海外子女にあたるあさひ学園の生徒の多くは日本に帰国するはずなので、いじめ問題はわたしにとっても他人事ではなかったのです。
いろいろなエッセイで取り上げていきましたが、ここでは教師の問題について考えてみました。
1986年の話です。しかし、今もいじめは起きていますから、旧い話ではありません。
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ともかくも、最近のように小・中学生が簡単に自殺するような情況というのは好ましくないので、私も最近、その対策を私なりに考えて文章化してきた。1986年2月現在。
“いじめと自殺”においては、本人(被害者)の問題に触れ、“生きる責任の自覚”、“艱難に対する忍耐”、“苦境の中での強固な意志”といった点を拾いあげた。“人間と孤独”においては、苦境に耐える原点としての“愛と理解に満ちた家庭生活”といったことについて簡単に触れ、“差別と日本人”においては、加害者の意識に対して“寛容の精神”を要求した。“いじめによる自殺”は一人で起きる現象ではなく、本人・家族・仲間(加害者)・教師のすべてが関係したところで発生する問題であり、一つだけとりあげて非難し、強調しても、それは片手落ちを免れない。ここでは、“教師”について、私の考えるところを述べてみたい。ただし、私のようなパート・タイマーが本職の教師を批判したりするのは気が引けるので、簡単に、こうありたいという希望を記すに留める。ここは、補習校であり、全日制の学校とは違うので、その点も柔軟に解釈しなければならない。
全日制の学校である日本の小・中学校においては、まず義務教育でもあり、毎日、生徒と接触している時間も多いので、学校での指導が非常に大切な役目をもっている。小・中学課程においては、学校は単なる学習の場であるだけでなく、より広く深い意味での“人間教育”の場である。従って、教師は生徒指導に当たり、自信と信念をもって生徒と接することが重要である。学習指導においては教師は産婆役であることが望ましいが、道徳指導・生活指導といった面においては、はっきりと正しい指導をおこなう事が必要である。
社会の決まりや学校の決まりについて、よくわからない場合がありうるわけで、それを生徒の勝手な判断に任せることは、子供にとって負担となるはずの買いかぶりであり、指導放棄でもある。特に、親も気づかずに過ごす傾向があるところの子供の集団の中での反応に対しては適切な処置をとる必要がある。
小・中学校における教師の責任というのは非常に大きいわけである。教師による正しい指導として私は次のようなものを考える。適切な対応、公平な態度、敏速な処置、問題の掘り下げと根底からの解決、真剣なコミットメント、オープンな問題提示など。そして、何よりも大切な前提は、子供に対する愛と理解である。指導としての“叱り”と“いじめ”の区別などは、自信を持った誠実で真剣な教師においては問題にもならないはずである。子供はその違いを理解するくらいの鋭敏さは備えており、本当に大切な指導においては、遠慮なく叱るべきであろう。
そして、もちろん、自分がタバコを学校で吸っていて、生徒に禁止するというのは、効果のないしかり方であり、当然、教師たるもの、学校では禁煙を励行しなければならず、何事についても同様である。大人の特権などをふりまわす教師は、生徒の信用を得ることが難しいに違いない。小・中学校においては、教師は生徒の鑑としてふるまわなければならないのである。これが、義務教育をはずれた高等教育との違いとも言える。
小・中学においては、子供が社会人として生活していくうえで必要な礼儀作法や道徳指導といったものが完成することになっているのである。社会に出て、まともに生きていけるだけの規律を身につけた人間を生み出すわけである。ともかく、どちらかといえば、学校側・教師側から積極的にコミットしていかねばならない点、学習指導に重点をおく高校教育と異なる。
高校は義務教育外であり、生徒はそれぞれ真面目に学習するつもりで入ってくるのだから、本来なら、指導・補導の問題などは起きないはずである。従って、高校では、教師は自己の教育レベルを高めるように努める事がまず第一の課題である。内容のない教師というのは、バカにされ、従って、他の問題においても指導効果を発揮しえない。
