寺子屋的教育志向の中から - その17 “日本語の魅力”
“日本語の魅力”
以前、会社で財務を担当していて、都合でフレンチ・バンクに電話をしたとき、オペレーターがいきなりフランス語で返事をして、その直ぐ後で、英語のメッセージが続いた。私は、やっぱり、フランス語は音楽的で、耳に美しく聞こえる言葉だなと感じ、改めて、道具言語の感じが強い英語との違いをハッキリ意識した。オフイスでアルメニア人たちがフランス語を話しているのを聞いても、やはり、みごとな音楽性を感じるのが常であった。
さて、言語について考えるとき、どの国の言語が最もすぐれているかという発想は危険なものであり、どの言語もそれぞれの国民にとって完璧なものなのである。ただ、様々の鳥のそれぞれが完璧であるにもかかわらず、それぞれの鳥に違った個性や特徴があるように、世界中の言語も、それぞれの個性をもっているのである。
では、日本語の個性とその魅力とは何であろうか。私の考えでは、やはり、日本の歴史と文化をぬきにして、日本語の魅力も語れない。日本語は表記法と構造に特徴を示すが、日本語を生み育ててきた、気候風土と精神風土、歴史と文化がないところには、言語としての日本語の魅力も半減する。ヨーロッパのどこかのひとが、エスペラントという世界共通人工言語というものを考え出し、私の居た高校にも、そのクラブがあったりしたが、私にとって、文化と歴史、そして主体であるべき国民の居ない言語などは、問題にもならなかった。死語となったラテン語といえども、膨大な歴史と文化を保持しているのである。
私にとっての日本語の魅力とは、従って、古典文化の魅力ということであり、素晴しい日本文化を支えてきた日本語の力強さと美しさという面と、表記法上の魅力という面である。
日本語の表記法の独自性とは、古代知識階級(奈良・平安)による平仮名・片仮名の発明にある。もともと、文字を持たなかった古代日本人が、中国から伝播した高度に完成した文化に驚嘆し、急いで中国文字(漢字)を身に着けようと試み、それに成功したことは、過去の歴史が示している事実である。
中国から伝来した漢字による表記法を使用しながら、古代日本語を書き写そうとした古代人の苦労は、万葉集や古事記に明らかであり、一方、完全に中国語をマスターしたことは、正式の歴史書やほとんどの男性の日記が漢文で書かれたという事実から明らかである。
古代日本人は漢字をそのまま使用しながらも、助詞・助動詞の多い日本語を、そのまま文字に表記する困難さをかみ締めて、やがて、漢字の一部を使ったり、崩した字を使って、仮名というものをつくりだした。これこそ、表記法上に、世界に比類がないともいえる日本語表記の根本を形作るものとなった。 アルファベットで書かれているヨーロッパの言語や漢字ばかりの中国語、そして最近のハングル表記と日本語表記を比較してみると、表記法上の日本語のもつ美しさ、または、すばらしさは明白である。視覚的言語の美点を生かすとともに、仮名との組み合わせによる明快な表記は、すべてを日本語に取り込むという、驚くべき消化力を示すことになったが、新聞を見比べてみれば、表記法上の特徴は誰にも納得できるものとなっている。
一方、日本語の魅力の根本を形作っている古典文化の魅力とは、万葉集(古今集、新古今集)、源氏物語、平家物語、徒然草、芭蕉、西鶴、道元といった古典を原典で読むときに、身にしみて感じられるものであり、明治以降でも樋口一葉や森鴎外、夏目漱石あるいは小林秀雄を読む中で、直接感じられるものである。
日本の古典に見られるもの、それは、自然と人間との調和であり、魂の高揚である。それは四季豊かな自然環境に親しみ、調和・融合しながら、情緒的な感性を育て上げていく態度であり、こころの育成であった。それは、コンラート・ローレンツの言うインプリンティング(刷り込み)に近いものであって、日本人の特性とか心性とかいわれるものは、日本語を土台とした歴史と文化の中で培われてきたものであって、言語と歴史と文化を喪失したところに、日本人的心性が育つはずはない。逆に、地理的に世界中のどこに居ようと、自国の言語と歴史と文化をよくわきまえ、伝統の大切さを忘れない限り、いい意味での日本人的心性とか日本文化は滅びないといえる。ロサンジェルスに居ると、日本人よりも日本的な一世達に出会って、感心することがある。
さて、大岡信の“紀貫之”の中に、吉川幸次郎のエッセーの引用がある。古今集にある貫之の歌「袖ひちて むすびし水の こほれるを 春立つけふの 風やとくらむ」を取り上げて、中国人の学生に日本語を学ぶことの長所を説いたもので、吉川は「この歌が歌っているだけのことを、この通りの構造で、ほかのことばにいいかえることができますか」と問い、その不可能なことを構造的に明らかにしている。「吉川氏がここで説いていることは、事の順序をいちいち論理的に整序して語る西洋の言葉では伝えることのできない、時間の集中的な重ね合わせ、融合の感覚が、日本語では、語そのものの構造からして可能であるということであり、つまり、言語そのものの“結びつきの意欲”において、日本語はいちじるしく立ちまさっているということである。」(大岡信)。
外国人に日本語を学ぶ長所を説く方法として、様々なものが考えられるに違いない。私は吉川氏のような、構造言語的方法などではなく、ただ単純に、芭蕉や平家あるいは西行の世界の魅力を語るアプローチをとりたい。興味が無ければ、それまでで、日常会話程度ということであれば、どの言語も、同等の言語的価値を占めるのである。そして、どの言語も、民族の個性を示していて、興味深いものである。私にとっては、古代知識人による仮名の発明と漢文訓読法の発明は、日本人の特性を最もよく示す、一大文化史的事件であり、日本文化の最大の遺産のひとつである。万葉集や芭蕉や小林秀雄に没頭するとき、私は日本人として生まれたことを心から喜ぶ。
(完) 1990年3月16日 執筆 村田茂太郎
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