子供たちにわたしの感動した話を伝えようとしたものです。
文末表現は常体で統一されています
WordにInputしたFileがそのままBlogに添付できるということがわかって、本当に嬉しく思っています。
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ユングの自伝は、深遠さと面白さを兼ね備えた本であり、私の愛読書の一つといえるものであって、精神分析に興味を持つ人だけでなく、人間の精神の問題に関心のある人すべてに勧めたいと思う本である。その中で、ユングは様々な体験と分析を語っているが、一つ特に私の興味をそそった話がある。それは時効になった殺人とその告白者の話である。
ユングの処に匿名で告白に来たその女性はドクターであった。二十年前に嫉妬心から、彼女はベスト・フレンドを毒殺したのであった。その女友達の夫と結婚したいと思ったために、彼女は友人を毒殺した。彼女は、殺人はそれが発見されない限り、苦にならないと考え、その夫と結婚する最も単純な方法は、彼女の友人をこの地上から消去する事であると考えた。道徳は問題にもならないと彼女は考えた。そして、彼女はその男と結婚する事に成功した。ところが、間もなく、彼はまだ若くして死んでしまった。この結婚から生まれた娘は、成長するや否や、彼女から離れていこうとし、事実、娘は若く結婚してどこへともなく去り、とうとう彼女との接触は完全に失われるに至った。彼女は馬がとても好きであった。そして数頭飼っていた。ところが、ある日、そのどれもが、彼女がいると神経質になり、彼女を避けるのに気がついた。それでとうとう乗馬をやめてしまった。その後、犬をかわいがろうとした。素晴らしい犬が一匹いて、彼女はとても惹きつけられていた。ところが、その犬もまた麻痺してしまった。彼女は、もうこれ以上どうする事もできない自分を感じ、ドクターユングのところへやってきたのであった。そして、二十年前の殺人を告白し、そしてどこへともなく去っていった。
ユングはこの殺人犯である女性のドクターについて、次のようなコメントを書いている。彼女は殺人犯であったが、それ以上に、彼女は自分自身を殺してしまっていた。殺人犯は自分自身に対して刑罰を科していたのだ。もし、誰かが犯罪を犯し、つかまれば、その人は刑事的罰則を受ける。もし、その人が、密かに、そして良心の呵責もなく犯罪を犯し、それが見つかる事がなくても、やはり罰はやってくる。そして、時には、動物や植物までが、その事を知っている様子である。その女性は殺人の結果、耐え難い孤独の世界に突っ込んでいった。動物達からさえも避けられるようになった。この絶対の孤独をふりすてるために、彼女はユングにその事実を知ってもらいたかった。その事によって、人間性への連携をもちたかった。そして、そのためには、懺悔聴聞僧(ざんげ ちょうもんそう)のような道徳的判断を下す人ではなく、医師として、ただ冷静に事実を受け止めてくれる人が必要であった。彼女はすでに人間や動物が彼女を避けようとしているのを見てきた。そして、この沈黙の判決に驚き、もうこれ以上耐えられないところまで来たのであった。そして、ユングは彼女がその後どうしたであろうかと思いやる。“多分、究極的には、彼女は自殺に追い込まれたであろう。私には、彼女は、あの完全な孤独の中で、どうして生き続けることが出来るのか想像さえできない。”
