は、その結果をきいただけでも恐れ入って頭が下がるばかりである。人はその業績をきくと、彼女はガリ勉型のコチコチの魅力の無い女性と判断しかねない。事実は、多感すぎるほど繊細で可憐な、それでいて、単に優れた表現力だけでなく、冷静な分析力と判断力を備えて、しかも、ニワトリの生死に一喜一憂する心優しい女性なのだ。

<火の国の女の日記>に載っている、いくつかの短歌・俳句などをとりあげてみよう。

そこはかと 美しき山 はびこりて 

焔のごとき 少女なりしか

これは、大人になってからの回想に違いないが、子供の頃の美しさをよく歌い上げている。

コバルトの 空の下なる 明かき野に

手を打ち群れて 父上を待つ                                           〔十三歳頃の作〕

非常に家庭的で、家族そろって送迎をする光景を明るく歌っている。

巡礼の中でうまれた歌には、感動的な作品が多い。

さびしさは 肥後と豊後の 国ざかい

境の谷の 夕ぐれの みち





双の眸に あふるるほどの なみだして

ゆう日 美(く)わしき 山をみるかな



十重二十重 遠きはとけて 雲に入る

わがこしかたの なつかしき山



秋晴れの すすきの野べの 昼の道

風に吹かれて 物も思わず



この遍路の日記は、文語文で書かれ、古典的とも言える名文である。

恋愛と結婚、そして、その後の苦悩を経て、彼女の短歌は定型(31文字)から破調(自由律)となる。



人の声 野の声 人の声

道遠く 秋の響す



きょうの日は 暮れぬ

まずよろこばん きょうの日を



父への墓碑銘も、彼女が書いた。

叱られた こともありしか 草の露



母系性の研究“にとりかかった年の賀状に

新年や 机の前に われひとり



書斎日記から

苦しみも楽しみにして むりをせず

生きて行かむと 思うこのごろ



彼女は日曜も返上して、一日平均最低十時間の勉強を課し、三十数年にわたって実行した。

野ざらしの 心をもちて 勉強す



ゲーテが“天才とは努力する事が出来る才能だ。”と言ったそうだが、単身、こつこつと難解な古文・漢文にとりくんでいく姿を見ると、まさに至言だと思う。





“学問と花”



学問はさびしい

途中で一二度世間の目にふれることもあるが

すぐ雲霧のなかに入る道

この道を こつこつゆけば

路傍の花が “わたしもそうですよ”という

春は なずなの花が

秋は 尾花が そういう



未知の国へ



永遠に旅するこころ

それこそは

わが生涯の姿である

旅はひたむき

路傍への期待はない

進んで進んで

ぐんぐん進んで

ひたむきに 進み入ろう

雲白い 未知の国へ



これらは、前人未到の探究へ踏み出した自分を励まそうとした詩である。



幸いな事に、彼女の労作は、生前から評価され始め、日本はもちろん、世界の国々にまで彼女の名前と業績は知られるに至った。彼女が生まれた町は、彼女を文化功労者として表彰し、後に彼女の作った“望郷子守唄”の碑を建てた。日本のあらゆる女性運動は、その女性解放への理論的根拠を解明したものとして、高群逸枝に最大の敬意を払った。



しかし、今にして、ふりかえれば、ただ単に高群逸枝一人が偉かったわけではない。自分の妻の偉大さを誰よりも早く発見し、この人のためには自分は捨石であっても良いと考え、それに徹する事によって、妻の天才の開花を成功させた夫、橋本憲三の彼女への愛なくしては、すべてが空しく終わったに違いない。はじめから、しっくりと合っていた訳ではないこの二人の愛が、お互いの成長を通して、夫婦一体といった真に美しい和合のあり方を示すに至ったのは、真に賛嘆に値する。



二十歳の橋本憲三は、はじめて高群逸枝に逢った感想を次のように日記に記した。

“昨夜は人間の普通の概念と見かたでは表現する事のできない女性に出会った。彼女は異様に美しかった。はっと心を躍らすものがあった。その特徴は、けがれを知らないその瞳にあらわれていた。・・・自分はこの娘と生涯結び付けられるだろう宿命を直観した。そして、なぜか、われにもあらず、せんりつを禁じ得なかった。これは、自分の二十年の生涯にはじめて与えられた、いわば運命の恩恵とでもいうべきものかも知れない。この恩恵を生涯けがさないことを、ここに、正直に誓っておく。”



そして、逸枝37歳の夏、憲三は逸枝に言った。

“あなたは、長い間、私に従順であってくれた。あなたの持っている才能などは惜しげもなく、いってきして、それとはまったく裏腹な、売文稼業で、家計を助けるため、自己の能力をすりへらしても悔いはなかった。・・・あなたのなかに、あなたの本来の火の国的な炎のような個性や高貴な才能や、あなたの全面的に人をはっとさせる野生的な美貌―これらの抑圧されていたものが、一時に輝き出た事は、まさに驚嘆すべき現象だったと思う。・・・それは、私をまったく魅了するものだった。私はそういう名状しがたい、しかも、ふだんは隠されている本来の美質をもったあなたを絶対に失いたくなかった。私は跪いて、あなたのしもべになっても悔いるところがないと思った。どんなことをしても、あなたを手放したくなかったのです。・・・あなたの才能は非凡だ。稀有のものだ。それは、むしろ、天来のものだ。私はそれをこの目で見てきた。才能のみでなく、性格の底知れぬ純粋さも。それは、私が八代駅の出会いで見た最初のあなたの印象とすこしもかわりがないものだ。・・・あなたの長所と使命とは、長い年月、あなたのなかに蓄積せられてきた、女性史の体系化だ。生活は私が保証する。”



そして、そのあと、憲三は自分の誓いを忠実に守って、彼女の天才の開花のたけに献身して悔いを感じなかった。二人の愛は、ますます純粋になり、透明になっていった。



(完                 記 1983年9月22日)          Word Input 2010年7月21日






45 “ヘルマン・ヘッセの童話”                                                                                        

ヘッセは、トーマス・マンとともに、二十世紀前半のドイツ文学を代表する優れた作家であり、日本では高橋建二氏らが、早くから、ほとんど完璧な日本語訳を刊行していたのに対し、アメリカでは一般に親しまれだし、翻訳され始めたのは1960年代後半になってからであった。

日本では、青少年の間では、甘美で若々しく、繊細な作品を書いた人として知られていたが、もちろん、その程度の理解なら、ヘッセの半分もわかっていないとハッキリ言える。人によって好き好きであるが、私が択ぶヘッセの代表的五大作は“ペーター・カーメンチント”(郷愁 または 青春彷徨 と訳されている)、“デミアン”、“ナルチスとゴルトムント”(“知と愛”と訳されている)、“荒野の狼”、“ガラス玉演戯”である“ペーター・カーメンチント”を除くと、どれも社会的・時代的・方法的・内面的に問題作であり、ヘッセは“ガラス玉演戯”によって、ノーベル文学賞を受けた。まさに、ヘッセの最も円熟し、完成した最高傑作であり、また、それだけに淡々とした難解さを含んでいる。“ゲルトルート”(春の嵐)とか、“ロスハルデ”(湖畔のアトリエ)などは、ヘッセ研究には役立つが、以上の五冊にくらべると、どうでもいいようなものである。人によっては、“ペーター・カーメンチント”のかわりに、“シッダルタ”をとるかもしれないが、私にとっては、“ペーター・カーメンチント”こそ、最も大切な作品であり、大好きな作品である。この作品だけは、既に2-3回、読み返している。出世作であり、自然児ペーターを主人公とした、みずみずしく、生気溌剌とした作品で、消耗した精神を癒し、元気付けてくれるものをもっている。単純な美しさで輝いている。

そのヘッセに、“メルヒェン”と題する短編集がある。メルヒェン とは、ドイツ語で“童話”のことであり、その名のとおり、この“メルヒェン”には、“大人のための童話”が何篇か集められている。優れた作品を数多く発表したヘッセの作品の中でも、最も美しい作品の一つであり、サン・テグジュペリの“星の王子さま”と同じように、一度読むと、いつまでも心に残り続ける名作集である。中でも、“アウグスツス”と“アヤメ”は傑作である。単なる童話に終わらないで、愛とは何か、生とは何か、死とは何かを深く考えさせる重みをもった作品となっている。

小さなアウグスツスは、夫をなくした、若く貧しい母親に祝福されて生まれてきた。母親は名付け親のおじいさんの忠告に従って、一つの願いをささやいた。“みんなが、お前を愛さずにはいられないように!”と。アウグスツスは美しく育っていき、誰からも愛され可愛がられた。悪い事、間違った事、ひどいいたずらをしても、誰もが気にしないで、やさしく許してくれた。時々、母親として厳しくしかると、アウグスツスは、みんなは自分にやさしくしてくれるのにと不満を言うのであった。それで、母親は、みんなが彼を好くのは、自分の責任だ、あんな願いをしないほうが良かったかもしれないと、悲しみながら、ほとんど恐怖の念にかられるのであった。アウグスツスはだんだん悪くなっていった。誰からも愛され、甘やかされ、人気があるので、ほとんどあらゆる種類の犯罪や悪徳に耽るばかりであった。そのうちに、すべてに厭きてしまったアウグスツスは、何に対しても喜びを感じなくなった。彼の汚れた人生は、醜く、生活は無価値で、生き甲斐もなにも感じなかった。とうとう、或る時、アウグスツスは一つの決意をした。友人達をパーティに招き、自分の死体を見せてやろうと。

いよいよ自殺の決意をして、毒杯を飲もうとしたとき、どこからともなく、名付け親の老人が現れて、彼の代わりに飲んでしまった。あらゆる悪行をしてきたアウグスツスだが、この老人に対してだけは、懐かしい気持ちをいだいていたので、驚いて叫んだ。老人は、全てを理解している風をして、“君の不幸の一端は自分にある。なぜなら、お母さんが君の洗礼のときにかけた一つの願いを、おろかしいものであったが、かなえてやったからだ。その願いが、どのようなものであったかは、君は知る必要はない。それが、呪いになったことは、君自身感じたとおりだ。”と言い、“最後に、もう一つだけ、君の願いをかなえてあげたい。まさか、今更、きみは、カネや宝や権力や女の愛を欲しがらないだろう。堕落した君の生活を、再び、より美しく、より良くし、君を再び楽しくするような不思議な力があると思ったら、それを願いなさい。”とアウグスツスに言った。アウグスツスは、はじめは、このまま死なせてくれ、もうどうしようもないのだからと言っていたが、最後に、あの母親のくれた古い魔力を取り消して、その代わりに、“ぼくが、人々を愛する事ができるようにしてください。”と頼んだ。

翌朝、目が覚めたアウグスツスは、パーティにやってきた人々や今まで彼の悪徳の犠牲となっていた人々に囲まれて、暴行され、告発され、有罪となって入獄した。彼は、何もかも成り行きに任せた。出獄したとき、彼は病み、衰えていた。しかし、今では、空虚や孤独は無く、さすらいの旅をしながら、どんな人を見ても喜びを感じ、心を動かされるのであった。年老いたアウグスツスは、今や、自分の持っているわずかなものを喜んで与え、ちょっとした行為や身振りにも心から感動するのであった。彼は、世の中の不幸を知り、それにもかかわらず、人々は、楽しく、明るく、やさしく生きているのを知った。彼は放浪の旅のなかで愛と忍耐を学んだ。ますます年をとり、歩みもたどたどしくなり、記憶も衰えてきたある冬、彼は名付け親の家の前に立っていた。戸をたたくと老人が迎え入れてくれた。老人は、アウグスツスの心がきれいになり、目がやさしくなっているのを見て取った。あまりにも疲れていたアウグスツスは、子供の頃、名付け親の老人がよく聞かせてくれた、美しい、天上的な音楽に耳を傾けながら、天国への深い眠りについた。

文庫本で30頁ほどの小編であるが、読み終わったあと、何か大変な大作を読み終わったあとのような、深く、しみじみとした感慨に襲われる。愛とは、人生の幸福とは何であるのだろうと、フト考え込ませるものをもっている。愛されるということと、愛するということとの違いは何なのか。アウグスツスという子供の成長と彼の不幸な人生を辿るうちに、私達は、ヘッセの全ての作品の底を流れる、暖かい人間性と、苦悩に包まれた人間への深い洞察が行間からよみがえってくるのを感じずにはいられない。ヘッセはロマン的な資質をもった詩人であると同時に、人間への深い理解と時代や社会に対する鋭い批判力を備えた逞しい批評家であり、深い思想家であった。しかも、彼自身は、終生、純真な子供の心を持ち続けたひとであった。“ペーター・カーメンチント”や“メルヒェン”の作者であると共に、鋭い社会批判と独創的な構想力を持ち、孤立を恐れず、自分の思想に忠実に徹する勇気を持った人であった。孤高な風貌を備えたこの詩人のどこからあのエロチシズムが湧き出てくるのかと思われるような作品“ナルチスとゴルトムント”の作者であると同時に、深遠な東方思想探求の小説“シッダルタ”の著者でもあるという、深みと多様さを兼ね備えた人物であった。そして、“メルヒェン”は、それだけの深遠さと自然児のもつ単純な美しさが生み出した傑作であり、何気ない表現の中に、ヘッセの深い叡智が輝いているのを、私達は知るのである。

もう一つの名作“アヤメ”(Iris)も、子供の頃、アヤメを愛し、夢想に耽っていたアンゼルムが、年をとるにつれて、子供の頃の夢を忘れていく話しを扱っている。成長して、有名な学者となったアンゼルムだが、心に幸福は感じなかった。そんなあるとき、イリス(アヤメ)という名の女性と出会い、なぜかわからないが心に快いものがわきあがってくるのを感じ始める。とうとう、年上の彼女に結婚を申し込むと、イリスは、自分は心のなかの音楽を大切にして生きているので、一緒にくらす男の人自身の音楽も純粋で、充分、自分の音楽と微妙に調和する人でなければならないと言い、あなたは自分の名前を口にすると、あなたにとって神聖であった何かを思い出すような気がすると言っておられた。それは、今のあなたが、大切なものを失っているからであり、その大切なものを見出したときに、喜んで結婚しましょうと言う。アンゼルムにとって、この課題はむつかしかった。とっくに忘れてしまった事を思いださねばならないのだ。彼は学者としての仕事も忘れて、自分の過去を追った。そうして、世間からは変人だと思われるようになりながらも、忘れていたいろいろなものを発見していった。あるとき、友人が来て、イリスが死の床にいると伝えた。久しぶりで出会ったイリスは、自分が与えたむつかしい課題を解こうとして、あなたが進んでいる道は、あなたのためにしているのだと言う。アンゼルムが求めたもの、名誉も幸福も知識もイリスも、すべてきれいな形に過ぎない、それらは、すべてあなたから離れてゆくといって死んでいった。アンゼルムは青いアヤメを与えられた。アヤメを見ると、彼は何かを思い出した。そひsて、とうとう彼は深い森の中にはいっていった。

これらの作品は、人間の幼年期のもつ、純粋で熱狂的な幸福とその美しさを、童話的なイメージで捉えようとしたものといえるであろう。

童話とは一体何なのであろう。童話はふつうは子供のために書かれてきたが、このヘッセのメルヒェンのように、大人を対象として書かれたと言えるものや、大人が読んでも、充分深い味わいのある名作もある。

“星の王子さま”なども、どちらかといえば、子供時代のもつ純真さを喪失した世代に対する深い反省の書といえる面が強い。そして、この“星の王子さま”にも、いつの世にも真実である人間の世界に対する深い洞察が盛り込まれている。王子さまとキツネとの対話の中にそれがハッキリとあらわされている。

一般に、童話のストーリーは単純であり、その中で、語られたものの形象的イメージの美しさは比類が無い。そうして、成功した童話においては、人生の真実が、その単純な美しさのなかに、ちりばめられていて、子供だけでなく、大人も、しみじみと考えさせられることになる。

人生の深い叡智を語るのに、何も膨大なボリュームを必要とするわけではない。そして、誰もが、たやすく読める童話こそ、単純ゆえに美しい象徴のイメージをかりて、語りたい事を語る最良の手段といえるかもしれない。

もちろん、すべての童話が、深遠な思想を秘めているわけではない。本当に、子供の間だけしか楽しめない種類の童話も多い。しかし、一方では、大人になって、ますます楽しく、しみじみと味わえる作品もある。宮澤賢治の童話もそうした、高度な文学作品である。

最近、わたしは、“セロ弾きのゴーシュ”や“風の又三郎”、“銀河鉄道の夜”、“どんぐりと山猫”などを読み返し、とても楽しいひと時を過ごす事ができた。最近は、日本でも、この宮澤賢治の再評価が行われていて、ある人は宇宙的な規模で、その人類的全自然愛に満ちた思想を展開した比類ない日本人または唯一の日本人と評価するに至っている。賢治にとっては、童話こそ、愛とユーモアに満ちた彼の美しい思想を、みごとに、誰にでもわかりやすく表現する手段であったのかもしれない。ともかく、わたしにとっては、人間と自然との融和を暖かく心楽しくうたいあげた天性の詩人であり、天才童話作家である。日本文芸が宮澤賢治という童話作家をもっていることは、世界に誇れる出来事であり、今に賢治を日本語原典で読むために、日本語を勉強する外国人が沢山あらわれるであろう。

ヘルマン・ヘッセの童話も、また、ヘッセの深い人生体験と清らかな詩人の資質の融合の中から生まれた美しいイメージで成り立っていて、人間や人生に対して、目を開かせてくれるだけの深みを秘めている。そして、単純なイメージが生み出す余韻は、なんともいえない感銘を与える。そうして、自分もいつか比類なく美しく哀しい童話を書いてみたいという夢をもたせるに至っている。しかし、もちろん、欲望だけではダメで、清らかな心と比類ない芸術家の資質が要求される。しかし、夢はもっていたい。

(完                     記1985年8月1-2日) Word Input 2010年7月17日




46 “アナバシス”の魅力                                                                        

私は最近(1985年)、クセノフォンの名著“アナバシス”が京都大学の松平千秋名誉教授の手によって、ようやく翻訳され、出版されているのを知った。ヘロドトスの“歴史”の翻訳が三種か四種でていたりして、日本のギリシャ学会のレベルの高さをうかがわせる現象であると同時に、なぜ、もっと早く翻訳紹介されているべき、この“アナバシス”のような傑作が、簡単に読者の手に入らないのかという奇妙な日本的現象を私は腹立たしく思っていたが、ようやくホッとした。

“一万人の退却”とも呼ばれているこの“アナバシス”は、歴史の書であるが、同時に文学書であり、政治と戦争と人間に関する書でもあるという、きわめて興味深く豊かな内容をもっていて、ギリシャ・ヘレニズム文化研究の必読書であるだけでなく、単なる読み物としても最高のものに属する。マケドニアの若き王アレキサンダーにとっては、“アナバシス”は、ホメーロスとともに、座右の書であったのであり、ほとんど空んじるほど読み親しんで、この本を通してペルシャ政体の内奥を理解し、大帝国建設をすすめるに至ったわけで、ある歴史家などは、この“アナバシス”なくしては、アレキサンダーも大王として成功することは出来なかったであろう、などと言ったほどである。それほど重要で面白くすばらしい古典的名著が、翻訳の盛んな日本で、なぜ、今まで、ほったらかしにされていたのか、私には腑に落ちない。

クセノフォンは、プラトンとほとんど同じ世代で、有名なソクラテスの弟子のひとりである。高邁なプラトンの描いたソクラテス像とは少し異なるが、より忠実といわれる“ソクラテスの思い出”(メモラビリア)の作者でもあり、すぐれた軍人であり、歴史家である。

約30歳の頃、ペルシャでは大王アルタクセルクセスに対して、その弟のキューロスが反逆しようとしていた。紀元前401年の事である。人徳の高いキューロスは、最強の誉れ高いギリシャ人の重装備歩兵軍団約1万人を雇い入れ、総勢10万人で、兄アルタクセルクセスに攻撃を加えようとした。そのギリシャ人軍団の一人として、クセノフォンも招かれて参加する事になった。ところが、内地の砂漠に向かっての半年近い行軍の後、キュナクサの戦いで肝心のキューロスが、あえなく戦死してしまい、戦いに敗れて、傭兵部隊であるギリシャ軍1万は、敵地の中で孤立してしまった。敵のペルシャ軍は、ギリシャの将軍達をだまし討ちで次々と殺していった。仕方なく、兵士達は必死の退却をするために、新たに何人かの将軍をえらばねばならなかった。クセノフォンも、そうして選出された将軍の一人であったが、卓越した指導力を発揮して、実質的にはギリシャ軍総退却の総司令官となったのであった。

海にとり囲まれて生活してきたギリシャ人にとって、砂漠の内地や蛮族に取り囲まれた未知のアルメニアを通過していく事は、大変な苦労の連続であった。いくつもの悲劇を体験し、また、自らのギリシャ軍も通過の途中で悲劇の種を蒔いて、何ヶ月かあと、やっと黒海に到達し、なつかしのギリシャ帰還の目処がついたときには、1万人を超えたギリシャ軍団は約半数近くになっていた。でも、ともかく、ペルシャの砂漠の真っ只中で、全滅の危機が迫っていたとき、クセノフォンたちの冷静な指揮で、6千人といえども、無事、帰ることに成功したわけであった。

