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2/26/2012

“いじめ”と自殺

 日本での学校でのいじめの問題は帰国子女・海外子女としてアメリカにいる”あさひ学園”の生徒にも無関係とは思えないので、私は自分の感想・考えを子供たちに伝えようとしました。1986年に書いた文章で、常体で統一されています。わたしが学生時代に感激したサン・テクジュペリの”人間の土地”という作品のなかの、最も印象的な部分を紹介しながら、生きることの大切さを伝えようとした文章です。このギヨメの話はやはり有名であったのか、わたしが、1995年6月、テキサスのガルベストンにあるIMAX Therater に入ったときに、なんと、この遭難と生還の話がIMAXのBig Screenで上映されていました。わたしはすぐに、あの話だなとわかりました。

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   二、三年前は“校内暴力”が日本の新聞での大きなニュースであったが、この一、二年は“いじめ”が大きな位置を占めている。(1986年2月現在)。“いじめ”のせいで、何人もの小・中学生が自殺するのだから、社会的大問題となるのも当然である。“いじめ”が発生する日本的体質も問題であるが、簡単に自殺していく心理状態にも問題がある。

 “自殺”は流行病のようなところがあり、誰かある悩みで自殺を決行すると、次から次へと自殺者が現れる。ゲーテの“若きヴェルテルの悩み”は小説のうえでの自殺を扱っているが、この本が出てから、流行病のように青年の自殺がはやったといわれているし、フランスの有名なシャンソン“暗い日曜日”が流行した時も、この曲の憂鬱な曲調に感動する人が多かったのか、何人もの人が自殺したといわれている。

 “いじめ”による自殺のはじめが誰であったか知らないが、誰かが思い切ってやりとげてみると、あとは簡単に道が開けてしまうのである。自殺に至るまでの心境を思いやれば、かわいそうでたまらなくなるのであるが、どこかおかしいのではないかという気持ちを拭い去る事ができない。大人に限らず、子供も残酷なのは今に始まった事ではない。子供は天真爛漫などという誤ったイメージをもっていると、不幸が生じてくるわけで、子供の世界も大人の世界と同様、愛憎がきびしく絡まりあった世界であり、その中で生き延びていくには、自分を厳しく鍛えるしかないのである。

 壁に囲まれた小さな世界で精一杯悩んだ挙句、自殺していくという一つのパターンが既に出来上がっているように思えるが、それはあまりにも小さな世界であり、彼らに必要なのは、発想の転換であり、壁を破る事だけである。大きな視野から眺めれば、“いじめ”は一つの小さな現象に過ぎない。どんなにつらくても耐えることが何よりも大切である。自殺は解決にならない。まわりを不幸にするだけである。貴い生命を一時の苦悩で抹殺するべきでない。“いじめ”の問題は、家庭・学校・社会での対応を含んだ問題であり、友人・教師・親との関係の在り方を踏まえた問題であって、簡単に論じる事はできないが、個人の意識の在り方も大きな問題であり、自殺が一つの解決になると考える安易な精神の在り方も問題にする必要がある。いわば、自殺者の“弱さ”が問題となる。

 どんなに愚かしく見えようと、自殺の決意のまじめさと純粋さとその重みは、自殺の決意をもったことのない人が簡単に批判できないわけで、純粋であればあるだけ傷つきやすく、いたましい。私はただ自殺者に対しては冥福を祈るほかなく、その他の人に対して、一考を求めるだけである。人間の責任についての一考を。

