わたしの本の中の”失敗談vs成功談”という文章のなかの成功談の例として”スコットとアムンゼン”があげられていますが、この文章に記した内容を前提として書いたものです。1985年に書きました。文末表現はすべて常体で書かれています。
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ロラン・ハントフォード(Roland Huntford)の伝記“スコットとアムンゼン”(南極点への競争)がTV映画化されてKCET28チャンネルで放映されている。(1985年11月)。“Last Place On Earth” という題である。原書は550ページに及ぶ大作で、私は行きのバスの中で読み続け、約2週間かかって、やっと読了した。二人の伝記であると同時に、極点競争の記録であり、なかなかの傑作で。読み終わった後も、アムンゼンへの感慨がいつまでも残った。”最後のヴァイキング“と呼ばれ、”ノルウエーの白鷹“と呼ばれたアムンゼンの南極点到達行は、その用意周到さや計画の緻密さ、冷静な行動力、決断力、実行力そして指導力、協調性と、ほとんどあらゆる観点から見て、完璧な芸術性と最高のスポーツ性を発揮したものであった。最も恐ろしい壊血病への備えから、スキーや犬ぞりの準備、そして非常時食糧の設定やその目印に至るまで、すべてが、完璧なまでの緻密さで遂行された。
アムンゼンは自分の過去の失敗から学んだだけでなく、極地探検に関するほとんどすべての文献に目を通し、人の失敗からも学んだ。そして、もちろん、他人の成功の記録も大切な教えとなり、それを率直に認める事ができた。アムンゼン一行の南極点行は、みごとな統一性を見せて実行され、全員が意気揚々と無事に帰還したので、まるで、困難など全く無かったかのように見える。実は、スコット隊よりは、はるかに困難な気候的・地理的状況におかれていたのだが、アムンゼンを隊長とする一行の行動力と勇気が、あらゆる苦難を克服する事を可能にしたのであった。
飛行機で最初に北極点へとんだアメリカのバード少将は、アムンゼンへの尊敬を生涯持ち続けた。バード少将の一行が飛行機で南極点へ達したとき、彼はアムンゼンが犬と意志の力だけで、ものすごい困難をやり通したことを理解し、アムンゼンという男に対する感動で圧倒された。それは、バード隊のひとりが、アムンゼンが保存食糧を貯えたケルンを見つけたときにも確認された。アムンゼンが自らの手で封をしたパラフィンの中に、18年後も完全な状態で食糧が保存されているのを見た隊員達は、アムンゼンの行動のもつ完璧な芸術性ともいえる緻密さに、ますます感動し、期せずして脱帽し、この驚嘆すべき男に対して、心からの賛嘆にとらわれたのであった。極寒での食糧保存はむつかしく、スコット隊は、他の全てにおいてと同様、この方面の準備においても、ズブの素人振りを発揮したため、保存食を見つけても、あるべき量の四分の一しか残っていないという有様で、これは必然的にスコット隊5名の餓死・全滅へと導く事になった。
アムンゼンの半生と行動は、純粋な極地探検家、プロフェッショナルな発見家のそれであるのに対し、イギリスのスコットは、すべてにおいて、アムンゼンとは正反対であった。彼は、海軍での立身出世が目的で南極探検の隊長となり、最初の探検において、様々な苦労を嘗めたにもかかわらず、なにひとつ、その体験から学ぶ事はなかった。すべてがチャンスに任せるような形でなされ、スキーや犬ぞりの価値すら理解できなかったし、学ぼうともしなかった。自分の失敗から学ばなかったスコットは、当然、人の成功や失敗からも学ぶ事が出来なかった。極地探検の文献を詳細に分析するどころか、読んでみようともしなかった。アムンゼンの行動と並行して述べられているスコットの行動ぶりは、まるでアマチュアのそれである。