この冒険譚には感動的な箇所が沢山出てくるが、私が最も感心したのは、ギリシャ兵士達の社会意識の高さであり、どの兵士ももつ市民としての水準の高さであった。彼らは公平に自分達の中から、優れた指導者を選出し、それに従って、行動しながら、時には堂々と批判をする。誰もがすぐれた兵士であり、市民である才能を発揮しながら、ギリシャ軍全体の安否を気遣う。自由で大らかな意識が横溢しており、精神の健康さをそのまま感じ取れるような生き方である。文体は簡潔で的確であり、無駄な叙述は無く、テンポの速さと適度の会話で、素晴らしい表現を生み出している。自己を第三人称で客観的に叙述して、緊迫したムードを生み出している。戦記文学中、古典の最高峰といわれている有名なカエサルの“ガリア戦記”は、まちがいなく、クセノフォンの”アナバシス“から、沢山のものを学んでいるといえる。

未知の敵地を手探りで辿らねば成らなかった孤立したギリシャ軍1万人の苦労は大変なものであった。クルデスタンで二人の男をつかまえたクセノフォン達は、道をたずねた。ひとりの男は、どんなにおどかされても知らないと言いはったので、役にたたないとみなし、ギリシャ人たちは、もう一人の男が見ている前で殺した。生き残った男は、どうして此の男が道を知らないと言ったかを説明した。ギリシャ人たちが行こうとしている村には、その男の娘が嫁いでいたのだった。

長い間、敵地の砂漠や荒原や山間部をさまよったギリシャ人たちが、ようやく黒海にたどり着いたとき、兵士達の歓声が響き渡った。”海だ。海だ。“(ヘータラッサ!へータラッサ!)。海の男ともいえるギリシャ人たちにとって、1年近くにわたる困難な遍歴の後、初めて見出した海は、故国にすぐにつながっているように思われ、兵卒も将軍もともに抱擁し、涙を流して喜んだのであった。

また、一方では、ギリシャ軍達に好意を示す村落もあれば、敵対する村々もあり、気の休まるときは無かった。ギリシャ軍数千に襲われると悟ったある村では、絶望的になった女達が子供を抱いて高台の上から次々と飛び降り自殺を遂げるという光景にでくわしたりもした。

また、雪中行軍の途中、そのまま眠りそうになった男達を、クセノフォンがたたいて叱り付け、そのときはそれで事なきをえたにもかかわらず、後で、将軍の行動として部下の兵卒を殴りつけたのはけしからんと非難され、罰則を要求する声に出会う事になった。クセノフォンは、落ち着いて、自分が何故そういう行動をしなければならなかったかを説明した。この本を通じて、クセノフォンは沈着・勇気・冷静・知性を発揮し、私達はギリシャ人の文化の高さをまざまざと感じることになる。紀元前400年ごろといえば、ギリシャは衰退期に入ろうとしており、最高の知識人ソクラテスを、いいかげんな理屈をつけて毒殺しようとしている頃であった。

そして、‘この“アナバシス”の中に、私達は、当時の社会や風俗だけでなく、生きた人間達の心の動きを鮮やかに読み取る事ができる。ギリシャ市民の長所も短所もあきらかである。この本を読み終ったとき、私達は偉大なギリシャ悲劇を読み終わったように感じる。それは、きっと、没落するギリシャがもつ悲劇であり、その魅力であろう。そんな中で、クセノフォンの行動はひとり生彩を放っていて、いつまでも心地よい印象をとどめる。アレキサンダーが好んだ理由も納得できる。

(完                           記 1985年12月4日)          Word Input 2010年7月14




47 “スコットとアムンゼン”                                                               

 ロラン・ハントフォード(Roland Huntford)の伝記“スコットとアムンゼン”(南極点への競争)がTV映画化されてKCET28チャンネルで放映されている。(1985年11月)。“Last Place On Earth” という題である。原書は550ページに及ぶ大作で、私は行きのバスの中で読み続け、約2週間かかって、やっと読了した。二人の伝記であると同時に、極点競争の記録であり、なかなかの傑作で。読み終わった後も、アムンゼンへの感慨がいつまでも残った。”最後のヴァイキング“と呼ばれ、”ノルウエーの白鷹“と呼ばれたアムンゼンの南極点到達行は、その用意周到さや計画の緻密さ、冷静な行動力、決断力、実行力そして指導力、協調性と、ほとんどあらゆる観点から見て、完璧な芸術性と最高のスポーツ性を発揮したものであった。最も恐ろしい壊血病への備えから、スキーや犬ぞりの準備、そして非常時食糧の設定やその目印に至るまで、すべてが、完璧なまでの緻密さで遂行された。

 アムンゼンは自分の過去の失敗から学んだだけでなく、極地探検に関するほとんどすべての文献に目を通し、人の失敗からも学んだ。そして、もちろん、他人の成功の記録も大切な教えとなり、それを率直に認める事ができた。アムンゼン一行の南極点行は、みごとな統一性を見せて実行され、全員が意気揚々と無事に帰還したので、まるで、困難など全く無かったかのように見える。実は、スコット隊よりは、はるかに困難な気候的・地理的状況におかれていたのだが、アムンゼンを隊長とする一行の行動力と勇気が、あらゆる苦難を克服する事を可能にしたのであった。

 飛行機で最初に北極点へとんだアメリカのバード少将は、アムンゼンへの尊敬を生涯持ち続けた。バード少将の一行が飛行機で南極点へ達したとき、彼はアムンゼンが犬と意志の力だけで、ものすごい困難をやり通したことを理解し、アムンゼンという男に対する感動で圧倒された。それは、バード隊のひとりが、アムンゼンが保存食糧を貯えたケルンを見つけたときにも確認された。アムンゼンが自らの手で封をしたパラフィンの中に、18年後も完全な状態で食糧が保存されているのを見た隊員達は、アムンゼンの行動のもつ完璧な芸術性ともいえる緻密さに、ますます感動し、期せずして脱帽し、この驚嘆すべき男に対して、心からの賛嘆にとらわれたのであった。極寒での食糧保存はむつかしく、スコット隊は、他の全てにおいてと同様、この方面の準備においても、ズブの素人振りを発揮したため、保存食を見つけても、あるべき量の四分の一しか残っていないという有様で、これは必然的にスコット隊5名の餓死・全滅へと導く事になった。

 アムンゼンの半生と行動は、純粋な極地探検家、プロフェッショナルな発見家のそれであるのに対し、イギリスのスコットは、すべてにおいて、アムンゼンとは正反対であった。彼は、海軍での立身出世が目的で南極探検の隊長となり、最初の探検において、様々な苦労を嘗めたにもかかわらず、なにひとつ、その体験から学ぶ事はなかった。すべてがチャンスに任せるような形でなされ、スキーや犬ぞりの価値すら理解できなかったし、学ぼうともしなかった。自分の失敗から学ばなかったスコットは、当然、人の成功や失敗からも学ぶ事が出来なかった。極地探検の文献を詳細に分析するどころか、読んでみようともしなかった。アムンゼンの行動と並行して述べられているスコットの行動ぶりは、まるでアマチュアのそれである。

 1910年、大掛かりな南極探検隊を組織したスコットは、アムンゼン隊よりも早くイギリスを出発した。しかし、南極点にはアムンゼンよりも一ヶ月遅れて到達した。軍隊的な階級と権力機構で構成された69名のスコット隊は、あらゆる点においてトラブルを起こし、最終的には人力で荷物を引っ張りながら、5名が極点付近に達したが、その帰還の途中、雪と氷の中で、5名全員が凍死した。保存食糧準備の悪さが原因であったが、スコット自身の指導力のなさに、既に隊員は絶望しきっていた。アムンゼンが何よりも隊員たちの生命の尊重を第一としたのと対照的に、スコットは何が何でも南極点到達ということを優先し、隊員たちの生命はどうでもよいと判断していたといえる。スコットより指導力のあった隊員は、無能なキャプテンを呪いながら死んでいった。アムンゼン隊と違い、壊血病への備えも無かったスコット隊は、全員が次々と病気になって、倒れていった。スコット自身も倒れ、先に行けないのを知ると、まだ元気な二人をおしとどめて、テントの中で一緒に死ぬよう示唆したらしく、9日分の食糧が尽きるまで、おしとどまって、そのテントの中で飢え死にしていった。無事生還すると、かえって、この探検の失敗の責任を問われかねず、スコットは、その日記の中で、すべての失敗を部下の隊員や気候のせいにし、いかに自分が困難をおしのけつつ極点に達し、ついに力尽きて死ぬに至るかをみごとに説明した。そして、この日記の中で、述べられた殉難の英雄の姿は、没落していく大英帝国の精神の象徴とうつり、人々は、見事に完成した一服の絵の如きアムンゼン隊の業績を賞賛するよりも、この悲劇の英雄を賞賛し続けた。スコットの欠陥やスコット隊の欠陥は、故意に抹殺され、悲劇の英雄の姿だけが大衆化されるに至った。スコット個人の欠陥が、この大規模な遠征隊の失敗を生んだだけでなく、有能な隊員を凍死へと追いやったにもかかわらず、すべてが隠蔽せられて、スコットだけが英雄としてたてまつられることになった。

 未亡人はレイディ・スコットというナイトの称号と年金をもらうに至った。スコットの精神という形でイギリスの青少年の犠牲的精神の教育にまで登場する始末であった。スコットは、先達、シャックルトンと同じルートを辿り、何一つ発見しなかったし、科学的業績も生まなかった。スコットに関する記述を読んでいると、ただただ自分の欲望のために、人命を犠牲にして平気でおれた愚かな男に対する怒りが湧き上がってくる。スコット自身が飢えと寒さで死なねばならなかったとしても、それは自業自得というものである。一大隊の隊長たるものが、無能無策を露呈しつつ仲間をしに追いやっていく様は悲惨なものであり、読んでいてやりきれない気持ちになる。

 北極圏北西航路をはじめて航海したアムンゼンは、南極点において最高の技量を発揮し、最初にして最後の、犬ぞりとスキーによる極点行を貫徹した。スコットからは二度と繰り返してはならない行為と精神の愚かさを学ぶ事ができるのに対し、アムンゼンからは、一つの冒険、一つの行為が成功するためには、どれだけの慎重さ、計画性、緻密さ、勇気、行動力、指導力が必要かを学ぶ事ができる。

 アムンゼンの行動と計画の緻密さは、およそ徹底していて、彼はエスキモーの中に入って、彼らからイグルーの住居の作り方から、最高の暖房着の作り方まで習い、最高のエスキモー犬を手に入れ、最高の用具を手に入れた。そして、それらを更に自分達で改良して、どんな厳しい環境の下でも使いこなせるようにした。アムンゼン隊の成功には、なんらの奇跡も偶然性も無い。彼らはそれだけの努力を払い、成功するべくして成功した。知性の勝利であり、哲学の勝利であった。その見事さは人類史上永遠に輝き続けるものであり、人類が生んだ最高の極地探検家として、アムンゼンの名は不滅である。また、一方、キャプテン・スコットのあとについて、人力で厳寒の極点前後何百マイルを踏破し、飢えと寒さで死に絶えていった彼らの悲惨な姿は、やはり、同様、いつまでも人の心をうたずにはおれない。

 ロラン・ハントフォードのこの伝記は、英雄スコット伝説を資料によって粉砕し、アムンゼンとその一行の偉業を誰の目にも明らかにしたものであった。TVマスターピース・シアターのホストであるアリステアー・クックも、この“スコットとアムンゼン”を読んで、スコット英雄伝説が完全に解体してしまった驚きを、17日の放映のあと述べていた。スコット伝説など何も知らなかった私は、スコットの日記を手に入れたいものと前から思っていたが、どうやらフィクションじみた日記は、手に入れる必要も無いということを、この本によって確認した。それとともに、アムンゼンの壮挙が、今更の如く偉大にうつるようになった。

 さて、スコットとアムンゼンの極点競争は、1911年の出来事であったが、1902年(明治35年)、雪の中で二百余名が凍死するという事件が日本で起きた。新田次郎によって小説化された“八甲田山”での死の彷徨である。日露戦争を予想した軍部は、厳寒の八甲田山を踏破するという人体実験を二つの部隊に命じた。第三十一連隊の徳島大尉〔小説の仮名、以下同じ〕は、緻密な作戦と透徹した指揮ぶりを発揮して、35名全員を無事帰還させるのに成功した。一方、第五連隊の神田大尉は大隊長山田少佐の干渉を抑制できず、210名ほどの大行軍のうち、199名凍死という悲惨な結果を招くに至った。神田大尉自身も無念の恨みを残して、舌をかんで自殺し、この大惨劇の張本人である山田少佐もピストル自殺するという形で幕を閉じた。

 この大量の犠牲は、日本国中を震撼させ、軍隊の防寒具の改良に効果を発揮する事になった。この事件の真相も、長い間、隠蔽されたままで居た。そして、やはり、スコット隊の場合と同様、遭難した第五連隊は世間の同情を一身に集めた。そして、厳寒の八甲田山を粗末な防寒具で無事全員踏破という壮挙を敢行した徳島隊は忘れ去られたような形となった。この二つの部隊の行動を、小説の形をとりながらも、真実に接近した描写で、大衆の目に真相を暴露したのが、この新田次郎の傑作“八甲田山 死の彷徨”である。

 二つの部隊の行動の差異が、迫力ある描写力によって、見事に再現されている。そして、この成功と失敗の教訓は貴重である。アムンゼンと違って、ほとんど名前も知られずに終わった徳島大尉の行動力・指導力は、それなりに見事なものであり、彼もまた体験から学ぶ事を知っていた。それにしても、明治という時代の、しかも軍隊内部で生み出されたこの悲劇は、当時の日本のもつ暗さの一面を示すものであった。軍隊の持つおろかさの一面が赤裸々に暴露された事件であったが、スコットの場合と同様、責任の所在など、軍隊に不都合な面は隠蔽され、ついに大衆に明示される事無く今日に至っていたわけで、新田氏の仕事は、丁度、ロラン・ハントフォードの仕事に対応するといえる。一方は伝記として、一方は小説としての違いはあるが、どちらもその再現力はめざましく、感銘をあとあとまで残すものであった。

 そして、私は、運命とはいいながら、愚かな指導者に従わねばならなかった大衆の苦悩を身にしみて感じ、指導者の責任の重さをつくづくと感じた。そして、その結果、アムンゼンの偉大さが一層鮮やかに浮かび上がってくるのであった。アムンゼンや徳島大尉は、私達がある対象に目的を持って向かうとき、いかに慎重に取り組まねばならないか、緻密な計画性、果断な実行力、冷静な判断力がいかに大切かを示してくれている。そして、これは何も冒険だけに限らない。学問の世界でも同じなのである。

(完                 記1985年11月17日)          Word Input 2010年7月14日

エラー修正2011年3月15日




 48 “醒めた炎”(木戸孝允伝)村松剛 を読んで                                                 

‘維新の三傑“として、西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通 があり、この三名が幕末から維新にかけて他の誰よりも傑出した働きをしたということで、三傑と呼びならされてきた。私は、この三名の中で、幕府打倒に関しては西郷隆盛、明治維新の新体制に関しては大久保利通が傑出しており、どちらかというと、木戸孝允は、特に、明治になってからは見劣りがすると以前から思っていた。桂小五郎の名前で活躍していた頃のさわやかな生き方に対して、明治になってからは病弱気味であったせいもあって、あまりたいした活躍はしなかったと思っていた。

この村松剛の膨大な伝記を読んで、そうした私の理解の仕方がまちがっていたということがよくわかった。木戸孝允は桂小五郎の時代だけが魅力的に生きたのではなく、明治維新になり木戸孝允になってからも、見事な人生を生き、それは新しい日本の構築にとって、かけがえのない政治家として、日本の将来に偉大な貢献を様々な方面でやり遂げた事実によって示されている。

たとえば、私は廃藩置県や版籍奉還は大久保がやりとげ、それで彼は偉大だと評価していたのだが、実は、切り殺される覚悟で、これらをすすめたのは木戸孝允であったことがわかった。そうなると、私の三名の評価は逆転して、木戸孝允がNo.1ということになる。

西郷の活躍は倒幕でおわった。大久保の活躍は明治体制の確立できわだっている。木戸孝允は桂小五郎と名のった青春時代の活躍と、木戸孝允として明治体制確立への貢献者として、一貫して歴史の中心に居り、長州藩という実はまさに倒幕の原動力の中心に居て、すべての動きに関係していたのである。

薩長連合の成立という倒幕の起動力は坂本竜馬の仲介の元、長州藩代表として桂小五郎がなしとげたものであり、慶喜の死刑を拒否したのも桂であり、多くの人材を発見し、育て上げたのも桂であった。単に長州藩の人材だけでなく、広く他藩の人材発見にもおよび、大隈重信や江藤新平や陸奥宗光など、みな、桂・木戸によって政治の舞台に活躍することが可能になった。

板垣の民選議員設立建白書以前に、木戸のほうから民選議員に関する建白書は提出され、桂・木戸の明晰な頭脳と決断力と穏やかな、人情豊かな人格は、専制的・保守的な大久保利通の存在に対して、貴重な緩和剤の役を果たしたのであった。それは、対外国との交渉においても、見事に発揮され、各国公使も桂・木戸の存在には一目おいたのであった。木戸の立派な見識の前にあっては、その後、大物となった伊藤博文や山県有朋その他多くの政治家、軍人がなんとオッチョコチョイの子供に見えることであろう。

私は昔から、桂小五郎が大好きであった。この、すばらしい本を読み終えて、木戸孝允になった明治の十年も、彼は立派に生きたことを知って、私は満足した。

十年ほど前、私は幕末・明治維新に日本は桂小五郎をもって幸せであったと書いたことがある。今、私は木戸孝允の全貌を知って、本当に、桂小五郎が活躍してくれて、日本は、そして、明治は幸運であったと思う。

木戸は何にでも関心を示し、外国旅行中には英語の勉強まではじめ、各国の政治機構を熱心に勉強し、開明的政治家として、最後まで貢献したのである。

この本は幕末・明治維新がよくわかる、すばらしい本である。

(完) 200年10月16日 執筆




49 “カロリーナ・マリア・デ・イエスの日記”                                        

古本を探す喜びが、単に値段の安さにあるのでないことは、古本の好きな人は誰でも知っている。特に、アメリカの出版事情の下では、余程のベスト・セラーか評価の定まった古典的な名作以外は、いったん新刊の本棚から消えてしまえば、もう二度と出会えない可能性が多く、私などは、そのため、すぐ読むつもりはなくても、購入しておかねばという気になる。以前、トーマス・マンの書簡集の英訳がハード・カバーで20ドルくらいで出版されたとき、私はどうしょうかとためらっていたため、買い損ね、結局、二度と見つけることが出来ない。そういう苦い経験もあるので、トーマス・マンの日記の英訳が25ドルで出版されたとき、私は今度はためらいもせずに購入した。こうして、私は、日記・書簡・自伝・伝記・研究書といったものを買い集めているが、古本屋で時には50セント程度で、素晴らしい本と出会うことがある。“Child of the dark”The Diary of Carolina Maria de Jesus)という本もその一つだ。ブラジルのスラム街で生活してきた黒人女性の日記であり、ポルトガル語からの英訳のペーパー・バック本は1962年に出版されたらしい。

彼女は小学校へ2年通っただけであり、3人の父なし子をかかえて、飢えとたたかう生活を送り、それを溝から拾ったスクラップ・ペーパーなどに書き付けていた。それが、ある日、その貧民靴に取材に来た新聞記者の目に留まり、紆余曲折を経て、はじめて新聞に発表されて、一大センセーションを巻き起こした。本になって、一躍、ベスト・セラーになり、結局、スラムを脱出したいと願っていた彼女は、みずからのペンの力で、それを可能にしたのであった。

わずか2年の教育にもかかわらず、カロリーナの文字に対する情熱は、彼女の貧困との戦いを赤裸々に記録させるだけの力強さを生み出し、ブラジルの貧困との戦いの代表者とみなされるに至り、ブラジルの政治政策をも動かす力をもった。サンパウロ法科大学はフランスの偉大な哲学者ジャン・ポール・サルトルに用意していた名誉会員の称号を、自由のための戦いにおいてサルトルより、はるかに価値があるとみなし、彼女に贈ったという。この日記の一部は、アメリカの、ある、文体研究のテキストにも採用されたほどであり、古本屋の書庫に眠っているには惜しい内容を秘めている。日本語の翻訳が出版されているかどうかは知らないが、わずかな小学校教育だけで生み出されたこの日記は、教育的にも興味深いものを示しているといえる。

この、本になった日記は、1955715日の記述から始まる。三番目の娘の誕生日なのだが、彼女に買ってやりたい靴も買えず、ガ-ベジの中に見つけた靴を洗って縫いたした、という文章が冒頭にあり、この日記の内容をはっきり性格づけている。

