寺子屋的教育志向の中から - その24 “学習効果を高めるために”
これは学習方法に関する私の体験的教訓を生徒諸君の参考になればと思って書きあげたもので、プランク効果などという法則か何かがあるわけではない。私の体験から学んだことを的確に表現するのに、連続量のエネルギーに対して不連続量を提案したプランクのアイデアをかりて、勉強の成果も不連続量として描き出せると指摘したわけで、イメージとしては階段が適切である。連続量のたとえは坂であらわせる。どういうことかという中身については読んでいただけばすぐに了解できるはずである。
何も私一人の発見という話ではなく、京都大学めざして受験勉強をやり遂げたすべての学生が体験してきたことであり、私はたまたま哲学的または方法的な性格で、こういう具合に表現したというわけである。子供たちの参考になってくれれば、ありがたい話で、私自身は必ず効果があると信じてこの文章を書きあげたわけであった。
何も私一人の発見という話ではなく、京都大学めざして受験勉強をやり遂げたすべての学生が体験してきたことであり、私はたまたま哲学的または方法的な性格で、こういう具合に表現したというわけである。子供たちの参考になってくれれば、ありがたい話で、私自身は必ず効果があると信じてこの文章を書きあげたわけであった。
村田茂太郎 2018年9月
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学習におけるプランク効果 “学習効果を高めるために”
熱輻射のエネルギーの移動について研究していたドイツのマックス・プランクは、1900年、息子に対して、自分は大変なことを発見したように思うと語った。ニュートンによる万有引力の発見に匹敵するような発見を。つまり、エネルギーはなめらかな連続量ではなく、トビトビの準位をもつ不連続量だということを発見したのであった。これが現代量子力学の設立へとつながっていくわけであり、アインシュタインはプランクの“量子”論発表後数年足らずのうちに光量子仮説を提出し、そのことは実験的に証明されることになった。プランクは1918年にノーベル物理学賞を受け、アインシュタインもそのしばらく後、相対性理論によってではなく、この光量子仮説によってノーベル賞を受賞した。
私はつねづね、学習のエネルギーもプランクの量子のようなものだと考え、生徒諸君にそのことを説いてきた。つまり、プランク以前に考えられていたエネルギー・モデル(連続量変位)として、たとえば、“坂”のようなものを考え、プランクの量子(不連続量)のモデルとして“階段”のようなものを想定してみれば、イメージとしてわかりやすい。連続量である坂においては、エネルギーの多少によって位置は上下し、坂のイメージでわかるように、エネルギーを少し加えて上に上がっても、すぐに下に転がり落ちてくる可能性はいつもあるわけである。それに対して、階段のような不連続量においては、その目の前の壁をとびこえるに値するだけのエネルギーを投下しなければ、位置を一つ上に高めることは出来ないわけであるが、逆に、よほどのことがない限り、一段下に転落することもないのである。
私は自分自身の学習過程を通して、学習においても、まさに不連続量としてのエネルギーと同じ関係が成立していることを確認した。それはどういうことかというと、今、自分の居る位置(学力)から一段上に高めようとした場合、目の前に坂ではなく壁がたちはだかっているわけであるから、今までと同じ程度の学習の仕方では、その壁を乗り越えて、一段上のレベルに達することが出来ないのである。いわば、普通以上のエネルギー(学習)を投入して、一段上のレベルにふさわしいエネルギー状態に達しなければ、壁の途中から落ちてしまうことになる。
たとえば、今までの学習の仕方が、ダラダラと、なんとなくやっているという形であれば、その態度を続けている限り、自分の位置は少しも変わらない。そして、ほんの少し努力をした程度では、一番低い壁でも乗り越えることが出来ないのである。学習状況を変化させようと思えば、今までの態度、方法を反省して、新たに、猛烈な意欲で取り組み、がんばり続けることが必要なのである。この徹底した集中的な努力をしたあと、振り返ってみれば、今までの状況とは一段違った世界に居る自分を発見することになる。壁は簡単にとびこせていたわけである。この徹底的に集中した努力なしには何事も成就できない。そして、いったん壁を一つ越えて次の段階に達してしまうと、今度は新たな壁に立ち向かえばよいわけで、一段下に落ち込む心配などは無用である。学習が坂のようなものであれば、少し立ち止まったり、なまけたりすれば、すぐ下に滑り落ちていくこともあるわけであるが、学習のエネルギーも経験的に見て、明らかにプランクの不連続量と同じであり、勉強の後の開放感に浸っても、簡単には下に落ち込まない。従って、ダラダラと意欲もなく学習を進めている限り、いつまでたっても自分の壁を乗り越えられないのに対し、意欲的に集中して徹底すれば、壁を乗り越えるのも困難ではなく、あとは憩いのひとときをもてるのである。
