旧い紀行文です。体調を壊してセコイア、キングス・キャニオンを訪れて生き返ったようになったそのことをすぐに書いたものです。1987年。
去年の夏にもセコイア、キングス・キャニオンをおとずれましたが、すばらしいところでした。
この文章には私が感じたことそのままが表されています。その後、Shermanの自伝も読み、Grant同様偉大な自伝だと感銘を受け、去年は ”Grant & Sherman” という二人の関係からみた伝記を読んで、これもよく書けた面白いものでした。ともかく、南北戦争はこの二人の将軍のおかげでうまく収まったということだと思いました。Sequoia、Kings Canyonの写真は去年のものを、Yosemiteは2000年ごろに撮ったものを今回添付しました。
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たまたま、疲労が重なって体調を崩し、このままでは入院しなければならなくなるかもしれないという危機感を持った私は、スグに休暇をとって、思いきって旅に出ることにした。一週間の予定が、会社の事情で3日しかとれなかったが、ともかく、一人で出かける事にした。ぺぺとサンディのうち、ぺぺはワンマン・ドッグで、私がいなくなると、夜も寝られないほど心配するので、ぺぺだけを連れて行くことにした。クルマでの旅行は、こういうとき、便利である。
最初、ビッグ・ベアの山小屋で2,3日などと考えたが、どうせ行くなら私の好きなシエラ・ネバダでと思い、フレスノ目指して出かける事にした。過去2回のヨセミテ行で、一度、ロッジに泊まって、ゆっくりと探索してみたいといつも思うに至っていたためである。しかし、ともかく、無理しないで行けるところまで行こうと決めた。3時間足らずで、フレスノの手前のヴィサリアに来たとき、私はヨセミテまでは少し、しんどい、セコイアにまず行こうと決心した。そして、結局、家を出発して4時間足らずで、無事、セコイア国立公園に着いた。ジャイアント・フォレストまで、家から220マイルであった。うまい具合にラスチック・ケビンが空いていた。一泊24ドルだと言う。私は喜んで一泊することにした。セコイアへは15年ぶりである。私はセコイアの林道をドライブしながら、アメリカの雄大な自然の美しさを心から、満喫する事が出来た。たった4時間のドライブで、こんなにもすばらしい森林に入れたと言う喜びを心から感じていた。青い空、明るい太陽、緑の木々、深い森林、そして、あの巨大なセコイアの大木。私は以前にもまして、このセコイア国立公園の美しさ、素晴らしさを嘆賞した。Largest Living Tree とコメントのついている General Sherman Tree は84メートルの高さで聳えていた。巨大な幹が下半部を占め、その上部で逞しく枝が茂っている。見ると、推定樹齢2500-3000年と書かれている。2500年! それは、あのギリシャにソクラテスが生まれる前であり、孔子や仏陀が生まれる前である。その頃に芽生えた生命が、このシエラ・ネバダの山中で、黙々と、そして延々と生きつづけて来た。今、地上に生きている人間以外の全人類が、この2500年の間に死滅していったというのに、これは何とすばらしい自然の驚異であろう。
夕方、6時になって、私はぺぺをCabinにいれ、食事を与えたあと、一人で山歩きをしようと思った。丁度、2マイル足らずのところに、Moro Rock といわれるところがある。私は往復2時間はかからないと計算し、夕陽がまだ照り輝いている森の中へと入っていった。夕方の6時から森の中に入る人など誰も居ず、私はひとりで自然の静寂と樹木の美しさ、空気の清らかさを存分に味わいながら、林道を黙々と辿っていった。夕暮れとはいえ、まだ明るく、私は心から満足して、誰もいない林道をとぶようにして登っていった。