これが興味深い時効殺人の告白である。私も彼女には自殺しか残されていないように思える。ベスト・フレンドの女友達でさえ、自分の欲望のために殺してしまえる人には、どのような愛情豊かな関係も成立する事ができない。自我の欲望に支配されていて、相手から奪う事しか関心がなく、自分の欲望の充足のためには殺人でも何でもやれる人間には、愛と信頼と相互扶助、自己犠牲と献身に満ちた美しい共同生活の世界は閉ざされている。そして、誰よりも敏感な動物は、そのことをスグに感じ取る。ふつう飼い犬を見れば飼い主がわかるといわれるが、それは何も充分食べ物をもらっているかどうかといった外面的なことよりも、飼い主のもつ内面が鋭敏な動物に直截的に反映されるからである。親友を殺す事ができた人にとっては、世界は虚無であり、自分以外には誰も存在せず、その人は集団の中に生活しながら、絶対の孤独を味わい続ける事になる。そして、そのような状態にあるとき、人間にとって幸福とは何であろうか。うれしさを、楽しさを共に分かち合える人も居ない世界においては、生理的な満足すら存在しないであろう。そして、死は救済となるだろう。
中国の歴史を勉強すると、ほとんどどの本にもでてくる有名な交遊録に出会う。中国はそのスケールの大きさにふさわしく、興味アル人物が沢山登場し、いろいろ考えさせられる事が多いのだが、“交友”について考える際にも、私達に限りない感動を与えてくれる話しがいくつかアル。
“管鮑の交”(かんぽうのまじわり)、“刎頚の交”(ふんけいのまじわり)、“水魚の交”(すいぎょのまじわり)の三つが特に有名だが、他にも“漢書”に出てくる“忘年の交”(ぼうねんのまじわり)というのがある。二十歳にみたないミコウが五十歳を超えたコウユウと親しく交わったところから出た言葉らしいが、手元に手頃な文献も無いので、詳細がわからず、この方は省略して、三つの交友に戻る事にする。
“史記”にも“十八史略”にもでてくる“管鮑の交”のあらすじは、こうである。
管仲(かんちゅう)は鮑叔牙(ほうしゅくが)と幼友達であった。このホウシュクはよほど器量の大きな人物であったのか、管仲が何をしても悪く取ることはなかった。利益を独り占めにしたり、事業に失敗したり、先に逃げたり、恥を受けたりと、普通の人なら愛想が尽きて、どうとでもなれと思ってもおかしくないのに、ホウシュクは、全てを受け入れてやり、最後には自分の主君を狙って牢獄に入り、死刑になるはずの管仲を解放しただけでなく、自分よりも上の総理大臣の地位にすすめてやった。そして、その地位にたって、はじめて管仲は、その天才を発揮して、自分の主君である斉の桓公が諸侯を統一して覇者となるのを助けた。“衣食足りて礼節を知る”の語源“倉りん実ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る”は管仲の言葉であり、彼は国を豊かにし、一般人民の希望するとおりの政治を行った。管仲について、時々批判的な言葉を吐いていた孔子も、管仲が桓公を助けて諸侯の覇者となって平和を作り出し、天下を整えたおかげで、今に至るまで私達は野蛮に陥らないで済んだと言った。そして、管仲が生きながらえて、その才を発揮する場所を見つける事ができたのも、全く、ホウシュクガという幼友達のおかげであった。大成した管仲は、その後、自分の過去を総括し、自分を生んだのは父母であるが、自分という人間を本当に理解してくれたのは鮑叔(ホウシュク)であると言い、終生、ホウシュクを大切に扱った。世間の人は、管仲の大才よりも、ホウシュクがよく人物を見抜く能力を持っていた事を奇特な事とした。ホウシュクは、管仲の行動の真実をよく見抜き、また、自分よりも優れた才能をもっている事を見抜いていて、謙虚に自分をふるまって、友人の才能を伸ばしてやる事に心がけた。その半生のほとんどを不様な失態を演じ続けた管仲という男に対するホウシュクの信頼の固さ、その度量の大きさは全く驚嘆に値する。そして、唐の詩人杜甫も次のような詩を作った。
貧交行 (七言絶句) 杜甫
翻手作雲覆手雨 紛紛軽薄何須数 君不見管鮑貧時交 此道今人棄如土
手を翻せば雲となり、手を覆せば雨となる
紛々たる軽薄 何ぞ数ふるをもちいん
君見ずや管鮑貧時の交はりを
此の道 今人 棄つる事土の如し