 サン・テグジュペリの体験と思い出をまとめた“人間の土地”は、人間の持つ“威厳”を再認識させてくれる稀有な書である。私は大学時代、ここで展開された“責任観念”に感動し、自選二十世紀の十大名作のひとつに数えたほどであった。参考までに、今、覚えている、当時、わたしが択んだ十大名作をあげると、ロジェ・マルタン・デュガールの“チボー家の人々”、トーマス・マンの“魔の山”、ショーロホフの“静かなるドン”、ロマン・ロランの“ジャン・クリストフ”、アルベール・カミュの“ペスト”、ジャン・ポール・サルトルの“嘔吐”、サン・テグジュペリの“人間の土地”、ライナー・マリア・リルケの“マルテの手記”、クロード・モルガンの“人間のしるし”などである。(あとの1冊がなぜか、思い出せない。)<多分、ヘッセの“ペーター・カーメンティント”だったと思う。プルーストの“失われた時を求めて”とジョイスの“ユリシーズ”が入っていないのは、どうしたことか、読み始めていつも途中で挫折したためで、読了していれば、まちがいなく十大名作に入れていたであろう。モルガンの“人間のしるし”などが入っているのは、ベトナム反戦その他、青年期の反体制運動の意識のあらわれで、これだけは、入れ間違いといえる。ヘッセは“ガラス玉演技”などの大作があるが、青春の息吹に富んだ“郷愁・青春彷徨”は、やはり、いつまでも私にとって名作でありつづける。2010年8月補注>

 “人間というは、障害物に対して戦う場合、初めて実力を発揮するものなのだ。”第二行目の文章がこの調子である。“僚友”という章には、“彼の偉大さは自分に責任を感ずるところにある”という力強い文章がある。この“僚友”こそ、私を驚嘆させた文章であった。飛行家であるサン・テグジュペリの友人ギヨメに関する文章であり、この“人間の土地”も、ギヨメに捧げられている。

 郵便飛行家ギヨメが冬のアンデス山中で遭難し、絶望しされていた中、七日目に生還し、サン・テグジュペリはギヨメの口から、賞賛すべき人間としてのほこりに満ちた言葉を聞いたのであった。“僕は断言する、僕がしたことは、どんな動物もなしえなかったはずだ。”と。4,5千メートルの高山で、雪と氷と岸壁に囲まれた氷点下40度の寒気のなかを、ギヨメは歩き続けた。少し、サン・テグジュペリを引用させてもらおう。

 “君はあらゆる誘惑に堪えた。君は言った<雪の中では、自己保存の本能が全く失われてしまう。2日3日4日と歩き続けていると、人はただもう睡眠だけしか欲しなくなる。僕も眠りたかった。だが、僕は自分に言って聞かせた、僕の妻が、もし僕がまだ生きているものだと思っているとしたら、必ず、僕が歩いていると信じているに相違ない。僕の僚友たちも、僕が歩いていると信じている。みんなが僕を信頼してくれているのだ。それだのに、歩かなかったりしたら、僕は意気地なしというものだ。>と。”

 “僕は思ったものだった。人が彼の勇気を賞賛したら、ギヨメは肩をぴくつかせるだろう。だが、また、人が彼の謙譲を称揚するとしたら、これもまた彼に対する裏切りだ。彼はそのような、ありきたりな美徳の彼岸に身を置いている。勇気を誉められて、彼が肩をぴくつかせるのは、彼の聡明さがそれをさせるのだ。彼は知っている、何人にまれ、ひとたび事件の渦中へ入ってしまったら、決しておそれたりするものでないと。人間におそろしいのは未知の事柄だけだ。しかし、未知も、それに向かって挑みかかる者にとっては、すでに未知ではない。ことに、人が未知をかくも聡明な慎重さで観察する場合なおのこと。ギヨメの勇気は何よりも彼の端正さの結果にほかならない。彼の真の美質はそれではない。彼の偉大さは、自分に責任を感ずるところにある。自分に対する、郵便物に対する、待っている僚友たちに対する責任、彼はその手中に彼らの歓喜も、彼らの悲嘆も握っていた。彼には、かしこ、生きている人間のあいだに新たに建設されつつあるものに対して責任があった。それに手伝うのが彼の義務だった。彼の職務の範囲で、彼は多少とも人類の運命に責任があった。彼もまた、彼らの枝葉で広い地平線をおおいつくす役割を引き受ける偉人の一人だった。人間であるという事は、とりもなおさず、責任をもつことだ。人間であるという事は、自分には関係がないと思われるような不幸な出来事に対して恥を感じることだ。人間であるという事は、自分の僚友が克ち得た勝利を誇りとすることだ。人間であるという事は、自分の意志をそこにすえながら、世界の建設に加担すると感じることだ。” “僕は死を軽んずることをたいした事だとは思わない。その死が、もし、自ら引き受けた責任の観念に深く根ざしていない限り、それは単に貧弱性の表れ、若気のいたりにしか過ぎない。”