時々、私は、もしかして熊に出会ったらどうしようと考えた。前回、ヨセミテに行ったときも、私がドライブしているクルマの前を、いきなり、熊が横切って行き、あわててブレーキを踏んだ。セコイアの山に入って以来、何処を見ても熊に対する注意ばかりである。私は、歩きながら、木々の間を縫うようにして走る小道のアチコチに、いろいろな種類の枯れ枝があるのを確かめ、もし、クマに出会ったら、大きな幹を拾って守ろう。こちらが攻撃の姿勢を見せない限り、何も起きないであろう、もし、攻撃してくるようだったら、威嚇しながら逃げるしかないなどと考えていた。そして、もし、沢山の熊に囲まれたらどうしようなどと思っていると、あの宮澤賢治の童話を思い出した。
熊の肝をとって生活をたてていた猟師が、親子のクマと知り合った結果、自分からクマに食べられてやろうと決心する話しである。そんな心配などしなくても良いほど、森は明るく静かで、結局、予定通り、40分ほどの快適な散策の末、モロ・ロックの登り口に着いた。ちゃんとクルマでも来れるようになっていて、何台かパークしてある。帰りは、もしかして、少し、暗くなっていて、森の中に入るのはよくないかもしれないから、そのときは、下のロッジまで誰かにヒッチさせてもらおうなどと考えた。
モロ・ロックは、突出した巨大な岩塊に、上まで安全に登れるようにと石の階段と手すりをつけてあり、私はこの程度ならもう大丈夫だと、安心して、元気よく登り始めた。眺望が、登るにつれて開けてくる。春霞のせいか、全体がぼやけているが、ともかく、眺めはすばらしい。高山植物が厳しい寒さと強風に耐えて、赤く小さな美しい花をつけて、アチコチから顔をのぞかせている。頂上まで登りきった時、汗びっしょりであった。しかし、来た甲斐はあった。丁度、手頃な散歩であり、歩いてきたのは正解であった。私は一日の行動として、もう充分楽しめた事を確認し、誰もクルマを出発させる人がいない事を確かめて、また森の中へと入っていった。結局、予定通り、2時間足らずで、ロッジに辿りつけた。
カフェテリアに入って、一人で今日の一日を祝し、小屋に戻った。窓を開けるとひやりとして気持ちよい。私はハーモニカをとりだし、“峠の我が家”、“埴生の宿”、“アフトンの流れ”そして“ふるさと”などを吹き、しばらくして一人で満足して窓を閉めた。そして、日記をつけ始めた。ボツボツと燈がつき始め、夜が更けていく。ぺぺの食事のあとを慕って、蟻が沢山やってきた。1インチほどの大きさで、小さなゴキブリのようである。私は、ここは山であり、森の中であって、蟻にとっては自分たちの住処であり、我々人間のほうが闖入者であるに違いないと思い、踏まないように用心しながらぺぺの食器を片付けた。ベッドに入ってからも、床を歩き回る蟻の姿が見えていたが、そのうちに堪能したのか居なくなった。
夜中に何度も目を覚ましたのは寒さのせいに違いない。小屋にはオイル・ストーブが入っていたが、どう使用すればよいのかわからない。また、小さな小屋で酸欠をおこしては台無しである。私は用意してきた寝袋を上に乗せて、その重みでかろうじて寒さをしのいだ。ここでまた、私は俳人 種田山頭火が、かれの居宅に友人が訪ねてきて泊まった時、たいした布団も無く、どうしようもない寒さを防ぐために、四脚のお膳をのせてしのいだという話しを思い出し、寝袋程度でも、上に置くだけで、結構、寒さをしのげると思った。
簡素な山小屋での一夜はあけて、朝6時に私は起き、ぺぺに食事を与えて、誰も起きださない静けさの中を、一人で早々に出立することにした。本当は、もう2泊したいところであった。そして、そうするべきであった。しかし、私は、キングス・キャニオンを見て、ヨセミテに行くつもりであったため、宿を引き払った。
早朝のドライブは最高であった。ただ、猛烈に寒い。氷点下に違いない。私は用意した手袋をはめて、ハンドルを握った。すがすがしい大気を吸いながら、誰も居ない林道を気持ちよく、すばやく走った。時々、雪をかぶった山嶺が見える。私はこのセコイア行が大成功であったことに、心から満足しながら、まず、General Grant Tree を見に行った。これは、いくつかの大木の間にあるため、ほんの少しパーク場から歩いて入らねばならない。私は誰も居ない広場にパークして、ぺぺを従え、Trailに入った。General Sherman Tree によく似た大木が General Grant Tree であった。この小さなTrailはとても気持ちよい。