小学6年生―社会科 日本の歴史 のための拙文集(17)芭蕉
芭蕉 をめぐって
私が択ぶ日本の五大古典は万葉集・源氏物語・平家物語・徒然草・芭蕉(特に「奥の細道」)である。それほど、芭蕉については高く高く評価し、敬愛し、私淑しているにもかかわらず、どうしたことか、私は松尾芭蕉の伝記というか、若い頃のことについては、ほとんど何も知らなかった。今度、「芭蕉物語」麻生磯次 日本古典物語全集21を読んではじめて芭蕉が俳諧の道にはいっていく様子がよくわかった。
伊賀上野は藤堂家の領分であった。その侍大将新七郎の若君良忠が芭蕉より2-3歳年上であったが、芭蕉はその良忠の小姓として友達づきあいすることになった。そしてその情の深いつきあいが10年以上続いた。良忠は当時流行していた俳諧の熱心な愛好家であり、京都の有名な学者・俳諧師北村季吟の弟子になるために芭蕉を派遣し、蝉吟(ぜんぎん)という雅号をもらったほどの人物であったが、その若君がある日突然病死した。時に、芭蕉は23歳であった。
そのショックで虚脱状態に陥り、一時は死にそうにまでなった芭蕉が、新たに自分の人生を自分で択ぼうと考えたとき、若君と共に、楽しく学んだ文学・学問・俳諧の世界が目標として浮かび上がってきたのであった。
それから、亡くなるまでの27-28年の歳月は、まことに天才のみ可能な成長・発展の記録であり、特に晩年の10年は驚異的な展開を示し、遂に極北にまで達したのであった。蝉吟亡き後、芭蕉は主家を脱走した。37歳で芭蕉庵に入るまでの芭蕉の生活はほとんどわかっていない。この「芭蕉物語」によると、京都の北村季吟の弟子になって俳諧をやりながら、勉強したのではないかとなっているが、別の説では、禅寺に入って学問を身に付けたにちがいないという。いずれにしても、よくわからないわけだが、この間の放浪生活を経て、芭蕉の人生観や俳諧が著しくみがきあげられていった。
あらゆるものを吸収しながら、徐々に自分の俳諧を見出し、確立していったわけで、その間、前人未到の境地に歩み入る人間としての、孤独も迷いも絶望もなめつくしたはずであり、その上で蕉風が確立され、しかも、それが旅を経るごとに、見事な展開を見せる事になった。
生涯の大半を旅で過ごして西行を慕った芭蕉は、強健でもない身体に鞭打って、いくつもの大旅行を試みた。その最高傑作は「奥の細道」として完成したが、辞世の句を問うた弟子に、自分の句はすべて辞世の句といえる、いつもそのつもりで作ってきたと応えた芭蕉の芸術と人生が融合した生き方は、その後、どの俳人も真似できないほど壮烈で、真剣で、確かなものであった。1694年50歳で病没したが、モーツアルト同様、すべてをやり遂げた上での死であった。
1994年6月3日 執筆
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