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10/20/2012

小学6年生―社会科 日本の歴史 のための拙文集(9)元寇


小学6年生―社会科 日本の歴史 のための拙文集(9)元寇
 
 
蒙古襲来(元寇)をめぐって

 

 学研「物語日本史」の第4巻は「モンゴル来たる、太平記物語」となっている。

 日本という国は、四方を海で囲まれた島国であるおかげで、ヨーロッパの小さな国々や朝鮮半島のように、いつも大国の侵入におびやかされるという危険がほとんどなかった。ほとんど文化といえるものを持っていなかった日本に、何度も戦争状態におちいった朝鮮半島から高度な技術と文化を持った人々が移民してくる中で、日本の発展が生み出されてきた。そして、おどろいたことに、古代日本人は3-4世紀に日本を統一すると、もう海の向こうの朝鮮半島に軍隊を送って植民地を作ったり、あるいは同盟国(友邦国)に援軍を送るぐらいになっていた。その後、中世になって、倭寇という海賊として、中国や朝鮮沿岸を荒らしまわったりして、中国の皇帝から、なんとか取り締まってくれと泣きつかれたりするほどであった。

 

 戦国時代から南蛮文化が入りだすと、たくさんの人が東南アジアに進出して、日本人町をアチコチにつくり、山田長政のようにシャムの国王に信頼されて王女と結婚し、軍隊の最高長官の位置を占めたりする人が現れた。そして、その少し前、豊臣秀吉は朝鮮征伐といって、実は侵略戦争を二度も行った。こういう外国へ侵略する傾向と発展する傾向という二つの性向を併せ持つのが日本人の特性のひとつで、今は、ユダヤ人ほどではないが、全世界に散らばって、日本人は活躍しており、フジモリ氏のようにペルーで大統領になった人もいるほどである。〔人権問題でペルーで服役中、2012年)。

 

 そういうわけで、日本は海外に出かけることはあっても、外国から本格的に攻められるというイヤな経験は他の国々にくらべて少なく、中世のモンゴル(元)による襲撃と、第二次世界大戦の時だけである。従って、蒙古(元)が日本を攻めてくるというニュースが入ったときは、日本国としては、初めての国難の時であった。その時、鎌倉幕府で執権として政治の頂点にいたのは、相模太郎(さがみたろう)とよばれた北条時宗であった。わずか18歳で今の総理大臣の位置に着いた時宗だが、当時の誰よりもすぐれた指導力と判断力、そして強固な意志力をもった偉大な指導者であった。彼はこの未曾有の国難に当たって、モンゴルに対して断固として戦う姿勢を一貫して示し、日本人民の精神的支柱として、そして実務処理において偉大な役割を果たしたのであった。彼は、モンゴルが戦いに疲れず、また、やってくるに違いないと思って、今度は襲来を待つのではなく、日本から朝鮮半島に上陸作戦を展開するよう指令を出し、具体的に計画を出したほどで、積極的に日本防衛作戦を展開したのであった。

 

 「博多の神風、亀山上皇」という歴史カルタは、亀山上皇をはじめとする僧侶、庶民が神に必死に祈ったおかげで、神風が吹いて、蒙古船団が二度にわたって全滅に近い被害を受け、日本は蒙古軍上陸をまぬがれたとうたっている。しかし、第4巻にも書かれているが、北条時宗の指示の下、九州の武士達が一致団結して勇敢に戦い、二度目の時には石塁を築いて準備怠りなく行ったうえで、ところどころで全滅しながらも、激しく防御戦を展開し続けたから、夜になると、蒙古軍は船に引き上げていかねばならなかったわけで、もし、逃げまくっていれば、蒙古軍はゆうゆうと博多に上陸し、宿営していたであろう。そうなっていれば、神風―台風で船が全滅しても、10万のモンゴル・中国・朝鮮人兵士が既に上陸しているわけで、日本の歴史は大幅にかわっていたかもしれない。既に終わってしまった歴史的事実に対して仮定は意味をなさないが、このときの九州男児の活躍が日本を救ったという正当な評価を下すのには役立つかもしれない。

 

 この「モンゴル」の巻は、ただ二回元寇があったというだけで終わってしまいがちな歴史の学習の裏を、いかに大変な出来事であったか、アチコチの島に上陸した蒙古軍のために、老若男女すべての日本人が虐殺されていったこと、防備にどれだけ苦労したか、九州の武士達がいかに勇敢に戦ったかといったことを、とてもリアルに、興味深く描いてあり、私もはじめて、なるほどと思ったりしたほどである。

 

 執権時宗は、この二度にわたる国難をまともに引き受けて心身疲労しきってしまい、元寇の後、しばらくして、33歳の若さで亡くなった。そのあと、執権の北条氏に人材は出ず、鎌倉幕府は滅亡に向かって衰退の一途を辿った。

 

 鎌倉時代は、源氏三代から北条執権成立期の陰惨で混沌とした時代を通り越すと、執権北条泰時とか北条時頼とか北条時宗といった非常に優秀で偉大な人物が続出したため、比較的政治も安定して、武家政治が軌道に乗り出すことができた。北条氏はもともと平家で、源氏ほどの統率力=カリスマはもたないため、源氏三代が絶えた後は、仮の将軍をもってきて、政治権力だけは握るという執権政治をとらざるをえなかった。しかし、上にあげた執権たちが公正な政治をめざしたため、武士も庶民もついていったとは、勝海舟も指摘しているところである。

 

1274年、文永の役。1281年、弘安の役。

「相模太郎(北条時宗)の肝っ玉は坂東太郎(利根川)よりも太い」といわれた北条時宗をこの未曾有の国難の時期に執権としてもったことは、日本人としてはしあわせなことであった。

 

1994年5月9日 執筆。

追記:

2003年11月、わたしは北条時宗の未亡人が建てたお寺=東慶寺を訪ねることができた。東慶寺は江戸時代には離婚のための駆け込み寺として有名で、女性たちの自立に重要な役割を果たしたが、現代は有名な文化人で無宗教のひとがこの寺に自分のお墓をつくっている。わたしがここを訪れたいと思ったのは、”小林秀雄”のお墓があるということだったからで、ほかに鈴木大拙とか和辻哲郎とか岩波茂雄とか西田幾多郎など、日本文化に貢献した人々のお墓があった。小林秀雄が自分で書いたという文字で刻まれた簡単な石が立っていた。小林家とあるだけで、”小林秀雄”ではなかった。お寺の人に訊ねたので、間違いないと思う。もちろん、北条時宗のお墓もあったはずで、わたしは見たはずだが、今となっては記憶も確かでない。小林秀雄だけは写真に撮った。いいお寺であるが、ともかく有名であるため、わたしのような訪問者がたくさん訪れていた。今は、もう、場所も無いから、よほどのひとでないと、ここに墓所を持つことは不可能であろう。

村田茂太郎 2012年10月20日


鎌倉東慶寺、小林秀雄の墓所

 

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