文体も常体で書かれています。
随分以前に書いたものです。その後、故立松和平氏が小説”道元禅師”を書かれ、わたしはすぐ購入して読了しました。親鸞は小説化しやすいので、幾人かが小説を書いていますが、道元はどうなのかと思っていたので、とびつくように買い求め、立派な道元が描かれていたので満足しました。道元もそれなりに波乱万丈の人生だったようです。
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私は、まだ道元という宗教的天才について人に語れるほどのものをもっていない。道元入門的な書物を三、四冊読み、“正法眼蔵随聞記”を読んだくらいで、肝心の“正法眼蔵”については、岩波の日本思想体系の完本を少しかじっただけである。しかし、人との出会いという事をについて考えるとき、私は、どの道元入門書にも出てくる最も有名な出会いをすぐ想い起こす。この出会いは、道元という天才の完成になくてはならぬものであった。そのイメージは鮮やかで一幅の絵のようであり、そこに秘められた真理は普遍的な確かさをもっており、何度読んでも、さわやかな印象を残す。それは、道元自身にとっても、そのようなものであった。十四年前の出来事を、道元はまるで、昨日の出来事のように、鮮やかに書き記している。
日本のお寺をめぐって修行し、最終的に中国本土で直接仏教を学ぶしかないと悟った二十三歳の道元は、師の明全と宋に渡った。道元の乗っている船に、六十歳位のひとりの僧が、船に積んであった日本産の椎茸を買いに来た。道元が話してみると、ここから、あまり遠くないお寺の炊事係をしているということがわかった。道元は、僧が、スグに帰ろうとするので、引止めにかかった。こう知りあったのも、よき因縁だから、ひとつ今日は私がごちそうします、泊まっていきなさいと道元は言った。僧が、イヤ、明日の準備のためにどうしても帰らねばならないのだというので、お寺には他に炊事をする人もいるのに違いない、あなたひとりがいなくなっても差し支えないでしょう、と重ねて道元は引き止めた。
ところが、ここから、話しは本質的な次元に急速に移っていくこととなった。僧は、自分は老年になって、この職をあてがわれた、これは、ひとにゆずることが出来ないものだと答えた。道元は驚いて、食事を扱う役目など軽いものと考えていたためか、老僧に向かい、あなたは、もう、お年である、それなのに、坐禅もせず、本を読むこともされていない、炊事係などつとめていて、何のよさがあるのですかと問うた。それを聞いて、この老僧は大笑していった、“外国の好人、未だ弁道を了得せず、未だ文字を知得せざること在り。”つまり、外国から来たお若いお方、あなたは、まだ仏教の修行も理解もご存知でないようだ、といったので、道元はビックリして、全身冷や汗をかくほどの恥ずかしさを感じた。道元は、一応、日本の仏教はマスターし終え、更に奥義を探求するつもりで、はるばると海を渡ってきたのである。
道元は必死で訊いた。“如何にあらんか是れ文字、如何にあらんか是れ弁道。”文字とは弁道とはどのようなことを言っておいでなのですか。その時、老僧は、“もし、問処をサカせずんば、アニ、その人にあらざらんや。”と言ったが、その時の道元には、その意味すら理解できなかった。その問う処を、じっくり考えてみる事が大切だ、つまずいて、じっくり考えてはじめてものになるのだというような意味であった。“もし、未だ了得せずんば、他時、後日、育王山に到れ。一番、文字の道理を商量し去ること在らん。”つまり、もし、それでも解らなかったら、いつか阿育王山に来なさい。ひとつ、ゆっくりその問題を話し合いましょう、ということであった。そして、語り終わって、座を起ち、“日暮れなん。忙ぎいなん。”(日が暮れた、いそぎ帰ろう)とつぶやきながら帰っていった。
その時の道元には、この老僧の言葉が理解できなかった。何でもわかっているつもりで、宋までやってきた日本の秀才道元が、港に着くや否や、炊事係の僧から、大笑され、全く理解できなかったのである。そして、それと共に、彼が努力すべき課題をいきなり、つかまえたのであった。“いかにあらんか、これ文字、いかにあらんか、これ弁道。”つまり、本当の仏教とは何かという問いであった。そして、在宋五年の間に、道元はその本質的な解答を掴む事に成功した。そして、後年に言う、“山僧いささか文字を知り、弁道を了ずることは、すなわち、かの典座(炊事係)の大恩なり。”と。
道元が天童山で修行しているという話しを聞いたこの老僧が、天童山へ道元に会いにやってきた。二人は踊りあがって再会を喜んだ。そして、あの時の、問答のつづきが始まった。“如何にあらんか、是れ文字”(どのようなものを文字と言うのか。)“一二三四五”(一二三四五、これが文字だ、他に仔細はない。)“如何にあらんか、是れ弁道”(なにをもって弁道というのか)それに対して、老僧は“偏界嘗不蔵”(へんかい かつてかくさず)(森羅万象は昔からそのままの姿で何ものもかくすところはない。目の前に存在しているものみな弁道の対象だ。)と答えた。そして、その後、道元は他の高僧とも話し合って、“いよいよ知る、彼の典座は、これ、真の道人なることを”と賛嘆したのであった。
“道元はこれら典座との問答やその真剣な弁道の行為に接し、直理の単純性と偏在性、徹底した自力本願と無常感を媒介とした現実主義、現実の生活即修道という禅の奥旨を如実に体験できたのであった。”(道元=竹内道雄)。“佛祖正伝の道”増谷文雄 も参照。
こうして、道元は在宋五年にして、仏教のなにものであるかをつかみとり、自信を持って帰国の途につくことが出来た。そして、道元の伝えた曹洞禅は、ただに中世芸術の根底となっただけでなく、日本の精神文化の基底となった。
道元と典座の老僧との出会いは、もともと偶然のものであったといえる。それを自己の精神の成長にとって必然的なものとするかどうかは、ひとえに本人の姿勢にかかっている。チャンスは何度もあるに違いない。普通の人は、それに対して、充分な反応を出来る状態にいないため、機会がやってきても、ミスしてしまうのだといえる。それは、丁度、韓愈の書いた千里の馬と伯楽との関係のようなものかもしれない。人との出会いを意味あるものにするかどうかを決めるのは自分である。道元は一炊事係の言葉を、運命の衝撃の言葉として、彼の全身でとらえ、その新鮮な驚愕を一生持ち続け、自己の完成の原点とすることが出来た。
(完 記 1984年5月9日)
村田茂太郎 2012年2月26日
村田茂太郎 2012年2月26日
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