1910年、大掛かりな南極探検隊を組織したスコットは、アムンゼン隊よりも早くイギリスを出発した。しかし、南極点にはアムンゼンよりも一ヶ月遅れて到達した。軍隊的な階級と権力機構で構成された69名のスコット隊は、あらゆる点においてトラブルを起こし、最終的には人力で荷物を引っ張りながら、5名が極点付近に達したが、その帰還の途中、雪と氷の中で、5名全員が凍死した。保存食糧準備の悪さが原因であったが、スコット自身の指導力のなさに、既に隊員は絶望しきっていた。アムンゼンが何よりも隊員たちの生命の尊重を第一としたのと対照的に、スコットは何が何でも南極点到達ということを優先し、隊員たちの生命はどうでもよいと判断していたといえる。スコットより指導力のあった隊員は、無能なキャプテンを呪いながら死んでいった。アムンゼン隊と違い、壊血病への備えも無かったスコット隊は、全員が次々と病気になって、倒れていった。スコット自身も倒れ、先に行けないのを知ると、まだ元気な二人をおしとどめて、テントの中で一緒に死ぬよう示唆したらしく、9日分の食糧が尽きるまで、おしとどまって、そのテントの中で飢え死にしていった。無事生還すると、かえって、この探検の失敗の責任を問われかねず、スコットは、その日記の中で、すべての失敗を部下の隊員や気候のせいにし、いかに自分が困難をおしのけつつ極点に達し、ついに力尽きて死ぬに至るかをみごとに説明した。そして、この日記の中で、述べられた殉難の英雄の姿は、没落していく大英帝国の精神の象徴とうつり、人々は、見事に完成した一服の絵の如きアムンゼン隊の業績を賞賛するよりも、この悲劇の英雄を賞賛し続けた。スコットの欠陥やスコット隊の欠陥は、故意に抹殺され、悲劇の英雄の姿だけが大衆化されるに至った。スコット個人の欠陥が、この大規模な遠征隊の失敗を生んだだけでなく、有能な隊員を凍死へと追いやったにもかかわらず、すべてが隠蔽せられて、スコットだけが英雄としてたてまつられることになった。
未亡人はレイディ・スコットというナイトの称号と年金をもらうに至った。スコットの精神という形でイギリスの青少年の犠牲的精神の教育にまで登場する始末であった。スコットは、先達、シャックルトンと同じルートを辿り、何一つ発見しなかったし、科学的業績も生まなかった。スコットに関する記述を読んでいると、ただただ自分の欲望のために、人命を犠牲にして平気でおれた愚かな男に対する怒りが湧き上がってくる。スコット自身が飢えと寒さで死なねばならなかったとしても、それは自業自得というものである。一大隊の隊長たるものが、無能無策を露呈しつつ仲間を死に追いやっていく様は悲惨なものであり、読んでいてやりきれない気持ちになる。
北極圏北西航路をはじめて航海したアムンゼンは、南極点において最高の技量を発揮し、最初にして最後の、犬ぞりとスキーによる極点行を貫徹した。スコットからは二度と繰り返してはならない行為と精神の愚かさを学ぶ事ができるのに対し、アムンゼンからは、一つの冒険、一つの行為が成功するためには、どれだけの慎重さ、計画性、緻密さ、勇気、行動力、指導力が必要かを学ぶ事ができる。
アムンゼンの行動と計画の緻密さは、およそ徹底していて、彼はエスキモーの中に入って、彼らからイグルーの住居の作り方から、最高の暖房着の作り方まで習い、最高のエスキモー犬を手に入れ、最高の用具を手に入れた。そして、それらを更に自分達で改良して、どんな厳しい環境の下でも使いこなせるようにした。アムンゼン隊の成功には、なんらの奇跡も偶然性も無い。彼らはそれだけの努力を払い、成功するべくして成功した。知性の勝利であり、哲学の勝利であった。その見事さは人類史上永遠に輝き続けるものであり、人類が生んだ最高の極地探検家として、アムンゼンの名は不滅である。また、一方、キャプテン・スコットのあとについて、人力で厳寒の極点前後何百マイルを踏破し、飢えと寒さで死に絶えていった彼らの悲惨な姿は、やはり、同様、いつまでも人の心をうたずにはおれない。
