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10/22/2012

小学6年生―社会科 日本の歴史 のための拙文集(11)「細川ガラシャ」


小学6年生―社会科 日本の歴史 のための拙文集(11)「細川ガラシャ」

「細川ガラシャ」をめぐって

 

 「物語日本史(7)」〔ザビエル渡来物語、島原の乱〕の巻には、“細川ガラシャ”の話が収められている。今、私が小学生のときに親しんだ歴史カルタを思い出そうと努めているが、あのカルタは英雄・豪傑・名将といった人が中心になっていたため、女性はほとんど登場していなかったように思う。しかし、その中に、この細川ガラシャが唯一人「・・・・ 忠興の妻」という形でカルタに入っていた。丁度、古代ローマでルクレチアのストーリーが貞節の鑑として有名になったように、細川忠興の妻ガラシャ=玉子のストーリーも、形は異なるが、貞節の鑑として取り上げられたのであろう。

 

 今年の(1994年当時)、大学入試問題には細川家に関する問題がいくつか出されたという。連立内閣の首相となった細川護煕(ほそかわ もりひろ)は、細川家の子孫にあたる。この細川家は、旧くは清和源氏にまで至る名門の出であるが、歴史に大きく登場し始めるのは南北朝の頃からで、中でも、三代足利義満(あしかが よしみつ)の補佐となった細川頼之(ほそかわ よりゆき)は、文武に優れた当時最高の人物として、室町幕府の安定化に絶大な貢献をしたのであった。「人生五十 功無きを恥ず」という彼の作った漢詩は特に有名である。

 

 そのあと、例の応仁の乱(細川対山名)によって、勢力は後退してしまったが、戦国時代になって現れた細川藤孝(幽斉ゆうさい)は、明智光秀(あけち みつひで)の親友であり、文武に優れた武将であった。百人一首に関する著書など、たくさん本を書き、当時、最高の知識人・文化人のひとりであった。その子供が忠興(ただおき)で、やはり文武に優れた武将であり、大名であった。織田・豊臣・徳川につかえた戦国大名であると同時に、和歌・絵画・茶の湯に通じ、千利休七哲の一人に数えられ、著書を著した。

 

 この忠興の妻が玉子(たまこ)であり、クリスチャンになってガラシャと名乗った女性である。玉子は明智光秀の娘であったため、本能寺の変で光秀が主君織田信長を討つという謀反(むほん)が起きたとき、苦しい状況に陥ったが、しばらくして秀吉に許された。そして、クリスチャン大名・高山右近の影響もあって、熱心なキリスト教信者となった。夫の忠興は、いつのまにかクリスチャンとなった妻に驚いたが、秀吉の禁止令をおそれない信仰の固さに感銘を受け、ひそかに保護してやった。

 

 秀吉が死んで、天下が徳川家康に傾きそうになったとき、秀吉の忠臣石田三成は対徳川戦をしかけたが、その準備として、大名の奥方(妻)を人質として大阪城にとめておこうとした。徳川方の忠興の動きの邪魔にならないようにと細川ガラシャは、石田三成のとり方を前に、家に火を放ち、自殺したのであった。この細川ガラシャのストーリーにウイリアム・アダムズ(三浦按針みうら あんじん)をからませて小説―TVドラマにしたのが、クラヴェルの「ショーグン(Shogun)」であった。

 

 忠興は関が原の戦いで徳川方につき、軍功によって九州の大名になった。その子供が細川忠利で、これもまた名君の誉れ高い人物であった。沢庵和尚に師事し、また佐々木小次郎との決闘で名高い宮本武蔵を保護した。天性浪人の人武蔵も、細川忠利だけには心を許し、兵法35個条を献呈したり、五輪書の執筆に取り組めたのであった。忠利の病死は、武蔵にとって大きな損失であった。このとき、殉死をめぐって、森鴎外の名作で有名な「安部一族」の事件が起きた。殉死の風は、古代卑弥呼の時代から見られたが、徳川時代になっても、まだ行われることがあった。許可も無いのに殉死してしまった阿部氏の事後処理が安部一族全滅の騒ぎとなった。

 

 忠利以来、細川家は熊本藩主として善政に努めたが、中でも9代将軍家重のとき、39年間執政を行った細川重賢(ほそかわ しげかた)は、さまざまな改革を行い、その治世は宝暦の改革と呼ばれたほどであった。外様大名としては、終始有力な大名として存在したわけである。明治になって、侯爵となって終戦(1945年)を迎え、1947年日本国憲法によって華族制度が廃止され、普通の平民となったが、熊本では有力な市民であり、知事になったりした。

 

 こうしてみると、新田義貞(にった よしさだ)などは、やはり清和源氏の名門の出ではあるが、南北朝の頃に活躍して、その後、あまり歴史に登場して来なくなるのに対し、細川家が戦国時代の激動期を無事に勢力を伸ばしながら成長していけたのは、幽斉・忠興親子の政治的判断力とその判断を貫徹する意志力の強さのせいであろう。明智光秀の娘玉子を妻とした若き忠興に対して、光秀の方から、織田信長を倒したから、自分の方に味方すれば、もっと大きい領土をやるといわれたとき、冷静に判断をして、ハッキリと断り、しかも妻玉子を粗末に扱うことはしなかった。秀吉の死後の天下分け目―徳川対石田の情勢に対しては、これもクールに反応し、玉子もそれをよくわきまえれ、歴史に残る人物となった。

 

 細川護煕(ほそかわ もりひろ)はどうであったか。丁度、アメリカのジミー・カーター大統領のように、運の良い男で、知事から議員になり、そして信じられないような状況が出現して、連立内閣の首相にまでなった。しかし、彼の先祖の名君達に匹敵するだけの政治力はなかったのか、任期1年に満たないで、後退せざるをえなかった。光秀の三日天下よりは長かったとはいえ、彼の場合は、ただ運が良かっただけということかもしれない。

 

1994年5月20日 執筆

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