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2/29/2012

高群逸枝<火の国の女の日記>を読んで

九州への旅は高校の修学旅行のときと、20歳のころ霧島韓国岳登山まどをしたときだけだから、もう50年近くになります。小林秀雄の墓は2003年東慶寺に参ることが出来、ひとつの願望は達成しました。わたしの友人は若いころにヨーロッパ旅行をして、ちゃんとイギリスに在るマルクスのお墓に参ったという絵葉書を送ってくれました。わたしにはもうヨーロッパ旅行はできるようには思えませんが、日本への温泉旅行は出来れば実施したいし、九州由布院などの有名な温泉を尋ねるチャンスがあれば、熊本へもたちより、水前寺公園だけでなく、高群逸枝のお墓にも参りたいものです。

 1983年といえば、もう30年近く前になりますが、わたしは本当に真剣に全エネルギーを集中して、中学1年生の国語指導に献身したものでした。この文章を読み直すと、当時の生徒の一人ひとりの姿が浮かび上がります。補習校で週に一回だけであったけれど、日本の学校では学べないものをマスターしてもらおうと必死でした。

 高群逸枝などという名前を聞いたことなどない人が多かったはずですが、この私の紹介の文章ですくなくとも、すごい人が居たものだということはわかってくれたと思います。

村田茂太郎 2012年2月29日

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 私がいつか日本に行く機会があれば、鎌倉の東慶寺にあるという小林秀雄のお墓参りを是非したいと思っている。今度、この<火の国の女の日記>を読んで、完全に彼女の偉大さに魅せられた私は、熊本県松橋町にあるという、彼女の“望郷の碑”も必ず訪れたいし、お墓参りもしたいと思った。
 これは、素晴らしい本である。こんなに感動的な本にはめったに出会う事がない。私が日記や書簡集に興味を持っている関係から、ある日、友人に、題名を見て、興味を覚えて送ってもらう事になったが、それまで、このような本がある事すら知らなかった。読み始めるなり、大きな感動が私をとらえた。友人には早速、感謝の手紙を書いた。

 “日記”となっているが、日記を中心にして、著者の死の一年前から執筆された自叙伝であり、死後、夫の手により完成された。私は、今、この自叙伝を読み終わったばかりで、彼女のライフ・ワークに接していないが、ここに書かれていたことから察すると、彼女の日本歴史上に占める位置は、“源氏物語”を書いた紫式部に匹敵すると言える。彼女の日本女性史に関する三十年に及ぶ緻密で膨大な研究は、まさに天才的といって言い過ぎでない。
 ところが、この自叙伝の魅力は、そういう、彼女の天才性だけにあるのではない。多事多難で波乱に富んだ充実した生涯を鮮やかにも美しく生ききったところにある。実社会の動乱にもまれても、常に天性の気品を失うことなく、純粋な詩魂を維持しつづけ、大きく成長していった、そのまれにみる人間性の美しさが、激しく胸に迫ってくる。私は朝の通勤バスの中で下巻を読了したが、その間、感動に襲われて、何度か目頭があつくなり、時々湧いてくる涙をぬぐわねばならなかった。こんなに感激したのは、本当に久しぶりの事だ。私は高群逸枝を大好きになった。こんな素晴らしい女性が、実在していたということを知ることは、人間としても、男性としても、限りない喜びである。この本は、一人の人間の成長の記録であり、明治から昭和までの社会史であり、そして、夫婦和合の最も美しい記録である。

