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2/29/2012

“アナバシス”の魅力

わたしはこのブログの場を非常にありがたいと思っています。
拙著一冊を出版するのに二倍以上のエッセイ集のなかから、どれを択ぶかで苦労しました。本から洩れたものは、第二作目になどと思っていましたが、このブログで発表してゆけば本にする必要はないとわかりました。そういうことで、このブログをOpenして、Word Fileのコピー・添付の仕方を教わってから、もうすでに大分、ご紹介いたしましたが、これからも同じようにさせていただくつもりです。

 あさひ学園で生徒指導中、随分いろいろなテーマで文章を書いて生徒諸君に紹介してきました。何にでも興味を持ってもらおうという気持ちからです。あさひ学園を途中でやめてエルパソの会社に就職したとき、たった3ヶ月でやめることになったけれども、小学6年生の社会科で日本の歴史を担当していたので、わたしはあさひの図書の日本歴史関係の本をたくさん読み、自分の子供のころを思い出しながら、毎週、プリントで自分の感想を交えて、文章にして、子供たちに指導していました。翌年、エルパソから休暇訪問でロサンジェルスにきたとき、あさひ学園を訪問しましたが、私の姿を見つけて駆け寄ってきて、”先生、ばっちりでしたよ”といってくださったお母さまがいました。何のことかというと、わたしの3ヶ月の日本歴史指導で、本当に娘が日本の歴史に興味を持ったということなのです。わたしは自分の意図が実現していることを知り、嬉しく思うと共に、膨大な時間をかけて文章をかいてきたのも無駄ではなかったと知って満足しました。

 この文章もギリシャ史の周辺への関心を意図して書き上げたものです。1985年の文章。

村田茂太郎2012年2月29日

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 私は最近(1985年)、クセノフォンの名著“アナバシス”が京都大学の松平千秋名誉教授の手によって、ようやく翻訳され、出版されているのを知った。ヘロドトスの“歴史”の翻訳が三種か四種でていたりして、日本のギリシャ学会のレベルの高さをうかがわせる現象であると同時に、なぜ、もっと早く翻訳紹介されているべき、この“アナバシス”のような傑作が、簡単に読者の手に入らないのかという奇妙な日本的現象を私は腹立たしく思っていたが、ようやくホッとした。

 “一万人の退却”とも呼ばれているこの“アナバシス”は、歴史の書であるが、同時に文学書であり、政治と戦争と人間に関する書でもあるという、きわめて興味深く豊かな内容をもっていて、ギリシャ・ヘレニズム文化研究の必読書であるだけでなく、単なる読み物としても最高のものに属する。マケドニアの若き王アレキサンダーにとっては、“アナバシス”は、ホメーロスとともに、座右の書であったのであり、ほとんど空んじるほど読み親しんで、この本を通してペルシャ政体の内奥を理解し、大帝国建設をすすめるに至ったわけで、ある歴史家などは、この“アナバシス”なくしては、アレキサンダーも大王として成功することは出来なかったであろう、などと言ったほどである。それほど重要で面白くすばらしい古典的名著が、翻訳の盛んな日本で、なぜ、今まで、ほったらかしにされていたのか、私には腑に落ちない。

 クセノフォンは、プラトンとほとんど同じ世代で、有名なソクラテスの弟子のひとりである。高邁なプラトンの描いたソクラテス像とは少し異なるが、より忠実といわれる“ソクラテスの思い出”(メモラビリア)の作者でもあり、すぐれた軍人であり、歴史家である。

 約30歳の頃、ペルシャでは大王アルタクセルクセスに対して、その弟のキューロスが反逆しようとしていた。紀元前401年の事である。人徳の高いキューロスは、最強の誉れ高いギリシャ人の重装備歩兵軍団約1万人を雇い入れ、総勢10万人で、兄アルタクセルクセスに攻撃を加えようとした。そのギリシャ人軍団の一人として、クセノフォンも招かれて参加する事になった。ところが、内地の砂漠に向かっての半年近い行軍の後、キュナクサの戦いで肝心のキューロスが、あえなく戦死してしまい、戦いに敗れて、傭兵部隊であるギリシャ軍1万は、敵地の中で孤立してしまった。敵のペルシャ軍は、ギリシャの将軍達をだまし討ちで次々と殺していった。仕方なく、兵士達は必死の退却をするために、新たに何人かの将軍をえらばねばならなかった。クセノフォンも、そうして選出された将軍の一人であったが、卓越した指導力を発揮して、実質的にはギリシャ軍総退却の総司令官となったのであった。

