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2/26/2012

“ビルマの竪琴”オリジナル映画=感想

旧い映画の感想だけでなく、カミュの”ペスト”の感想まで、そしてわたしの国語教育論までが述べられています。あらゆる機会に、高校国語、特に古文・漢文学習の重要さを指摘しようとしたことがわかります。文末は常体で統一されています。

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     高校1年生のときであっただろうか。講堂で、全員が、映画“ビルマの竪琴”を鑑賞したのは。その頃の私は、きっとそのような世界とは無縁な地平にいたのに違いない。今から考えると、特に感銘を受けたようには思えなかった。原作者 竹山道雄が、当時、保守的或は右翼的な意見を吐いていたので、私にはしっくりと納得のいかないものがあったせいと思われる。それゆえか、当時、新潮文庫にいくつか竹山道雄の本が出ていたが、私はどれも買って読まなかった。大学時代にニーチェの主著“ツアラツストラかく語りき”の翻訳として、安くて手頃な文庫本として、仕方なく、新潮文庫の竹山道雄訳を買ったときも、私は気がすすまなかった。今から思えば、それほど、私は何らかの理由で、竹山道雄に対して偏見を抱いていたといえる。その後、“ツアラツストラかく語りき”は、日本語として得られる最高の名訳である事を、私は自分で確認し、竹山道雄という人物を見直したのであった。この竹山訳“ツアラツストラ”は、天分豊かなニーチェの詩と哲学との融合の名著を格調高い日本語に移したものであった。
  ここでも、現代口語表現というものが、文語の古典的表現にはるかに及ばないという重要な言語美の問題が露呈されている。これは詩人茨木のり子が感じているように、現代口語文は、使用され始めて、たかだか百年の歴史であり、千年以上の歴史を持つ古典文語文の美には、今のところ、とうていかなわないのは当然ということかもしれない。或は古典(古文・漢文)的表現を切り捨てたところに、まともな日本語は成立しないということかもしれない。私は、いよいよ、現代口語文に熟達するには、古文・漢文に習熟するしかないという逆説的結論に到達する事になった。従って、私は、学習意欲のある人や、まともに国語を勉強する気のある人には、古文と漢文を基本から徹底的に勉強する事をすすめる。将来の日本を担う人々が、古文や漢文を解さないとしたら、それは単に古典の破壊だけではなく、現代日本語の破壊にそのままつながり、ますます語彙が貧弱になり、表現が汚くなっていくのは“火を見るよりも”明らかな事である。竹山道雄訳の“ツアラツストラかく語りき”を読んだ事を思い出し、今、そのように思う。

  さて、今回、この、昔見た、“ビルマの竪琴”をじっくりと見直す機会がやってきた。女房が、友達からすすめられて借りてきたビデオが、“ビルマの竪琴”であった。最近、また製作されたとの話であったので、新しいほうかなと思って見たが、やっぱり古い方であった。昭和31年日活製作市川昆監督の白黒映画である。今回は、じっくりと見ることが出来、はじめて私はこの映画に感動した。ストーリーは単純明快である。

  この映画はいくつかの角度から見ることが出来るに違いない。魂の救済をあつかったものとかといった風に。私は、この映画をかなりよく理解する事ができた。そして、今回、この映画から感じ取った主題とは、ある物事を知ってしまった人間の実存的孤独というべきものであった。ある体験をし、ある現実、ある情況、ある社会を覗き見てしまった人間、いったん或る世界を認識してしまった人間は、もうそれ以前の自分とは同じでないし、元に戻れない。認識者の孤独であり、ただ彼はひたすら彼の運命の指示するところに従うほかない。こうした、ある種の極限状況に関しては、アルベール・カミュの名作“ペスト”にも、みごとに描き出されている。

  恐ろしいペストに襲われたアルジェリアの都市オラン。そこに、たまたま巻き込まれたフランスの新聞記者ランベールは、最初は、自分はこの街とは関係ないのだと主張し、封鎖を破ってまでオランを脱出しようと試みる。ペストが次々とオラン市民を襲い、主人公のリウやタルーは献身的に救済に奔走する。毎日、膨大な死と接し、ただただ献身的に働く人たちの姿を見ているうちに、ランベールの心の中に変化が起きていた。愛する、パリの女のもとに帰るためには、不法も厭わぬつもりでいたランベールだが、いざ、ペストも少しおさまり、関係部外者の出国が許可される事になったとき、遠慮しなくても良いとすすめるリウに対して、ランベールは“しかし、自分ひとりが幸福になるということは、恥ずべきことかもしれないんです。”と応える。“彼は・・・愛する、その女に会いにとんでゆこうとしていたあの自分に出来れば戻りたいと思った事であろう。しかし、彼はそれが、もう不可能であることを知っていた。彼は変わったのであり・・・”。

