自覚と方法への想い “自己探求”
私は幼稚園に通った事はない。昭和十八年生まれで、育ったのは戦後であるため、既に幼稚園の施設もあったに違いないが、ともかく、小学校入学は私にとってはじめての巨大な集団との出会いであった。小学一年というのは、今から数えると六歳か七歳に向かう頃であったわけだ。小学一年の頃は私は大きな子供であった。入学式の写真を見ると、なさけない顔をした図体の大きな私の顔がはっきりと見てとれる。
この入学式は、私にとって一生忘れられない日となった。すべてが無事終わったあとで、小学校の高学年の生徒が新入生歓迎の学芸会を催してくれ、講堂に入って見学することになった。私はその講堂の座席に腰をかけ、舞台の演出を見るときになって、いきなり、恥ずかしげもなくワンワン泣き出したのである。
ある意味では、大学での哲学専攻に至る必然性がこの時点で既に決定されていたのではないかと思えるほどの行為であった。つまり、今でもハッキリ覚えているが、私は幼稚園にも行かず、今まで孤独でいたのが、いきなり大群衆の中に突っ込まれ、心細くなって人目もはばからずに泣き出したというのではなかった。それなら、それで、すぐ説明はつくのである。
そうではなく、私が泣き出した理由は、もっと、特別なものであった。つまり、そのとき、私は先輩達の学芸会を楽しむだけでよいのだとは思わず、“先輩達が、私達のために何かをしてくれる、だから、私はそのお礼に何かをしなければならない、ところが、それに対して、お礼できる何も持っていない。”と考え、何もお礼できない自分というものに心細くなって、いわば、救助手段が見つからないため、思い余って、ワンワン泣きだしたのであった。
これに類した事が、その後もずーっと起こり続けた。もう、泣きはしなかったが、人が親切に何かをしてくれたり、人からもらったりすると、必ず、私はその返礼を何らかの形でしないことには、自分の気持ちがおさまらないのを発見した。そして、成長してから、自分を冷静に観察するようになっても、必ず、同じような情緒的反応が生まれることから、過去に遡っていった時、私は小学校入学式の時に既に同じ反応を起こして泣きだしたことを思い出した。
私は生物学が大好きで、遺伝と環境の問題には大きな関心をもっている。私は、高校以来、自己分析をつづけ、父母や姉の性格や反応を観察し続け、自分のこの奇妙な生理的情緒的反応は、どこに由来するのかと、考え続けた。そして、私自身の結論として、これはきっと乳幼児期の生活環境の中で、丁度、ガチョウのImprinting(刷り込み)と同じように、“何かをしてもらったら、必ずお礼をしないといけない”というメッセージが根源的な形で“刻印”されてしまったに違いないと考えた。そして、六歳の時に既にそうだったのだから、五―六歳に至るまでの時期が最も大切な時期であるに違いないと思うに至っていた。従って、フランスの発達心理学者アンリ・ワロンなどが、乳幼児期を重視することを正しい観方だと考え、まだ、もの心つかない、その大切な時期を人に預けて、共稼ぎする現代の親達を、私は考えの足りない人たちだと考えていた。
そして、この究極的な解決は、自分の子供を二人ほど持って、その成長を仔細に観察していく中で、私自身に納得される形で、解明されていくに違いないという結論に達していた。私は父母と姉と自分自身とに関しては、遺伝的にはかなり自分で納得する形で解明していたので、今度、自分の子供をもてば、そのときこそ、すべてが解明されるに違いないと思っていた。どう間違ったのか、不幸にして、自分の子供をもつ事が出来ず、こうして、アメリカにいるため、姉の子供を観察する機会もほとんど得られなかった。
生まれてから五―六歳に至る時期の重要さは、今では明らかである。たとえば、ジョン・スチュアート・ミルのお父さんは、三歳ごろからギリシャ語・ラテン語を教え、自分自身で子供の面倒を見、成長を見守りながら英才教育に徹する事ができた。子供も天才的な能力を保持していたのは確かだが、私はいつも教育者の方に感心する。ヘレン・ケラーとアン・サリヴァンの場合も同様である。今では、幼児期からの英才教育など常識的になっているが、私が自己分析の結果、その結論に達したのは、高校生の頃であった。もっとも、自分の子供を持たず、教育と指導の中で幼児がどのように成長していくのかを、自分の目で確かめるチャンスがないため、いまだに確認できる状態ではない。果たして、乳幼児期の大人たちとの接触の仲からつかんだものが、大きな影響をのこすのであろうか。
ノーベル生理学賞を受賞したコンラート・ローレンツは、若い頃、(1930年代)に、ガチョウのインプリンテイング(刷り込み)に成功した。鳥の生態研究に始まったローレンツの学問的探求は、動物の行動の研究が科学でありうる事を証明し、現代品性学ともいうべきあたらしい学問分野を確立した。そして、ローレンツが、ガチョウでImprintingを証明しただけでなく、人間に対しても、その幼児期のImprintingを指摘している事を最近知った。
ガチョウの場合、卵を親から隔離して孵化すると、ガチョウは、生まれて最初に出会ったモノを親と思い、終生、なついてしまう。ローレンツがガチョウの子供をゾロゾロと後ろに引き連れて散歩に出かける姿や池の中に一緒に入って泳いでいる姿は写真にも撮られ、非常に有名になった。ローレンツは、人間がある種の風景に対して示す好悪の中にも、同じ様な幼児期の“刷り込み”を認める。これも、彼自身の自己分析の結果であろう、ローレンツ博士は、このように言う。“子供の頃に、その中で生きてきたものを、あなたは永遠に望み続ける、そして、これが、Imprinting<刷り込み>というものである。”と。