 海にとり囲まれて生活してきたギリシャ人にとって、砂漠の内地や蛮族に取り囲まれた未知のアルメニアを通過していく事は、大変な苦労の連続であった。いくつもの悲劇を体験し、また、自らのギリシャ軍も通過の途中で悲劇の種を蒔いて、何ヶ月かあと、やっと黒海に到達し、なつかしのギリシャ帰還の目処がついたときには、1万人を超えたギリシャ軍団は約半数近くになっていた。でも、ともかく、ペルシャの砂漠の真っ只中で、全滅の危機が迫っていたとき、クセノフォンたちの冷静な指揮で、6千人といえども、無事、帰ることに成功したわけであった。

 この冒険譚には感動的な箇所が沢山出てくるが、私が最も感心したのは、ギリシャ兵士達の社会意識の高さであり、どの兵士ももつ市民としての水準の高さであった。彼らは公平に自分達の中から、優れた指導者を選出し、それに従って、行動しながら、時には堂々と批判をする。誰もがすぐれた兵士であり、市民である才能を発揮しながら、ギリシャ軍全体の安否を気遣う。自由で大らかな意識が横溢しており、精神の健康さをそのまま感じ取れるような生き方である。文体は簡潔で的確であり、無駄な叙述は無く、テンポの速さと適度の会話で、素晴らしい表現を生み出している。自己を第三人称で客観的に叙述して、緊迫したムードを生み出している。戦記文学中、古典の最高峰といわれている有名なカエサルの“ガリア戦記”は、まちがいなく、クセノフォンの”アナバシス“から、沢山のものを学んでいるといえる。

 未知の敵地を手探りで辿らねば成らなかった孤立したギリシャ軍1万人の苦労は大変なものであった。クルデスタンで二人の男をつかまえたクセノフォン達は、道をたずねた。ひとりの男は、どんなにおどかされても知らないと言いはったので、役にたたないとみなし、ギリシャ人たちは、もう一人の男が見ている前で殺した。生き残った男は、どうして此の男が道を知らないと言ったかを説明した。ギリシャ人たちが行こうとしている村には、その男の娘が嫁いでいたのだった。

 長い間、敵地の砂漠や荒原や山間部をさまよったギリシャ人たちが、ようやく黒海にたどり着いたとき、兵士達の歓声が響き渡った。”海だ。海だ。“(ヘータラッサ!へータラッサ!)。海の男ともいえるギリシャ人たちにとって、1年近くにわたる困難な遍歴の後、初めて見出した海は、故国にすぐにつながっているように思われ、兵卒も将軍もともに抱擁し、涙を流して喜んだのであった。

 また、一方では、ギリシャ軍達に好意を示す村落もあれば、敵対する村々もあり、気の休まるときは無かった。ギリシャ軍数千に襲われると悟ったある村では、絶望的になった女達が子供を抱いて高台の上から次々と飛び降り自殺を遂げるという光景にでくわしたりもした。

 また、雪中行軍の途中、そのまま眠りそうになった男達を、クセノフォンがたたいて叱り付け、そのときはそれで事なきをえたにもかかわらず、後で、将軍の行動として部下の兵卒を殴りつけたのはけしからんと非難され、罰則を要求する声に出会う事になった。クセノフォンは、落ち着いて、自分が何故そういう行動をしなければならなかったかを説明した。この本を通じて、クセノフォンは沈着・勇気・冷静・知性を発揮し、私達はギリシャ人の文化の高さをまざまざと感じることになる。紀元前400年ごろといえば、ギリシャは衰退期に入ろうとしており、最高の知識人ソクラテスを、いいかげんな理屈をつけて毒殺しようとしている頃であった。

 そして、‘この“アナバシス”の中に、私達は、当時の社会や風俗だけでなく、生きた人間達の心の動きを鮮やかに読み取る事ができる。ギリシャ市民の長所も短所もあきらかである。この本を読み終ったとき、私達は偉大なギリシャ悲劇を読み終わったように感じる。それは、きっと、没落するギリシャがもつ悲劇であり、その魅力であろう。そんな中で、クセノフォンの行動はひとり生彩を放っていて、いつまでも心地よい印象をとどめる。アレキサンダーが好んだ理由も納得できる。

(完                  記 1985年12月4日) 村田茂太郎

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