  ここで示されているのは、ランベールもまた、ペストという極限状況のもとで、献身的にペストと闘う人々の中に、人間の愛と生の意味をはじめて見出し、そして、いったん意識されたこの認識は、もう心の深部に巣を作ってしまって、消え去らなくなったということである。従って、ランベールは、もし、今、オランを去り、フランスの愛人のもとに帰っても、こうして、オランで、自分の命を投げ出して、人類のためにペストと闘っている人が居ると思うと、それは、愛する人を愛するうえに邪魔になるだろうと考える。彼には、もう、ペストが他人事ではなくなったのであった。

 (静岡大学時代の読書の中で、私は三冊の本から大きな影響を受けた。ロジェ・マルタン・デュガールの“チボー家の人々”とサン・テグジュペリの“人間の土地”そしてアルベール・カミュの“ペスト”である。みなフランス文学であり、私が京都大学を目指したときに、古代ギリシャ文学かフランス文学かと思っていたのも、その辺の理由による。)

  さて、原作は知らないが、映画“ビルマの竪琴”は、荒涼とした風景で始まり、同じ風景で終わる。“ビルマの土は赤い、岩もまた赤い。”という説明(?)が、同様、初めと終わりを飾っている。“初め”はともかく、“終わり”まで来た視聴者は、イヤでも、なんとなく、その土のあかいのは、ビルマの山河に散らばる無数の屍体のせいだといわれているような気がしてくる。

  ところで、この映画は戦争が主題なのだが、みなよく歌を歌うせいで、なかなか愛嬌がある。ナレーターはいう、“我々はよく歌をうたいました。隊長が音楽学校出の音楽家なのです。”と。ビルマ戦線を放浪していた井上小隊は、疲れると“旅愁”を歌い、“埴生の宿”を歌った。そして、その時、いつも隊長は水島上等兵に、得意の竪琴での伴奏を頼んだのであった。日本が戦争に負け、降伏してしまっているのも知らなかった彼らは、あやうく、イギリス兵に一斉掃射されかかった。その危機を救ったのも、隊長指揮する歌であり、なによりも水島上等兵の奏でた“埴生の宿”であった。イギリス兵たちも“埴生の宿”(Home Sweet Home)は、よく知っていたからである。

  停戦降伏し捕虜となった小隊はムドンに送られる事になった。イギリス兵から、いまだに抗戦している地域へ説得工作を頼まれた隊長は、水島上等兵にその説得を頼んだ。水島上等兵は、その後、ムドンには帰ってこなかった。説得は失敗し、自分も攻撃され、重傷を負ったところをビルマ僧に助け出された。その後、僧の姿になってムドンに向かった水島上等兵は、山や谷にちらばる無数の日本兵の屍体を見つけた。いくつかを埋葬したが、あとは祈るだけで通りすごして、ムドンに辿りついた。明日は収容所のみんなに会えるのだと心いさんでいた夜、たまたま、イギリス軍の看護婦達が戦病死した日本人兵士を無名戦士の墓に丁寧に葬る光景を目撃した。これが、まさにこの映画の中での、水島上等兵にとっての最大の啓示でありショックであった。

  彼は、自分が目撃した、ビルマの山河に散らばる無数の日本兵の屍体を想い起こし、自分が葬りもしないで通り過ぎてきた、みじめな遺体の数々を想い起こした。そして、その時、水島上等兵は、このあわれな日本兵の無数の屍体を全部葬る事がこれからの自分の仕事なのだと自覚したのであった。