 随分、長々と引用させてもらった。この書が、“人間本質探求の書”と呼ばれ、また、“深遠な精神の書”と呼ばれる理由は、私の引用した部分だけからでも納得できた事と思う。

 さて、“自殺”の問題に入ろう。“いじめ”の問題は、本人・友人・クラスメート・教師・学校・家族・社会の全体がからんでくる問題であり、私が何かを言ってもどうなるものでもない。ただ、“個人の問題”として捉えたときに、子供の自殺は、私も論じる事ができる問題である。

 既に、一度、“自殺論―残されたものの痛み”で書いたように、私の周りで沢山の自殺があった。最初の時は本当にショックであったので、私は“自殺を否定する論理”を求めて、随分思索を重ねた。そして、私はわたしなりの結論として、自殺は結局、“論理”であるよりも、ある種の“衝動”であり、いったん自殺の意識を持ち、決意に至ったものに対しては、ほとんどどうすることもできないという考えに達した。論理的に意味がないと証明しても無駄なのである。“社会的な理由”とか“道義的理由”とか、いろいろの理由を持ち出しても、いったん自殺の決意に至った人間に対しては、人はもうどうすることもできない。この“衝動”を前にしては、すべてが意味をなくする。

 最近、わたしが考えているのは、“心霊学的理由”というものであるが、それすら、本当に決意した人間には意味を成さないであろう。従って、その状態に至るまでに、何らかの手を施す事が大切である。それには、宗教的に自殺を禁止するといった方法もあるが、もっとも、人間的に見て意義のある方法は“道義的自殺否定”であり、まさに、ここにおいて、サン・テグジュペリの“人間の土地”が巨大な重みを持って存在しているのである。

 サン・テグジュペリは友人ギヨメの行動を通して、崇高なまでに感動的でありうる人間というものを描いた。それは、たしかに“自分”ひとりの偉さではなかった。“僕は断言する、僕がしたことは、どんな動物もなしえなかった筈だ。”という言葉は、まさに“人間の尊厳”を証明するものであった。死の誘惑と闘いながら、ギヨメは妻を思い、友人を思い、自分を信頼してくれている人の事を思い、また、郵便物や世界に対する責任を思い、自己を励ました。あらゆる誘惑と苦悩にうちかって、ギヨメを生還させたもの、それは、人間に対する“愛”であり、“信頼”であり、世界に対する“責任”であった。

 生きているという事が、すでに単独の現象なのではなく、様々な人間達の世界で生きているという事であり、そのことによって人間は既に自分の存在に対して責任があるのだ。どのような人も、それぞれの苦しみをもっている。自分だけがひどい苦しみの中にいるなどと考えるのは傲慢以外のなにものでもない。人類史を見直してみるとき、人間の歴史は、どれほどの苦悩と悲惨に満ちている事であろう。それにもかかわらず、人類がすこしずつでも成長発展してきたのは、苦悩に堪えるだけの偉大さを人類そのものが持っていたという事を証明している。

 私のクラスメートが、かわいい子供二人と奥さんを残して自殺したらしいという話をロサンジェルスで友人に伝えた時、彼は“無責任だなあ”とひとこと言った。私は、それだけで、その友人が人に言えない苦労を体験して来たに違いないことを悟った。

 人間は、この世に、孤独に生きているのではない。根源的本質的に類的存在として、人間達の共同体の一部として、愛と友情と責任と義務とに囲まれて存在している。ユング自伝に登場する時効殺人の女ドクターのように、あまりにも利己的であったため、すべてのものから心理的に弧絶したところに生きねばならなくなった時、自殺は一つの救済として現れてくるであろう。そしてまた、特殊な限界情況に置かれた人間にも自殺は許されることはある。しかし、それ以外の、“ただの困難”を前にした自殺とは逃避であり、若気の至りということになる。