手のひらを上へ向けると雲になり、下へ向けると雨になる(人情のめまぐるしく変化するさま、軽薄さ)。そこら中にいる人情の薄い連中は取り立てて数えるまでもない。あなたも知っているに違いない、その昔、管仲と鮑叔との美しい友情を。今の人は、そうした友情を土くれのように見捨てて顧みようとしない。全く残念なことだ。
失業し、家族を抱えて苦労している中から生まれた恨みに充ちた詩であるが、唐の時代の交友の多くが、誠実を欠くものであったに違いない。そして、もちろん、いつの時代においても軽薄な交友はあたりまえのことであったからこそ、古来から“管鮑の交”を褒め称えてきたのだろう。たしかに、この二人の関係の意味するところは深長であり、人間の存在の原点をも象徴しているかのようである。
さて、有名な“刎頚の交”こそ、司馬遷が“史記”において描き出した人物の中でも、最も水際立った魅力をもった英雄 りん相如(リンショウジョ)と朴訥で単純率直な好好爺といえる廉頗将軍(れんぱ しょうぐん)の関係であり、既に古代において、このりん相如の人物に見せられた人間がいたことは、前漢の最大の文人 司馬相如(しば しょうじょ)が、その名前を借りてきている事からも察せられる。実に、このリンショウジョという男の知恵と勇気とは傑出したものであって、筆者 司馬遷も、評注を加え、その気力で敵国に威勢を輝かせ、しかも同僚に対しては譲歩する余裕と節度を持っていたため、その名声は天下に鳴り響き、太山より重かった リンショウジョという男においては、知と勇がが兼ね備わっていたという。
時は、秦がそろそろ戦国時代を生き延びて最大強国になり、まわりの諸侯国を併合して天下統一に向かって激しくはばたいていた時であった。近くに趙という国があった。大国秦は趙王が“和氏の璧”(かしのへき)という宝玉を得た事を知って、十五のお城と交換したいと申し入れてきた。与えれば、だまされてとられたままになり、与えなければ、それを口実に武力攻撃をかけてくる恐れが強い。この難問に対して適当な解答がなく、誰も使者になりたがらなかった。そこで リンショウジョ というこれまでほとんど無名の男がかりだされ、使者に立つことになった。彼は秦王の策略の裏をかき、趙を辱しめずに、命がけの行動によって、璧を無事に趙に取り戻す事に成功した。(ここから、“完璧”<かんぺき>へきをまっとうする という言葉がうまれた)。また、そのあと、メンチという所で、平和交渉が行われる事になった時も、リンショウジョが立ち会って、趙の面目を保つ事ができた。秦王は趙王に婦女子の弾く琴をひかせて、それを記録係に記録させた。リンショウジョは秦王に酒を入れる土器をうたせようとしたが、秦王は拒んだ。相如は“私とあなたとは五歩しか離れていないから、私の首をはねて血をあなたに浴びせる事もできるのだ。”と威嚇し、側近の者を一喝しておさえてしまったので、秦王はやむなく一度だけ、たたいた。相如は早速、趙の記録係に“秦王は趙王のために、ほとぎ という楽器を奏する”と書かせた。このようにして、秦王は、なんとかして趙王を辱しめてやろうとしたが、いつもリンショウジョの命をかけた駆け引きのために、自分が恥をかくことになってしまい、本当に彼を恐れた。それやこれやのリンショウジョの活動を高く評価した趙の恵文王は、会合から帰って、リンショウジョを廉頗将軍の上の地位につけた。攻城野戦で功のあった名将廉頗(れんぱ) は“リンショウジョという、生まれも卑しい男が、口先が達者なだけで自分よりも上役になったのはけしからん。今度会ったら、きっと辱しめてやる”と言う。それを伝え聞いたリンショウジョは、常に廉頗将軍を避けるようにしたので、相如に使えるものたちまでが、恥ずかしく思い、勤めを辞めるといいだした。そこで、彼らを押しとどめて、リンショウジョは言った。“そもそも、秦が力で趙を脅そうとしたのに対し、私は群臣居並ぶ中で秦王をしかりつけ、群臣を辱しめたではないか。自分はのろまで、取るに足りない男ではあるが、どうして廉頗将軍ぐらいを恐れよう。考えてみるがよい、あの強大な秦が趙に攻め込んでこないのは、私と廉頗将軍の二人がいるからである。