”類なき名将 源義家”とうたわれた源義家のお墓が大阪府羽曳野(はびきの)市通法寺にあるということは、義兄の案内ではじめて知りました。
葛城山のふもとに移り住んだおかげで、義兄は河内周辺の歴史遺跡にくわしくなり、何度かの姉夫婦訪問時に、あちこちを案内してくれました。立派な小野妹子のお墓などもはじめて知りました。
南河内はとくに飛鳥時代の史跡に富んでいますが、河内出身の源頼信・頼義・義家三代のお墓が河内にあるのも、今、はじめて知りました。いわゆる有名な神社・お寺でないためだと思います。あるいは、悲劇的な死に方をした人間に対して、怨恨を恐れた権力者が鎮魂のために神社仏閣をつくったというよくあるケースにもあたらないからでしょう。
”八幡太郎義家”といわれた八幡は京都郊外大阪樟葉ちかくの石清水八幡宮で元服したからといわれています。前九年・後三年の役で文武に名を挙げ、今昔物語にも逸話がでてくるこの源氏三代は鎌倉の源氏三代ほど有名ではありませんが、武家政権への過渡期を示すさわやかな印象で満ちています。が、義家のあと、弟の新羅三郎が武家の棟梁になろうとしたことから、いわば源氏内部での権力闘争を生み出し、結果的に源氏の弱体化、そして平清盛の登場を招いたようです。源頼朝の場合も、自分の血縁の純粋性を保とうとしたのか、おなじ源氏をつぎつぎに粛清していったため、三代でおわってしまいました。”毛利元就弓矢の教え”とかいわれますが、親子兄弟一族協力して頑張れば、長州毛利が示しているように、あるいは信州上田城の真田一族の幕末までの存続が示しているように、源氏家の存続もまた違っていたでしょう。
河内の通法寺にある河内源氏三代のお墓はわびしいもので、いろいろと日本の歴史の流れを回顧させました。
村田茂太郎 2012年7月17日
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