小学6年生―社会科 日本の歴史 のための拙文集(20)桂小五郎
桂小五郎 をめぐって
西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允の三名を“維新の三傑”という、あるいは“維新の元勲”。江戸幕府が倒れ、明治維新が生まれるためには、もちろんこの三人の力だけで充分であったわけではない。たまたま、明治まで生き残ったからであって、それ以前に病没した高杉晋作や暗殺された坂本竜馬など、もし生きていれば、違った政府が出来上がっていたに違いない。また、三傑は、みな討幕派を指しているわけで、この過渡期に大きな役割を果たした勝海舟も忘れてはなるまい。
倒幕に最大の力を発揮したのは西郷隆盛であり、明治維新以後の専制国家確立に最大の貢献をしたのは大久保利通であった。しかし、二人とも、それぞれ違った形で無理をしたため、西郷は西南戦争で討ち死に、大久保は西南戦争終了後、その冷徹な処理能力をきらわれて島田一郎に紀尾井坂で暗殺された。
この薩摩出身のふたりにくらべて、木戸孝允の果たした役割は、それ程大きくないように見える。しかし、彼は過激な革命家ではなかったが、穏健な改革派として、いろいろな過激派にブレーキをかけながら、良識ある知識人として、日本がデモクラシーの方向に向かう上で、大切な基礎固めをした。明治維新後の“五箇条の御誓文”や版籍奉還、廃藩置県などは、みな木戸孝允が中心になって行ったものであった。
しかし、私にとって何といっても魅力あるのは、木戸孝允と名前を替える前の頃、つまり桂小五郎と名乗っていた頃の動きである。
幕末の京都といえば、坂本竜馬や桂小五郎がスグに浮かぶくらい、桂の名は私には心地よく響く。長州から江戸に出た桂小五郎は、斉藤弥九郎の練兵館道場で剣の修業を行い、たちまち塾頭になるまで上達した。とても思慮深く、慎重な桂は、その後、いろいろな学問も身に付け、長州藩の中でも若くして長者の風格をもつに至った。そして、あるとき、刑場で解剖を行っていた村田蔵六を認めた。
桂小五郎のもった才能のひとつに、人物を認める能力があった。村田蔵六は長州出身の蘭学者で、福沢諭吉さえ一目おいたほどの秀才であった。しかし、医者として、蘭学者として日本有数の人物になった後も、ほとんど誰も彼の才能を買おうとするものはいなかった。そんなとき、桂は村田蔵六の驚くべき才能をみつけ、しかも彼が同じ長州出身であることを知って、蔵六を雇うのに成功した。桂は年上の蔵六に「先生」をつけて常に接し、蔵六は、はじめて本格的に自分を認めてくれた桂小五郎を終生の恩人と思い、この人のためには死んでも良いと思うくらいに、厚い友情を桂に捧げた。村田蔵六はのちに大村益次郎となのって、倒幕戦争では事実上の参謀として大活躍をし、倒幕を成功に導き、維新後、列国に負けない軍隊制度をつくる布石を敷いたが、薩摩の旧藩士から狙われ、暗殺された。桂がその死を悲しみ、惜しんだのはいうまでも無い。
桂小五郎は「逃げの小五郎」といわれるくらいに上手に逃げまくった。坂本竜馬とちがい、慎重すぎるほど慎重であった桂は、様々な危機をみごとに逃げきった。新撰組に追われたとき、後に妻となった芸者の幾松が機転をきかして、うまく逃がしたこともあれば、自分で見事に逃げきった場合もあった。桂は剣は免許皆伝の腕前であったにもかかわらず、一人も殺さず、危険だと思えば、あらかじめ避ける方向をえらんだ。これも私が桂をエライと思い、好きな理由のひとつである。
高杉晋作が統一した藩論を率いて、長州を指導していく人材として、誰もが期待したのが33歳の桂小五郎であった。第二次長州征伐を勝利に導く指導を行いながら、小五郎は京都薩摩屋敷で坂本竜馬が下ごしらえした薩長連合の歴史的提携を西郷隆盛との間でとりかわした。そのとき、長州のその後の動きに疑問を持っていた西郷に対して、桂は明快に、権力を朝廷に返すと宣言し、この一語で西郷も納得し、連合は成立し、そして事実上の倒幕が成ったのであった。
桂小五郎は何をしても一流に達する秀才であったが、やはり政治が一番向いていた。そして、人と付き合うときは、いつも対等の人間として友達づきあいをし、権力をかさにきて、エラそうに威張り散らすことはなかった。
岩倉具視や大久保利通と一緒に外国を見てまわったあと、日本の内政の充実を願い続け、西郷を警戒しながら、わずか44歳で病没した。思慮深く、穏健で、慎重なこの改革家を明治維新にもったことは、日本人にとってしあわせなことであった。
1994年6月3日 執筆