そして、もし、高校生の抱えている諸問題が生徒の側から提示された時には、ソクラテス同様、対話の中に踏み込んで真剣に考え、悩み、よき理解者・よきアドバイザーにならねばならない。中高生というのは、丁度、反抗期を迎え、適切な対応が何よりも大切である。どの時期であれ、何につけ、教師の生徒に与える影響は膨大であり、責任は重大であるので、全力を投入しなければならない仕事である。しかし、それだけに、努力に報いられるだけの反応があったときの喜びも大変なもので、生き甲斐を感じるという表現も嘘ではない。親も教師も生徒も、教育に熱心であれば、問題など発生しないに違いない。ただし、教育は“人間教育”のことであって、自分の子供も正当に評価できず、子供に一方的に学習を押し付ける、悪い意味の教育ママ的教育は、実は教育ではない。
従って、“いじめ対策”としての教師の在り方は、生徒との対応における真剣さ、問題への理解、迅速な反応、公正な指導などがあげられるが、それ以前に、よく生徒を観察し、親しく付き合い、生徒の信頼を得ていれば、それだけよく生徒を理解できるわけである。そうなれば、問題など発生しないはずだし、発生してもスグに気がつく筈である。何事も迅速に、そして適切に対応すれば、不幸な結果は招かない事は確かである。
それから、子供を好きでない人は、絶対に教師になるべきではない。子供が好きでないと、何かにつけ適応がうまくいかず、問題が発生するもとになる。以前、アメリカの“文学”の教科書をのぞいていたら、“詩”の指導のところに、“詩”のわからないひとは教えるべきでない、少なくとも、“詩”の好きな人でなければ教えるべきでないとハッキリ書いてあって、なるほどと思ったものだが、同様、子供を嫌いな人は絶対に教師になってはいけない。教育は知識だけでは不十分で、なによりも愛情が大切である。愛情に欠けると理解も出来るはずもなく、子供達の要求に対応しきれない事になる。このことは、低学年の指導においては特に重要である。
さて、補習校においてはどうか。補習校における学習の心構えといった注意点に関しては、私は既に何度もアチコチで書いてきた。週一度の学校なので、全日制の日本での学習と同じように考えていたら、どんなに日本で優秀であった子供でもダメになるのはわかりきっている。学習には、集中による理解、反復による確認、継続による定着という三つの過程が必要なのに、その一部でも欠けると、その時はわかっていても、根付いていないので、しばらくたつと忘れてしまうというケースが発生しやすい。
そこで、日本の情況とも違っている事をよくわきまえて、親は子供の学習態度をよく見守ってやり、適切な援助を施す事が望ましい。子供を見守るのは親の権利でもあり、義務でもある。干渉ではない。自信を持って指導する事が必要である。結局、補習校では、教師が生徒と接触する時間がわずかであり、それだけ指導力も日本に比べて減るわけである。一番長い間、子供と付き合っているはずの母親が、適切な指導をするのでなければ、まともな成長はおぼつかない。
特に、日本語の力というもの、国語力を見れば、母親と子供との関係の在り方がハッキリとわかるといえるくらいに、国語指導に果たす親の影響は強い。母親の権利を放棄して、子供になめられ、子ども自身の国語力の低下を生むようなことは厳重に慎まねばならない。何度も言ってきたように、補習校というか海外子女の教育は、完全に、生徒・親・教師の三者が一体となって尽力する中で、まともに養われていくのであり、そのいずれが欠けても問題をのこす。
そういうわけで、補習校においては、学習指導が中心であって、生活指導とか道徳教育は家庭の課題となる。親を見れば子が解り、子を見れば親がわかるというおそろしい現実をよくわきまえれば、家庭での指導の大切さも充分納得できる筈である。最近の子供で驚かされたのは、教師に注意されても恥ずかしくも何ともなく、平気なことである。“けじめのなさ”も重要な問題だが、教師に注意をされて、平気で居るというのは異常である。“同じ過ちは二度としない”ぐらいの意志と誠実さはもっていてほしいものだ。思いやりとか、まじめさとか、誠実さがない子供っていうのは、バケモノではないか。いくら頭が良くても、そんな人間は人間とは呼べまい。真剣な反省が望まれる子供が沢山居る。
(完 記 1986年2月27日) 村田茂太郎 2012年2月28日
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