「ワーグナーとニーチェ」Dietrich Fischer Dieskau を読む
ディートリッヒ・フィッシャー・ディ-スカウ といえば、私の学生の頃(1960年代)ドイツを代表する世界的なバリトン歌手として、有名であり、シューベルトの歌曲“冬の旅”全曲など代表的なレコードで知られていた。
そのバリトン歌手がこの「ワーグナーとニーチェ」という、どちらかというと哲学的な著作を著しているということで、最初はチョット意外な気がしたが、考えてみれば、ドイツの歌手がドイツ語で活躍したドイツ人の二人の天才の交友に絶大な関心を抱いても当然なのだ。
ヨーロッパでは小説家が本格的な哲学書を書いたりして、日本ではほとんど考えられないケースがときどき発生する。フランスの、小説と映画“地下鉄のザジ”で有名な作家レーモン・クーノーがフランスでのイポリットによるヘーゲル哲学復興の一翼を担っていたり、同じく小説家ピエール・クロソウスキーが「ニーチェと悪循環」という本格的なニーチェ論を書くなどということは、外国で起こりうることで、日本ではほとんど不可能に違いない。小説「嘔吐」や「自由への道」そしてたくさんの演劇で活躍したサルトルが、重要な哲学書“存在と無”ならびに“弁証法的理性批判”をあらわしたのは言うまでもないことである。ドイツでは有名な詩人のハインリッヒ・ハイネが邦訳名「ドイツ古典哲学の本質」という面白い哲学書をあらわし、ドイツ古典哲学の持つ革命的本質を見抜いた本としてマルクスたちから賞賛されたりした。
日本では、ひとり小林秀雄だけが、彼が心酔したベルグソンと対決し、未完で終わったとはいえ、本格的なベルグソン体験ともいえる「感想」ベルグソン論を書き、またニーチェ死後五十年で“ニーチェ雑感”という秀逸なエッセイを書いたくらいである。
ともかく、この書は1974年ごろ、まだ50歳頃のディ-スカウ が書き表したものらしい。ほかに ディ-スカウ で驚いた、または感心したのは、彼がバリトン歌手としてではなく、指揮者として演奏したCDも出回っていることで、やはり多芸というか立派なものだと感心した。本格的な人間は一芸だけでなく、なんでもホンモノとしてこなせる実力をつけているのだなあということであった。
この「ワーグナーとニーチェ」は楽しい本である。19世紀のそれぞれの領域で天才を発揮した二人の人物が、中国の“忘年の交わり”にひとしい蜜で美しい交友を楽しんだ、その経過をたどったものである。30歳以上年の違う二人が出会い、親密な交友がもたれ、やがて決裂していく、それは二人に関心のあるものには限りなく興味深いテーマである。
ワーグナーの音楽は、わたしがすでに一度このブログで紹介した本の著者によると史上4位の音楽の天才の位置を占めている。Bach,
Mozart, Beethoven, Wagnerとくるのである。わたしはBachのTopには異議をとなえたが、ワーグナーに関しては、そんなものかという感じで、この本は音楽の天才たちの業績を交通整理してくれたような、わかりやすさをもっている。ともかく、ワーグナーが天才の世紀、19世紀でベートーヴェンについで2番目の位置を占めている。
一方、19世紀は哲学の天才の世紀でもあった。わたしは自分の好みで4人を択ぶとすれば、活躍した年代順では、ヘーゲル、キルケゴール、マルクス、ニーチェをえらぶことになる。
ニーチェは激烈で純粋で、正直に現実と対決し、それを見事な散文にあらわした。哲学者としては比較的短いと思われる彼の生涯で、哲学界だけでなく、文学、芸術、社会思想、その他、あらゆる方面に絶大な影響を与え続ける著作を精力的に書き続けた。
ワーグナーとの関係は、ニーチェにとっては、運命的なものであったが、ワーグナーにとってはどうであったか。ニーチェはワーグナーに対する驚嘆から離反までの、ワーグナーとの関係をそのつど問題作で展開し続けた。最初の運命的な“悲劇の誕生”から三つの、ワーグナーを表題に含む散文まで、ともかく、ニーチェにとっては真剣に対決しなければならない人物であった。
ワーグナーにとっては、この30歳以上年少の青年との出会いが、彼の作品に直接影響を与えたようには見えない。しかし、ニーチェという天才的な若きバーゼル大学文献学教授によるワーグナーの音楽に対する肯定的な、あるいは絶大なる評価は、ワーグナーが世界のワーグナーになるうえで大きな効果を持ったのは確かである。ワーグナーはそれを楽しみ、ニーチェを家族的に扱い、息子の後見人に指摘しようとしたほどであった。まさに、年の差など関係の無い、忘年の交わりであった。