 高群逸枝は明治27年、熊本県下豊川村に生まれ、昭和39年に70歳で亡くなった。父勝太郎は小学校の校長で、人徳を慕われる暖かい人間性と高い教養を身につけた人であった。この父と母の夫婦愛はきわめてこまやかで、終生かわることがなく、このすぐれた両親の下に育った彼女は、その点ではなによりも恵まれていたといえる。早くから漢学の教養をたたきこまれ、詩才を縦横に発揮した。(この日記には、ほとんど全編に、詩・短歌・俳句があふれている。)彼女は病弱であったため、熊本師範を退学し、最終的には熊本女学校を卒業した。(大学へは行っていない。)
23歳で婚約してから、37歳でハッキリと目標を日本女性史に据えて、孤独な研究生活に入るまでは、お互い(夫婦)の成長にとって、欠くことが出来なかったに違いない激しく劇的な体験がおりこまれねばならなかった。

 二十歳(はたち)そこそこの若さで、一人、西国八十八箇所の巡礼に出て、途中、七十過ぎの老人と連れ合いになって、最後まで貫徹していく姿は、感動的な美しさをもっている。家族・友人との交友の細やかさも、心温まるばかりである。お互いにひと目で愛し合った夫婦であったが、思想も信条も違う夫との生活に調和できず、何度か家をとびだしたりするが、彼女の一途な性格の純粋な美しさと彼女の稀有な才能が、ついに夫を目覚めさせるときが来た。彼女が37歳の夏、夫は自分のこれまでのあやまちを反省し、今後は彼が後援者になり、生活の保証はするから、彼女は自分の長所と才能を生かし、女性史の体系化につとめるべきだと説き、その実行にかかった。そして、一作を生み出すのに七年とか十三年とかという膨大な努力をつみかさねて、三十数年にわたって、それまで誰も手をつけなかった女性史の研究を完成させていった。
 “母系性の研究”、“招婿婚の研究”、“女性の歴史”、“日本婚姻史”と、男女の関係の在り方、家族制度という最も重大でありながら、誰も解明できずにいた問題に、科学的に厳密な解答を与えたのであった。古代・中世の漢文日記や和文日記をすべて緻密に読解していく彼女の、その能力と徹底した方法は、その結果をきいただけでも恐れ入って頭が下がるばかりである。人はその業績をきくと、彼女はガリ勉型のコチコチの魅力の無い女性と判断しかねない。事実は、多感すぎるほど繊細で可憐な、それでいて、単に優れた表現力だけでなく、冷静な分析力と判断力を備えて、しかも、ニワトリの生死に一喜一憂する心優しい女性なのだ。

 <火の国の女の日記>に載っている、いくつかの短歌・俳句などをとりあげてみよう。

そこはかと 美しき山 はびこりて 

焔のごとき 少女なりしか

これは、大人になってからの回想に違いないが、子供の頃の美しさをよく歌い上げている。

コバルトの 空の下なる 明かき野に

手を打ち群れて 父上を待つ                                           〔十三歳頃の作〕

非常に家庭的で、家族そろって送迎をする光景を明るく歌っている。

 巡礼の中でうまれた歌には、感動的な作品が多い。

さびしさは 肥後と豊後の 国ざかい

境の谷の 夕ぐれの みち

双の眸に あふるるほどの なみだして

ゆう日 美(く)わしき 山をみるかな

十重二十重 遠きはとけて 雲に入る

わがこしかたの なつかしき山

秋晴れの すすきの野べの 昼の道

風に吹かれて 物も思わず

 この遍路の日記は、文語文で書かれ、古典的とも言える名文である。

恋愛と結婚、そして、その後の苦悩を経て、彼女の短歌は定型(31文字)から破調(自由律)となる。

人の声 野の声 人の声

道遠く 秋の響す

きょうの日は 暮れぬ

まずよろこばん きょうの日を

父への墓碑銘も、彼女が書いた。

叱られた こともありしか 草の露

母系性の研究“にとりかかった年の賀状に

新年や 机の前に われひとり

書斎日記から

苦しみも楽しみにして むりをせず

生きて行かむと 思うこのごろ

 彼女は日曜も返上して、一日平均最低十時間の勉強を課し、三十数年にわたって実行した。

野ざらしの 心をもちて 勉強す

 ゲーテが“天才とは努力する事が出来る才能だ。”と言ったそうだが、単身、こつこつと難解な古文・漢文にとりくんでいく姿を見ると、まさに至言だと思う。




“学問と花”

