小学6年生―社会科 日本の歴史 のための拙文集(14)徳川家康
徳川家康 をめぐって
偕成社 世界偉人伝23「徳川家康」を読んだ。わたしは大阪生まれの大阪育ち。地元郷土史は大阪城を築いた豊臣秀吉や金剛山で活躍した楠木正成の話で満ちていた。そうなると、これらの英雄達の悲劇に感動して、日本史の中で、足利尊氏や徳川家康ほど悪いやつは居ないという感情(偏見)が生まれる。ある中学社会の教師は岩倉具視を加えて、三大悪人と言ったりした。私も子供の頃、足利尊氏が憎かったし、徳川家康も好きになれなかった。歴史や人物を冷静に客観的に評価するということは、なかなか難しいものである。
もちろん、徳川家康は人物としても、政治家としても、世界的なレベルの偉人である。約260年にわたって天下泰平の世の中の基礎を築き、高度に洗練された繁栄都市を築き上げたと言うこと自体、世界的に見て、全く類例が無いほど見事な演出であった。関が原の戦いが終わって、徳川家康の天下統一が確かになった頃作られた狂句“鳴かぬなら殺してしまえホトトギス、 鳴かぬなら鳴かせてみしょうホトトギス、鳴かぬなら 鳴くまで待とうホトトギス”は織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の個性を簡潔に、そして鮮やかに描ききっているが、この“鳴くまで待とう”というところに、家康の忍耐強さと息の長い堅実な生き方がよくあらわされている。家康には、有名な遺訓というのがあり、その中で“人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。・・・不自由を常と思えば不足なし。心に望み起らば、困窮したるときを思いいだすべし。・・・”と言ったが、全く、家康の生きかたをまとめたものであった。
この本には、竹千代と呼ばれた人質時代から、織田信長の盟友として、丁重に扱われるに至り、本能寺のあと、あらゆる面で秀吉以外の第一の大名ぶりを発揮しながら、豊臣政権確立には協力し、秀吉によって関八州江戸中心の大名にさせられても、文句もいわず、常に堅実に実力を貯え、しかもチャンスがあれば、チャンスを掴もうとする慎重な人間の長い一生(74歳)が上手にまとめられている。戦国時代の総まとめであり、同時にウイリアム・アダムズや田中勝相まで登場する。
家康は頼朝を手本にして武家政権の確立を確かなものにしようとした。そして、単に武士の支配だけでなく、五つの街道の整備や政治・経済・外交とあらゆる方面にわたって立派な土台をつくった。豊臣家を滅ぼすための計略―方広寺鐘銘事件や大阪冬の陣講和条件違反など、ずるがしこい策略をのぞけば、見事な生き方といってよい。豊臣家滅亡は徳川政権安定化のためには、家康存命中にやりとげねばなならないことであった。ここから、家康嫌いが生まれる事になった。
1994年6月2日 執筆
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