私は以上のことを、中学三年のときと、高校二年のときの体験で知った。中学生のとき、特に遊んでいるわけではなかったが、成績がいつも中途半端でかんばしくなかった。三年になり、学校側が高校入試を意識し始めても、まだ相変わらずであったが、夏休みごろ、やっと本格的にやらねばという気になって、二ヶ月ほど真剣に集中して取り組んだ。その成果が現れだしたのは一―二ヶ月あとである。学習したものが内部に肉化し沈潜するのには一―二ヶ月かかるということも、その体験からわかった。結果は成績に鮮やかに示されていて、私は中学生になって以来、はじめて自分の壁を突破したことを知った。そして、これは、自信ともつながった。
高校二年の時には、本格的な大学入試を意識した勉強にとりかかった。このときも、高一のときのレベルをなかなか突破できないで居たので、高二の夏休みに猛烈に勉強した。そして、二学期になったとき、私はやっと、また、壁を一つ突破できたことを知った。しかし、いきなりトップ グループにおどりだしても、まぐれ当たりのようなもので、その後は、また元にもどるのではないかと、内心、心配であったが、壁を突破し、一段上に確実に上がれば、そんなことはありえないわけであり、以後のテストにおいても、トップ グループの一員として、自分のレベルを維持することが出来た。そしてこれが確実に、学習におけるプランク モデル というか、プランク効果 とも呼ぶべきパターンが成立することを私に教えたのであった。
さて、学習のレベルを高めるためには、徹底的に集中して学習エネルギーを投下することが、自分の壁を突き破る基本だということであるが、その際、どのように実行すればよいのだろうか。これについても、私は今まで生徒諸君に“直接”に、あるいは“母の会便り”を通して、私の考えを述べてきた。
真剣に学習したことが自分の身につき、確実に自分のものとなるのに、私は三つのものが必要であると考える。集中・反復・持続 である。集中して理解した事柄を復習・反復・整理することによって理解度を深め、それを繰り返し行うこと(持続)によって、学習したことがらが、確実に記憶の深部に達するようになるのである。大脳の記憶装置は構造的に作られているらしく、記憶は浅部から深部へと深まっていくようである。記憶部を通らないで、すぐに忘却されることもあり、記憶浅部にとどまっているものは、忘却しやすいわけである。学習がただ一度きりだと、そのとき、わかったつもりになっていても、結局、反復・持続が欠如しているために、せっかく理解した事項が記憶の深部に達していないため、少し時間がたつと、きれいに忘れてしまうことになる。これは、私が数学を指導していて、いつも切実に感じたことであった。夏休み前に理解していた生徒が、休み明け後、ほとんど完全に忘れているということが何度か起きた。一度、理解したにもかかわらず、その後の復習・反復が徹底されていなかったため、ひと月経つうちに、きれいさっぱり忘れてしまうことになったわけである。(私は中二の生徒に中三や高一の内容を教えていた。)
さて、集中・反復・持続は学習段階に入ってからの姿勢であるが、それ以前への問題として学習意欲の増進があげられる。つまり、勉強は自主的に意欲を出して取り組むとき、最も効果が上がるのである。では、この意欲はどうして養成することが出来るのだろうか。ここに“好奇心”をうまくあつかうことの重要性がある。昔、アリストテレスは“二コマコス倫理学”の冒頭で、人間は好奇心の豊かな存在であり、そこからすべての学問が始まったことを指摘したが、まったくそのとおりである。何に対しても貪欲なまでの好奇心・探究心を持つことが、学問を行う基本である。そして、人間は“面白い”ことに対して真剣に取り組み、そのためには“わかる”ということが何よりも大切である。わからなければ面白くなく、眠たくなる。“つまらない”、“やる気がしない”原因は、“わからない”からであることが多い。従って、大切なことは“意欲”をもって、未知への“探究心”をバネとして対象に取り組むことである。そして、わかりだすと、ドシドシ レベルをあげてゆけばよい。取り組む対象に向かっては“集中”して理解し、理解した事柄を“反復・復習・整理”によって確実なものにし、それを“繰り返す”こと(持続)によって、記憶を確かなものとする。“暗記”は理解を深める。こうしたことに心をとめて、効率よく勉強してほしい。 (完)
1985年9月3日執筆 村田茂太郎
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