 人間は“障害物”を前にした時、はじめて自分の全実存をかけて生きるのであり、“艱難”を乗り越えて、はじめて充実した生命の喜びを味わえるのである。“逆境”においては、ただ耐えるのみである。戦国の武将、山中鹿之助は“我に艱難を与えたまえ”と真剣に祈ったという有名な話がある。子供の世界にも、大人の世界にも、本人にとっては命がけに思われる本格的な苦労や悩み、困難が出現する。私はそれを否定するつもりはない。ただ、どのような困難も、一時的なものであり、大局的に見れば、解決可能である場合が多い。一時の衝動にとらわれて、二度ととりかえしのつかない行為は絶対に慎むべきである。人間は哀しい生き物で、どんなにもっと生きたいと思っても、必ず生命の終りがやってくる。何をあせって命を縮める必要があろう。

 それでは、“心霊学的に自殺を否定する”とはどういうことか。

 超心理学(心霊科学)のあらゆる分野における研究は、近年、急速に発達している。死とその瞬間、そして蘇生を扱った研究は精神病理学者エリザベース・キューブラ・ロスやカルリス・オシス博士あるいはレイモンド・ムーディ博士等によって推し進められている。この領域の研究は、絶対確実というところまでは達しえないという運命的な弱点をもっているが、可能性としては、かなり信じられるほどにまで達しているのも事実である。テクニカルに死んだと判断され、蘇生した人が語った話を分析したものや、すぐれた霊媒(Medium)によるSéance(招魂会)での実験を通して、自殺者の霊魂がどういう状態にあるかを調べた人も居る。

 中世の天才ダンテは一大傑作“神曲”の中で、自己に対する暴力者といえる自殺者を“地獄”に置き、茨に変身させて、怪鳥に身をついばめさせた。ダンテスクといわれる驚異的な想像力で描き出されたこの地獄篇は、一読して一生忘れない感銘を残す。これは、想像力の産物であり、蘇生体験者の話とは少し異なる。

 次に、私はカナダの大学教授イアン・カリー(Ian Currie)の“You cannot die.”から引用してみよう。この本は、その表題にあたる研究書を要領よくまとめたもので、当然ながら引用文に満ちている。引用されたムーディの原本も、私は持っていて読んだが、今は、このカリー氏の本をそのまま訳させてもらう。

{広範な研究が自殺体験についてなされたが、それについては次のようなことが示された、すなわち、

 どれも、不愉快なものとして特徴付けられた。ひとりの女性は次のように言った。“もし、あなたが、この地上で魂を痛めつけられた状態で去れば、あの世でもあなたの魂は傷ついたものであるだろう。”と。要するに、彼らは、それから逃れるために自殺したその困難な状態は、死んでしまってからも、まだ現存しているし、おまけにもっと複雑な状態になってしまっていると報告している。つまり、肉体をなくした状態にあって、彼らは彼らの問題に対して何もする事が出来ないだけでなく、彼らの自殺によって引き起こされた不幸な結果を見なければならない。妻が死んで意気消沈した男が、自分を撃ち、その結果、死んだが、生き返る事ができた。彼はこういった。“私は妻の要るところに行けなかった。私は恐ろしいところへいった。私はただちに自分が間違いをしたと気がついた。そして、自殺などしなければ良かったと思った。”この不快なリンボ(宙ぶらり)の状態を体験した他の人たちは、随分長い間、その状態に留まっているだろういう感じを味わった。これが、ある役割、つまり、人生においてある目的を達成するという役割から、事実上、自分達を無理に早く解放しようとして<ルールを破った>罰則であった。(ムーディの本からの引用)

 彼らは本能的に理解するようだ。-つまり、この世に肉体を持って生きている間に、生活を味わい、生活から学び続けるよう運命付けられているということを。}

 信じる信じないは各自の勝手である。私も懐疑的な状態にいる。しかし、自殺が何の解決にもならず、他の人を苦しめ、自分をも苦しめるというのは本当だと思う。

(完                  記 1986年2月12日)

村田茂太郎 2012年2月26日

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