今、この両虎が、すなわち私と廉頗将軍とが闘ったなら、両方が共に生き残るというわけにはいかない。私が廉頗将軍を避けているのは、国家の危急存亡をまず第一と考え、個人的な恨みを後回しにしているからである。”そのことを伝え聞いた廉頗将軍は、自分の浅はかな考えを心から恥じて、肌脱ぎになり、茨を背に負ってリンショウジョの家を訪れ、視野の狭い自分の罪を謝した。それ以来、二人は、たとえ相手のために首をはねられても悔いないという、命がけの親しい交友を結ぶ事になった。リンショウジョという男の偉大さは明らかであるが、廉頗将軍も直情的ながら、直ちに自分の非を認める大らかさをもち、また、相手の偉大さをスグに認める心の率直さをもっていた。自尊心の強い人間だが、いつまでも恨みを根に持たない豪胆さをもつ。こうして、二人は共に友情を深め、趙という小国の二大柱として、平安な世界を一時と言えども築く事に成功した。二人の価値を認めた恵文王の下にあって、この二人が存命の間は、趙は無事であった。恵文王が死に、リンショウジョが大病になって隠棲してからは、趙の世界にも不吉な風が吹き始め、やがては趙の滅亡、秦の天下統一へとつながっていくのだが、ここでは触れない。
“水魚の交”とは、有名な三国志の時代に、漢の王室の流れをくむ、蜀の劉備玄徳(りゅうび げんとく)とその名臣である諸葛亮孔明(しょかつりょう こうめい)との交わりを、劉備自身が表明したところからうまれた。もともとの語義は、従って、君主と臣下との関係が、切っても切れず、なくてはならない存在であるときに使われるが、そのうちに、人と人との関係において、互いに離れる事の出来ない交友関係を表すものとして使われるようになった。
漢王室を復興して天下を統一する志をもっていた劉備は、すぐれた人物を物色していた。そして、みずからを斉の名宰相管仲(かんちゅう)や燕の名将楽毅(がっき)になぞらえているという優れた人物がいる事を知り、みずから出向いて迎えようとしたが、相手はなかなか応じない。蜀の君主が三度まで、わざわざ自分で迎えに来たとき、(三顧之礼)、諸葛孔明は、はじめて心から感動し、この君主に命と自分の知恵を捧げようと決意した。政策を問うた劉備に対して、孔明は“天下三分の計”を披露した。会うたびに、そして話しを聞くたびに、劉備は孔明の聡明さ、作戦の確かさに感激し、交友は日増しに親密さを増していった。そして、古くからの部下で、それを妬む者が沢山いる事を知って、劉備は“孤の孔明あるは、なお、魚の水あるがごときなり”(自分にとって孔明がいるということは、丁度、魚に水のあるようなもので、片時もなくてはならないものだ。)と言って部下に釈明した。ここから、“水魚の交”は生まれた。
さて、こうして、中国を代表する三つの有名な交友が伝わってきたわけである。そのどれもが、少しずつ、内容を異にしながらも、みな、相手を信頼し尊敬するという点では、友情の在り方の根本を示しているといえる。どれも素晴らしく、どれも劇的な場面を備えていると言えるが、その中でも、私が最も感心し、心からかなわないと思うのが、最初の“管鮑の交”である。“管鮑”以外もすべて立派で偉大な大人の関係であるが、それらはすべて、相手が偉大さを発揮し、誰もが認めざるを得ない状態になってからのものである。既に偉大であるとわかった人間に対して率直に教えを請い、部下になり、或は率直に謝るということは、ある意味では、劉備や廉頗でなくても出来ることである。現に木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)は劉備玄徳同様、三顧之礼をつくし、竹中半兵衛を軍師として迎えるのに成功した。相手が偉大であるとわかっている人間と関係をもつことを本当に欲していれば、その人は、ほとんどどんなことにでも耐えて、その関係を築いてゆこうとするだろう。