教育のないこの黒人女性は、しかし、逆境にくじけない不屈の魂と健全な常識と健康なモラルと優れた批判的精神を身につけていた。サンパウロの最低の貧民靴Favela (ファヴェラ)で、仕方なく、みじめな生活を送りながら、福祉の力も借りず、紙を集めて金に換えるという細々とした生活を続けていた。ファヴェラの貧困の生活が、いかに人間を腐敗させていくか、冷静に感じ取っていたカロリーナは、いつか、このファヴェラの生活を抜け出すという目標をもって、飢え死にすれすれの生活を送っていた。彼女には、たよりになる良人もなく、三人の子供を抱えて、飢えと病気と暴力に囲まれた生活を続けねばならなかった。無知で、無学で怒りっぽい周りの連中が、彼女や子供をいじめ、苦しめるとき、カロリーナは子供をかばい、闘いながら、彼女自身の怒りの捌け口を、書く作業にかえて、気をまぎらわせるのであった。

“彼らが私を逆上させるとき、私はものを書く。私は自分の衝動をどのようにして抑えるかを知っている。私は2年の学校教育を受けただけだ。でも、それで、私の性格を形作るのに充分だった。” “ファヴェラにない唯一のもの、それは友情だ。”“私はファヴェラに住んでいる。でも、もし、神が私を助けてくれるなら、私はここを抜け出すつもりだ。” “がまんならないのは、女共だ。・・・私の神経は耐えられない。しかし、私は強い。私は断じて、何ものも深く私を悩まさせない。私は失望させられない。” “私は朝の4時に起きた。書くために。” “私は自分の子供達に寛容でなければならない。” “彼らは私以外にこの世で誰ももっていない。” “ここでは、すべての女共が、私を標的にしている。・・・神経質になっているとき、私は口論する事を好まない。私は書くほうを好む。毎日、私は書く。”そして、友情のないファヴェラの生活は、とうとう彼女の大事にしている紙を誰かが勝手に焼いてしまう。“今や、警告がなされた。私はそれを怒らない。私は人間のもつ悪意というものに対しては、慣れっこになっている。”

“私の政治家たろうとする人への忠告は、人々は飢えにたいしてはがまんできないということだ。飢えについて書きたかったら、飢えを知らねばならない。” “飢えは教師でもある。飢えを経てきた人は、将来について考え、子供達について考える事を学ぶ。”“酒でボッーとなれば、私達は歌いたくなる。しかし、飢えでボッーとなると、身体がふるえてくる。私は胃の中に空気しかないということが、どんなに恐ろしい事かを知っている。” “私の口の中が苦味をもちはじめた。私は、この人生の苦味にも、きりがないのかと思う。私は生まれたとき、一生、空腹で行く運命と決められていたのかと考える。” “私はロールパンを買った。食物は何とびっくりさせるような効果を私達の肉体組織にもたらすものだろう。食べる前、私が見た空も樹木も鳥も、みな黄色だった。でも、食べたあと、すべては、わたしの目に普通に見える。” “私は生涯ではじめて食べていると感じた。” “今日は、ランチがあった。私達には米と豆とキャベツとソーセージがあった。私が4品料理すると、私はたしかに何者かであると思える。私の子供達がファヴェラでは手の届かない食物である米や豆を食べているのを見ると、愚かにも私は微笑んでしまう。まるで、目のくらめくような、見世物を見つめていたような気になる。”

毎日、飢えと戦いながら、彼女は街路から紙を集め、それを売って小銭を稼ぐ生活を続ける。彼女の、この耐え難い生活を支えてくれるのは、子供達の将来に対する夢であり、いつか、このスラムを脱出してみせるという意欲である。彼女は暇を見つけては、紙の切れ端に、見たこと、感じた事を書き付ける。“すべてを見守り、全てを告げ、事実をメモする事がわたしのマニア(熱狂癖)だ。”

少女の頃、ブラジルを守るために男でありたいと思った彼女は、母親に“どうして、自分を男になるようにしなかったのか”と訊ね、彼女は“もし、お前が虹の下を歩くなら、男になれるだろう”という答をもらう。“虹があらわれると、私はその方向に走り続けた。しかし、虹はいつも遥か遠くであった。それは、まるで、政治家達が人民から大きくへだったているのと同じである。私は疲れ、坐った。そのあと、泣き始めた。しかし、民衆は疲れてはいけない。彼らは泣いてはいけない。彼らはブラジルをよくするために、闘わねばならない。私達の子供が、私達が苦しんでいるようには、苦しまなくてもいいように。私は帰って母に言った。虹は私から逃げていったよ、と。”

彼女は工場がごみための中に捨てたキャンデーを食べている男に出会う。その男は、すべての苦労を見てきたような苦悩の表情をしていた。彼女は自分の体験から、その男がよろめいているのは、酒の酔いのせいではなく、飢えてボーっとしているからだと見て取る。“ここで待っていなさい。わたしはこの紙を売って、あんたに5クルゼイロあげよう。そうすれば、コーヒーぐらいは飲めるよ。朝にちょっとでもコーヒーを飲むのはいいものだよ。”と彼女は言う。“いらないよ。お前さんは、子供を養っていくために、非常な苦労をして紙を集めている。そして、あんたが稼ぐのは、ほんのこれっぽちなのだ。しかも、お前さんはそれを私に分けてくれようとしている。私は自分がどうなるか知っている。もう、2,3日したら、私はもう何もいらなくなるだろう。・・・私は自分が飢えで死ぬのはわかっている。”と男は応えた。

カロリーナが、このファヴェラの生活を抜け出せたのは、単に、彼女がすぐれた日記を書く才能をもっていたからではないだろう。お互いが足を引っ張り合い、ますます、心身ともに汚れ沈んでいく生活しかないファヴェラのスラムにあって、彼女自身はいつも心を豊かに、大きく持ち、最低の生活、最高の空腹を体験したものだけがわかる人間への連帯感でもって、自分より苦しんでいる人々に対しては、出来るだけ寛容に、助け合う心の余裕を持っていた。この崇高なモラルこそ、彼女を堕落から支え、最後には、ブラジルの生んだ最高の名著といわれる日記をうみだし、それによって、自分と家族を、より高貴な生活に向ける事を可能にしたものであった。カロリーナは、冷静に自分達の生活やその環境を眺め続けた。それが、この貴重な日記となって残された。人は、どのような環境の中でも生きていけるようだ。しかし、その中から、何を得、何を導き出してくるかは、その人のモラルの高さによると言えるだろう。その証明がこの日記である。

(完                 記 1985年10月14日) Word Input 2010年7月15日




50 “北の国から”(倉本聰)との出会い

中二の国語教科書に、倉本聰のシナリオ“北の国から”の一部が載せられている。年間スケジュールと取り組んだとき、“シナリオ”というのは、少し教材として異色で、指導が難しいように思い、ほとんどカットの方向でセット、漢字表や主題・段落リストで済ませてしまうつもりになっていた。ところが、“1993年度あさひ文集”を読んでいて、210ページにあるO校宮崎好尚の脚本“あいかわらずだな大輔くん”を読んでいて、気が変わった。これは、表現の課題、“想像を膨らませて”にある教科書P,118-P,119の漫画を見ながら、それにふさわしい物語を創作するというテーマに対して、シナリオ式に応じたものであるが、実に見事に脚本技術をマスターした書きっぷりで仕上げていて感心した。

この生徒が、こういう、それなりに完成した脚本を作り上げることが出来たというのも、きっとその子は教科書のシナリオ“北の国から”に接して、ある意味で感動し、表現技法に興味を持ったからに違いない。もし、私が、本当に教材としては特殊だが、それなりにすばらしいこの“北の国から”という作品を漢字や主題だけで済ましてしまえば、大事なものを勉強する機会をとりあげることになると思い始めた。

それで、あさひ学園の図書に、倉本聰の作品が沢山あり、“北の国から”というのもあったのを思い出し、この本と取り組むことにした。倉本に関しては、人に薦められて、私は“ニングル”というすばらしい小説を読んだことがあり、いつか感想文にまとめておきたいと思ってそのままになっているが、その後、倉本の本をあさひ学園の図書で探したところ、沢山見つかったが、すべてシナリオなので、どうしたことか、私は遠慮して、結局、何も読まなかった。シナリオ的な作品に関して、読まず嫌いの拒否反応を持っていたからに違いない。ともかく、“北の国から”とは取り組むことにした。そして、その結果は素晴らしい体験といえるものであった。冒頭に、“読者へ”という作者の前書きが載っている。大事な内容なので、そのまま引用させてもらう。

“シナリオは読みながら、その情景や主人公の表情や悲しみや喜びを、皆さんの頭のスクリーンに描きやすいように書かれています。単に<間>と書かれている時間の中で、主人公が何を考えているのか。<誰々の顔>と書かれているところで、登場人物がどんな顔をするのか。そういうことを読みながら空想し、頭に映像を作っていくことで、みなさんは自分の創造力の中の監督や俳優になることができるのです。そして、もしかしたら、みなさんの創造力は、実際にこのシナリオを元にできたドラマより、より深い、より高い、一つのドラマを頭の中に創ってしまうかもしれません。”(“北の国から”読者へ。)

そういうことである。ただ、受身に鑑賞するだけでなく、自分が俳優になったり、監督になったり、演出家になったりして、一つの作品を創出する作業に直接的・能動的にかかわっていくことが出来る世界。それが、シナリオの世界である。それは、ふつうの“小説”の読解・鑑賞とは違った世界であり、読者への積極的コミットメントを要求する世界である。

そして、私は、“北の国から”の魅力的な世界に没頭し、前編・後編の二巻をスグに一日で読了した。それは、実にすばらしい体験であり、シナリオ拒否反応もいっぺんに消え去って、私はもう倉本の他のシナリオ作品を全部読んでしまおうと、土曜日の来るのが待ち遠しいくらいである。中二の教科書との出会い、そして、“あさひ文集”のなかの作文(脚本)との出会いが、私に新しい世界をひらいてくれたわけである。

このシナリオの背景に関しても、作者倉本聰が本のカバーで簡潔にまとめあげているので、もう一度引用させてもらおう。

「“恵子ちゃん、ぼくは北海道に来た。本当は内緒にしたかったんだけど、父さんと母さんは別れちゃったんだ。”-少年純(じゅん)の手紙で綴られるこのドラマの舞台は、北海道の富良野(ふらの)です。富良野市麓郷(ろくごう)の農家に育った純の父親、黒板五郎は、父母を捨て、東京に出て、そこで東京の女と結ばれ、二人の子供が生まれました。しかし、五郎には東京は重く、家でも仕事場でも、うまく行かない、うだつの上がらない毎日でした。そうして、突然、五郎は妻に男の出来たことを知ってしまうのです。妹の蛍と共に父に連れられ、初めて父の生まれ故郷である麓郷の廃屋に住むことになった純。都会の中に、どっぷりひたって、ぬくぬくと育ってきた少年少女が、厳しい富良野の四季に接して、何を見、何を学んだか。北海道の一年を通じて、地方から都会へメッセージを送る。これは、一種の文明批評でもある小さな家族の大きな物語です。」(倉本聰)。

そういうことである。北海道の富良野という厳しくも美しい大自然の中で、実際に何年も生活してきた倉本聰自身が、自分の富良野生活体験を踏まえて創出した、“小さな家族の大きな物語”であって、離婚という悲劇的情況と、新しい環境への適応という、困難の中で揺れ惑う子供の心の成長発展をメイン・テーマに、そして、美しいが粗野で厳しい北海道の大自然をバック・グラウンドに、織り成される、内容豊かな人間劇となっている。

便利な都会生活になじんでいたのに、いきなり離婚によって、妹の蛍と一緒に、父親五郎の故郷、北海道の厳しく原始的な生活環境の中に放り出された少年純が、新しい生活のすべてに拒否反応を示している様が、純の“語り”つまりナレーターとしての生き生きとしたひとりごとを効果的に用いながら描かれ、いろいろと大変な苦労を嘗めながら、だんだんと大自然の中で生活することの魅力を感じるようになる、その成長の様子が、ユーモアを交えながら上手に展開されている。

教科書には、テレビ・ドラマのシーンが数葉収められているが、五郎を演じる田中邦衛と、別れた妻を演じる いしだあゆみ、そして純に蛍の子供は、みな役柄にぴったりの感じで、上手にキャストがえらばれていたようだ。教科書記載の部分は、後編、正式に離婚するため、必要書類を持った弁護士を連れた妻令子が富良野を訪れる場面であるが、物語は北海道らしく、水道も電気もない小屋住まいから始まって、野生のキツネとの出会いや吹雪での遭難騒ぎ、空知川のイカダ下りやUFO騒ぎ、廃校寸前の分校生活、自力で水道や風力発電完成、そして、思春期(純)らしい出来事や大人の恋愛問題と、いろいろ変化に富んだ展開を見せ、それを通して、大自然の中に根付いて暮らす人間の苦労や喜び、大自然の厳しさ、美しさが力強く、見事に描かれている。読後、たしかに大変だが、なんと魅力ある世界であろうという印象を持つ。純と蛍という二人の子供の、母親と父親をめぐる愛情と理解、その細やかな心の動きは、とりわけ見事に描き出されていて、この作品をすぐれた人間劇としている。もそっとしているが、大地の力強さを秘めた父親五郎の言動も、物語の進行を支えるだけの魅力と逞しさを備えている。また読み返したいと思う作品であった。

(記  1994年4月4日)




51 “ガラスのうさぎ”(高木敏子著)を読んで

この高名な本を、どうしたことか、私は今まで読んでいなかった。先日、灰谷健次郎の“太陽の子”を読んで感動し、それまで知らないですごしてきた沖縄への興味をかきたてられ、同時に戦争を体験した児童の回想記なども読んでみたいという気持ちになった。“あさひ学園”を退出する前に、この本、“ガラスのウサギ”を借り出し、その日のうちに読了した。百五十ぺじ程の小冊子で、読み易く、またスグに読み終わらせるだけの静かな感動を孕んだ、すぐれた書物であった。

これは小説ではなく、元は“私の戦争体験”として発表された実話―十二歳で戦争を体験した少女が、約三十年経って回想した体験記であり、それが、フィクションを交えず、淡々と語られて、かえって感動を生み出すに至っている。

十二歳の少女敏子(としこ)は、東京空襲で母と二人の妹を亡くし、敗戦の十日前に、疎開先から父と新しい出発をしようと、神奈川県二宮駅で列車を待っていたときに、米軍艦載機P51小型戦闘機による機銃掃射により、ほとんど目の前で父親を殺される。特攻隊員として出征し、生還の可能性の薄い兄のほかには誰も居ない孤児となってしまった敏子は、しかし、友人・知人や知らない人の親切・情けに助けられて、困難に耐え、たくましく生き延びる。この、戦争で両親と妹二人をなくすという悲惨なストーリーにもかかわらず、この本の読後感に一種のさわやかさが残るのは、実は、この少女の明るく逞しく健気な生き方のせいである。

母が病気、父が満州にという状況の中で、特攻隊志願の兄から、最後の別れに兵庫県西宮まで来てくれと連絡が届いたとき、彼女は東京から単身、会いに行く。父が機銃掃射で殺され、火葬する事になったとき、友人・知人に助けられながらも、すべて一人でこなしていく。十二―三歳の少女が、いろいろ困難に耐えて、すべてを処理していく姿が、実はこの本の最も感動的なところである。そして、敏子もわかっているように、どうしたことか、彼女の前に現れる友人・知人、そして知らない人が、みな、とてもやさしく親切なので、彼女も困難に耐えて、なんとか一人でやっていけるのであった。これは、実話なのだから、本当に、彼女の周りの人たちが、情け深い、親切な人たちであったに違いない。そして、これが、第二の感動的な部分をつくっているといえる。

十二歳の少女が一人でうろついていれば、今でなくても、いろいろ恐い場面が起きる可能性にあふれていたのだが、あまり利己的でない、親切な人達に助けられて、彼女は無事生き延びることが出来た。空襲による戦闘機壊滅のおかげで特攻隊員ながら、飛ぶ飛行機がなくなって終戦を迎えたため、無事生還した兄と再会して、新しい出発をはじめた彼女は、一時、親戚を頼って生活するハメに陥ったため、かえって苛酷な、非情な生活を体験することになる。友人・知人や未知の人々が親切であったのに対し、親戚の人々は、冷たく、利己的・打算的で、生まれて初めて、彼女は様々な苦労を体験する。しかし、持ち前の逞しい精神力で、くじけることなくやりこなすが、そんな彼女にとっても、とうとう我慢できない状況にいたり、黙って脱出して東京の兄と合流する。そうして、なんとか東京で生き延びていくという話である。戦争の悲惨をなまなましく体験した彼女は、戦争放棄を宣言した日本国憲法の発布に感動する。そして、このすばらしい憲法を守り続けたいと決心する。

灰谷健次郎の“太陽の子”は小説ではあるが、十二歳のフウちゃんという少女が、明るく逞しく感動的に生きていく。この“ガラスのウサギ”は実話であるが、やはり十二歳の少女が、戦争の悲惨に耐えて、健気に逞しく生きていく。フィクションであれ、事実であれ、十二歳ぐらいの少女が健気に、明るく逞しく生きていく姿というのは、私を心から感動させる。

戦争というものは、残酷なものであり、南北戦争の将軍シャーマンなどは、ハッキリと、“戦争は地獄だ”と言っていたくらいで、悲惨で恐ろしいものであるのは昔からわかりきったことであるが、中でも残忍なのが機銃掃射である。これは、兵士対兵士、あるいは一対一の闘いとは異なり、戦争とは直接関係のない無力な人間たちを、標的遊びのように殺戮して楽しむという恐ろしい殺人ゲームであり、この残虐性には弁解の余地がひとつもない。

一度見ただけの名画“禁じられた遊び”の冒頭のシーンを私は思い出す。列を成して逃げていく難民の群れめがけて情け容赦もなく機銃掃射によって殺戮していく場面。戦争の恐ろしさを衝撃的に訴える場面である。

“ガラスのウサギ”の機銃掃射の場面も、おそろしく迫力に満ちたものであり、その悲劇性によって、この体験記のヤマ場となって、戦争のおそろしさを私たちに訴える。いろいろな意味ですぐれた作品といえる。

(記      1993年7月11日)






52 “太陽の子”(灰谷健次郎)を読んで

 灰谷健次郎の“太陽の子”は、前作“兎の眼”とは全くスタイルを異にした名作である。“兎の眼”は、丁度、名作“二十四の瞳”(坪井栄著)のように、新任の小学教師とその生徒をめぐっておきる様々な出来事を通して、愛情ややさしさの意味を問い、感銘深い作品となっていた。“太陽の子”には、二十四歳の梶山という教師が一人登場して、作品の展開のうえで大事な役割を果たしているが、学校は直接あらわれず、ストーリーは主に神戸の大衆食堂“てだのふぁ おきなわ亭”をめぐって展開する。

 “おきなわ亭”を経営する大峯親子とそこにつどう人達との交流を通して、神戸党であった太陽の子 ふうちゃん こと大峯芙由子十二歳が、自分のルートである、かなしい沖縄を発見していく。従って、主人公は“てだのふぁ”(沖縄語で「太陽の子」)と呼ばれる“ふうちゃん”で、この十二歳の子の持つ逞しさ、健気さ、やさしさ、思いやりとその成長が全巻を占めていて、一読後、この小説空間が、まるで神戸に実在するような思いにとらわれ、“てだのふぁ おきなわ亭”と、そこに集まった人々に会いたいという気を起こさせる。それほど、この作品は一つの世界を見事に創出していて、文学的にもすぐれた名作となっている。よくこなれた関西弁を生かして、生き生きとした会話が繰り広げられ、その中から登場人物達が、それぞれの個性を備えてあらわれてくる。

この作品の舞台は神戸であるが、この作品のバック・グラウンドでは、いつも沖縄が鳴り響いている。ふうちゃん と オキナワ の発見、これがこの本のテーマである。

オキナワ! 沖縄について、人はどれほどのことを知っているのだろうか。私自身、何も知らなかったことを知った。反戦デモで“沖縄返還!”などと叫んでいたが、沖縄人がどれほどの苦労を体験してきたか、何もわかっていなかった。“太陽の子”に触発され、私はつい最近“いくさ世を生きて(沖縄戦の女たち)”真尾悦子(ましお えつこ)著を読んで驚いた。それは、実に、日本本土の人間を恥じ入らせるような内容に満ちていた。

連合軍による上陸作戦が展開されたため、あの狭いオキナワのほとんど全土が戦場化し、艦砲射撃と爆撃と機銃掃射、火炎放射で、戦争に関係のない島民の三分の一以上、十六万人が殺された。そして、沖縄人は、友軍である日本軍兵士によっても、いろいろな理由で殺され、また自分の子供を殺させられた。路上に散らばった無数の死体はアメリカ軍戦車で取り払われないで、ペシャンコにされていったという。

沖縄の苦労はそれだけで終わらなかった。日本敗戦のあと、日本政府はアメリカ軍に沖縄を提供し、沖縄は自主権を持たない、奴隷のような地位におとしめられた。貧乏と屈辱の、悲惨な日々が、戦後のオキナワに展開されたのである。精神病患者と失業率が日本一。高校就学率が最低というみじめな沖縄が、戦前のゆたかな農民ととってかわった。そして、この恐ろしい戦争体験を命からがら生き延びた人は、いまだに夜な夜な、悪夢にうなされ、三十年前の戦争から解放されることはない。彼らにとっては、死ぬまで続く悲惨な、恐ろしい体験であった。