私は一人で自然の雄大さ、逞しい生命力に感心していた。これら巨大な大木に、南北戦争の英雄達の名前をつけてあるのが、まさにそれにふさわしいと感じさせた。私は、内戦で50万人が死んだ南北戦争に興味を持っており、Grant将軍もSherman将軍も、人間的に好きであり、軍人としても偉大であって、私の興味をそそる。グラントの回顧録(Personal Memoir)を、私は読んだが、見事なものであった。人間としてのかれの魅力は、そのまま大統領のときに致命的な欠陥として露呈した。かれの回想録は、シーザーの“ガリア戦記”にも比せられる古今の名著の一つといわれており、私自身、それを確認した。一方、シャーマンは、アトランタの灰燼と“March to the sea” で有名であり、今世紀最大の兵法家Captain Liddell Hart も、シャーマンの戦法は、近代戦におおいなる貢献をしたと述べているほどであり、彼の回想録も第一級のものといわれている。この二人の成長史は共に、興味深いものである。
シャーマンは“戦争は地獄だ。 War is hell.”とハッキリ言い、戦争を美化することなく、冷徹に戦争に対処した。そして、また、大統領候補に推されかかった時、有名な電報を発電した。”If
nominated, I will not run. If elected, I will not serve.” (指名されても立たないし、大統領に択ばれても何もしない。)シャーマンの徹底した性格を示す言葉であり、その人物の魅力を暗示する言葉である。他に、General Lee という大木もあるらしい。私は見なかったが、南北戦争の英雄達の名をつけたところが、とても愛嬌があってかわいい。
一人で、ぺぺをひきつれて、私はセコイア国立公園のすばらしさを充分味わった。荘厳ともいえる大森林の中に一人たたずんで、私は生命力の回復を感じていた。スモッグに支配された灰色の街ロサンジェルスとは何と違ったところであろう。フロイトは生まれ変わるならば、次回はパラ・サイコロジスとになりたいと言ったそうだが、私は、このような大自然の中で環境保護を行うレーンジャーか生物学者または地球科学者になりたいと思った。充分味わったあと、私はキングス・キャニオンに向かった。天候は最高であり、空は青く、太陽は明るく、森は緑濃かった。クルマもほとんど見ず、私はこのすばらしい大自然を一人占にしたようなうれしさを感じながら、ドライブを続けた。いつものことながら、ひとつの目的地から他の目的地へと移るのに、何十マイルとドライブせねばならない。同じ公園の中なのだから、やはりアメリカの規模はなんでも大変なものである。イエローストーンへ行ったときも、公園の中を何百マイルと走ったものであった。
キングス・キャニオンはキングス・リバーと氷河の働きで作られた深い渓谷である。キングス・リバーの下流の川床は、岩塊でできているのか、ほとんど川全体が滝のように白く泡立って激しく流れている。川沿いの道を嘆賞しながら終点に向かって走る。川の眺めはすばらしい。Cedar Grove Village を過ぎて、あと6マイルほどでRoads End という地点で、バック・パックの山男がヒッチしているのを見つけ、直ちに私はクルマをとめた。場所をつくって、乗せてやると、かれはとても喜んだ。
今のアメリカでは、ヒッチ・ハイクは、する方もされる方も危険であり、私は一度もしたことがない。山男が困っているのを見つけて、私は大丈夫と思っただけで、他の場所なら素通りしたであろう。彼は指をあげるなり、私がピック・アップしたものだから、とても喜んだ。ここへは、初めてだという。私は15年ぶりだと告げる。彼は一週間この山に居る予定で、既に二日ほど山歩きをしてきたとのことであった。ペインティングと写真を撮っているといい、パックは60ポンドあるといった。60ポンドをかついで6マイル歩けば、それだけで一日がくれるわけで、私はかなりの人助けをしたわけだ。お互いの楽しい旅を祈って別れた。