ロラン・ハントフォードのこの伝記は、英雄スコット伝説を資料によって粉砕し、アムンゼンとその一行の偉業を誰の目にも明らかにしたものであった。TVマスターピース・シアターのホストであるアリステアー・クックも、この“スコットとアムンゼン”を読んで、スコット英雄伝説が完全に解体してしまった驚きを、17日の放映のあと述べていた。スコット伝説など何も知らなかった私は、スコットの日記を手に入れたいものと前から思っていたが、どうやらフィクションじみた日記は、手に入れる必要も無いということを、この本によって確認した。それとともに、アムンゼンの壮挙が、今更の如く偉大にうつるようになった。
さて、スコットとアムンゼンの極点競争は、1911年の出来事であったが、1902年(明治35年)、雪の中で二百余名が凍死するという事件が日本で起きた。新田次郎によって小説化された“八甲田山”での死の彷徨である。日露戦争を予想した軍部は、厳寒の八甲田山を踏破するという人体実験を二つの部隊に命じた。第三十一連隊の徳島大尉〔小説の仮名、以下同じ〕は、緻密な作戦と透徹した指揮ぶりを発揮して、35名全員を無事帰還させるのに成功した。一方、第五連隊の神田大尉は大隊長山田少佐の干渉を抑制できず、210名ほどの大行軍のうち、199名凍死という悲惨な結果を招くに至った。神田大尉自身も無念の恨みを残して、舌をかんで自殺し、この大惨劇の張本人である山田少佐もピストル自殺するという形で幕を閉じた。
この大量の犠牲は、日本国中を震撼させ、軍隊の防寒具の改良に効果を発揮する事になった。この事件の真相も、長い間、隠蔽されたままで居た。そして、やはり、スコット隊の場合と同様、遭難した第五連隊は世間の同情を一身に集めた。そして、厳寒の八甲田山を粗末な防寒具で無事全員踏破という壮挙を敢行した徳島隊は忘れ去られたような形となった。この二つの部隊の行動を、小説の形をとりながらも、真実に接近した描写で、大衆の目に真相を暴露したのが、この新田次郎の傑作“八甲田山 死の彷徨”である。
二つの部隊の行動の差異が、迫力ある描写力によって、見事に再現されている。そして、この成功と失敗の教訓は貴重である。アムンゼンと違って、ほとんど名前も知られずに終わった徳島大尉の行動力・指導力は、それなりに見事なものであり、彼もまた体験から学ぶ事を知っていた。それにしても、明治という時代の、しかも軍隊内部で生み出されたこの悲劇は、当時の日本のもつ暗さの一面を示すものであった。軍隊の持つおろかさの一面が赤裸々に暴露された事件であったが、スコットの場合と同様、責任の所在など、軍隊に不都合な面は隠蔽され、ついに大衆に明示される事無く今日に至っていたわけで、新田氏の仕事は、丁度、ロラン・ハントフォードの仕事に対応するといえる。一方は伝記として、一方は小説としての違いはあるが、どちらもその再現力はめざましく、感銘をあとあとまで残すものであった。
そして、私は、運命とはいいながら、愚かな指導者に従わねばならなかった大衆の苦悩を身にしみて感じ、指導者の責任の重さをつくづくと感じた。そして、その結果、アムンゼンの偉大さが一層鮮やかに浮かび上がってくるのであった。アムンゼンや徳島大尉は、私達がある対象に目的を持って向かうとき、いかに慎重に取り組まねばならないか、緻密な計画性、果断な実行力、冷静な判断力がいかに大切かを示してくれている。そして、これは何も冒険だけに限らない。学問の世界でも同じなのである。
(完 記1985年11月17日) エラー修正2011年3月15日
村田茂太郎 2012年2月26日
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