  井上小隊はアチコチで、肩にオウムをのせた日本人らしきビルマ僧を見かけるが、それが水島上等兵なのか確信がつかない。人からきいたところでは、例の三角山の戦いでは、日本兵はみんな死んでしまったらしいという。隊長は責任を感じているのか、ともかく、真相を知りたいと願う。隊員達はあのビルマ僧が水島なら、どうして隊に帰ってこないのかと疑問に思う。そのうちに、隊長は、ビルマ僧が水島上等兵であり、彼は自分が送った三角山和平工作とそれ以降の体験によって、僧侶になり、隊と一緒に日本に帰国する気はないのだと悟る。日本帰国許可が出され、喜びに包まれた井上小隊だったが、一つだけ心残りがあった。みんなは歌を歌えば水島がやってくるのではとうたいつづける。アスは出国という日、一人の日本兵が“来た”と告げた。みなが鉄柵に殺到すると、ビルマ人の子供をつれた例の若い僧ががひっそり立っていた。みな、それでも、まだそれが水島上等兵のかわりはてた姿だとは確認できず、それで、みんなで、こわごわ“埴生の宿”を歌い始めた。子供がかかえていた竪琴で伴奏しようとした。僧は子供から竪琴を受け取って、いつもの巧みな調子で、“埴生の宿”を演奏した。みんなはやっと水島上等兵なのだと確信し、大喜びすると同時に、なぜ、そのようによそよそしく立っていて、一緒に帰ろうとしないのかわからず、困惑していた。すると、その時、僧は竪琴で“あおげば尊し”を演奏し、それが終わると、一礼して去っていくのであった。みんなはあっけにとられていた。隊長だけは、離れたところで、わかりきったことと受け取っている風であった。出立の日、水島ビルマ僧からの手紙が届けられた。早く読んでと迫る部下達に、隊長は、今はスグ兵舎をでなければならず、時間がない、あとで船の上でと継げる。隊長には、読まなくても水島が日本に帰る気はないことがわかっていた。ただ、水島自身が、みんなに納得の行く説明をしているのに違いなかった。船の上で、隊長は読み上げた。涙ぐむものも居た。そして、それぞれは、それぞれの思いに耽るのであった。

  ビデオは次の日も、まだ家にあったので、私は一人でもう一度見た。同じ映画を厭きずに続けてみたのは全くの久しぶりの出来事であった。二回目もやはり感動した。こんなに素晴らしい映画なのに、どうして高校生の時には特別な感動を覚えなかったのであろう。私も人生の無常を体感する年になったからなのか。私自身の体験が、より理解と共感を高めたからなのか。映画の中で、みんなが力いっぱい歌を歌っていたのも気持ちよかった。私の好きな“あおげば尊し”が主人公と他の兵士達との正式の別れの曲をなしているのも良かった。そしてまた、素朴で真実味を帯びたホンモノのビルマの僧が、ボソボソと無情を述べるのも味わいがあった。

  ビルマの赤い土と岩だけが永劫の存在で、日本兵もイギリス兵もビルマとは関係のない侵入者であり、ビルマ人から見れば、真にむなしい戦争とその犠牲者でしかなかったということであった。ただ、私はよく知らないが、ビルマでは僧侶は尊敬されていたようで、主人公が僧侶姿になって放浪する先々で、僧侶である事によって、食物を恵まれ、寝所を提供されるのを見て、聖なるものへの民衆の尊崇意識というものの良い面を見たように思った。わが国の中世の僧侶達も、民衆の中に入り、民衆によって生活を支えられながら、彼らの宗教を鍛え、自分を鍛え上げていったのであった。

  苦悩と悲惨に満ちたこの人生。戦争を体験し、人間が愚かさによって空しく滅んでいくのを目撃しなければならなかった主人公水島上等兵が、すべてが終わったあとでも、なぜ、他の隊員たちと日本に帰国できなかったのかは明らかである。今の私はよく理解できた。きっと、高校生の時には、その辺の内的必然性が理解できなかったに違いない。私は京都大学時代のベトナム反戦運動など、一連の学生運動を通じて、認識と孤独という問題を自分なりに体験したのであった。

  この映画はいろいろな角度から眺められるに違いない。私にとっては、明白に、絶対認識者の実存的孤独、その苦悩と実践というテーマが、この映画の主題であった。全編、歌で埋まっていて、特におもちゃの帆立舟のような形をしたビルマの竪琴がかなでる“埴生の宿”はストーリーの上でも、キーノートをなしており、単純だが、うまい構成で、私はその単純さをしみじみと味わう事ができた。名画だと思う。
(完   記 1986年1月30日)

村田茂太郎 2012年2月26日

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