本当に、私は沖縄について、何も知らなかった。振り返ってみると、私は何人かの沖縄出身の人と会っているのだ。でも、一度も彼らの心のルート、“かなしい沖縄”に触れることはなかったのだ。全く無知ほどこわいものはない。今になって、私は恥ずかしく思う。

“太陽の子”の中で、ふうちゃんのおかあさんが“沖縄はかなしいナ”と言う。今こうして、沖縄戦とその戦後の片鱗を垣間見た後、やっと私はナゼ沖縄はかなしいのかわかった。そして、この本のテーマ、“ルート発見”を導く“心の病気”にかかったふうちゃんのお父さんの存在が、今も戦争の傷跡から逃げられない沖縄人の暗い人生を象徴している。

それまで、神戸人として、あかるく、元気に育ってきたふうちゃんが、心の病気になったお父さんを看病し、その快癒を願って原因を探っていくうちに、子供には知らせたくないと隠し秘めていた大人たちから、この“おきなわ亭”につどう人達やおとうさんが、悲惨な体験をし、いまだにそれから抜け出せないという事実を知るようになる。そして、これらの人達が、みな人間として立派なのは、かなしい沖縄を背負って生きているからだと悟る。“生きている人の中に、死んだ人も一緒に生きているから、人間は優しい気持ちをもつことができる。” “ひとの不幸を踏み台にして、幸福になったって、しょうがない。”

この“太陽の子”には、主人公ふうちゃんをはじめ、キヨシ少年、ギッチョンチョン、ギンちゃん、梶山先生、ろくさん、ゴロちゃん、昭吉くん、といった人々が登場し、いきいきとした会話が展開される。暗いテーマであるにもかかわらず、読後感にさわやかさと重み・深みが伴うのは、作者がつくりだした“ふうちゃん”という女の子の魅力と、そのまわりの人々の人間性によるに違いない。

(記                 1993年7月20日)




53 “兎の眼”(灰谷健次郎)を読んで

 教師と生徒との関係を描いた名作として、“二十四の瞳”が過去にあり、今、私たちは“兎の眼”をもっている。他に、中三の生徒を扱った新田次郎の“風の中の瞳”というさわやかな小説もある。こうしてふりかえってみると、この種の小説はみな“瞳”とか“眼”とかといった表現が内容を象徴するような形でつかわれているのに気がつく。そして、この“兎の眼”という本も例外ではない。表題から判断して、うさぎが出てくるのかと思ってしまうが、あくまでも力点は“兎の眼”であり、それがやさしさの象徴として使われているのがわかる。

 若い新任の小谷扶美(こたに ふみ)先生は、奈良西大寺(さいだいじ)の彫像 善財童子(ぜんざいどうじ)が好きで、それを見つめると、心が清らかになるような気がする。“あいかわらず、善財童子は美しい眼をしていた。人の眼というより兎の眼だった。それは、いのりをこめたように、ものを思うかのように静かな光をたたえてやさしかった。”

 つい先日、サン・フェルナンド・バレー“フェアー”がグリフィス・パーク近くのイクエストリアン・センター(Equestrian Center) で開かれていたので、見に行った。カーニバルのセットもあり、みな人々でにぎわっていたが、私たちは主に牛や豚、羊、馬などを見て回った。ニワトリとウサギも、それぞれ一匹ずつケージに入れて、沢山売り出されていたので、私は“兎の眼”を読んだこともあり、ふつうウサギは赤い眼をしているとかといわれているが、どうだったヶと思いながら、熱心に見て回った。そうすると、ウサギは大きなつぶらな眼をしているのがわかり、安心した。ウサギに限らず、草食動物は大体みなやさしい、きれいな眼をしている。らくだも牛も鹿も、みなそうである。今回、豚が、みな清潔好きで、きれいで、やさしく、かわいいので、感心し、かわいそうになった。

 さて、この本、“兎の眼”は、実に豊富な内容を扱っていて、感動的な場面がいくつもでてくる。

 H工業地帯のスモッグの真っ只中にある塵芥処理所、そのスグ隣に、学校が建っていて、処理所の長屋に住む子供達が、その生徒の何割かを占めていた。ここは、そういう、あまり良いとはいえない環境の中にある学校なので、いろいろな意味で“たいへんな学校”であった。そこへ、大学卒業したて、そして結婚したばかりという新任の小谷扶美先生が赴任してきた。従って、メインのテーマは、この先生になりたての女性が、学校で起きる様々な出来事と、それへのコミットメントを通して、一年の間に、教師として、人間として、立派に成長していくという、いわば、成長小説・教養小説である。そして、この小谷先生の成長にとって大きな役割を果たすのが、鉄ツンこと臼井鉄三(うすい てつぞう)であり、足立(あだち)先生たちであり、処理所の子供たちであり、小谷学級である。

 物語は、鉄三とハエの話から始まる。この鉄三とハエの関係が、この本の展開にとってとても大切な要素となっている。いきなり、ハエがらみのトラブルにまきこまれた小谷先生。一見、知恵遅れの子とも、問題児ともとれる鉄三。突然理由もなく凶暴になるようにみえ、一言もしゃべらず、ただ、にらみかえすばかりという状態の鉄三の心を開き、人間としての心の交流ができるようにするには、どうすればよいのか。これが、この本の大きなテーマである。そして、彼女はそれに成功する。その媒体になるのが、ハエである。

 これは、なんというすばらしい着想であることか。ハエという、昔から忌み嫌われる生物が、鉄三の心を開け、文字や絵、そして科学的研究の世界へと鉄三を導いていく。そして、それにあけがえのない役割をはたすのが小谷先生である。

 ハエという、ふつうゴミやふん便にたかるため、ばい菌の運び屋として、誰からも嫌われている生物を採集して、飼育している鉄三の心に近づく道は、鉄三のしていることを理解することであると決心し、小谷先生は、鉄三にハエについて教わり、一緒に図鑑で名前を調べ、分類し、生態観察から実験研究へと進んでいく。その中で、いつのまにか、鉄三は熱心に文字を覚え、精密描写を行うようになる。そして、ハエのたべものや、ハエの一生、産卵、変態、発生場所と調べていく。

 そのうちに、近くのハム工場から、ハエが発生して困っている、保健所等に頼んだがダメだった、ハエの研究をしておられる小谷先生に助けて欲しいと連絡が入り、小谷先生は鉄三を連れて工場にのりこむ。ハエを見た鉄三は、スグにイエバェだと指摘し、原因は田んぼの堆肥にあることを解明する。鉄三はマスコミで、一躍、六歳の“ハエ博士”となる。しかし、彼はそんなことは気にしていない。

 小谷先生のクラスに一ヶ月ほど、みな子ちゃんという特殊児童をおいてやることになる。みな子は良く笑い、よく走る。自分の席に三分もじっとしていられない。みな子がなにかすると、それはたいてい人に迷惑をかけることであった。ひとつの事に集中していられないので、小谷先生はみな子に一日中ふりまわされたようになる。他の生徒たちに何かすることを言いつけておいて、みな子の世話をする。このみな子の世話は大変で、時には、“このションベンタレのくらげ野郎め”と、怒鳴りつけたくなるときもある。しかし、小谷先生は叱らない。彼女は自分に宣言をした。“必ず、おしまいまで面倒を見る。誰にも絶対ぐちをこぼさない。”と。

 彼女がこんな決心をしたのは、鉄三のおじいさんから、戦争中のすさまじい話をきき、感動を受けたからであった。西大寺の善財童子の美しさ、バクじいさんのやさしさを自分にも欲しいと思い、自分の人生をかえるつもりで、みな子をあずかった。さて、一週間たって、みな子が休んでいるときに、はじめてみな子のことを学級の話題にした。この、みな子をめぐる挿話は、この“兎の眼”の中でも、最も感動的な部分となっており、まさに、“兎の眼”-子供の心の“やさしさ”を見事に描き出していて、全体の中での圧巻となっている。

 はじめ、みんな、みな子はアホやと言っていたが、小谷先生が、むかしアホの子が生まれると、みんな殺したり、捨てたりしましたと説明した。すると、“どうして殺したのか。”、“人にめいわくをかけるからか”、“みな子ちゃんもすごく迷惑をかけるわねえ。”、“ぼくらもお母さんに迷惑かけとるで。”、・・・“みな子ちゃん、あしたくるか、せんせい。”、“さあ”、“くるよな、せんせい”、“来て欲しい?”、“うん、きてほしい。”、“めいわくをかけられても、きてほしいの?”、“いいよ”・・・ということになる。

 そのうち、みな子に迷惑をかけられて、まともに勉強できないため、学力が落ちると心配した親達が、学校に訴えてきた。“先生の趣味で何をなさるのも勝手ですが、そのために、ほかのものに迷惑がかかるとしたら、話は重大ですわよ、ねえ、みなさん。” これも、小谷先生は居直って、“私は自分のために仕事をします。”といって、親を唖然とさせる。

 みな子がやってくると、子供たちはよろこんだ。しかし、依然として、迷惑になるのにはかわりはない。いちばん被害を受けているのは、隣に座っている淳一で、よくノートをやぶられ、教科書までやぶられ、ベソをかいていたが、そのうち、みな子に対する態度が少しずつかわってきた。

 二回目の話し合いのとき、淳一が言った。(断っておくが、この小谷学級は小学一年生のクラスである。)“せんせいは、みなこちゃんがめいわくですか”、“はい、めいわくです”、“だけど、せんせいは、みなこちゃんをかわいがっているでしょう。みなこちゃんがすきなんでしょう。”、“はい”、“めいわくだけど、みなこちゃんはかわいいから、こまっているんでしょう、せんせい。それで、ぼくらにそうだんしているんでしょう。”、“そうよ”、“ぼく、いいかんがえをおもいついたんだ。”、“どんなこと、淳ちゃん?”、“みなこちゃんのとうばんをこしらえたらどうですか。、せんせい。”、“みなこちゃんのとうばん?”、・・・“どうして、ぼくがそおなことをおもいついたか、おしえてあげようか。ぼく、みなこちゃんがノートやぶったけど、おこらんかってん。ほんをやぶってもおこらんかってん。ふでばこや、けしごむとられたけど、おこらんと、でんしゃごっこして、あそんだってん。おこらんかったら、みなこちゃんがすきになったで。みなこちゃんがすきになったら、みなこちゃんにめいわくかけられても、かわいいだけ。”

 みなこちゃんを迷惑に思っているうちはダメですよと淳一に教えられているようなものだと、小谷先生は思った。おまけに淳一は、そういう機会をみんなに分けてやろうと言っている。“淳ちゃん、あなたは本当にかしこい子ね”、小谷先生は心から言った。そして、みな子当番は、クラス全員が賛成した。みんな、精一杯努力をし、苦労し、いろいろな出来事があったが、世話をする中で、思いやりとやさしさをつちかい、短いがそれなりに楽しいときを過ごして、みな子ちゃんとの最後のわかれを迎えた。みな子を見送ってから、給食を食べるために、みんな教室へかえった。・・・誰も食欲がなかった。みんな泣いていた。

 この物語の中には、他にキンタロウという鳩をめぐって子供達が成長していく話、鉄三のかわいがっている犬キチが野犬狩りにとられたため、ゲリラ救出作戦を展開し、その後の処理をめぐっての苦労話、ゴミ処理所の移転と住民待遇改善問題をめぐってのストライキ(同盟休校)や足立先生のハンスト、あるいは、小谷学級での鉄三のハエやみな子の取り扱いをめぐっての校長・教頭等管理者側、体制側と子供たちの側に立って頑張り続ける何人かの教師たちのたたかい、鉄三のおじさんの体験した戦争中の出来事、そして、小谷扶美の夫と彼女とのいさかいという具合に、様々な問題が扱われている。

 ミスター小谷が、薄っぺらな人間として描かれているため、大学卒業したてで、新婚ということは、もちろん、恋愛結婚に違いないのに、どうして、こんなに性格も考え方も違う人間同士が一緒になったのかと、なんとなく腑に落ちない点があるが、小谷先生のほうが、この小谷学級での体験を通して、人間的にも成熟し、教師として成長していっているのは、よく描かれている。特に、足立先生をめぐっての交流は、このストーリーに活力を加えていて、とても、味のある作品となっている。小谷先生は、足立先生の子供たちとのやりとりや、学級指導を見て、いろいろ学ぶことができた。そして、それは、小谷先生の研究授業の日に、最大限に生かされた。

 学級での作文指導を通して、それまで、まともな文字も書けなかった鉄三が、感動的な文章を書いたのだ。“こたにせんせいもすき、というところへくると、小谷先生の声はふるえた。たちまち涙がたまった。”、“教室は拍手で波のように揺れた。”

 教育において最も大切なものは何か。ここでは、やさしさ、思いやりが、様々なエピソードを通してとりあげられていた。やさしさ、思いやり、愛情、忍耐。これらが、人間同士の交流にとって、特に、子供たちとのやりとりにおいて最も大切なものである。この物語は、関西弁の会話を生かして、そうした面について、生徒・親・教師間の交流の中で、みごとに具体的に展開した感動的な名作といえる。

(記                     1993年7月21日)




54 “死者の書” (折口信夫)                                                                                        

私は大阪市内でも平野や大和川に近い東住吉区で成長していった。当時は、高い建物もなく、少し裏手に出れば、田園が続く環境の中で、私はわりと自然に親しんで育った。スモッグなどもなかった時代で、金剛山・生駒山のなだらかな山並みがいつもくっきりと見渡せた。大和川には子供の頃から何度も遊びに行った。その源流に当たるところに二上山(にじょうざん)があった。そんなに高くない山だが、かたちのよい雄岳と雌岳に分かれていて、なんとなく親しめる山であった。万葉の時代には“ふたかみやま”とうたわれた大事な山であり、もちろん、わたしにも少しの知識はあった。

静岡の大学と京都の大学に行っていた間に、三度ほど、わたしは毎年のように、春になると父と二人で二上山に登った。近鉄南大阪線に乗り、名前は忘れたが、たしか二上山口を過ぎた駅で降り、通常のルートとは違う、けもの道のような、なだらかな山にしては険しい山道を、二人ではうようにして登っていくのが、いつものコースであった。全然、人と出会わないため、丁度、尾根に出たところで何人かの人々を見つけてビックリしたものであった。

このハイキングの目的は、もちろん、ぶらぶらとくつろぐ事が第一であったが、そうした山道ともいえない道を登る事で、山登りの気分を味わう事もそのひとつであり、山頂のお墓に詣でることもその一つであった。そして、帰りは必ず当麻寺(たいまでら)を訪問し、充実した気分になって帰ったのであった。

山頂のお墓とは、言うまでもなく、大津皇子(おおつのみこ)の墓である。父天武の子として、文武に優れた大津皇子は、皇位継承争いにまきこまれ、自分の子供(草壁皇子)を天皇にたてようとした皇后持統によって、謀反の罪をきせられ、天武没後二十四日目に死罪となった。二十四歳であった。皇子の屍は二上山の頂上に葬られた。謀反の罪で死罪となった皇子への畏怖と鎮魂の思いが、その墓にこめられていた。

万葉集の中にも、皇子はいくつかの名歌を残した。

ももづたふ いはれの池に 泣く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ (416)

は、その絶作であった。

弟、大津の身に不安を感じた姉 大伯皇女(おほくのひめみこ) は弟を思ういくつかの感動的な歌を作った。

わが背子を 大和へ遣ると 小夜深けて 暁(あかとき)露に わが立ち濡れし(105)(謀反の罪で捕まる前)

うつそみの 人にあるわれや 明日よりは 二上山(ふたかみやま)を いろせとわが見む (165)(屍体を二上山に移葬されてから)

これらの歌は、私が高校生の頃から親しんだものであった。こうして、二上山・大津皇子・当麻寺は私の内部でつながっていた。その後、大学生になって、折口信夫の“死者の書”を読んだ。古代に関する最高の学者としての学識と歌人釈ちょう空としてのすぐれた感性とが融合して生み出された、みごとな歴史小説であり、その過去の再現力は、どのような歴史小説からも味わえないような、創造的な復原性を示していて、一度読んで忘れがたい印象を生んだものであった。今、また、文庫本で出版されているのを知り、私は久しぶりに読み返してみた。

“かの人の眠りは、いずかに覚めて行った。まっ黒い夜の中に、更に冷え圧するものの澱んで居るなかに、目のあいて来るのを、覚えたのである。

した した した。 耳に伝ふやうに来るのは、水の垂れる音か。ただ、凍りつくやうな暗闇の中で、おのづと睫(まつげ)と睫が離れて来る。“



冒頭である。二上山の頂上に葬られた大津皇子の意識が、皮膚感覚を持って、長い死の眠りから蘇ってくる描写から、この名作は始まっている。異様さに満ちた、強烈で印象的な場面である。

しかし、亡き大津皇子は、この物語の主人公ではない。大伴家持と恵美押勝が登場するこの作品の中で、本当の主人公は藤原の南家の郎女(いらつめ)という若い女性である。奈良の邸宅で、二上山に沈む夕陽を眺めていたこの女性は、突然、その谷間に、黄金に輝く荘厳な男の姿を認めて心をうたれた。その後も、何度かその男の裸体が姫の目に入った。姫は毎年の彼岸の中日の夕陽の中にあらわれる金色の肌を、それにふさわしい布で覆ってあげたいと思う。一方では、深い宗教心から、仏典の写経に熱中する姫は、蓮糸を使って織りたいと考えるようになる。そして、とうとう姫は、二上山の上に認めたおもかげびとの姿を心をこめて描き現す事に成功した。姫にとっては、幻を描いたに過ぎなかったが、その画面は、見る見る菩薩の姿にかわっていった。見事な蓮糸曼荼羅が完成したのであった。

この物語は、山越(やまごし)の阿弥陀像と当麻寺の曼荼羅と二上山の大津皇子の墓とを関連付けてつくりあげたものといえる。そして、この曼荼羅制作の動機として、大津皇子を墓での長い眠りから蘇らせ、南家の郎女(いらつめ)に感動を与えさせているのである。短編だが、簡単には紹介できない深い内容に富んでいる。ここでは、古代人が力強く息づいているといえる。そして、なによりも、いらつめのなかに、過去の文化の担い手のたくましさ、みごとさが美しく描き出されている。筋は簡単だが、この物語の持つ強烈なエネルギーを感じ取るには、一読してもらうほかない。

(完                 記1986年5月1日)    Word Input 2010年7月26日




55 “瓶づめの小鬼”と私とスチーブンソン                                                 

名作“宝島”(Treasure Island)で世界的に名を知られたロバート・ルイ・スチーブンソンの短編に“Bottle Imp”(瓶詰めの小鬼)という傑作がある。私が中学2年生のとき、中学生向け英語学習雑誌を一度買って勉強した事があった。中学生のとき、英語は私の最も得意とする科目であったが、その私にも、この雑誌をその価値相当に読みこなしていく力が無く、無駄な出費になるのを恐れて、一度きりで、それ以上買わなかった。そのため、その中に連載(多分2回に分けて)されていたこのスチーブンソンの“びんづめの小鬼”の結末をしらないままに、その後の人生を過ごす事になった。途中で読むのをやめてしまっても、どうでもいいような作品は世の中に沢山ある。ところが、この“小鬼”は、わたしにとってはソウでなかった。私はいつかこの魅力ある短編小説を英文で読まねばならないと心に決めて、その後の人生を送ってきた。といっても、いつも頭の中に意識しつづけていたわけではない。中学2年のときの断片の読後感が、それほど印象的で、スチーブンソンがそのあとのストーリーをどうしめくくったかという好奇心が心のどこかに残り続けていただけである。その最初の出会いから約20年。

私がロサンジェルスに住むようになり、アメリカやイギリスで盛んな幽霊物語・怪奇小説・恐怖小説といった小説類に文学的(想像力の問題)・心理学的興味を覚えて、古本や新本を集め始めたある日、ある“怪奇小説傑作集”の中に、R.L.Stevenson “Bottle Imp”という名前を見つけたとき、私はたちまち、中学生の頃から結末を未だに知らないで居たあの作品に出会ったという興奮に包まれ、とびつくようにして買い求め、家に帰り着くなり、即座に読了した。

そして、私が気になったまま中断していたストーリーを作者はみごとにまとめあげているのを確認した。私は、その興味をひきつける話しの展開やまとまりの良さ、発想の奇抜さ等から、今もこれを文学作品の中で、最も完璧な作品の一つに数えている。(他に完璧な作品として、私は、たとえば、ドストエフスキーの“永遠の良人”、ジェーン・オースチンの“自負と偏見”(Pride & Prejudice,トルストイの“アンナ・カレーニナ”などを思い浮かべる)。

