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10/30/2012

小学6年生―社会科 日本の歴史 のための拙文集(19)「曽我兄弟」


小学6年生―社会科 日本の歴史 のための拙文集(19)「曽我兄弟」(そがきょうだい)

「曽我兄弟」 をめぐって


 曽我兄弟の物語は日本では昔から有名であって、私は貸し本屋でその伝記を読んだし、東映時代劇の映画も見た。今度、あさひの図書で、「曽我兄弟物語」というのを見つけ、それこそ小学生の頃以来、約40年ぶりに読み返してみた。あの頃は、ただ仇討ちに向かっての興味だけで、あまり時代感覚はなかったようだ。今度読んで、とても面白いと思ったのは、鎌倉の頼朝をめぐる人物のやりとりやその年代であった。つまり、物語は、伊豆に流された源頼朝が、まだ源氏再興にたち上がる以前の流人時代からスタートし、頼朝が鎌倉幕府を開いて、やっと全国平定、これで安心ということで、大好きな狩猟をアチコチで大規模にやっていた1193年までを扱い、その間、名前しか知らなかった和田義盛や梶原景季あるいは畠山重忠といった頼朝付きの武将達の言動が描かれていて、義経と頼朝との血みどろの一方的な格闘を知っている私には、ことに興味深いものであった。

 

 この仇討ちは、赤穂浪士(あこうろうし)の事件と並んで、ほとんどの日本人が知っている程有名なものとなったが、その中身は、単純に賞賛されるようなものではない。曽我兄弟(五郎と十郎)の祖父にあたる伊東祐親(いとうすけちか)は随分あくどいやり方で、工藤某の土地をとりあげたり、いろいろ悪いことをした。伊東も工藤も親戚関係でいて、争いばかりしていたのである。そこで工藤は子分を使って、伊東やその子河津をやっつけようと狙い、河津を殺すのに成功した。五郎十郎は河津の息子で、父を殺した張本人の工藤をやっつける事を心に固く誓った。

 

 伊東は平氏方であったため、勢いをつけた頼朝に討たれてしまった。その時、頼朝をかつて伊東の襲撃から救った伊東のもう一人の息子河津某を、自分は平氏で、助けられても、また頼朝に敵対することになるだけだから殺してくれと頼んだのに、頼朝は、自分を助けてくれた人間の首を切ることなどとても出来ない、平氏に属してまた頼朝征伐に向かってきてもかまわないと言って許してやる。頼朝というひとは、義経に対したりするときは、残忍なほどにクールで事務的に処理するのに対し、自分が恩を被った相手に対しては、驚くほど寛大で、広量な器量を示す。

 

 こうして、伊東は平氏で滅んだのに対し、工藤祐経(くどう すけつね)は頼朝付きの有力な武将となっていく。工藤は確かに河津をやっつけたが、少なくとも、その河津の父伊東を狙うだけの理由はあったのである。さて、兄弟が12-13歳頃になったとき、頼朝はこれで平氏はみないなくなり、源氏の政権も安定したと、部下に誇らしげに述べたとき、工藤は「イヤ、まだ二人残っています。平氏であった伊東の孫、曽我兄弟です。」といったものだから、頼朝は怒って、「何、まだそんなやつが残っていたか、スグ浜辺で首をはねろ」ということになった。物語の中でも、最後と並んで、最も有名な場面で、あやうく首を切られるという寸前に、畠山重忠の頼朝への説得が働いて、危機一髪のところで、助かるのである。つまり、曽我兄弟は、頼朝などを狙っているわけではない、工藤が復讐を恐れているから、デタラメな報告をしたのだということを頼朝にわかってもらうわけである。

 

 その後の、兄弟の苦労は大変なもので、仇を討って死ぬということが理想と思われていた時代の青年の生き方が、今の感覚で言うと、信じられないほどむなしく、あわれに思われるが、それを正当として、ただそれだけのために二人は生きる事になる。

 

 仇の工藤祐経が頼朝に信頼され、大きなパワーをもっているため、接近することさえ大変である。工藤は静御前が頼朝の前で踊ったとき、その鼓をうつほどの文化人でもあった。いろいろと探し回っても、なかなかチャンスがない。とうとう、1193年頼朝が富士の裾野で大規模な狩をやったその最後の夜、二人は仇敵工藤を殺す事に成功した。そして、そのあとの戦いで兄は死に、弟はつかまった。頼朝の前に引き出された弟は、工藤祐経を追う事が彼らの一生であったその経過を説明し、もう仇を討ったから、殺してくれと頼む。話を聞いた頼朝は感心して、助けようとするが、結局、頼みを拒みきれず、クビを切る。

 

 このあと、この曽我兄弟の仇討ちとそのための苦労は、ひとつの生き方のモデルとみなされ、武家社会にもてはやされた。

 

 この曽我兄弟の仇討ちのニュースがまちがって伝わり、源頼朝が殺されたと聞いた頼朝の弟、義経の兄にあたる源範頼(みなもと のりより)は、頼朝の妻北条政子に、“姉上、ご心配なさるな、私がいます。”というような言葉を発した。それを聞いた頼朝は、さては範頼め、チャンスがあれば、天下をとろうと狙っているなと疑って、たいした理由も無いのに、範頼を殺してしまった。敵には時には寛大であった頼朝は、肉親には、冷たく、疑り深かった。曽我兄弟の武勇伝のために、とんでもない人間まで死ぬ事になった。

 

1994年6月13日 執筆

 

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