寺子屋的教育志向の中から - その16 “海外子女と日本語”
“海外子女と日本語”
私は再び高等部から中等部へと帰ってきた。それは、教育指導に関して、中一が最も向いていると自分で悟ったからである。内容的には高等部のほうが面白いが、ヤル気のない生徒を相手にすること程、厭なものはない。真剣に受け止め、積極的に反応してくれる中学一年生を相手にすることは、遣り甲斐のアルことであり、楽しいことである。
さて、新一年生の学力テストを見せてもらい、それを自分で表にしてみて驚いた。学力の低下、特に国語力の低下が驚くほど顕著であったのである。それは、私の不安が示されたものであった。
私の不安―それを、私は既に「言語と文化」その他の文章で展開し、私がじかに接した生徒諸君に反省の資料として提供してきた。簡単にまとめると、日常会話が出来る程度の日本語で日本語力があると満足し、アメリカで生活するのに、それで充分と考える生徒と親が増えてきていることに対して、日本文化を支える基礎としての日本語修得の重要性、ならびに、高等古文・漢文学習の意義の重大性を指摘したものである。時に、私は、自分は高いものを望みすぎているのかもしれないと思ったりするが、先日、教え子と久しぶりに会ったとき、私の考え方や発想がほとんど全面的に正しいということを確認することが出来た。
英語が良く出来れば、アメリカに生活して、アメリカ人並みに対等にやっていけると考える人が多いようだ。日本語と日本文化をよく理解した上で、そうであれば、問題はないが、日本語、日本文化、日本歴史を充分理解できていなければ、大変な誤りを犯したことになる。日本人は地球上のどこに居ても日本人であり、日本人としての民族の歴史の重みを背負って生きているわけであり、必ず、人生途上であらわれるルートの問題を避けて通ることは出来ない。その時に、日本人でありながら、自国の高度な文化も言語も歴史も充分に理解していなければ、他の国の人々からは笑われ、自分自身に対しては、すべてに中途半端で、何事にも自信のない人間になっていることを発見するであろう。その時に、気がついても、もう遅いのである。
日本語の学習は、何も受験勉強のためにするわけではない。国語力をつけることは、すべてのことに対する基礎であり、充分な国語力なしでは、自分を主張することも、相手を理解することも出来ないであろう。日本は歴史も古く、古代から高度な文化を産出・蓄積してきた。日本文化は世界の最高度の文化と比較しても、少しも遜色がない。そして、現在では、日本語を学び、日本文化を深く知ろうと心がける外国人が出現してきている。ところが、こうした、外国人でさえ、その魅力を見知ると日本語を深く勉強したいと思わせるほどにすばらしい日本文化も、それを充分に理解し、嘆賞し、感得するには、かなり高度な教養を必要とする。つまり、私の考えるところでは、まじめに、高等部の学習を修得することが必要である。具体的には、古文・漢文・に対する読解力・鑑賞力と現代文読解力が必要とされる。もちろん、そんなものを知らなくても日本人として生きていけるし、現に、沢山の日本人が、そのようにして、自分の国の高度な文化の内容も知らず、鑑賞もできないで生きているのが現状である。しかし、若い時期に外国で生活できる幸運に恵まれた人間にとっては、世界的な視野と教養とを備えた文化人として生きていける可能性は大きく開かれているわけであり、その際、自国の文化を深く味わい知ることは、必須の条件だといえる。
これが、私の基本的な考え方だが、最近、こういった考え方をしない人が増えてきており、親の影響をじかに受けた子供は、従って、単純なレベルで日本語を捉え、肝心の国語学習を途中で放棄するケースが多くなっている。これは、まさに親の間違った、浅薄な考え方からうまれた犠牲者といっても、言いすぎではない。子供は何も知らないのだから、親が安易に考えれば、喜んでその方向に向かうのである。
私の不安とは、そうした、あやまった考え方をした親が増え、その影響で、子供の国語力が相対的に低下しつつあるという直感であった。永住組みであろうと、帰国予定であろうと、誰もがしっかりと国語を勉強して、高等部を卒業してもらいたい、そして、現代文・古文・漢文と、なんでも読みこなせるだけの実力をつけてもらいたいというのが、私の願いであり、大切な中学期に、しっかりと、それ相応の国語力をつけてもらい、高等部にいっても、ついていけないために、遊んで過ごすことなどないようにがんばってもらいたいし、そのための努力は私としてもやり甲斐があるというのが、私が中学部へ、そして特に、一年担当を希望した理由である。
アメリカン・スクールで、既に、苦労をしているのに、国語の勉強に更にエネルギーを費やすということは大変なことであるに違いない。しかし、幸か不幸か、海外子女として存在する諸君は、絶対にやりとげねばならない課題として、“国語力の充実”をもっているのである。そして、この国語力をしっかり身につけることは、いくら苦労しても、それに報いられるだけの価値があることなのである。かって、フランスの日本大使であった文学者クローデルは、日本が敵国であったにもかかわらず、その文化の独自性を世界史的な出来事とみなし、日本民族と日本文化の維持を心から願ったのであった。その、すぐれた日本文化も、そして、日本的情緒の在り方も、日本語という言語と、それによって生み出された文学作品・思想を土台として成立しているといってよく、言語を喪失してしまったところには、日本的な感性も存在しなくなる危険がひかえている。
私は、まだ若い諸君が、今からでも遅くないから、しっかりと基礎から国語力を身につけて、英語にも強いが、日本語にも、日本文化や日本歴史にも強い人間に育って欲しいと思う。言語は、いくつマスターしても良く、多いほど、それだけいろいろ役に立つが、まず、マスターしなければならないのは、母国語の日本語である。
(完)1988年4月1日 執筆 村田茂太郎
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