思えば、カリフォルニアこそ、スチーブンソンにとって、一番大切な場所であったのだ。今では、私は彼の4巻の書簡集を持っている。“R.L. Stevenson In California” によると、彼はここで、十歳年上の人妻ファニー・オズボーンと結婚する事になり、まだ未開の地カリフォルニアと子供達の影響の中で、スチーブンソンは”宝島“や幾多の名作のアイデアを育てていったのである。日本の偉大な作家達、夏目漱石や中島敦等は、スチーブンソンのすぐれた英文から多くのものを学んだ。私は、自分が中学生のときに、英語の勉強のために買った雑誌が、私の心の中にスチーブンソンへの興味を植え付け、二十年も経ってから、作家としてのスチーブンソンの誕生の地となったカリフォルニアで結末を知ることが出来たという事、この私自身の興味の持続ということと、何ものかとの出会いという事に、心から興味を覚える。

―――”びんづめの小鬼“ 簡単な要約―――-

ハワイから出てきた男は、サンフランシスコの豪華な邸宅に住む男から“びん”を買った。この“ビン”の中に居る“小鬼”は持ち主のどんな願い事でもかなえてくれるが、唯一つ大きな問題がある。その持ち主は、それを、自分が死ぬまでに売り払わないと、永遠に地獄の猛火の中で苦しむというのである。しかも、その売値は、自分が買った値段よりも安くないといけない。同じか高い値段で売っても、ビンはひとりでに家に戻ってくる。ハワイからの男は、そのビンを手にいれ、その話しがすべて事実である事を自分で確かめる、彼はハワイに帰り、たちまち大金持ちになり、何不自由ない生活を始め、厄介ものになったビンを無事に手放す事に成功した。そうして、ある日、偶然、美しい娘を見かけて、魅せられた彼は、その親に会い、結婚の意志を伝える。有頂天になっていたのもつかの間、フト鏡で自分の裸体を見た彼は、世にも恐ろしいライ病に罹っているのを発見し、愕然とする。愛する娘との恋を全うするためには、あの忌まわしいビンを手に入れ、“小鬼”の力で、元の健康な身体にしてもらうほかないと考えた男は、自分が売った男を捜し始める。そのうちに、転々としたビンの威力で富裕な家々が多い中に、今にも死にそうな苦悩に打ちひしがれた男が立派な家に住んでいるのを見つけたとき、彼はスグに、ビンはここにあるに違いないと悟る。そして、ビンを見つけて喜んだ彼は、その男の買値を聞いて絶望に陥る。最初に彼が買った値段は五十ドルであったが、その男の買値は二セントだと知る。彼がその男から一セントで買えば、もう、次の書いては誰もいず、彼は地獄で永遠に苦しむ事になる。どうすればいいのか。・・・

ここまでが、私の中学生のときに読んだところである。今朝、バスの中で、もう一度、この短編を読んでみて、今まで気がつかなかったこと、すなわち、英文は語り物の散文詩を思わせる独特の味をもった名文であり、簡潔で無駄がなく構成されていて、その怪奇小説集を編集したRod Serlingも序文で“かって書かれたこの種の小説の中で、ほとんど完璧といえる作品の一つである。”と、私と同様の意見を吐いている事などを知った。

ロバート・ルイ・スチーブンソンは、そのすぐれた想像力と表現力で、世界的にも偉大な作品を数多く残した。“宝島”、“ジキル博士とハイド氏”だけでなく、この“びんづめの小鬼”や他の短編など、いまだに新鮮さを失わない。

(完                     記 1983年) Word Input 2010年7月14日






56 “ビルマの竪琴”オリジナル映画=感想                                  

高校1年生のときであっただろうか。講堂で、全員が、映画“ビルマの竪琴”を鑑賞したのは。その頃の私は、きっとそのような世界とは無縁な地平にいたのに違いない。今から考えると、特に感銘を受けたようには思えなかった。原作者 竹山道雄が、当時、保守的或は右翼的な意見を吐いていたので、私にはしっくりと納得のいかないものがあったせいと思われる。それゆえか、当時、新潮文庫にいくつか竹山道雄の本が出ていたが、私はどれも買って読まなかった。大学時代にニーチェの主著“ツアラツストラかく語りき”の翻訳として、安くて手頃な文庫本として、仕方なく、新潮文庫の竹山道雄訳を買ったときも、私は気がすすまなかった。今から思えば、それほど、私は何らかの理由で、竹山道雄に対して偏見を抱いていたといえる。その後、“ツアラツストラかく語りき”は、日本語として得られる最高の名訳である事を、私は自分で確認し、竹山道雄という人物を見直したのであった。この竹山訳“ツアラツストラ”は、天分豊かなニーチェの詩と哲学との融合の名著を格調高い日本語に移したものであって、その後、中央公論“世界の名著”で手塚富雄が現代語訳したものなど、足元にも及ばないといえるものであった。

ここでも、現代口語表現というものが、文語の古典的表現にはるかに及ばないという重要な言語美の問題が露呈されている。これは詩人茨木のり子が感じているように、現代口語文は、使用され始めて、たかだか百年の歴史であり、千年以上の歴史を持つ古典文語文の美には、今のところ、とうていかなわないのは当然ということかもしれない。或は古典(古文・漢文)的表現を切り捨てたところに、まともな日本語は成立しないということかもしれない。私は、いよいよ、現代口語文に熟達するには、古文・漢文に習熟するしかないという逆説的結論に到達する事になった。従って、私は、学習意欲のある人や、まともに国語を勉強する気のある人には、古文と漢文を基本から徹底的に勉強する事をすすめる。将来の日本を担う人々が、古文や漢文を解さないとしたら、それは単に古典の破壊だけではなく、現代日本語の破壊にそのままつながり、ますます語彙が貧弱になり、表現が汚くなっていくのは“火を見るよりも”明らかな事である。竹山道雄訳の“ツアラツストラかく語りき”を読んだ事を思い出し、今、そのように思う。

さて、今回、この、昔見た、“ビルマの竪琴”をじっくりと見直す機会がやってきた。女房が、友達からすすめられて借りてきたビデオが、“ビルマの竪琴”であった。最近、また製作されたとの話であったので、新しいほうかなと思って見たが、やっぱり古い方であった。昭和31年日活製作市川昆監督の白黒映画である。今回は、じっくりと見ることが出来、はじめて私はこの映画に感動した。ストーリーは単純明快である。

この映画はいくつかの角度から見ることが出来るに違いない。魂の救済をあつかったものとかといった風に。私は、この映画をかなりよく理解する事ができた。そして、今回、この映画から感じ取った主題とは、ある物事を知ってしまった人間の実存的孤独というべきものであった。ある体験をし、ある現実、ある情況、ある社会を覗き見てしまった人間、いったん或る世界を認識してしまった人間は、もうそれ以前の自分とは同じでないし、元に戻れない。認識者の孤独であり、ただ彼はひたすら彼の運命の指示するところに従うほかない。こうした、ある種の極限状況に関しては、アルベール・カミュの名作“ペスト”にも、みごとに描き出されている。

恐ろしいペストに襲われたアルジェリアの都市オラン。そこに、たまたま巻き込まれたフランスの新聞記者ランベールは、最初は、自分はこの街とは関係ないのだと主張し、封鎖を破ってまでオランを脱出しようと試みる。ペストが次々とオラン市民を襲い、主人公のリウやタルーは献身的に救済に奔走する。毎日、膨大な死と接し、ただただ献身的に働く人たちの姿を見ているうちに、ランベールの心の中に変化が起きていた。愛する、パリの女のもとに帰るためには、不法も厭わぬつもりでいたランベールだが、いざ、ペストも少しおさまり、関係部外者の出国が許可される事になったとき、遠慮しなくても良いとすすめるリウに対して、ランベールは“しかし、自分ひとりが幸福になるということは、恥ずべきことかもしれないんです。”と応える。“彼は・・・愛する、その女に会いにとんでゆこうとしていたあの自分に出来れば戻りたいと思った事であろう。しかし、彼はそれが、もう不可能であることを知っていた。彼は変わったのであり・・・”。

ここで示されているのは、ランベールもまた、ペストという極限状況のもとで、献身的にペストと闘う人々の中に、人間の愛と生の意味をはじめて見出し、そして、いったん意識されたこの認識は、もう心の深部に巣を作ってしまって、消え去らなくなったということである。従って、ランベールは、もし、今、オランを去り、フランスの愛人のもとに帰っても、こうして、オランで、自分の命を投げ出して、人類のためにペストと闘っている人が居ると思うと、それは、愛する人を愛するうえに邪魔になるだろうと考える。彼には、もう、ペストが他人事ではなくなったのであった。

(静岡大学時代の読書の中で、私は三冊の本から大きな影響を受けた。ロジェ・マルタン・デュガールの“チボー家の人々”とサン・テグジュペリの“人間の土地”そしてアルベール・カミュの“ペスト”である。みなフランス文学であり、私が京都大学を目指したときに、古代ギリシャ文学かフランス文学かと思っていたのも、その辺の理由による。)

さて、原作は知らないが、映画“ビルマの竪琴”は、荒涼とした風景で始まり、同じ風景で終わる。“ビルマの土は赤い、岩もまた赤い。”という説明(?)が、同様、初めと終わりを飾っている。“初め”はともかく、“終わり”まで来た視聴者は、イヤでも、なんとなく、その土のあかいのは、ビルマの山河に散らばる無数の屍体のせいだといわれているような気がしてくる。

ところで、この映画は戦争が主題なのだが、みなよく歌を歌うせいで、なかなか愛嬌がある。ナレーターはいう、“我々はよく歌をうたいました。隊長が音楽学校出の音楽家なのです。”と。ビルマ戦線を放浪していた井上小隊は、疲れると“旅愁”を歌い、“埴生の宿”を歌った。そして、その時、いつも隊長は水島上等兵に、得意の竪琴での伴奏を頼んだのであった。日本が戦争に負け、降伏してしまっているのも知らなかった彼らは、あやうく、イギリス兵に一斉掃射されかかった。その危機を救ったのも、隊長指揮する歌であり、なによりも水島上等兵の奏でた“埴生の宿”であった。イギリス兵たちも“埴生の宿”(Home Sweet Home)は、よく知っていたからである。

停戦降伏し捕虜となった小隊はムドンに送られる事になった。イギリス兵から、いまだに抗戦している地域へ説得工作を頼まれた隊長は、水島上等兵にその説得を頼んだ。水島上等兵は、その後、ムドンには帰ってこなかった。説得は失敗し、自分も攻撃され、重傷を負ったところをビルマ僧に助け出された。その後、僧の姿になってムドンに向かった水島上等兵は、山や谷にちらばる無数の日本兵の屍体を見つけた。いくつかを埋葬したが、あとは祈るだけで通りすごして、ムドンに辿りついた。明日は収容所のみんなに会えるのだと心いさんでいた夜、たまたま、イギリス軍の看護婦達が戦病死した日本人兵士を無名戦士の墓に丁寧に葬る光景を目撃した。これが、まさにこの映画の中での、水島上等兵にとっての最大の啓示でありショックであった。

彼は、自分が目撃した、ビルマの山河に散らばる無数の日本兵の屍体を想い起こし、自分が葬りもしないで通り過ぎてきた、みじめな遺体の数々を想い起こした。そして、その時、水島上等兵は、このあわれな日本兵の無数の屍体を全部葬る事がこれからの自分の仕事なのだと自覚したのであった。

井上小隊はアチコチで、肩にオウムをのせた日本人らしきビルマ僧を見かけるが、それが水島上等兵なのか確信がつかない。人からきいたところでは、例の三角山の戦いでは、日本兵はみんな死んでしまったらしいという。隊長は責任を感じているのか、ともかく、真相を知りたいと願う。隊員達はあのビルマ僧が水島なら、どうして隊に帰ってこないのかと疑問に思う。そのうちに、隊長は、ビルマ僧が水島上等兵であり、彼は自分が送った三角山和平工作とそれ以降の体験によって、僧侶になり、隊と一緒に日本に帰国する気はないのだと悟る。日本帰国許可が出され、喜びに包まれた井上小隊だったが、一つだけ心残りがあった。みんなは歌を歌えば水島がやってくるのではとうたいつづける。アスは出国という日、一人の日本兵が“来た”と告げた。みなが鉄柵に殺到すると、ビルマ人の子供をつれた例の若い僧がひっそり立っていた。みな、それでも、まだそれが水島上等兵のかわりはてた姿だとは確認できず、それで、みんなで、こわごわ“埴生の宿”を歌い始めた。子供がかかえていた竪琴で伴奏しようとした。僧は子供から竪琴を受け取って、いつもの巧みな調子で、“埴生の宿”を演奏した。みんなはやっと水島上等兵なのだと確信し、大喜びすると同時に、なぜ、そのようによそよそしく立っていて、一緒に帰ろうとしないのかわからず、困惑していた。すると、その時、僧は竪琴で“あおげば尊し”を演奏し、それが終わると、一礼して去っていくのであった。みんなはあっけにとられていた。隊長だけは、離れたところで、わかりきったことと受け取っている風であった。出立の日、水島ビルマ僧からの手紙が届けられた。早く読んでと迫る部下達に、隊長は、今はスグ兵舎をでなければならず、時間がない、あとで船の上でと継げる。隊長には、読まなくても水島が日本に帰る気はないことがわかっていた。ただ、水島自身が、みんなに納得の行く説明をしているのに違いなかった。船の上で、隊長は読み上げた。涙ぐむものも居た。そして、それぞれは、それぞれの思いに耽るのであった。

ビデオは次の日も、まだ家にあったので、私は一人でもう一度見た。同じ映画を厭きずに続けてみたのは全くの久しぶりの出来事であった。二回目もやはり感動した。こんなに素晴らしい映画なのに、どうして高校生の時には特別な感動を覚えなかったのであろう。私も人生の無常を体感する年になったからなのか。私自身の体験が、より理解と共感を高めたからなのか。映画の中で、みんなが力いっぱい歌を歌っていたのも気持ちよかった。私の好きな“あおげば尊し”が主人公と他の兵士達との正式の別れの曲をなしているのも良かった。そしてまた、素朴で真実味を帯びたホンモノのビルマの僧が、ボソボソと無情を述べるのも味わいがあった。

ビルマの赤い土と岩だけが永劫の存在で、日本兵もイギリス兵もビルマとは関係のない侵入者であり、ビルマ人から見れば、真にむなしい戦争とその犠牲者でしかなかったということであった。ただ、私はよく知らないが、ビルマでは僧侶は尊敬されていたようで、主人公が僧侶姿になって放浪する先々で、僧侶である事によって、食物を恵まれ、寝所を提供されるのを見て、聖なるものへの民衆の尊崇意識というものの良い面を見たように思った。わが国の中世の僧侶達も、民衆の中に入り、民衆によって生活を支えられながら、彼らの宗教を鍛え、自分を鍛え上げていったのであった。

苦悩と悲惨に満ちたこの人生。戦争を体験し、人間が愚かさによって空しく滅んでいくのを目撃しなければならなかった主人公水島上等兵が、すべてが終わったあとでも、なぜ、他の隊員たちと日本に帰国できなかったのかは明らかである。今の私はよく理解できた。きっと、高校生の時には、その辺の内的必然性が理解できなかったに違いない。私は京都大学時代のベトナム反戦運動など、一連の学生運動を通じて、認識と孤独という問題を自分なりに体験したのであった。

この映画はいろいろな角度から眺められるに違いない。私にとっては、明白に、絶対認識者の実存的孤独、その苦悩と実践というテーマが、この映画の主題であった。全編、歌で埋まっていて、特におもちゃの帆立舟のような形をしたビルマの竪琴がかなでる“埴生の宿”はストーリーの上でも、キーノートをなしており、単純だが、うまい構成で、私はその単純さをしみじみと味わう事ができた。名画だと思う。

(完  記 1986年1月30日) Word Input 2010年7月15日




57 ハンレイへの思い (政治と人生)

 広大な土地に、それにふさわしい長大な歴史を築き上げてきた中国は、その偉大な文化の発展にふさわしい多様な人材を生み出してきた。中国史は、数多の興味あり、傑出した人物を擁していて、私たちに様々な教訓を与えてくれる。司馬遷の“史記”に登場する人物たちの姿は、人間のとりうる生き方を生き生きと鮮やかに示していて、限りなくおもしろい。

 日本が縄文土器の野蛮で健康な時代を送っていたころ、すでに世界でも最高度の教養と文化を備えた国が、海のスグ向こうの中国大陸で築かれていたことを知るのは、一つの驚異でもある。日本文化の後の発展は、中国文化伝播のたまものであり、そのすぐれた文化のすべてが、スポンジの吸水作用の如く、あざやかに吸収されることによって、日本は自立できるようになっていった。中国の歴史は、日本の古代知識人たちにとっても、必修の対象であり、彼らは、中国古代文明において活躍する英雄たちの行動や名前は、当然のことながら、みな諳んじていた。

1331年、鎌倉幕府討伐を企てた(元弘の変)後醍醐天皇は、楠木正成らの努力もむなしく、捕らえられ、隠岐に流された。この失敗に終わったクーデターが、鎌倉幕府滅亡の直接の動因になったという意味で、この未然に発覚した政変は、天皇の隠岐流罪と共に、建武の新政に向かう動乱の中でも、特筆に価する出来事であった。

天皇が隠岐に流されると聞き、途中で一族を率いて天皇を奪おうとした児島高徳(こじまたかのり)は、敵に裏をかかれ、結局は何も出来ずに終わった。美作の国(岡山県)院の庄の宿に入った天皇を助け出す方途もなく、仕方なく、児島高徳は、宿の庭にある桜の木を削って、一句の詩を書き残した。

『天莫空勾践 時非無ハンレイ』

天 勾践(こうせん)をむなしうするなかれ 時にハンレイなきにしもあらず



翌朝、警護の武士が見つけて騒いだが、何のことかわからなかった。たまらなくなって、天皇に報告すると、天皇は直ちに、その真の意味を悟り、ニッコリほほえんだ。

これが、有名な“児島高徳と桜の木とハンレイ”の逸話である。児島高徳の名前は、太平記にしか登場しないということで、果たして、実在の人物かと疑われたりするほどであるが、この逸話は、建武の新政を予告する意味合いもあって、鮮やかに輝いている。

ここで、太平記の語り物的な性格が現れて、この勾践とハンレイの詩の意味を解しない人々への注釈のはずの説明が、延々と、文庫本で二十頁近くも続くことになる。これは、当時、文化が大衆化すると共に、当時の教養のレベルも低下し、勾践やハンレイの名前を聞いても、何のことか全くわからない人が増えていたからであり、それは、町民・農民に限らず、武士においても、すでにそうであったことが、この児島高徳の逸話でうかがえるのである。

さすが、天皇だけあった、中国の史書には通じていた。そして、有名な呉越の闘いと、その主要な登場人物については、知悉していた。

「天よ、呉王夫差(ふさ)に捕らえられた越王勾践と同じような境遇にある後醍醐天皇の命を空しく殺さないでくれ、時には、あの勾践を助けたハンレイのような忠臣があらわれてこないとは限らないのだから。」

太平記は、このあと、“この詩の心は、・・・”とつづいていく。

時は、戦国時代(中国古代の)であった。呉と越は仲が悪く、領土のとりあいばかりやっていたが、いよいよそれも大詰めに近づいた。越王勾践の決死部隊の活躍に敗れ去った呉王コウリョは、息子に勾践が父を殺したことを忘れるなと言って亡くなった。その言葉を肝に銘じた呉王夫差は、毎晩、薪の上に寝て、その痛みで父の恨みを思い返し、復讐の機会をうかがっていた。

夫差には名臣ゴシショが、勾践には名臣ハンレイがついていた。呉王の勢力回復を気にした勾践は、ハンレイの再三の忠告にも耳を貸さず、攻め入って、逆に会稽山に追い詰められ、三十万の軍隊に囲い込まれた。死を決した勾践に、もうひとりの賢臣大夫種(たいふ しょう)が、今死ぬのはたやすい、しかし、生き恥をさらしても生きながらえて再起を期すべきであると説いたので、もっともと思い、種にすべてをまかせた。

結局、兵と息子は無事に帰れたけれども、勾践自身は、光の入らない牢獄に手足を鎖につながれて入れられた。そのうわさを伝え聞いたハンレイは、魚商人のふりをして呉の国に入り、獄のあたりにくると、警護が厳しくて隙がない。そこで、一行の書を魚の腹に入れて獄の中へ投げ入れた。それを読んでみると、まぎれもないハンレイの文体で、昔牢獄につながれたもので、王者になったものがいる、あなたも敵に殺されるなと書いてあるので、生への勇気が湧いてきた。

その頃、丁度、呉王夫差が病気になった。命が危なくなったとき、名医が誰か膀胱結石の石を嘗めて味をしらせてくれれば、治療が出来ると言ったが、誰もそれをしようとしない。伝え聞いた勾践は、恥を忍んで、これが最後のチャンスと思い、自分が嘗めてみると言った。その行為の結果、病気が回復したため、呉王夫差は感激してしまい、勾践を牢から出すだけでなく、越の国まで返して、勾践を送り出してしまった。その時、呉王の名臣ゴシショは、その処置は、虎を野に放つようなものだと注意したが、聞かなかった。

