小学6年生―社会科 日本の歴史 のための拙文集(16)高杉晋作
高杉晋作 (たかすぎ しんさく) をめぐって
幕末から明治維新にかけて日本にもたくさんの天才・英雄・豪傑が現れた。
維新への回天は薩長連合(薩摩と長州が手を組んだ)が成立した時点で、ほとんど達成されたも同然であった。西郷隆盛と木戸孝允(桂小五郎)が京都薩摩屋敷において、その歴史的な連合を達成した。この連合の事実上の立役者は、土佐の坂本竜馬であった。しかし、こうして長州が薩摩と手を組むに至るためには、長州内部の藩論を討幕派で統一しておかねばならなかった。これを事実上、ほとんど独力で(もちろん、高杉晋作のつくった奇兵隊を率いてではあるが)なしとげたのが、高杉晋作であった。桂小五郎は高杉晋作のなしとげた成果の上に立って、それ以降の偉業を達成できたのであった。高杉なくしては、長州の運命も、また違っていたかもしれない。無数の俊才が登場した幕末において、私が手放しで賛嘆するのは坂本竜馬と高杉晋作である。
高杉晋作がまだ倒幕が完成する以前に28歳の若さで病死したとき、その最後に書いた一句が「おもしろき こともなき世を おもしろく」であり、衰弱のあまり、アトが書けなくなった。看病していた野村望東尼(のむら ぼうとうに)が「すみなすものは 心なりけり」と、あとの句をつけると、高杉は“おーもーしろいーのうー”と言って息を引き取った。私はいつも、この{こころなりけり}では、高杉は不満であったに違いない、「行為なりけり」でなければならないはずだと思ってきた。
高杉晋作という天才と行為を切り離すことは出来ない。高杉は行動の人であり、機を見るのがうまく、感じるとたちまち行動に移すことが出来、そして、ほとんどあやまちはなかった。
危機の長州藩を救ったのは若干27-28歳の高杉晋作であり、危機的状況において、藩主親子が最も頼りにしたのは高杉晋作であった。高杉は正確に幕府の実力を測り、誰も思いがけない行動をやり、みごとに成功した。その機を見て、スグに実行に移せる高杉の行動力は天下一品であり、文久3年(1863年)正月5日のお成り橋通過は、高杉の面目を示すものであり、箱根の関所を破るという大胆な行為も、高杉ならではの行為であった。彼には、天下におそれるものなど、なかったわけであり、それ以上に、正確に、幕府の器量・実力をはかることが出来たのである。そして、日本で初めて、サムライだけではない、百姓・町人も含んだ奇兵隊を組織し、ここから幾多の優秀な人材が生まれたのであり、長州を討幕派でまとめることに成功したのであった。
(国土社 「高杉晋作」細田民樹著)
1994年6月2日 執筆
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