ここは、15年前の10月に来て、とても気に入ったところである。あの時は、水も少なく、私達は浅瀬を跳び石伝いに対岸へ渡り、少し、山にも登って散策を楽しんだ。今、川は雪解けの水であふれるばかりに、とうとうと流れ、対岸に渡れそうなところなどどこにもない。わたしはぺぺと川伝いにアチコチ探してみたが、どこもダメである。あきらめて、落ち葉を踏みしめながら、日本の秋とまがう、閑静な自然の魅力あふれる森林の間を、私は嬉々として歩き回った。すべてが、私の好みにあった。私は心行くまで、この美しい自然を味わい、それから、別な場所へ行こうとクルマをバックさせた。そして、少し戻ったところで、Zumwalt Meadow (ズンヴァルト草原)に出た。私は、たしかここはすばらしかったところだと記憶を確かめながら、ぺぺと連れ立って、川沿いに歩き始めた。見ると鉄橋がかかっているではないか。私は待ってましたとばかり渡って、小径を川沿いに歩き、スグに草原に出た。変化のある景色で私は気に入った。いくらでも歩けそうであったが、あとの予定もあるので、私は適当なところでやめにして返った。
このセコイアとキングス・キャニオンへの旅は、私にとってすべてが好ましいものであった。美を再発見したような気持ちであった。私はこれなら、今後、もっと気軽に出てこれるし、来なければならないと思っていた。月曜日一日の休暇をとるだけで、日曜の朝早く出立すれば、そして、日曜一泊するだけで、いろいろなところを見て廻れるのである。その意味で、今回、これで引き上げても、今度、またゆっくり見てまわれるという考えが成立した。私は、私の沈滞し、消耗していた生命力を新たにかきたててくれた、この雄大で荘厳な大自然の美しさを心から賛嘆し、後ろ髪を引かれる思いで、次の目的地に向かった。Grant Groveまでいったん戻り、ルート180を辿って、別なゲートからセコイア、キングス・キャニオンを離れた。
ルート180でフレスノに戻り、今度はルート41でヨセミテに向かった。丁度、お昼ごろであった。ここまでは、大成功であった。単なる旅とはいえ、私は最高の喜びを感じていた。たった一泊だけであったが、私の生命は蘇ったように活性化した。私は消耗すると大地にじっと手を突いて充電するという巨人の寓話を思い出していた。マルクスも人間的自然と自然的人間という表現を使って、自然の一部であり、自然そのものである人間について情熱的に論じていた。スモッグに包まれたロサンジェルスは非人間化の象徴とも言える。私は、時々、自然の懐に入る事が、人間にとっていかに大切か、そして、私自身にとってはどれ程大切かをつくづくと感じた。母なる大地とか言い、土着のインディアンたちが大自然の中で、大地と共存している事を意味深く感じた。私の健康にとって、危機的な情況の中で、ほとんど衝動のようにしてなされた今回の旅は、私に、自然と人間のかかわり、その共存の重要さを切実に感じさせた。
ヨセミテに入ると、なんだかムードがかなり違うようであった。私は過去のヨセミテ行で、いつも感激していたので、今回、トンネルをくぐりぬけて、有名な絶景に接したとき、ァレッと思わず叫んだ。全然、調子が違うのである。春霞のせいというよりは、まさにスモッグのせいで、谷全体がぼんやりとしているようであった。今までも、私は五月と六月に訪れたので、全く同じ時期であるはずなのに、谷におりても、あの、昔訪れたときに感じた自然の生命力の萌えるような息吹がほとんど感じられないのである。それは、全く幻滅させるものであった。
キャンプサイトも雑然としているし、何という観光客の多さであろう。どのパーク場もフルであり、スモッグで煙っているのは、ロサンジェルスのダウンタウン並みである。どの小屋も満員で、予約なしでは、泊まるところはなかった。わたしはどこにもあふれた人の波を眺めて、この世界的に有名になってしまったヨセミテ国立公園の美しい自然があわれに思われてきた。昔のような、生き生きとした生命力は、私にはほとんど感じられず、エル・カピタンの絶壁も、ハーフ・ドームも汚染したような空気の中に淋しく切り立っているようであった。景色はどこも美しいが、汚染したというのが私の正直な感想であった。本当は、また山小屋に二泊して、山をうろつくつもりであったが、仕方なく、見るべきものをみて帰る事にした。Glacier Pointまでのドライブも、元気が出なかった。既にカリフォルニアを襲った暑さのせいで、ヨセミテの雪はほとんど溶けていて、グレーシァ・ポイントへ行く途中、隠れた草原の一部に、ゴミのような汚れた雪が少し残っているだけであった。途中、コヨーテか狼のような獣が、一匹、道に出て、Lostの様子で、ウロチョロしていて、本当にかわいそうになってきた。あまりの人混みとクルマのため、自然はバランスを崩してしまっているのだ。