三年の苦労のあと、帰国した勾践は、寵愛する絶世の美女西施(せいし)と楽しく過ごせると思っていたのも束の間、呉王から西施をよこせと言って来た。怒って、拒絶しようとした勾践に、ここでもまたハンレイが忠告を行った。“今、西施を惜しんで戦争になれば、国力もなく、たちまち負けて殺されるのはわかりきったことだ。それなら、一体、何のために苦労をし、恥を忍んで生きてきたのか、呉王は女好きで有名だ。西施を呉王にやれば、夢中になって政治も忘れるに違いない、そうなった時こそ、復讐のチャンスではないか”、と。勾践はハンレイに説得されて従った。

その後、ハンレイの予想通り、西施の魅力のとりこになった呉王は、政治を忘れてしまった。名臣ゴシショは何度もきびしく忠告したが、全然、耳にいれないどころか、かえってゴシショを疑いだし、とうとうこの剣で自殺しろという命令を下した。ゴシショは怒って、自分が死ねば、目の玉をくりぬいて街の東門にかけてくれ、呉王夫差が勾践に敗れて、死刑に連れて行かれるところを、トックリ見てやるといって自殺した。

ハンレイにとって名臣ゴシショだけが最大の難問であったのに、西施を殺そうとして、逆にゴシショ自身が殺されてしまったため、チャンス到来と喜んだ。

この間、勾践は、夫差への復讐を忘れぬようにと、常に肝を嘗めて、その苦い味で、会稽山の恥を思い返し、国力の増強にと励んでいた。慎重なハンレイの忠告に従って、会稽の恥から十一年が経った。夫差は覇者として、諸侯を黄池(こうち)に集めて得意の絶頂にあったとき、ハンレイはようやく合図して、呉を攻めさせた。すさまじい勢いで疲弊した呉軍を破っていく越の兵力を見て、忠臣ゴシショの忠告がすべて正しかったことを悟ったが、すべては手遅れであった。

会稽の恥のごとく、自分も許してもらえると思っていたし、勾践もその気になったが、ハンレイはゴシショ同様、鋭く先を読み込んでいた。ただ一度、ハンレイの忠告に逆らって、会稽山で致命的な敗北を喫した勾践は、それ以来、ほとんどハンレイを信用し、彼の忠告は受け入れた。とうとう捕虜となり、命が助からないと悟った呉王夫差は、国を滅ぼしてしまったのは自業自得だけれども、たぐいまれな忠臣ゴシショを殺してしまった自分自身が恥ずかしいと心から思った。そして、結局、会稽山のふもとで、自分で首をはねて死んだ。

越は、その後、ますます強大となり、覇者となったので、勾践はハンレイの功を賞して大名にしようとした。その時、ハンレイは“たいめいの下には久しくおり難し”(大きな名声のもとでは、長い間、身を安全に保つことはできない)と考えて、すべてを捨てて、一族と共に越を去ってしまった。そして、その地から、同じく賢臣種(しょう)に注意を促した。そうすると、やはり、種をねたむ人間が、種が反乱起こそうとしていると訴えたため、勾践は自殺用の剣を種に送った。

ハンレイは、その冷徹な知性で、勾践の人柄を見抜き、苦難は共にすることができるが、富貴太平は共にすることは出来ないと読んでいた。彼は、“飛鳥尽きて良弓蔵され、狡兎死して走狗煮らる”(鳥がいなくなれば、よい弓もしまわれ、兎が死ねば猟犬は不要となるから、煮て食われる)と言った。その後、ハンレイは、名を変えて商売人となり、そこでも天才を発揮して大富豪となった。そして、それを貧しい人々に分け与えること二度。世に、“陶朱イトンの富”という。陶朱(とうしゅ)とはハンレイの別名である。

この呉と越をめぐる闘いは、そこに名臣や美女がからんでくるため、中国古代史ではもっとも有名な話となっている。絶世の美女西施に関しては、芭蕉も“奥の細道”の旅で、“きさがたや 雨に 西施が ねぶの花”という句を詠んでいる。ここは、また諺の宝庫でもあり、臥薪嘗胆、会稽の恥、そして呉越同舟といった金言名句が生まれた。勾践も夫差も、特に立派といえる人物ではなかったが、その復讐への徹底ぶりは凡人には出来ぬことであり、やはり個性豊かな英雄ということになるのかもしれない。中でも、最も興味ある人物は、二人の忠臣、ゴシショとハンレイであり、一方は悲劇の英雄として名を残し、他方は、その先賢ぶりを生かして、名臣から大富豪となって、幸福な一生を送った。太平記の中の名文をうつすとこうなる。“功成り名遂げて身退くは天の道なりとて、遂に、姓名を替え、陶朱公と呼ばれて、五胡というところに身を隠し、世を逃れてぞ居たりける。釣りして蘆花の岸に宿すれば・・・”。

これらの知識が、この児島高徳の文字の理解に必要だったわけで、太平記には、この詳細が史記、論語、春秋、礼記、白氏文集、文選、孟子といった文書を総動員して展開されており、著者の教養の深さはわかるのであるが、詳細を知っているものには、建武の新政に向かう動乱の記述としては、冗長に過ぎ、平家にくらべて、やはり、少し質的に劣ると思ったりすることになる。

さて、このようにして、名臣ハンレイは最大の功労をたてながら、自分から栄誉を辞退して、よその国へ隠遁し、そうすることによって自由を得、また別の才能を発揮して、命を全うすることが出来た。しかし、功労を立てた人間が謙虚に無名になって退くということはむつかしい。漢の劉邦が項羽を打ち破り、漢を統一するのに成功したが、その時、軍事的に最大の功があったのは、“背水の陣”で名高い韓信(かんしん)であった。韓信はハンレイとは異なり、自分のように大きな功績を挙げた人間を、劉邦は大切にするであろうと甘く見て、昔、ハンレイの言った“走狗煮らる”の忠告を行う人の意見をきかなかった。ところが、漢帝国が安定するや否や、韓信の軍事力をおそれた劉邦は、策略で韓信を武装解除してしまい、小さな国を与えた。そして、そのあと、結局、漢王の妻、悪名高い呂太后(りょ たいこう)の手で、殺されてしまった。韓信だけではなかった。次々と功労者は抹殺されていった。中国古代史の時代は特に皇帝権が強く、大名といえども命の保証はなかった。

しかし、これは、何も古代にだけ起きた性質の出来事ではない。何時の時代にも、繰り返し発生してきた。近くは、1917年のロシア革命とその後の変貌史が、その事実を明白に語っている。ロシア革命の当事者ではなかったスターリンが、レーニンの病気をいいことにして、書記長の座に着くと、それまでの革命の功労者たちを次から次へと抹殺していく仕事にとりかかった。ロシア革命の最大の功労者であるトロツキーをまず取り除いてから、1938年のブハーリンの処刑に至る、いわゆる血の粛清の間に、事実上の革命の功労者はすべて殺されてしまった。

今では、ソ連は、マルクスやレーニンの考えていたものとは全く違った体質の国になってしまった。しかし、ある意味では、こうなってしまった責任は、この権力闘争に敗れたもの自身にもあったのである。彼らは、革命の中で、功労をたてたと思い、それは普通の人よりも高く評価されるべきだと考え、いい役職に付こうとする。誰でも勲章を欲しがるのである。しかし、もともと、マルクスやレーニンの夢は、そんな勲章のエリートたちのいない国をつくることであった。そこには、考え方の革命的転換が要求されていた。しかし、ほとんど誰もそのことに気付かなかった。

功労を立てた、従って、自分は表彰される資格があり、いい給料といい地位、いい名誉をもらわねばならないと考える。これでは、ロシア革命がなされたといっても、ただ支配する階級が大地主・資本家から共産党員になっただけで、中身はちっともかわっていない。自己犠牲・自己変革を経過しない革命は真の革命とはいえない。

彼ら、革命の英雄たちも、あの賢臣ハンレイのように、あっさりとすべてを投げ打って、無名にかえり、どこかの農夫か商売人か学者にでもなっているべきであったろう。そうする態度をとることによって、彼ら自身の命がまっとうできたはずであるだけでなく、自分の活躍をひとつの権威として、政治に口出しをし、民主的であるべき政治がそうした影響力によってゆがめられるといった形の政治がうまれにくかったに違いないからである。権力闘争の次元にうつしてしまえば、革命の功労者とか何とかは関係なく、書記局を握った権力の鬼が勝ちをなのるのはわかりきったことなのである。

名臣ハンレイの教訓は何を語っているのであろうか。人はその中から、様々なものを読み取ることが出来るはずである。ハンレイは苦難の中にあっては忠臣として、策謀の必要なときには賢臣として、その才能を思う存分発揮させながら生きることが出来た。自分の忠告に勾践が従わなかった時でも、裏切ることはなかった。まさに忠臣の英雄に値する。しかも、彼のもっとも偉かったところは、すべてが無事うまく運んで、最大の功労者として表彰されようとしたとき、ものすごい洞察力を使って、すべてを読み取り、あざやかに、すべてのものを捨てることが出来た点、つまり、洞察力と自分に忠実な実行力、そして、欲望を無とすることができる抑制力によって、あの動乱の時代に悠々と生き延びる力を持っていた点である。

人は何か目立つことをし、権力に近づくとおごりやすい。しかし、政治に必要なのは謙虚さである。そして、これこそ、現代の自己主張の世の中では、最もむつかしいことである。中国古代史は、果たして、私たちに何か考える材料を提供してくれているのであろうか。

(記                     1985年9月26日)

 




58 “中村真一郎 <頼山陽とその時代>を読んで”                                                           

この本は、膨大な内容を持った、非常に面白い本だが、ここで私はこの本の紹介や批評をするつもりはない。この本を読んで知った事実の中で、私が一番感心したことについて書こうとするものである。つまり、頼山陽に限らず、当時の知識人の交友の細やかさということである。

この本には、頼山陽という有名な文筆家・漢詩人をめぐる人物像が沢山描かれている。彼の師・弟子・論敵と、ほとんど幕末に近い日本の漢学の知識人たちすべてが登場する。私が最も感心したのは、これらの知識人達が、師弟や友人同士の交友において、実に繊細で暖かく人間的な関係を維持していたということ、そして、自分の知識と交友を増やすためには、百里千里を遠しとしないで、こまめに歩き続け、訪問し続けたということである。それが既に知っている人に対してだけ行われたのではなく、全く未知な人に対しても、どこそこにすぐれた学者が居ると聞いただけで、九州の端まで訪ねていくということが、ほとんど、日常的に行われていたということが、私を驚嘆させた。

彼らの人間的交友と新しい知識と学問への貪欲なまでの情熱は、私の心を激しく打つ。その性急さと直截さとを私はうらやましくも思う。当時としては、多分、それが、日常あたりまえのことであったのであろう。今ほど、書籍も自由に手に入らない時代にあって、壮大な気宇を持った若者たちにとって、目的に達するための苦労などは、なんでもない当たり前のことであったに違いない。迎える師匠達も、気に入れば徹夜での討論も辞さなかった。そこには、虚偽が入り込む余地がない。日本の将来への想いと、そのための学問への純粋な情熱だけが燃えていた。自分が本当に好きになった、尊敬し、敬愛する人に会いに行くためには、どのような障壁も辞さず、ただスグに直接に行動に移せた彼らの生き方は潔く、羨望の念が沸くのを禁じえない。

私自身、今まで、直接会って、話しを聞きたいと願った人が何人か居た。しかし、私には、江戸の武士たちのような勇気は無かった。気が小さかったというか、ただの一愛読者が、面会を申し込んでいたのでは、会うほうも大変に違いないと、いつも、勝手に相手の身になって考え、結局、何もしないで終わってしまった。そして、83年の3月を迎え、7月を迎えた。83年の3月1日は小林秀雄が亡くなった日である。

私は工学部を3年の途中で退学し、もう一度、受験勉強をしなおして、文学部へ入学した。この転換を生む原動力となったものは、小林秀雄の本であった。今では、私の工学部時代というのは、まさに自己探求の時代であり、とても重要な意味を持っていたことが分かっている。しかし、いずれにせよ、私は、小林秀雄に私淑する中で開かれた地平に向かって、とびだしたわけなのだ。名著“無常といふ事”や“モオツアルト”を数十回、それこそ暗唱してしまうほど読み親しんだ結果であった。そして、いつの間にか、私の内部で小林秀雄に直接会いたいという希望が、単なる愛読者としてでなく、小林秀雄論執筆という形で行いたい、というような願望にかわっていった。そのために、かえって、素直に、一愛読者として会いに行く機会を永遠になくしてしまった。没後、新潮社から追悼特集号が出版され、そこに、載せられた小林秀雄の講演を読んで、私は彼がテレパシーや予知等の心霊現象に興味を持っていた事を知った。この超心理学の西洋の文献を沢山読んでいる私は、きっと、この領域において、小林秀雄と楽しい会話がもてたに違いないと、本当になくした機会が惜しまれる。

83年7月11日には、サンタ・バーバラ在住の探偵作家ロス・マクドナルドが亡くなった。67歳という若さであった。このことについては、既に“探偵小説の読み方(1)”で、書いておいた。ハードボイルド探偵小説の最高峰として、不滅の私立探偵リュー・アーチャーを創造したこの人物には、いつか会いたいと思っていた。私は19編に及ぶ、彼のアーチャーもの探偵小説を全部読了していた。私に、探偵小説のすぐれた作品について問いあわせる友人たちには、必ず、ロス・マクドナルドを筆頭に推薦していた。私はLAに居て、彼はサンタ・バーバラに戦後ずっと住んでいることもわかっていた。そして、82年11月にサンタ・バーバラまでドライブしたときにも、ここに、ロス・マクドナルドがいるのだがと思いながら、会いに行けなかった。この場合も、私は、もう一度、全作品を読み返して、英文または日本文でロス・マクドナルド論を書いてから、会いにいこうと考えていたのである。

どうして、こうであったのか。多分、私はあまりにも気位が高すぎて、単なる愛読者という状態に居ること、或いは、そう相手に思われることに耐えられなかったのであろう。そして、いつも自分勝手に、相手に迷惑と思われる会い方はしたくないと考えて、結局、何もしないで過ごすことになってしまった。これでは、いけないと思う。あつかましい奴だと思われてもかまわない、恥知らずだと思われてもよい、自分が本当に好きで、会いたいと思えば、遠慮せずに行動に移さなければならない。生きているうちに会っておかないと、チャンスは二度とやってこないかもしれない。今、私は、そう思う。そして、“頼山陽とその時代”を読んで、感銘したのも、まさに、江戸後期の知識人たちは、己の意志と願望に忠実に行動し、しかも、彼らは即座に行動することが出来たということであった。

(完了)

1984年5月9日 執筆






59 “交友”(中国史の中の三つの交わり)                                                                

ユングの自伝は、深遠さと面白さを兼ね備えた本であり、私の愛読書の一つといえるものであって、精神分析に興味を持つ人だけでなく、人間の精神の問題に関心のある人すべてに勧めたいと思う本である。その中で、ユングは様々な体験と分析を語っているが、一つ特に私の興味をそそった話がある。それは時効になった殺人とその告白者の話である。

ユングの処に匿名で告白に来たその女性はドクターであった。二十年前に嫉妬心から、彼女はベスト・フレンドを毒殺したのであった。その女友達の夫と結婚したいと思ったために、彼女は友人を毒殺した。彼女は、殺人はそれが発見されない限り、苦にならないと考え、その夫と結婚する最も単純な方法は、彼女の友人をこの地上から消去する事であると考えた。道徳は問題にもならないと彼女は考えた。そして、彼女はその男と結婚する事に成功した。ところが、間もなく、彼はまだ若くして死んでしまった。この結婚から生まれた娘は、成長するや否や、彼女から離れていこうとし、事実、娘は若く結婚してどこへともなく去り、とうとう彼女との接触は完全に失われるに至った。彼女は馬がとても好きであった。そして数頭飼っていた。ところが、ある日、そのどれもが、彼女がいると神経質になり、彼女を避けるのに気がついた。それでとうとう乗馬をやめてしまった。その後、犬をかわいがろうとした。素晴らしい犬が一匹いて、彼女はとても惹きつけられていた。ところが、その犬もまた麻痺してしまった。彼女は、もうこれ以上どうする事もできない自分を感じ、ドクターユングのところへやってきたのであった。そして、二十年前の殺人を告白し、そしてどこへともなく去っていった。

ユングはこの殺人犯である女性のドクターについて、次のようなコメントを書いている。彼女は殺人犯であったが、それ以上に、彼女は自分自身を殺してしまっていた。殺人犯は自分自身に対して刑罰を科していたのだ。もし、誰かが犯罪を犯し、つかまれば、その人は刑事的罰則を受ける。もし、その人が、密かに、そして良心の呵責もなく犯罪を犯し、それが見つかる事がなくても、やはり罰はやってくる。そして、時には、動物や植物までが、その事を知っている様子である。その女性は殺人の結果、耐え難い孤独の世界に突っ込んでいった。動物達からさえも避けられるようになった。この絶対の孤独をふりすてるために、彼女はユングにその事実を知ってもらいたかった。その事によって、人間性への連携をもちたかった。そして、そのためには、懺悔聴聞僧(ざんげ ちょうもんそう)のような道徳的判断を下す人ではなく、医師として、ただ冷静に事実を受け止めてくれる人が必要であった。彼女はすでに人間や動物が彼女を避けようとしているのを見てきた。そして、この沈黙の判決に驚き、もうこれ以上耐えられないところまで来たのであった。そして、ユングは彼女がその後どうしたであろうかと思いやる。“多分、究極的には、彼女は自殺に追い込まれたであろう。私には、彼女は、あの完全な孤独の中で、どうして生き続けることが出来るのか想像さえできない。”

これが興味深い時効殺人の告白である。私も彼女には自殺しか残されていないように思える。ベスト・フレンドの女友達でさえ、自分の欲望のために殺してしまえる人には、どのような愛情豊かな関係も成立する事ができない。自我の欲望に支配されていて、相手から奪う事しか関心がなく、自分の欲望の充足のためには殺人でも何でもやれる人間には、愛と信頼と相互扶助、自己犠牲と献身に満ちた美しい共同生活の世界は閉ざされている。そして、誰よりも敏感な動物は、そのことをスグに感じ取る。ふつう飼い犬を見れば飼い主がわかるといわれるが、それは何も充分食べ物をもらっているかどうかといった外面的なことよりも、飼い主のもつ内面が鋭敏な動物に直截的に反映されるからである。親友を殺す事ができた人にとっては、世界は虚無であり、自分以外には誰も存在せず、その人は集団の中に生活しながら、絶対の孤独を味わい続ける事になる。そして、そのような状態にあるとき、人間にとって幸福とは何であろうか。うれしさを、楽しさを共に分かち合える人も居ない世界においては、生理的な満足すら存在しないであろう。そして、死は救済となるだろう。

中国の歴史を勉強すると、ほとんどどの本にもでてくる有名な交遊録に出会う。中国はそのスケールの大きさにふさわしく、興味アル人物が沢山登場し、いろいろ考えさせられる事が多いのだが、“交友”について考える際にも、私達に限りない感動を与えてくれる話しがいくつかアル。

“管鮑の交”(かんぽうのまじわり)、“刎頚の交”(ふんけいのまじわり)、“水魚の交”(すいぎょのまじわり)の三つが特に有名だが、他にも“漢書”に出てくる“忘年の交”(ぼうねんのまじわり)というのがある。二十歳にみたないミコウが五十歳を超えたコウユウと親しく交わったところから出た言葉らしいが、手元に手頃な文献も無いので、詳細がわからず、この方は省略して、三つの交友に戻る事にする。

“史記”にも“十八史略”にみでてくる“管鮑の交”のあらすじは、こうである。

管仲(かんちゅう)は鮑叔牙(ほうしゅくが)と幼友達であった。このホウシュクはよほど器量の大きな人物であったのか、管仲が何をしても悪く取ることはなかった。利益を独り占めにしたり、事業に失敗したり、先に逃げたり、恥を受けたりと、普通の人なら愛想が尽きて、どうとでもなれと思ってもおかしくないのに、ホウシュクは、全てを受け入れてやり、最後には自分の主君を狙って牢獄に入り、死刑になるはずの管仲を解放しただけでなく、自分よりも上の総理大臣の地位にすすめてやった。そして、その地位にたって、はじめて管仲は、その天才を発揮して、自分の主君である斉の桓公が諸侯を統一して覇者となるのを助けた。“衣食足りて礼節を知る”の語源“倉りん実ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る”は管仲の言葉であり、彼は国を豊かにし、一般人民の希望するとおりの政治を行った。管仲について、時々批判的な言葉を吐いていた孔子も、管仲が桓公を助けて諸侯の覇者となって平和を作り出し、天下を整えたおかげで、今に至るまで私達は野蛮に陥らないで済んだと言った。そして、管仲が生きながらえて、その才を発揮する場所を見つける事ができたのも、全く、ホウシュクガという幼友達のおかげであった。大成した管仲は、その後、自分の過去を総括し、自分を生んだのは父母であるが、自分という人間を本当に理解してくれたのは鮑叔(ホウシュク)であると言い、終生、ホウシュクを大切に扱った。世間の人は、管仲の大才よりも、ホウシュクがよく人物を見抜く能力を持っていた事を奇特な事とした。ホウシュクは、管仲の行動の真実をよく見抜き、また、自分よりも優れた才能をもっている事を見抜いていて、謙虚に自分をふるまって、友人の才能を伸ばしてやる事に心がけた。その半生のほとんどを不様な失態を演じ続けた管仲という男に対するホウシュクの信頼の固さ、その度量の大きさは全く驚嘆に値する。そして、唐の詩人杜甫も次のような詩を作った。

