小学6年生―社会科 日本の歴史 のための拙文集(18)義経と頼朝(よしつね と よりとも)
先に「義経・弁慶物語」を読み、今回、「源氏の旗風」(義経物語)北川忠彦 平凡社名作文庫を読んだ。常盤御前(ときわごぜん)の話、牛若丸と弁慶、金売り吉次、熊坂長範、伊勢三郎との出会い、藤原秀衡(ふじわらひでひら)、そして頼朝との会見。ひよどり越え、一の谷、屋島、壇之浦から、頼朝による義経追討、吉野、勧進帳、佐藤継信・忠信の母親との会見、奥州で藤原泰衡のため、高館で攻められて自殺するまでを上手にまとめて、全体の動きがわかるように組み立てられている。平家物語と義経記からもとめあげたもので、特に頼朝との関係がどうしておかしくなっていったのかが何となくわかるようになっている。平家にしても義経記にしても、結果がわかったうえで書かれたものだから、それらしき理由をそれとなく配置しているといえなくもないが、義経と頼朝との関係はまことに悲劇的で、義経が悲劇に向かって突っ走っているのがよくわかり、読んでいてアドバイスをしてやりたいと思うほどである。
頼朝側からの参加者である梶原景時をめぐる義経とのやりとりは、どう見ても、景時の方が言っていることは正しい。有名な鵯越(ひよどりごえ)の時の理屈など目茶目茶である。有名な「鹿も四足、馬も四足・・・」などというのは、唱歌にまで取り入れられたほどであるが、ここで大事なのは、義経の“気合い”であり、これがまさに天才的で、義経が登場すると、どの合戦でも、驚くほど簡単に終わってしまうのだ。
義経の景時に対する対応は、景時に恨みを残すようなものであった。従って、もちろん影時だけが理由とは言えないが、頼朝が義経追討の決意をするに至るひとつの手がかりとはなった。武家政権の確立を目指し、京都の公家・朝廷とは距離をおこうとしていた頼朝は、まさに政治的天才であって、すべての権力構造を読み取っていた。そして、武家政権確立のための礎石を着々と踏み固めていっているのに対し、戦争の天才義経は、政治には疎く、京都の後白河法皇という大陰謀家の計略にあっさりとのみ込まれてしまったのである。
九郎判官として有名になった検非違使(けびいし)の役職も、兄頼朝の許可もなく、勝手に頂戴してしまうといううかつさがあった。そして結局、腰越状での兄への説明・弁明にもかかわらず、直接兄と話し合うチャンスもなく、罪人として全国に指名手配されるに至る。母親が異なるとはいえ、父義朝の子供として、そしてどちらも常人よりははるかにすぐれた天才をもっていたので、もし、協力して武家政権確立に向かったいたら、歴史もまた違ったものとなっていたであろう。しかし、義経には政治的判断力が欠けていた。戦争は天才と言えるほどうまかった。これも、結局ネガチブに作用した。頼朝が心配したのだ。すべて頼朝の指導に従っていれば、それ程のことはなかったが、勝手に貴族・朝廷から役職や官位をもらうようでは、コントロールが内側から崩れていくわけである。景時の一方的な説明は、頼朝の考えを確認するものとなったに違いない。
かくして、義朝のときに、源氏の一族がほとんど処刑されていったように、頼朝の意図に反する連中は、肉親であれ、誰であれ、殺されねばならなかった。そして、それは源氏三代で絶滅する結果を招いた。
頼朝と義経の関係は、本当にたまらないほど悲劇的である。従って、松尾芭蕉も「奥の細道」の旅のひとつの焦点を“夏草や つわものどもが 夢の跡”という絶唱でまとめたわけであり、義経のまわりにいたために死んでいったサムライ達にかなしみの涙をそそいだわけであった。
“あさひ”の図書の中に、学研実用特選シリーズで、「見ながら読む無常の世界 平家物語」がある。絵巻物や情景写真をふんだんに取り入れた素晴らしい本である。「平家」に関係のある場所や人物の写真・絵がいっぱいあって、その中に、藤原隆信筆という源頼朝像というのがある。鋭い目、強い意志を備えたたくましい指導者の姿であり、武士の棟梁としての貫禄充分といえる。同じ本の中に、ヘンな感じの源義経像がある。二人の違いがあきらかである。
「平家物語」には静御前(しずか ごぜん)のことについては記述が無いが、義経記からもまとめあげたこの「源氏の旗風」には静も登場する。頼朝の前で「静や静 静のおだまき繰り返し むかしを今になすよしもがな」と詠い、「吉野山 峰の白雪 踏み分けて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」と詠い、舞った静御前に対し、頼朝はカンカンに怒ったが、頼朝の妻北条政子は、女の愛を全面的に出した大胆さに女性として、かえって感動し、頼朝の怒りをなだめた。
義経はある意味では、いろいろと対応を間違い、自分で蒔いた種を自分で刈らねばならなかったわけで、悲劇的とはいえ、仕方が無い面もあるが、義経に忠実な部下たちの義経に対する献身的な生き方は全く感動的であり、武蔵坊弁慶に限らず、佐藤兄弟や伊勢三郎、増尾十郎兼房、和泉三郎忠衡などが義経のために戦い、義経のために死んでいく姿が、私にとっては最も感動的であった。
1994年6月2日 執筆
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