“管鮑の交”に‘おける鮑叔(ホウシュク)の在り方こそ、まさに驚異的で、誰にもまねることが不可能なものである。ソコに見られるのは、まだ未知数であり、発芽しきっていない才能に対する驚くほど鮮やかで鋭敏な探知力であり、また、その相手の人間性に対する徹底した深い理解である。そして、その上に立った極端なまでの心の広さと自分に対する謙虚さ、相手を受け入れる余裕である。これは、特に、年少の頃にあっては、もし身につけていれば、大変な才能であり、人格である。世間の人が、管仲の才能に驚嘆しないで、鮑叔の、よく人間を理解する在り方を嘆賞したというのは、全くその通りであって、結局、鮑叔なくしては、管仲もありえなかったのである。その青少年期を通じての鮑叔の心の豊かさは何ものにも比すことができない。
そして、この鮑叔の眼識と包容力こそ、現在の教育界において最も必要とされていることであると言えるかもしれない。幼少年期に現れる才能の断片に対する適切な評価、そして、一見、誤ったと見える過失に対する寛容な対応、子供の内包する可能性と人格に対する絶対の信頼こそ、今、教育界において切実に要請されているものかもしれない。人はともかく、私自身は、鮑叔牙(ほうしゅくが)という人間に一つの人間関係の根本が示されていると見る。そして、時には、挫折しそうになる自分を励まして、鮑叔の例を忘れないように努める。その時、ますます“管鮑の交”の崇高さが私に明らかとなる。こういう人間がいたということは、人間に対する信頼と勇気を呼び起こさせるものである。
人間のもつ美質を鮮やかに描き出し、読者に限りない勇気と謙譲の徳を生み育てる作品を一生書き続けた山本周五郎の戦前を代表する名作に“小説 日本婦道記”がある。私はこの本が好きで、汚れた現実に嫌気が差したり、精神が消耗感に襲われると、この本を取り出して、どれか一つの短編を読む。そうすると、心は清浄になり、人間への信頼感を取り戻し、エネルギーが充足された感じになる。“婦道記”とあるが、古風な女性道徳について書かれたものではない。道徳的な人間が登場するが、その中で、男女それぞれが、真実な生き方を求めて苦労している。
私がいつもゾクゾクと感じながら読むのが“藪の蔭”(やぶのかげ)である。ここでは、安倍休之助という武士の姿が、主人公であるその妻由紀という女性を通して描かれている。新婚の日に、夫となるはずの男が藪の蔭で重傷を負って倒れているのを発見される。由紀はいったん、敷居をまたいだ上は、自分は安倍家の妻であると言って、夫を看病する。そのうち、休之助に手落ちがあったとかで、厳しい処分がふりかかってくる。父からも絶縁されてしまった由紀は、琴を習いに行くと言って、実は町人へ琴を教え、わずかの報酬を稼ぐようになる。姑は、そのようなヨメの姿を見て、苦々しく思っている様子なので、事実をいえないつらさから、自分が献身的につとめてきたことが、すべて徒労だったのではという気がして、ますます悲しくなることがあった。そんな時、休之助のところに来客があった。茶の用意をしている時に、客間からの異常な声の高まりを耳にした由紀は、立ち聞きはいけないと思いながらも、驚きを禁じながら聞かざるをえなかった。それは、カネの不始末を発見され、惑乱のあまり、休之助を切り殺し、罪をなすりつけようとした男の告白であった。仕損じたと知ってからは、いつ、すべてが明るみにさらけだされるかと地獄の苦しみの日々を送ったが、自殺するだけの決断がつかなかった。そのうち、いろいろなことがわかってきた。“そこもとは、拙者の不始末を引き受けてくれた。あれだけのたいまいのカネを黙って返済し、自分の名を汚し、体面を棄てて罪をきてくれた。こんなことがあるだろうか。拙者には信じられなかった。いかに度量が大きく、心が広くとも、人間としてそこまで自分を殺すことができようとは思えなかった。しかも、それが事実だと確かめたときの拙者の気持ちを察してもらいたい。”客はたまりかねたように泣いた。