心霊現象の科学をめぐってーその2
前回(2月24日)、仏教のいう”あの世”、そして臨死体験、小林秀雄の”不思議を不思議と認める素直なこころ”などについて述べ、最後に”魂”について次回、展開すると予告しました。
今日は、たましい について、今の段階のわたしの感想を述べる事になりますが、その前に、導入部として、ふたつのケースをご紹介しておきたいと思います。
ひとつは、わたしの文章ではいつもでてくる小林秀雄のケースです。小林秀雄が亡くなった時、雑誌”新潮”に5年にわたって、56回連載された”感想”という評論が未完で終わっていたのを、遺言で全集には載せないと表明され、それが実行されていました。ところが、すでに雑誌には5年にわたって公表されていたものなので、製本にされなくても、この”感想”について論及する学者・批評家は出現するわけで、平成17年、新潮社は遺族ともよく相談した末、あらたな小林秀雄全集に別巻1,2として出版する事にきまりました。
わたしも手に入れたいと思っていたので、本屋で見つけたときにすぐにとびついて購入しました。この”感想”はベルグソン論といわれていて、小林秀雄が愛読したフランスの哲学者ベルグソンをめぐる”感想・評論”なのです。
その第一回目の文章が、ここで述べるケースにあたります。この最初の文章については文芸評論家の秋山駿が次のように述べています。これは同じ全集別巻3からの引用です。
「今度の全集には、別巻としてだがベルグソン論”感想”が収録されたので、私はたいへん嬉しかった。冒頭の第一章は、非凡な文章であって、私はこれに匹敵するものを、他のあらゆる文芸批評の中に見出さない。」
わたしがこの小林秀雄の第一章の文章を要約しながら紹介してもよいのですが、せっかく、秋山駿がエッセンスをDigestしながら展開しているので、そのまま引用させてもらいます。
「母親が死んだ数日後、外へ出ると、眼の前に、蛍が、”おっかさん”が飛んでいた。曲がり角で、蛍が見えなくなると、近所のいつも見慣れている犬が、烈しく吠えかかり、踝に咬みつく。すこし歩いていくと、男の子が二人、火の玉が飛んだ、と言って傍らを駆け抜ける。二ヵ月後、水道橋駅のプラットフォームから墜落したが、奇跡的に助かり、”母親が助けてくれた事がはっきりした。” その”経験”を持ち扱いかねたまま、治療で五十日ほど温泉宿へ行き、学生時代から愛読してきたベルグソンを読むと、一種の楽想のようなものが、経験の反響の中で鳴った。やがて、ソクラテスのダイモンという不思議な内的経験がこの楽想と共鳴し、ベルグソンの遺書を読んで、この二者が、一致するところへ至る。
”諸君、驚くべき事が起った。私のダイモンは沈黙して了った。”
短い文章の中で、蛍を見るという日常の具体的行動が、そのまま生の不思議な深刻さを奏でながら、一直線にソクラテスのダイモンへと到る。見事なものだ。
そこから、”感想”は始まる。」
秋山駿の文章はもう少し続きますが、それは省略させていただきます。
ここで、小林秀雄が蛍を見て、お母さんの魂がとんでいると感じたこと、そして、いつも慣れ親しんで、かみついたことの無い犬が、くるぶしに咬みついた事、最後にふたりの男の子が火の玉が飛んだと言って駆け抜けたこと。これが私が小林秀雄のケースという例です。
長くなるので、ここでいったん切って、次の文章で続けます。
村田茂太郎
2012年2月25日
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