Glacier Point からは、相変わらず美しい絶景が望まれた。遠方の4千メートル級の連嶺には、一面に雪がべっとり蔽っていて、その下に緑のカーペットが続き、このヨセミテ側からは、穏やかな山脈ぶりを見せて聳え立っている。滝には水が豊富に流れ、少し奥に入れば、まだまだ、すばらしいところがあることがよくわかる。本当は二泊して、滝のふもとまでゆくつもりだったのにと、少し、残念に思ったが、寒さも増してきたので、急いでぺぺをクルマに入れ、もう一度、ゆっくり見回してから帰途についた。
公園を出て30マイルほどにあるOakhurst Villageで一泊して、また、どこかへ行こうかと考え、マネージャーに聞くと、49ドルだという。私は前の晩、24ドルで、いかにも山の雰囲気を楽しめる小屋で泊まったので、これでは、バカらしいと思い、おまけに、ぺぺも一緒に入れるわけにいかないかもしれず、気にしながらということであれば、それだけの価値がないと判断して、ヤメにした。結局、街に向かうほど、犬を一緒に泊めてくれるところはなさそうであり、これは、もしかして、家に直行したほうが良いかもしれないと思った。ともかく、フレスノに向かった。
Arbyで夕食を済ませ、ぺぺにも食事を与えて、時間を見ると、丁度、8時である。もうすでに、380マイル、一日で走っていた。前日は230マイルだったのだから、本来なら休むべきであろう。フレスノーロサンジェルスが230マイルぐらいであるのを考えて、3時間半で帰れると思った私は、少し、エライが、ぺぺと一緒にゆっくり休めるところは、もう家しかないと思い、すでに充分満足もしたので、家に直行することにした。
ルート99に入って、スピードを65-70にして、コンスタントに走った。時々、眠くなってくると窓を大きく開けて冷たい風をいれ、また、あるときは音楽を流し、最後には、Arbyのロースト・サンドウィッチをもう一つかじりながら、わき目もふらずにドライブを続けた。あまり眠くなるようだったら、レストランに入ろうと考えていたが、月曜日の夜で、幸いにもクルマは少なく、全速力でよく走った。マジック・マウンティンが見えてきたとき、あと30分以内につけるとわかり、ホッとした。結局、220マイルを3時間と少しで走り、11時半には家に入っていた。この日の走行距離は600マイルであった。
今回の、私にとって緊急の旅は、実行して、もちろん良かったが、焦点をヨセミテに絞っていたため、折角、セコイアでらくらくと山小屋に泊まれ、素晴らしい自然を味わう事ができたにもかかわらず、たった一泊しただけで出てしまった事が失敗であった。セコイアもキングス・キャニオンも三拍かけても探訪できないほど素晴らしいTrailがいっぱいあるのだ。今から思えば、日本の秋を思わせる Cedar Grove をぺぺとのんびりうろついていれば、どれだけ生命の洗濯になったことであろうと惜しまれる。
ヨセミテのイメージが巨大なものであったため、結局、折角の休暇の価値を半減してしまった。これからは、私はヨセミテではなく、セコイアとキングス・キャニオンを探訪しよう。距離的・時間的にも、一泊すれば充分落ち着いて楽しめるところである。ヨセミテの谷のように、俗化してしまわないうちに、あのシーダー・グローヴの素晴らしい森林と渓谷の美を精一杯楽しもうと心から決心した。
サンディはぺぺがいなくなったため、とても心配していたという。日曜の朝に出かけ、月曜の夜には帰ってこれたのだから、一日も顔を合わさない日は無かったのだが。
(完 記 1987年5月21日)
村田茂太郎 2012年2月27日
村田茂太郎 2012年2月27日
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