学問はさびしい

途中で一二度世間の目にふれることもあるが

すぐ雲霧のなかに入る道

この道を こつこつゆけば

路傍の花が “わたしもそうですよ”という

春は なずなの花が

秋は 尾花が そういう


未知の国へ

永遠に旅するこころ

それこそは

わが生涯の姿である

旅はひたむき

路傍への期待はない

進んで進んで

ぐんぐん進んで

ひたむきに 進み入ろう

雲白い 未知の国へ


 これらは、前人未到の探究へ踏み出した自分を励まそうとした詩である。

 幸いな事に、彼女の労作は、生前から評価され始め、日本はもちろん、世界の国々にまで彼女の名前と業績は知られるに至った。彼女が生まれた町は、彼女を文化功労者として表彰し、後に彼女の作った“望郷子守唄”の碑を建てた。日本のあらゆる女性運動は、その女性解放への理論的根拠を解明したものとして、高群逸枝に最大の敬意を払った。

 しかし、今にして、ふりかえれば、ただ単に高群逸枝一人が偉かったわけではない。自分の妻の偉大さを誰よりも早く発見し、この人のためには自分は捨石であっても良いと考え、それに徹する事によって、妻の天才の開花を成功させた夫、橋本憲三の彼女への愛なくしては、すべてが空しく終わったに違いない。はじめから、しっくりと合っていた訳ではないこの二人の愛が、お互いの成長を通して、夫婦一体といった真に美しい和合のあり方を示すに至ったのは、真に賛嘆に値する。

 二十歳の橋本憲三は、はじめて高群逸枝に逢った感想を次のように日記に記した。

“昨夜は人間の普通の概念と見かたでは表現する事のできない女性に出会った。彼女は異様に美しかった。はっと心を躍らすものがあった。その特徴は、けがれを知らないその瞳にあらわれていた。・・・自分はこの娘と生涯結び付けられるだろう宿命を直観した。そして、なぜか、われにもあらず、せんりつを禁じ得なかった。これは、自分の二十年の生涯にはじめて与えられた、いわば運命の恩恵とでもいうべきものかも知れない。この恩恵を生涯けがさないことを、ここに、正直に誓っておく。”

 そして、逸枝37歳の夏、憲三は逸枝に言った。

“あなたは、長い間、私に従順であってくれた。あなたの持っている才能などは惜しげもなく、いってきして、それとはまったく裏腹な、売文稼業で、家計を助けるため、自己の能力をすりへらしても悔いはなかった。・・・あなたのなかに、あなたの本来の火の国的な炎のような個性や高貴な才能や、あなたの全面的に人をはっとさせる野生的な美貌―これらの抑圧されていたものが、一時に輝き出た事は、まさに驚嘆すべき現象だったと思う。・・・それは、私をまったく魅了するものだった。私はそういう名状しがたい、しかも、ふだんは隠されている本来の美質をもったあなたを絶対に失いたくなかった。私は跪いて、あなたのしもべになっても悔いるところがないと思った。どんなことをしても、あなたを手放したくなかったのです。・・・あなたの才能は非凡だ。稀有のものだ。それは、むしろ、天来のものだ。私はそれをこの目で見てきた。才能のみでなく、性格の底知れぬ純粋さも。それは、私が八代駅の出会いで見た最初のあなたの印象とすこしもかわりがないものだ。・・・あなたの長所と使命とは、長い年月、あなたのなかに蓄積せられてきた、女性史の体系化だ。生活は私が保証する。”

 そして、そのあと、憲三は自分の誓いを忠実に守って、彼女の天才の開花のために献身して悔いを感じなかった。二人の愛は、ますます純粋になり、透明になっていった。

(完                  記 1983年9月22日) 

村田茂太郎 2012年2月26日

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