貧交行  (七言絶句)                                          杜甫

翻手作雲覆手雨 紛紛軽薄何須数 君不見管鮑貧時交 此道今人棄如土

手を翻せば雲となり、手を覆せば雨となる

紛々たる軽薄 何ぞ数ふるをもちいん

君見ずや管鮑貧時の交はりを

此の道 今人 棄つる事土の如し



手のひらを上へ向けると雲になり、下へ向けると雨になる(人情のめまぐるしく変化するさま、軽薄さ)。そこら中にいる人情の薄い連中は取り立てて数えるまでもない。あなたも知っているに違いない、その昔、管仲と鮑叔との美しい友情を。今の人は、そうした友情を土くれのように見捨てて顧みようとしない。全く残念なことだ。

失業し、家族を抱えて苦労している中から生まれた恨みに充ちた詩であるが、唐の時代の交友の多くが、誠実を欠くものであったに違いない。そして、もちろん、いつの時代においても軽薄な交友はあたりまえのことであったからこそ、古来から“管鮑の交”を褒め称えてきたのだろう。たしかに、この二人の関係の意味するところは深長であり、人間の存在の原点をも象徴しているかのようである。

さて、有名な“刎頚の交”こそ、司馬遷が“史記”において描き出した人物の中でも、最も水際立った魅力をもった英雄 りん相如(リンショウジョ)と朴訥で単純率直な好好爺といえる廉頗将軍(れんぱ しょうぐん)の関係であり、既に古代において、このりん相如の人物に見せられた人間がいたことは、前漢の最大の文人 司馬相如(しば しょうじょ)が、その名前を借りてきている事からも察せられる。実に、このリンショウジョという男の知恵と勇気とは傑出したものであって、筆者 司馬遷も、評注を加え、その気力で敵国に威勢を輝かせ、しかも同僚に対しては譲歩する余裕と節度を持っていたため、その名声は天下に鳴り響き、太山より重かった リンショウジョという男においては、知と勇が兼ね備わっていたという。

時は、秦がそろそろ戦国時代を生き延びて最大強国になり、まわりの諸侯国を併合して天下統一に向かって激しくはばたいていた時であった。近くに趙という国があった。大国秦は趙王が“和氏の璧”(かしのへき)という宝玉を得た事を知って、十五のお城と交換したいと申し入れてきた。与えれば、だまされてとられたままになり、与えなければ、それを口実に武力攻撃をかけてくる恐れが強い。この難問に対して適当な解答がなく、誰も使者になりたがらなかった。そこで リンショウジョ というこれまでほとんど無名の男がかりだされ、使者に立つことになった。彼は秦王の策略の裏をかき、趙を辱しめずに、命がけの行動によって、璧を無事に趙に取り戻す事に成功した。(ここから、“完璧”<かんぺき>へきをまっとうする という言葉がうまれた)。また、そのあと、メンチという所で、平和交渉が行われる事になった時も、リンショウジョが立ち会って、趙の面目を保つ事ができた。秦王は趙王に婦女子の弾く琴をひかせて、それを記録係に記録させた。リンショウジョは秦王に酒を入れる土器をうたせようとしたが、秦王は拒んだ。相如は“私とあなたとは五歩しか離れていないから、私の首をはねて血をあなたに浴びせる事もできるのだ。”と威嚇し、側近の者を一喝しておさえてしまったので、秦王はやむなく一度だけ、たたいた。相如は早速、趙の記録係に“秦王は趙王のために、ほとぎ という楽器を奏する”と書かせた。このようにして、秦王は、なんとかして趙王を辱しめてやろうとしたが、いつもリンショウジョの命をかけた駆け引きのために、自分が恥をかくことになってしまい、本当に彼を恐れた。それやこれやのリンショウジョの活動を高く評価した趙の恵文王は、会合から帰って、リンショウジョを廉頗将軍の上の地位につけた。攻城野戦で功のあった名将廉頗(れんぱ) は“リンショウジョという、生まれも卑しい男が、口先が達者なだけで自分よりも上役になったのはけしからん。今度会ったら、きっと辱しめてやる”と言う。それを伝え聞いたリンショウジョは、常に廉頗将軍を避けるようにしたので、相如に使えるものたちまでが、恥ずかしく思い、勤めを辞めるといいだした。そこで、彼らを押しとどめて、リンショウジョは言った。“そもそも、秦が力で趙を脅そうとしたのに対し、私は群臣居並ぶ中で秦王をしかりつけ、群臣を辱しめたではないか。自分はのろまで、取るに足りない男ではあるが、どうして廉頗将軍ぐらいを恐れよう。考えてみるがよい、あの強大な秦が趙に攻め込んでこないのは、私と廉頗将軍の二人がいるからである。今、この両虎が、すなわち私と廉頗将軍とが闘ったなら、両方が共に生き残るというわけにはいかない。私が廉頗将軍を避けているのは、国家の危急存亡をまず第一と考え、個人的な恨みを後回しにしているからである。”そのことを伝え聞いた廉頗将軍は、自分の浅はかな考えを心から恥じて、肌脱ぎになり、茨を背に負ってリンショウジョの家を訪れ、視野の狭い自分の罪を謝した。それ以来、二人は、たとえ相手のために首をはねられても悔いないという、命がけの親しい交友を結ぶ事になった。リンショウジョという男の偉大さは明らかであるが、廉頗将軍も直情的ながら、直ちに自分の非を認める大らかさをもち、また、相手の偉大さをスグに認める心の率直さをもっていた。自尊心の強い人間だが、いつまでも恨みを根に持たない豪胆さをもつ。こうして、二人は共に友情を深め、趙という小国の二大柱として、平安な世界を一時と言えども築く事に成功した。二人の価値を認めた恵文王の下にあって、この二人が存命の間は、趙は無事であった。恵文王が死に、リンショウジョが大病になって隠棲してからは、趙の世界にも不吉な風が吹き始め、やがては趙の滅亡、秦の天下統一へとつながっていくのだが、ここでは触れない。

“水魚の交”とは、有名な三国志の時代に、漢の王室の流れをくむ、蜀の劉備玄徳(りゅうび げんとく)とその名臣である諸葛亮孔明(しょかつりょう こうめい)との交わりを、劉備自身が表明したところからうまれた。もともとの語義は、従って、君主と臣下との関係が、切っても切れず、なくてはならない存在であるときに使われるが、そのうちに、人と人との関係において、互いに離れる事の出来ない交友関係を表すものとして使われるようになった。

漢王室を復興して天下を統一する志をもっていた劉備は、すぐれた人物を物色していた。そして、みずからを斉の名宰相管仲(かんちゅう)や燕の名将楽毅(がっき)になぞらえているという優れた人物がいる事を知り、みずから出向いて迎えようとしたが、相手はなかなか応じない。蜀の君主が三度まで、わざわざ自分で迎えに来たとき、(三顧之礼)、諸葛孔明は、はじめて心から感動し、この君主に命と自分の知恵を捧げようと決意した。政策を問うた劉備に対して、孔明は“天下三分の計”を披露した。会うたびに、そして話しを聞くたびに、劉備は孔明の聡明さ、作戦の確かさに感激し、交友は日増しに親密さを増していった。そして、古くからの部下で、それを妬む者が沢山いる事を知って、劉備は“孤の孔明あるは、なお、魚の水あるがごときなり”(自分にとって孔明がいるということは、丁度、魚に水のあるようなもので、片時もなくてはならないものだ。)と言って部下に釈明した。ここから、“水魚の交”は生まれた。

さて、こうして、中国を代表する三つの有名な交友が伝わってきたわけである。そのどれもが、少しずつ、内容を異にしながらも、みな、相手を信頼し尊敬するという点では、友情の在り方の根本を示しているといえる。どれも素晴らしく、どれも劇的な場面を備えていると言えるが、その中でも、私が最も感心し、心からかなわないと思うのが、最初の“管鮑の交”である。“管鮑”以外もすべて立派で偉大な大人の関係であるが、それらはすべて、相手が偉大さを発揮し、誰もが認めざるを得ない状態になってからのものである。既に偉大であるとわかった人間に対して率直に教えを請い、部下になり、或は率直に謝るということは、ある意味では、劉備や廉頗でなくても出来ることである。現に木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)は劉備玄徳同様、三顧之礼をつくし、竹中半兵衛を軍師として迎えるのに成功した。相手が偉大であるとわかっている人間と関係をもつことを本当に欲していれば、その人は、ほとんどどんなことにでも耐えて、その関係を築いてゆこうとするだろう。

“管鮑の交”に‘おける鮑叔(ホウシュク)の在り方こそ、まさに驚異的で、誰にもまねることが不可能なものである。ソコに見られるのは、まだ未知数であり、発芽しきっていない才能に対する驚くほど鮮やかで鋭敏な探知力であり、また、その相手の人間性に対する徹底した深い理解である。そして、その上に立った極端なまでの心の広さと自分に対する謙虚さ、相手を受け入れる余裕である。これは、特に、年少の頃にあっては、もし身につけていれば、大変な才能であり、人格である。世間の人が、管仲の才能に驚嘆しないで、鮑叔の、よく人間を理解する在り方を嘆賞したというのは、全くその通りであって、結局、鮑叔なくしては、管仲もありえなかったのである。その青少年期を通じての鮑叔の心の豊かさは何ものにも比すことができない。

そして、この鮑叔の眼識と包容力こそ、現在の教育界において最も必要とされていることであると言えるかもしれない。幼少年期に現れる才能の断片に対する適切な評価、そして、一見、誤ったと見える過失に対する寛容な対応、子供の内包する可能性と人格に対する絶対の信頼こそ、今、教育界において切実に要請されているものかもしれない。人はともかく、私自身は、鮑叔牙(ほうしゅくが)という人間に一つの人間関係の根本が示されていると見る。そして、時には、挫折しそうになる自分を励まして、鮑叔の例を忘れないように努める。その時、ますます“管鮑の交”の崇高さが私に明らかとなる。こういう人間がいたということは、人間に対する信頼と勇気を呼び起こさせるものである。

人間のもつ美質を鮮やかに描き出し、読者に限りない勇気と謙譲の徳を生み育てる作品を一生書き続けた山本周五郎の戦前を代表する名作に“小説 日本婦道記”がある。私はこの本が好きで、汚れた現実に嫌気がさしたり、精神が消耗感に襲われると、この本を取り出して、どれか一つの短編を読む。そうすると、心は清浄になり、人間への信頼感を取り戻し、エネルギーが充足された感じになる。“婦道記”とあるが、古風な女性道徳について書かれたものではない。道徳的な人間が登場するが、その中で、男女それぞれが、真実な生き方を求めて苦労している。

私がいつもゾクゾクと感じながら読むのが“藪の蔭”(やぶのかげ)である。ここでは、安倍休之助という武士の姿が、主人公であるその妻由紀という女性を通して描かれている。新婚の日に、夫となるはずの男が藪の蔭で重傷を負って倒れているのを発見される。由紀はいったん、敷居をまたいだ上は、自分は安倍家の妻であると言って、夫を看病する。そのうち、休之助に手落ちがあったとかで、厳しい処分がふりかかってくる。父からも絶縁されてしまった由紀は、琴を習いに行くと言って、実は町人へ琴を教え、わずかの報酬を稼ぐようになる。姑は、そのようなヨメの姿を見て、苦々しく思っている様子なので、事実をいえないつらさから、自分が献身的につとめてきたことが、すべて徒労だったのではという気がして、ますます悲しくなることがあった。そんな時、休之助のところに来客があった。茶の用意をしている時に、客間からの異常な声の高まりを耳にした由紀は、立ち聞きはいけないと思いながらも、驚きを禁じながら聞かざるをえなかった。それは、カネの不始末を発見され、惑乱のあまり、休之助を切り殺し、罪をなすりつけようとした男の告白であった。仕損じたと知ってからは、いつ、すべてが明るみにさらけだされるかと地獄の苦しみの日々を送ったが、自殺するだけの決断がつかなかった。そのうち、いろいろなことがわかってきた。“そこもとは、拙者の不始末を引き受けてくれた。あれだけのたいまいのカネを黙って返済し、自分の名を汚し、体面を棄てて罪をきてくれた。こんなことがあるだろうか。拙者には信じられなかった。いかに度量が大きく、心が広くとも、人間としてそこまで自分を殺すことができようとは思えなかった。しかも、それが事実だと確かめたときの拙者の気持ちを察してもらいたい。”客はたまりかねたように泣いた。そうして“もうたくさんだ。”と休之助は言った。“拙者は、そこもとがよからぬ商人にとりいられて、米の売買に手を出しているということを聞いた。意見しようかとは思わないではなかったが、そんなに深入りする気遣いもあるまい、そのうちにはやむであろう、そう軽く考えていたのだ。友達として、そんな無責任な考え方はない。気がついたときすぐに意見すべきだった。・・・人間は弱いもので、欲望や誘惑にかちとおすことはむつかしい。誰にも失敗やあやまちはある。そういうとき、互いに支えあい、援助しあうのが人間同士のよしみだ。あの時のことは、知っていて意見をしなかった拙者にも半分の責任があると思った。そして、自分にできるだけのことはしてみようと考えたのだ。それが幾らかでも、そこもとの立ち直る力になってくれれば良いと思って・・・”。少しもおごったところのない、水のように淡々とした言葉だった。その飾らない、静かな調子が、却って真実の大きさと美しさを表しているように思えた。“そこもとは、立ち直った。奉行役所に抜擢されたと言う事を聞いたとき、拙者は自分の僅かな助力が無駄でなかった事を知り、どんなに慶賀していたかわからない。これは誇るに足る立派なことだ。あやまちがどんなに大きくとも、償ってあまると思う。これで、もういい・・・”。由紀は、その時、大藪の蔭の湿った黒い土を思い出していた。あの藪の蔭には、このように大きな真実がひそめられていたのだ。友の過失をかばい、困難をわかちあうという、世間にありふれた人情が、ここではこれほどのことをなしとげている。しかも、夫はかたく秘して、ほのめかしもしなかった。・・・“人はこんなにも深い心で生きられるのだろうか”。由紀は切なくなるような気持ちでそう思った。夫が家計の苦しさを察している気の毒そうな調子で、友の別れに酒を出したいのだが、というのを聞いた由紀は、そうだ、強くなろう、もっとしっかりして、どんな困難にもうろたえず、本当の夫の支えになるような妻になろうと心に誓うのだった。簡潔な山本周五郎の名文で、要約も出来ず、そのまま引用した箇所が多かったが、これは明らかに、山本周五郎の一つの理想像としての人間を描いたものと言える。そして、私はここに“管鮑の交”と共通したテーマが流れているのを感じる。

私が感動するのは、やはり、休之助が友人のために自分を殺すことができたと言う点である。ユングの時効殺人のドクターが絶対的な孤独に陥らざるを得なかったのは、友人のために自分を殺せなかっただけでなく、自分の欲望のためにベスト・フレンドまで殺してしまうような心の在り方であったからでああう。利己的な欲望が発揮するところにおいては、なにものも成長しない。最も美しい友情や愛情は、お互いが相手を尊敬し、信頼し、そのためには自己犠牲も献身もいとわないという関係において、本当に充実した、生き甲斐のあるものとなる。太宰治の短編“走れメロス”は、やはり、そのような関係を明るく、美しく、簡潔に描いている。そして、私達が、この世での生き甲斐を充分感じれるかどうかも、この友情や愛情と深くかかわっている。

先日、朝日新聞で、昔、一流モデルであったフランス女性が、死後十ヶ月経って、アパートで発見された記事がでていた。彼女は、金もなく、友達も無く、何も無いので、生きている意味さえなく、“自分は飢え死にすることに決めた”と日記に書いて、その通り、餓死した。

いい友人をもつ事は人生に生き甲斐を生み出してくれる。そして、いい友人をもつには、自分の欲望を殺し、自分を殺せるほどの勇気と謙虚さが必要である。

(完  記 1985年10月1-3日)               Word Input 2010年7月11日



(忙しい中で書いたため、読み直す時間も無く、充分展開しきれていないのが残念である。)というコメントが最後に書いてあった。




60 ユングの自伝            (Memories, Dreams, Reflections)               19861月執筆

カラハリ砂漠の探検家として、また著作家として有名なイギリスのローレンス・ヴァン・デル・ポーストは彼のユング回想録“Jung and the story of our time” の冒頭で次のような事を書いている。

“私は、世界が偉大だとみなす多くの人を知ってきたと思っているが、カール・ユングは、私がその偉大さを確かだと思うほとんど唯一の人間である。・・・生存中、偉大だとみなされてきた人間の多くは、いったん死んでしまえば、小さく縮んでしまうものであり、本当に偉大な人間だけが身長を伸ばす。そして、彼は14年前(1961年)に亡くなったのだが、この背丈が増すという現象が、まさにユングに関して起きている事なのである。”

日本でも、最近、ユングの紹介と研究はかなり盛んになり、日本ユング・クラブという同好会が定期的にもたれたりするほどである。私に、フロイトとならんで有名だが名前だけしか知らなかったこのユングに親しむ機会を与えてくださったのは、カリフォルニア州立大学の目幸黙遷(にんべんの遷―みゆき もくせん)教授であった。13年ほど前(1973年)に大阪人の会の集まりに来ていただいて、夢の話をしていただいたのであった。 30分程のお話しであったが、とても興味深いものであったので、その後、私は夢に関する研究書を沢山読み進めることになった。その時に、目幸教授がスイスのユング・インスティチュートから正式に学位を受けた日本人として二人目のユング学者である事を知った。(最初は京都大学の河合隼雄教授)。私は、キッカケさえもらえば、後は自分で跳躍するほうなので、ユングに対する興味を呼び覚まされた私は、沢山のユングの本やユングに関する本を読み漁った。もちろん、フロイトの“夢判断”も読んだし、私の好きな現存在分析学派のメダルト・ボスの“夢の現存在分析”なども読み返した。その後、7-8年経って、私たちは目幸教授を中心とした夢の研究会(夢殿会と呼んだ)を大体、月一回の割でもつに至った。私たちのもっとも楽しく大切な記憶の一つである。この会合には、はじめてLos Angeles を訪れた父にも2回出席してもらった。私の高校のクラスメートの親友がワシントン州立大学へ赴任の途次、立ち寄ってくれた時にも、タイミングよく連れて行くことが出来た。いろいろな意味で印象深い会合であった。

13年前(1973年)の始めての目幸教授のお話は、とても印象的なものであった。教授は具体的な夢の例を五つ話された。ノートをとったわけではないけれど、いまだに私はそれらを大体覚えている。

ビジネスで社会的に成功している年配の女性がみたという夢。夢の中で、自宅でパーティを開き、豪華な装飾の部屋に驚いている訪問客に対して、彼女は、これはまだ序の口で、本当に見せたいものではない、この次の奥の間こそ、自分の本当に見てもらいたいものなのだと言ったので、まだこれ以上に豪華な本番があるのかと客は期待と興奮におそわれた。そして、彼女が次の間を開いたときに、現れた部屋は“空っぽ”であったという意味の深い夢の話。目幸教授に相談に来た男の学生が見た夢は、自分が犬になってニューヨークの交通の激しい道路をクルマでドライブしていて、ハラハラするという、これまた何かを暗示するものであった。目幸教授の娘さんが5つか6つのとき、夜中に突然起き上がって、お母さんが死んだとかという夢をみたという話。これは予知夢でも何でもなく、成長の途中で、発達の重要な段階でアルカイックな象徴的な夢を見る話。これと逆なともいえる、70歳くらいの男性が、自分を迎えに来る舟に対して、厭だといって手で振り払う夢を何度か見たという話。等々。

ユングは象徴的なアルカイックな夢を、どの大陸に住んでいる人間も見るというようなことから、アルケータイプ(始原型)ともいうべき、人類共通の遺産が、人類発達段階の苦労譚として人間の意識に遺伝的潜在的に刻まれているのではないかと考えたが、私は私で、自分の子供の時代の夢を自己分析して、人間の発想法には型があり、これからどうして宗教が発生するかを展開できるのではないかと考えたりしていた。

それはともかく、夢を手がかりとして、私はユングの世界に入っていった。そして、後には、私はユングが今世紀最大のパラサイコロジスとであることを確認した。ユングの学位論文は“霊媒の心理学的・生理学的研究”というものであり、フロイトとの決裂も、有名なサイコ・キネ-シスの発現で決定的となったほど、ユング自身サイキックであった。晩年、電子の排他律でノーベル賞を受けたパウリと“シンクロ二シテイ”(共時性態?)という本も出版することになるし、人間的現象のすべてに科学者としてまじめな探求心を一生持ち続けたのであった。イギリスのストーという心理学者がユング再評価の本を書きながら、シンクロ二シテイや霊媒やUFOに興味を持ったユングという人を全く否定的に見ているのを知り、私なら彼が否定した面こそ、ユングの最も偉大な面であって、それはユングの70%にも及ぶはずだと感じていたので、擬似科学者というものはわからないものだなあと驚いたほどであった。