このDieskauの本は、この興味深い二人の関係を様々な資料をつかって解明していく楽しい本である。天才ワーグナーもなかなか平穏な生活をもてなかった。丁度、ニーチェと出遭った頃から、少し経って、やっと、ビューローと離婚した愛人コシマを正式の妻とすることができ、ワーグナーとしてはまともな家族生活を築き上げていくことができるようになったが、彼の壮大なオペラを実演するまでが大変で、バイロイトでの演出をめぐって、苦労をし続けるのである。コシマはまだビューローと離婚しない愛人の状態でワーグナーとのあいだに二人の子供をもうけており、コシマ自身はビューローとの間に二人の子供が居て、ワーグナーとの生活に、自分の子供をつれて入ったので、ワーグナーとの結婚後に生まれた子供を含めると、ワーグナー家には五人の子供が居る所帯であった。リストと愛人との間の娘であるコシマはワーグナーとの結婚で、彼女の天分が開かれ、同時にワーグナーに創造力をたかめる刺激を生んだ様子で、この不自然な関係はPositiveに働いた。正式の結婚が成立して、ニーチェもやっと安心したようである。
この本の解説を書いている茂木健一郎は、Fischer Dieskauの“ワーグナーとニーチェ”を、“愛の仕事”Labor of
Loveと呼んでいる。つまり、Dieskau自身の、この二人の天才に対する愛情がなければ、書けないような本だということである。好きで興味があるから、徹底的に調べて書き上げたという。
ニーチェはワーグナー単純礼讃から離れていったが、彼がはじめてワーグナー一家に受け入れられ、 Lake LucerneにあるTribschen〔トリープッシェン〕の大きなワーグナー家で何度かの心温まる歓迎・交歓に接した記憶は、二人が別な方向に分かれていった後も、ニーチェに心地よい思い出となって残った。ほとんど一生を病の苦痛の中で過ごしたニーチェが、別れていった後も、いつまでも心地よい記憶をもてるような瞬間を何度か味わったということを知ることは、ニーチェのためにも、私達のためにもすばらしい出来事といえる。この本は、そういう二人の最高の瞬間を見事に再現した、美しい、交遊録・伝記といえる。
“彼がワーグナーととうに訣別してしまった後でも、彼が次のような文章をしたためることができたということはまことに意義深い。「私はほかの人間的ないろいろな関係ならたやすく手放しもしよう、しかし、トリープッシェンのあの日々を私の一生から消し去ることだけはどんなことがあってもしたくない。それは信頼と快活と崇高な偶然とーーー意義深い一瞬一瞬の日々だった」”(P.70)
ニーチェは「悦ばしき知識」第4書279節に“星の友情”と題する文章を書いている。「われわれは友達であったが、互いに疎遠になってしまった。けれど、そうなるべきが当然だったのであり、それを互いに恥じるかのように隠し合ったり晦まし合ったりしようとは思わない。われわれは、それぞれその目的地と航路とをもている二艘の船である。もしかしたらわれわれは、すれ違うことがあるかもしれないし、かつてそうだったように相共に祝祭を寿ぐことがありもしよう、・・・われわれは、互いに地上での敵であらざるをえないにしても、われわれの星の友情を信じよう。」〔ニーチェ全集8「悦ばしき知識」、信太正三訳 ちくま文芸文庫〕。
これは、もちろん、ワーグナーに対しての避けられなかった訣別と、ワーグナーとの友情の思い出をなつかしむニーチェの願いをこめた文章といえる。“星の友情”!
確かに、この一瞬のすれちがいは、ニーチェに絶大な影響を与え、ニーチェの自己確立になくてはならない出来事であった。その成り行きを最初から最後まで追跡した本書は、ニーチェ愛好者にもワーグナー愛好者にも、無視できない伴侶といえるであろう。ともかく、ニーチェが充実した、ハッピーな瞬間をもてたということを資料を通して確認できることはうれしいことである。
「ワーグナーとニーチェ」ちくま文芸文庫 ディートリッヒ・フィッシャー・ディ-スカウ 著 荒井秀直訳 ISBN 978-4-480-09323-3
村田茂太郎 2012年10月16-18日、 10月22日
No comments:
Post a Comment