そうして“もうたくさんだ。”と休之助は言った。“拙者は、そこもとがよからぬ商人にとりいられて、米の売買に手を出しているということを聞いた。意見しようかとは思わないではなかったが、そんなに深入りする気遣いもあるまい、そのうちにはやむであろう、そう軽く考えていたのだ。友達として、そんな無責任な考え方はない。気がついたときすぐに意見すべきだった。・・・人間は弱いもので、欲望や誘惑にかちとおすことはむつかしい。誰にも失敗やあやまちはある。そういうとき、互いに支えあい、援助しあうのが人間同士のよしみだ。あの時のことは、知っていて意見をしなかった拙者にも半分の責任があると思った。そして、自分にできるだけのことはしてみようと考えたのだ。それが幾らかでも、そこもとの立ち直る力になってくれれば良いと思って・・・”。少しもおごったところのない、水のように淡々とした言葉だった。その飾らない、静かな調子が、却って真実の大きさと美しさを表しているように思えた。“そこもとは、立ち直った。奉行役所に抜擢されたと言う事を聞いたとき、拙者は自分の僅かな助力が無駄でなかった事を知り、どんなに慶賀していたかわからない。これは誇るに足る立派なことだ。あやまちがどんなに大きくとも、償ってあまると思う。これで、もういい・・・”。由紀は、その時、大藪の蔭の湿った黒い土を思い出していた。あの藪の蔭には、このように大きな真実がひそめられていたのだ。友の過失をかばい、困難をわかちあうという、世間にありふれた人情が、ここではこれほどのことをなしとげている。しかも、夫はかたく秘して、ほのめかしもしなかった。・・・“人はこんなにも深い心で生きられるのだろうか”。由紀は切なくなるような気持ちでそう思った。夫が家計の苦しさを察している気の毒そうな調子で、友の別れに酒を出したいのだが、というのを聞いた由紀は、そうだ、強くなろう、もっとしっかりして、どんな困難にもうろたえず、本当の夫の支えになるような妻になろうと心に誓うのだった。
簡潔な山本周五郎の名文で、要約も出来ず、そのまま引用した箇所が多かったが、これは明らかに、山本周五郎の一つの理想像としての人間を描いたものと言える。そして、私はここに“管鮑の交”と共通したテーマが流れているのを感じる。
私が感動するのは、やはり、休之助が友人のために自分を殺すことができたと言う点である。ユングの時効殺人のドクターが絶対的な孤独に陥らざるを得なかったのは、友人のために自分を殺せなかっただけでなく、自分の欲望のためにベスト・フレンドまで殺してしまうような心の在り方であったからである。利己的な欲望が発揮するところにおいては、なにものも成長しない。最も美しい友情や愛情は、お互いが相手を尊敬し、信頼し、そのためには自己犠牲も献身もいとわないという関係において、本当に充実した、生き甲斐のあるものとなる。太宰治の短編“走れメロス”は、やはり、そのような関係を明るく、美しく、簡潔に描いている。そして、私達が、この世での生き甲斐を充分感じれるかどうかも、この友情や愛情と深くかかわっている。
先日、朝日新聞で、昔、一流モデルであったフランス女性が、死後十ヶ月経って、アパートで発見された記事がでていた。彼女は、金もなく、友達も無く、何も無いので、生きている意味さえなく、“自分は飢え死にすることに決めた”と日記に書いて、その通り、餓死した。
いい友人をもつ事は人生に生き甲斐を生み出してくれる。そして、いい友人をもつには、自分の欲望を殺し、自分を殺せるほどの勇気と謙虚さが必要である。
(完 記 1985年10月1-3日)
(忙しい中で書いたため、読み直す時間も無く、充分展開しきれていないのが残念である。)というコメントが最後に書いてあった。
村田茂太郎 2012年2月26日
村田茂太郎 2012年2月26日
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