数年前、私がユングの“記憶・夢・回想”(これが普通“自伝”と言われている)と取り組んでいたとき、オフイスの地下にあるカフェテリアで、私が“Memories”を抱えているのを見て、話しかけてきた若者があった。そのアメリカの青年は既に読んでしまっていたらしく、私がまだ読み終わっていなかった”旅“のところがいかに深遠ですばらしいかを説明してくれた。彼はアルバイトをしながら演劇をやっているとのことであった。彼にとってはユングの自伝を読んでいること自体が何かとても人間的で素晴らしい事のようにうつり、思わず声をかけたということであったらしい。私たちは意気投合し、しばらく後、また、今度は約束しあって、やはりカフェテリアで会い、ユングの自伝の続きを話し合い、彼の近況を話し合った。私は、一読後、とても面白く、すばらしかったので、同じオフイスにいた黒人女性に貸してあげたところ、”Tks. I really enjoyed.” という礼状をつけて返してくれた。この本を非常に楽しんだ私は、既に2回読み返し、部分的には何度も読んでいる。評論家の吉本隆明が“書物の解体学”や“死の位相学”でユングと自伝に言及して、否定的に語っているが、吉本の論理をそのまま使って、私はこの事に関しては吉本が間違っていると確信している。吉本は丁度ストーと同じあやまちをしている。そして、ストー同様ユングの偉大さなどと言っているので、自伝の中のユングを否定して、どこにユングの偉大さが出てくるのかと、そのいいかげんさと彼自身の自信過剰に対して嫌気が指してくるほどである。吉本自身の業績と偉大さを認めている私だが、彼が同じ論法で他の評論も展開しているとしたら、他の評論もやはりいかがわしい面を含んでいるのではという気がし始める。

小林秀雄が絶作“正宗白鳥の作品について”の文章をユングの自伝に関して言及している箇所で中絶したのは、今では誰でも周知の事柄である。小林秀雄のユングへの関心が古くからのものであったことは、“弁名”という作品の中でハッキリと示されている。

“この間、C.G. ユングが亡くなったことが新聞に小さく載っていた。私はユングの一愛読者として深い哀悼の情を覚えた。このような人に死なれては、再びこのような人物が心理学界に現れるという事は容易な事ではあるまいと痛感した。・・・ユングの仕事は、人間の心の深さと心理学という学問の若さ、浅さとに関する痛切な体験の上に立っている。この体験の味わいは、彼の著作の至る処に顔を出していて、その分析は、賢者のような、詩人のような、一種言い難いニュアンスを帯びている。・・・”

最近でこそ、日本でユングの著作やユング派の学者の著作が沢山完訳されるようになったが、小林秀雄が親しんでいたのは、日本教化社の抄訳の5刊選集とユング自伝だけであった。そして、自伝そのものは、ユングの死後刊行されたわけで、そこに小林秀雄の洞察力の鋭さがあらわれているといえる。“自伝”は、まさに、ユングにだけ書けるような特異な傑作となった。

“記憶・夢・回想”(Memories, Dreams, Reflections” と題されたユングの“自伝”が現在、私たちの目の前に提供されているという点で、私たちはアニーラ・ヤッフェに感謝しなければならない。ユングの晩年の秘書を勤めたこの女性は、この“自伝”創出の中心人物であり、この自伝を世界史上の一流の“自伝”と並ぶ傑作に作り上げた生みの親といえる人物である。序論で述べられているように、途中からユング自身も“自伝”執筆に意欲を出し、自身でいくつかの文章を書きとめたとはいえ、基本的にはヤッフェの手で執筆され、まとめられたのが、ユングの自伝である。

もともとユングは自身の私生活を公に晒す気などなかった。ヤッフェの提案を熟慮した末、やっとシブシブ応じたわけであったが、ともかくも義理堅い性格であったのか、ヤッフェと二人で規則的に回想の仕事を始めているうちに、“自伝”にコミットする意欲が内部から激しく湧き上がり、自分でもノートをとったりするようになった。しかし、主に、ヤッフェの質問とユングの回答を、伝記風にではなく、ユングの希望によって“自伝”風にかきまとめていったのがヤッフェであった。それ故、第一章から、まるでユング自身が自叙伝を書いたのと同じ印象を持つわけである。そして、ユングが精神の内部から、この自伝にコミットしているという意味で、疑いもなく、ユングの“自伝”であり、ユングその人でなくては書けない作品となっている。

そしてヤッフェはユングの話を書き取りながら、自分でもある特異なものを感じ取っていたらしい。この本の成り立ちがそのようなものであったから、全体の性格も形式ばらないものとなった。ユングの80年を越える生涯が多様であったにもかかわらず、ユングは、実際に起きた人々との交渉や世界史上の出来事については、ほとんど語らなかった。“私はユングに外界で起きた出来事について何度も訊ねたが、全く無駄であった。ユングの体験したものの中で、精神的な本体のみが彼の記憶に残り、そしてそれだけが彼にとっては語るに値する出来事であった。”と、ヤッフェは自伝執筆の手助けをしながら、彼女が内心感じた驚きを洩らしている。そして、これこそ、この“自伝”が他の有名な人物たちの自伝と決定的に異なるところであり、まさにユングそのものといえる独自性に輝くことになるわけである。彼が交渉し、対決する必要のあった精神分析学の創始者フロイトに関する記述を除けば、あとはほとんど著名な人との交渉のあとはなく、まさに外部の人物との交渉史を見ようとすれば、この自伝は目立たない記録であるといえる。

しかし、どれもみな理由があってのことであり、ユングは20世紀の巨人や天才たちに会ってきたのだが、特別な場合を除いては、どれも彼の精神に痕跡をとどめるような精神的事件ではなかったのである。ユングはこの自伝の仕事にかかっている中で、友人に手紙を書いた。“私にとっていつまでも鮮やかに残っている記憶の全ては、心に不安や熱情を湧き起こした情緒的体験と関係があるということが明らかになりました。”“私の人生において、外部の装いとなっているものはすべて偶然的なものです。内的なものだけが実体を持ち、決定的な価値をもっているとわかりました。その結果、すべての外的な出来事は忘れ去られました。”“一方、内的な体験はますます色鮮やかなものとなってきました。”多くの自伝が自己欺瞞と虚偽に満ちているのを心理学者としてよく承知していたユングは、従って、自分から自伝を残す事はあまり熱心でなく、あくまでも自伝に対する懐疑的な態度を捨てなかった。従って、この重要な自伝も、ユング全集から除外されるよう指示された。

外的な出来事の欠如は、ユングの内的体験と思考の豊かさによって償われている。そして、これこそ、この自伝を構成する最も重要な要素となっている。ユングにとっては精神内部の動き、心的現象の発現のみが関心の的であり、そこに彼の科学的精神の努力は集中された。

この自伝は、ユングの死後発表されたが、それも理由のある事であった。“私は人々が理解できない事を言ったときに陥る無理解と孤立感を充分すぎるほど味わってきた。”そして、晩年の著作に対して人々が敵対的に反応したくらいだから、この“回想録”が発表されれば、もっとひどい反応が起こるに違いないとユングは考えた。彼は何度も、“中世であったら、人々は私を異端として火あぶりにしていたであろう。”と語った。彼は自分の考えが、なかなか世に入れられない事を理解していた。“もし、私が自分の人生の価値をはかるなら、私は<世紀>の単位でのみ、はかることができ、そして、ウン、確かに何かの価値があったといわねばならない。現代の観念尺度ではかられたら、何もないといえる。” ここには、自分の異端性と仕事の意味をよくわきまえた歴史上の人物がたっている。“自伝は私の生涯である。それは、私が科学の上で努力して得た知識に照らして見たものである。<自伝>と<生涯>とは一つのものである。それ故、私の科学的な考えを理解できない人や知らない人に対しては、この自伝は大きい負担を強いるだろう。私の生涯とは、ある意味で私が書いたものの精髄であって、その逆ではない。私が現にこうしてあることと、私が書いた事とは一つのものである。私の考えのすべてと私の努力のすべてが私自身である。”

事実、この興味深く、面白く、時には深遠な“自伝”を読み終わってまず感じることは、ユングにとって“夢”は決定的な意味を持っていたこと、ユングの生涯と仕事は、彼の内的な欲求の動くままに動いてゆき、その時、“夢“はつねに大きな役割を演じた事である。ユングの人生における様々な体験が、彼の心の動きとの関連でとらえられ、出来事や名前は何も意味していないという事、それぞれの体験が孤独な体験として重みを持ってとらえられていたことは確かである。3歳か4歳のときに見た決定的に重要な夢の話から始まって、晩年に至るまで、成る程、無意識の世界の解明に巨大な足跡を残した人物だけのことはある興味深く意味深長な思い出で満ちている。ユングは自分の身の周りで起きる現象に対しては激しい好奇心と冷静な研究態度を保持し続けたのであった。性急な解決は急がず、しかし、あくまでも問題は問題として取り組んだ。ユングが若いときに、置いてあるパンきりナイフが音を立ててこわれたことがあった。ユングは早速、刃物屋にもっていって調べてもらった。原因は解明されなかった。ユングはそのナイフの破片を生涯大事に彼の書斎の引き出しにしまっておいた。こうした、偶然の出来事か何かとして済ませてしまうことが多い出来事が、ユングにとっては一生心に残る研究の対象の一つであった。その意味で、彼はホンモノの科学者の精神と態度を備えていた。

同様に、殆ど全ての事に対して関心を抱いたが、それは、すべてが人間の精神と関連があるように彼には思えたからである。ユングの研究、ユングの仕事は彼の精神の成長のそのままの産物であり、いわば、神秘な自己を解明しようとする努力が、彼の生涯の仕事を生み育ててきたのであった。そして、彼の場合は、書く論文でさえ、内部からの欲求に突き動かされた場合にのみ執筆された。

ある意味では、ユングとは運命の命ずるままに従う事によって、人間精神の内奥の解明を果たすべく予定されていた人物と思えないこともない程、ユングは内部の声に耳を傾けた人であった。“私の労作は私の内部の成長が表現されたものである。・・・私の作品は、私の人生行路に沿った様々な駅とみなすことができる。”“すべての私の書き物は、内部からの衝動で化せられた仕事と受け取ってよい。それらの源は、運命的なといってもよい、やむにやまれぬ衝動であった。”

ユングの自伝が他の自伝と異なった重要な意味をもつのは明らかだ。このような自伝はかつて書かれたことがなかったのである。そして、それ相応の情熱と深遠さは全編を通じて見られ、私にはとても興味深かった。

ユングとは何者であったのか。アメリカの心理学者カルヴィン・ホールは問う。医者であり、精神病理学者であり、精神分析医であり、大学教授であり、学者であり、著述家であり、社会批評家であり、家庭人であり、スイス市民であった人。だが何よりも、彼は、あくことなきサイキー(魂、精神)の探求家であった、つまり、心理学者であった。そして、彼は心理学者として記憶される事を好んだであろうし、きっとそうなるだろうと、自身心理学者であるホールは言う。

ユングはびっくりするほど博識の学者であり、ドイツ語は当然のこと、英語、フランス語、ラテン語、ギリシャ語にも卓越していた。彼は中世の錬金術に関する20世紀最大の学者であり、化学が発達する以前のおろかな実験とバカにされていたヨーロッパ中世のアルケミーが、単に、鉛から金や銀を作ろうとしただけではなく、実は、精神の自己実現の過程を象徴的に表現した、すぐれて発達心理学的な研究であり、そのようなものとして、人間の精神構造、その核としての無意識の構造の研究に重大な貢献をするものであるということを、はじめて解明し、みずから、夢の分析やマンダラ(曼荼羅)の研究に適応していったのであった。

“ユングはしばしば。科学的に疑わしいとされている対象に興味を示したと批判されてきた。すなわち、錬金術や占星術、占い、テレパシー、透視、ヨガ、精霊信仰、霊媒、降神術、易、UFO,宗教的象徴、幻影、夢などに対してである。私たちの意見を言うと、これらの批判は当たっていない。ユングはこれらの対象に対して、その使徒として、或は信者として近づいたのではなく、心理学者として接近したのであった。彼にとって中心的な問題は、これらの対象が心について明らかにしたもの、特に、ユングが集合無意識と呼んだ心のレヴェルを明らかにするということであった。”(ホール)。

彼にとって最大の問題、それは“無意識”であった。そして“無意識”は夢や神話や宗教的なシンボルや占星術そしていわゆるオカルト現象において、もっともはっきりと発現してくるのであった。ユングの研究活動が膨大な領域にわたらざるを得なかったこと、そして、それにもかかわらず、一貫してつらぬくものがあったことは、この事から明らかである。

ユングの“自伝”を読むときには、編者ヤッフェの“序文”を注意して読まないといけないのは当然であるが、本文の“プロローグ”も、とても重要である。いわば、この“自伝”の冒頭は次の言葉で始まっている。“私の人生は、無意識の自己実現についての物語である。無意識の中にある全てのものが外部へ表出しようと求めている。そして、人格(パーソナリティ)もまた無意識の状態から進化し、それ自身を全体として経験しようと望んでいる。”そして、ユングは、自分の内部におけるこの成長過程を辿りたいと思っても、科学の言葉は使えないという。それでは、どうすればよいのか。そこで、“神話”が目に浮かぶ。神話こそ、科学よりもヨリ正確に人生を表明するものであり、ヨリ個性的である。そういうことで、ユングは83歳になった今、“私個人の神話”を語ろうとする。そして、ここで大切な事は、それが、本当の話かどうかではなく、“私の真実”であるかどうかということなのである。

“私は、この永遠の流れの下に、何かが生きつづけ、持続し続けているという感覚をなくしたことがない。結局、私の人生において語るに値する出来事というのは、不滅の世界が、この世であるつかの間の世界に侵入してくるときに起きる出来事だけである。それが、なぜ、私が主に内的体験<その中には、私の夢やヴィジョンが含まれるのだが>について語るのかという理由である。これらは、私の科学的労作の第一の素材を形作っている。いわば、それらは、働きかける事によって石が結晶化されてくるところのもの、すごいマグマなのであった。”従って、このユングにとって切実であった内的な出来事以外は色あせてしまう。それゆ、もし読者が我々の時代についての彼の物語を期待しているなら、そういう人は、他の人の本に向かわねばならない。これはまさにユング自身が述べている事である。ユングにとっては、もっとも豊饒な富といえる“無意識”の世界との交渉だけが、彼の記憶にくっきりと刻み込まれていて、それは、3歳か4歳の夢にまで遡る事ができるのである。

“私は若い頃に、人生の問題や複雑な課題に対する解答が<内部から>やってこないときには、それらは究極的には殆ど意味をなさないものだという直観に達した。外的な環境は内的な体験の代替物であることは出来ない。”それ故、外界との交渉に関しては、ユングは、単純に、貧しかったと考える。“私は、ただ、内的な出来事という光の下でのみ、私自身を理解する事ができる。”従って、“自伝”で触れるのも、みな、そのような、ユングにとって切実な、内的な体験と思われたものばかりである。とはいえ、それはなんと興味深く、深遠な世界である事だろう。そこには、シンクロ二シティのアイデアを生み出したエジプトのスカラベに関する話や友人を毒殺した匿名の女ドクターの話、幼少年期に見た神のヴィジョン、テーブルやナイフが理由もなく壊れる話、イギリスの幽霊屋敷、フロイトとの運命的な出会いから決裂、第一次世界大戦に関する予知夢、アフリカやアメリカのプエブロ・インディアンとの意味深い出会い、等々が興味深く語られ、何度読み返しても飽きない。

“私の患者たちは、私を、人間の生活の実態に近づけてくれたので、私は彼らから根本的な物事をいつも学ばずにはいなかった。あんなにも多くの違った種類の、そして非常に異なった心理学的レベルの人々との出会いは、有名人との断片的な会話よりは比較にならない程重要であった。私の人生における最もすばらしく、最も意味深い会話は無名の人たちとのそれであった。”

ユングは自伝の中で、はっきりとそう書き付ける。そして、たしかに、ユングが無名の人たちからつかみとったものは大きかった。今ではあまりにも有名になった、そして目幸黙遷(遷―にんべん)教授も岩波“思想”論文<全身体的思考>の中で言及しておられるユングとアメリカのプエブロ・インディアンとの対話をここで引用したい。もっとも、無名とは、世界的にジャーナリズムにおいて知られていないというだけで、彼らもまた立派な名前をもっていた。彼の名前はオチウィアィ・ビアノ(山の湖、Mountain Lake)。“ごらん、どんなに白人が残酷な顔つきをしているか。彼らの唇は薄く、鼻はとがっている。顔には深いしわがより、ひだってゆがんでいる。彼らの目はじっと何かを凝視していて、彼らはいつも何かを求めている。一体何を求めているのか。白人たちはいつも何かを欲している。彼らはいつも不安で落ち着きがない。わたしたちは彼らが何を欲しいのか知らない。私たちには彼らがわからない。きちがいだと思う。”ユングは、どうしてソウ思うかとたずねた。“彼らはいう、自分たちは頭で考えると。”ユングはびっくりして、“やあ、もちろんだ、あなたは何で考えるのだ”とたずねた。“<私たちはここで考える>と彼は自分のハート(心)を指しながら応えた。私は長い瞑想にふけった。私の生涯で、はじめて、誰かが、本当の白人の姿を描いてくれたと私には思われた。”

さらに、この同じ<山の湖>との別の対話を読めば、ユングがどれほど、これらの世に知られていない人々との出会いを心から喜び、感激し、大切な何ものかを学び取ったかは明らかである。<山の湖>は、自分達インデイアンはアメリカ人たちに危害を加えたりしないのに、どうしてアメリカ人はインデイアンのダンスを禁じ、自分たちを自由に放っておいてくれないのかと問う。“アメリカ人たちは私たちの宗教を根こそぎにしようとしている。彼らはどうして私たちを一人にしておいてくれないのか。私達がすること、それを私達は自分達のためにやっているのではなく、アメリカ人達のためにもやっているのだ。そうなのだ。私達はそれを全世界のためにやっているのだ。誰もがその事によって利益を得ているのだ。” “あなたは、それでは、あなたの宗教においてあなたが行う事が全世界のためになっていると考えるのか。” “もちろんだ。もし私達がそれをやらなかったら、世界はどうなってしまうことだろう。” “結局、私達は世界の屋根の上に住んでいる人間である。私達は<父なる太陽>の息子である。そして、私達の宗教で私達は私達の父が天空を横切るのを毎日助けているのだ。私達はこれを私たち自身のためだけにやっているのではなく、全世界のためにやっているのだ。もし、万一、私達がこの宗教を執り行うことをやめるようなことがあれば、十年もたたないうちに太陽はもはや昇らなくなっているだろう。そうなれば、永遠の夜が続くのだ。” これが、ユングがプエブロ・インデイアンの口から聞いた言葉であった。“私はそれで個々人のインデイアンがもつ静謐な姿<威厳>が何に由来するかを了解したのであった。それは、自分が太陽の息子だとするところからきているのである。彼の人生は宇宙的な意味をもっているのである。”

インデイアン達の単純な信仰を嘲笑する事はたやすい。しかし、ユングは、これらの出会いから、西洋の賢者達からは得られない、最も深遠な人間的洞察を得たのである。“知識は私達を富ませはしない。知識は私達を、私達がその出生の権利によって一度はその中に快適に浸っていた神話的な世界からますます引き離していく。”そして、ユングは人間の十全なる姿を求めて神話の世界、マンダラの世界、アルケミーの象徴の世界へと深く突っ込んでいく。

結局、ユングの求めたものは何であったのか、ユング学者でもない私がわかったような口を利くのは危険だが、それはユングの言葉を借りていえば“個体化”ということではなかったか。宇宙的な基盤を踏まえながら、個々人が自己の個体性を十全に展開していくこと、そしてそれは当然、自己の無意識の世界が持つ豊饒な富を充分に生かす事によって達成されると考えたのではなかったか。ユングの創始したいくつもの重要な概念―集合無意識、始原型(アルケータイプ)等や、マンダラや中世錬金術への没頭、そして自己実現や個体化の考えは、すべてそれにいたる産物であったと考えられる。そして、ユングにとってのそうした根本的なアイデアを率直に指し示し、或は気づかせたのが、“山の湖”のプエブロ・インデイアンやその他の無名の人々との出会いであった。

“自伝”は意味深長で重要な思想やひらめきに満ちていて、その魅力を味わってもらうためには全巻を通読してもらうほかない。わたしはほとんど全ページが黒くなるほど下線を引いてしまった。いくらでも紹介したいところがあるが、この辺でやめておこう。私がカフェテリアで出会ったアメリカの青年が、“自伝”の<旅>に特に感激したと語ったとき、それはきっと、ここにあげた“山の湖”との対話をさしていたに違いない。そしてそれは、ユング自伝をかかえてカフェテリアで並んでいた私に声をかけて、内容を共感したいと思わせるほど、人間的で内容豊かな本であったのである。そして、私もいろいろな意味で、こんなに面白い本はめずらしいと思うほど愛読している。

(完、記 1986年1月6日―14日)Microsoft WORD Input201079-10

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