ところで、ここまでは、科学的に探求可能な領域である。私は既に膨大な量の“心霊科学”の研究書を読んできた。私は研究態度としては、何事に対してもオープンであるつもりであり、どの領域にも興味をもっているが、曖昧な資料や断定しかねる資料に対しては、性急な判断は下さない。まだ、資料が不足しているというのが、私の率直な感想だが、その一つとして、転生(生まれ変わり、Reincarnation)というのがある。この研究は前世の記憶を持つと言う子供を調べる方法と、催眠術でさかのぼって、生まれる以前に至るという方法がもっとも有名である。
そして、私には、まだまだ疑わしいのだが、この過去にさかのぼることを療法的に利用して成果を上げているという人がいる。(Past Life Therapy などと呼ぶ)。たとえば、夜尿症がなおらない子供に、この催眠術を施したら、前世では魔女裁判の執行吏で、無実の人を池や川に投げ込んでは殺していた、その因縁が今あらわれているとわかり、その原因が了解された時点で病気がなおったといったものである。サイキック ジョーン・グラントの夫である医師は、この催眠術でさかのぼって、胎児のとき、すでに大人の意識を持って、母親の意識を感知している事を知ったと本に書いている。こうなると、SF作家レイ・ブラッドベリーの初期の傑作短編集“October Country”(十月はたそがれの国)の中にある”小さな殺人者“(Small Assassin)の話しなどが、真実性をもって蘇ってくると言える。
さて、そこで、子供を持てなかったために私には完全に解明されていない六歳の時の私の意識の動きの原因は、乳幼児期の体験か、もしそうでなければ、私が生まれる以前に身に着けたことなのかもしれないということになる。それで、探求心旺盛な私は、できれば優秀で信頼の出来る人に催眠術をかけてもらい、過去へ過去へと遡行させてもらいたなどと考える。ただ、その時、心配なのは、今は英語がわかるが、幼少年期では日本語しか通じないはずなので、どうなるのかということである。この領域は科学と迷信とが交錯する領域で、冷静で客観的・批判的な精神を必要とする。私は自分で納得しない限り、認めることは出来ないので、この種の本を読んでも、そんなものかなと思ったり、単純な人たちだなと思ったりする。
こうして、私は、未だに私の六歳の時の行動の謎に対して、解明しきれた状態に達していない。私の幼年期。それは、私にとって謎である。母は美容師(日本髪)として、働きに出かけ、頼りない親戚の老人が、時々、家に来てくれていたのである。何年か前、“かぎっ子”という言葉がはやった。私の体験では、物心がついてからのカギっ子は、親の必然をよく理解し、子供も特に甘えないで、まじめにやるものであり、なんら問題はないし、心配はいらない。やはり、五歳までが、一番重要であるように私には思われる。
ユングの“自伝”を読むと、ユングが三歳か四歳の時に見た“夢”の話が決定的な重要さをもって語られているのが、まず、注目されるが、私にはよく理解できる。ただ、私自身に関しては、乳幼児期にさかのぼるにつれて、たいした記憶も浮かび上がってこないのがかなしい。印象に値するような出来事がほとんど起きていなかったために違いない。今になって、私は、私の乳幼児期を、ジェームズ・ミルほどでなくても、少なくとも発達心理学に興味をもつ私のような人物に育てられていれば、もっと、鮮やかな記憶に残る幼児期を過ごせたに違いないと惜しまれる。そして、今の、子供達を眺め、英才教育について考える時、できるだけ乳幼児期から無理しない程度に、精神を刺激する教育は大切だといつも思う。
私は父母を非難しているのではない。楽しく過ごせた子供時代を思いだしては、いつも父母に感謝している。焼夷弾で家を丸焼けにされ、いったんは窒息死しかかった私と四歳の姉をかかえて、戦後の焼け跡の中から再出発をしなければならなかった父母の苦労は大変であったに違いないし、美容師の技術を身に着けていた母が働きにいってくれたおかげで、言って見れば、何一つ不自由しないで成長できたわけである。ただ、自己分析的・哲学的な私は、自分自身を了解するために、自己にとって暗黒ともいえる幼児期の謎がいつまでも気にかかる。それは、昼、働きに出かけていた父母にとっても、多分、あずかり知らぬ領域である。
昔、“何がジェーンにおこったのか”という恐怖映画があった。ベッティ・デービスとジョーン・クロフォードの主演するサスペンスに満ちた名画である。原題は、たしか“What
ever happened to Baby Jane” とかという題であったので、デービスの怖ろしい行動の背後に赤ちゃんの頃の何かが影響しているというヒントはほのめかされている。私にとっても、自分の六歳の時の号泣は、その背後に何かを察知させるものであった。終戦の時、二歳であった私には戦争の記憶は何もない。四歳であった姉には戦争の、空襲の記憶があるという。終戦の混乱期に、早く物心のつく年齢に達していた姉は、ほとんどゼロから再出発しなければならなかった環境の中で、きっと苦労したに違いないと思う。
たった二年とはいえ、物心がつくかどうかというのは、決定的な差である。私は大学時代、自分の哲学的課題を“自覚と方法”という形でとらえた。“自覚”とは“意味”の探求ということであり、意味とは、人間である自分の自然的・社会的・歴史的・人間的存在価値をあとづけるということであり、それをデタラメにではなく、方法的に行うということにおいて、私の哲学は統一してあらわされるというものであった。
人類の発展と自己の成長とは、まさに人間が自己実現をめざして自覚していく過程であり、哲学とはその“意味”を自覚する事である。そして、私の中の解明されない部分は、いつまでも、私を探求者におしとどめる。私が工学部を中退してまで、自己の欲望(文学・哲学)を追うに至ったのも、既に種が蒔かれていたからだと時に思ってみるのも故無しとしない。
〔完 記 1986年3月13日〕 村田茂太郎
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