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10/26/2012

小学6年生―社会科 日本の歴史 のための拙文集(15)伊能忠敬


小学6年生―社会科 日本の歴史 のための拙文集(15)伊能忠敬

伊能忠敬 (いのう ただたか) をめぐって


 伊能忠敬を私は昔から尊敬していたが、先日、“あさひ”の図書でその伝記を借り出して読み、忠敬の偉さを確認した。伊能忠敬の生き方は、様々の人に、生きる勇気を与えてくれるものである。

 

 現代でこそ医学も発達し、環境も良くなって、日本など、男女とも世界最長寿の国になり〔1994年時点〕、まともにいけば、誰も75歳以上は生きれると常識的に考えるようになっているが、つい少し前までは、ソウではなかった。50歳以上生きれば長生きした方であり、20代30代40代で死ぬのはあたりまえであった。日本史の中の有名人の没年を調べてみたが、たとえば芭蕉は50、漱石49、聖徳太子48、木戸孝允44、高杉晋作28 という具合であり、病気以外の横死、つまり暗殺・処刑・討ち死になどの場合、西郷隆盛50、大久保利通48、大村益次郎44、織田信長48、坂本竜馬32、吉田松陰29、源義経30、木曽義仲30といった具合である。従って、人生は50、“人生五十功無きをはづ”(細川頼之 ほそかわ よりゆき)ということになるのである。従って、これらの人々は、全部、死ぬまでにやるべきことをやっていた。坂本竜馬の場合、薩長連合と大政奉還という維新の回天の中心部分を見事にやり遂げて、京都見廻り組・佐々木唯三郎(?)などに暗殺された。

 

 伊能忠敬の半生(50歳まで)はビジネスマンの人生であった。忠敬は酒造家・伊能家の傾いたビジネスに全力でぶつかり、家業を再興させ、すべてがうまくいったのを見届けて、50歳の時に家督を譲り隠居した。隠居して余裕があれば悠々自適の生活に入るのが普通だが、ここが普通の人と異なった。忠敬は子供の頃から算数や測量、天体観測が好きであった。そして、ビジネスに精を出す一方、暇があれば、そうした好きな学問をほかの人に遠慮しながら、コツコツとやりつづけた。そうした下準備を踏まえて、50歳で晴れて自由の身となった忠敬は、自分の子供の頃からの夢であった測量の方向に本格的に打ち込むために、その時、日本一の天文学者であった高橋至時(たかはし よしとき)に弟子入りした。

 

 何でも緻密に、そして正確・堅実にやりこなしていく忠敬の才能と性格を直ちに認めた至時は、西洋暦法や測図法など、自分の知っている知識をすべて忠敬に注ぎ込んだのであった。そうして、まともな地図がない一方、日本の沿海に外国船が出没するという泰平の夢を破る情況をハッキリつかんで、日本の地図をつくろうと決意した。

 

最初は、カラフト樺太や北海道だけのつもりが、いろいろな妨害が加わったため、かえって日本全国の沿岸地図をつくろうという大きな目標が定まり、それに向かって、60歳70歳の老齢に鞭打って、測量をし終わった。そうして「大日本沿海輿地全図」(だいにっぽん えんかい よち ぜんず)は完成した。この地図が、当時の外国の科学技術関係者を驚嘆させ、感激させ、日本の科学技術文化の高さを世界に示したことはいうまでもない。

しかし、何よりもすばらしいことは、50歳以降の第二の人生においてさえ、人間は何か大きなことをなしうるということを実地に証明したことであり、それを可能にしたのは、子供の頃からの夢を立派に持ち続け、準備を怠らなかったということである。

 

1994年6月3日 執筆

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