寺子屋的教育志向の中から - その18 国語表現クラス「言語と文化」に対する感想
国語表現クラス「言語と文化」に対する感想
わたしが20年以上前に書いたエッセイ“言語と文化”が、そこに展開された意見に肯定的であるにしろ否定的であるにしろ、なんらかの自分の意見を展開できる材料となるであろうと考えて生徒諸君に感想文を書いてもらった。時間も充分なくて、すこし無理があったと思うが、予想通り、騒いでいたわりには、自分の意見を展開してくれたように思う。
文章表現としては稚拙な面があり、漢字や語彙の未熟さ以外に、文末表現において敬体・常体の混乱が見られ、そのほかいろいろ訂正したいものもあったが、今回は非常勤で、私にはもう指導のチャンスも無いので、それはあきらめて、内容に関してコメントしておくことにした。
予想通り、アメリカに住むのに日本語・日本文化を知らなくても充分やっていけると書いた人がいた。また、あさひ学園の日本語教育に占める位置を正しく自覚している人も沢山いた。また、日本語と日本文化をよく知ることの大切さをわきまえている人もいた。わたしのエッセイの意図はわかるが、それは理想論でないかという意見もあった。
あさひ学園高等部までついてきたひとは、まず立派なものである。中学部だけでやめてしまう人も大勢いるのだ。こないだの授業にたいしては、まじめとはいえなかったが、みな、ちゃんと日本語でおしゃべりができるわけであり、すこし表現に問題があるとはいえ、日本語で読み書き話すことが可能なので、まあ、本当に二世・三世・四世になっていて日本語で話せないという人達よりははるかにベターであるのは事実である。
君たちが“自分は親とあさひ学園のおかげで、日本語はわかるが、アメリカに住むのだから英語さえ出来れば充分”と考える親となったときに、この、日本文化を支える日本語という意識が希薄な場合、自分の子供に、半ば強制的にでもあさひ学園のような日本語補習校や共同システムの日本語学校に子供を通わせないで、アメリカの学校だけで充分という態度をとることになるだろう、そうなると、読み書き話す日本語ではなく、カタコトとしての外国語のようになっていく可能性が多分にある。現に、そのような日系人が多くなってきている現状をみて、これはいわゆる普通に日本語の話せる日本人に、日本語が日本文化を支える基礎なのだという理解が無いために、こういう情況が生まれたのだと判断し、日本語学習の重要性をわかってもらおうと私は思ったわけであった。
日本語に限らず、どこの民族もそれぞれの母国語をマスターするのが世間一般のありかたである。ユダヤ人の子供はヘブライ語を身につけ、ギリシャ人の子供はギリシャ語学校に入ってギリシャ語を学ぶ。中国語・韓国語みな同じである。英語さえ出来ればという発想は、まさに苦労したことの無い日本人の発想である。日本人は、この移民の時代になるまでは日本語の世界で生活し、日本語が水や空気のようになじんだものであったため、日本文化の根底が日本語を基礎にして出来上がっているということになかなか気がつかなかった。日本語の持つ文化的な感覚を忘れ、身に付かないでいると、百人一首の世界に見られる日本的情緒のあり方などもわからなくなり、ますます日本とは無縁になっていく。もちろん、ユダヤ人でもすべてのひとがヘブライ語をマスターしているわけではい。ただ、指導的立場にある人などはすべてそうだという話はひとからきいた。
ひとは何を求めるかによってその人の文化的なレベルもきまってくる。日本に住んでいる日本人で、芭蕉や平家物語、源氏物語や万葉集や徒然草あるいは漱石や鴎外をしらなくても、生活はできるわけであり、現にその程度の人もたくさんいるかもしれない。それは、アメリカ人やイギリス人でシェイクスピアやポー、ジェイムズやフォークナーを知らなくても生活に困らないのと同じである。人間はただ食っていけばよいというのではない。何を求めるかでそのひとの位置がきまってくる。今では、高度の日本文化に関心を抱く外国人が増えてきている。ドナルド・キーンという日本の文化勲章までもらうほどに卓越した日本学者は、アメリカの学生に世阿弥の“松風”を日本語の原典で読む楽しみを教え、“松風”を原典で読んだアメリカ人のすべての学生が、苦労して日本語を学習した価値はあったという感想をもらしてくれたと書いていたが、日本語がもつ歴史的な情緒・感性に接するひとつの例証といえる。
君たちは今、親とあさひ学園のおかげで日本語がある程度わかるから、アメリカに住んでいても特に問題は無いであろう。問題はキミたちが自分の子孫を持つときに発生する可能性がある。親となったキミたちに、日本語の意味とか価値とかといったものに対する理解が欠けていれば、子供たちに、いやがるのを無理に学ばせる必要はないと思うかもしれない、そのときに問題が発生する。キミたちはアメリカに住んでいるからアメリカ人だと思うかもしれない。しかし、アメリカ人であると同時に日本語・日本文化を受け継いだ日本人の血が混じっているということをやめることはできない。日本語・日本文化が世界に恥ずべきものであるなら、隠そうとしても、ある意味では仕方が無いといえるかもしれない。しかし、たとえば源氏物語は世界最初の本格的長編小説であることは、今では誰もが認めているだけでなく、源氏物語を読んだ人は誰もこれを超える小説はあらわれていないと感じるに違いない。谷崎潤一郎の“細雪”が比較されたりしたが、冗談である。わたしは“平家物語”をこえる叙事詩は世界に無いと思っているが、それは有名なイーリアスやオヂュッセイアを読んだうえでの感想である。わたしは平家物語や芭蕉を原典で読めるよろこびを何よりも大切に思う。こういうものを楽しめない人は気の毒に思うほどである。外国人であれば仕方がないといってすませるかもしれないが、日本人であれば、もったいない話だと思う。
くりかえすが、日本語も日本文学も何も知らなくても、アメリカであれ、どこの国であれ、生きていくことは出来るのである。しかし、衣食住だけで満足していれば、これは文化人とか文化的とかいえないであろう。今、あさひ学園の高等部までやってきて、かなりの読み書きができる君たちはそれでよいかもしれないが、日本語がすべての基本だという意識を持たない親になって、子供の指導をというときに、最大の問題があらわれることを今からよく承知しておいてほしい。わたしは日本的愛国心を持てなどといっているのではない。自分のルーツに興味と関心を持ち、同時に責任をもてということだ。日本は歴史・文化・自然・風土とすべてにおいて最高のものをもったすばらしい国である。自分の出自である国日本とその言語・文化を知らなくては世界の一流の文化人と対等に語り合うことも不可能であろう。君たちがその辺のところを自覚して、後悔しない人生を送ってほしい。“我事に於いて後悔せず。”宮本武蔵。独行道。
ロシア人で漱石の弟子となったエリセーエフは、ハーバードの日本語学部を創設し、ライシャワーなどを育てたが、彼は日本的漢文の読み方―訓読方が日本文化の理解に必須だと判断して、ハーバードでは日本的な漢文の読み方を指導した。訓点が有っても無くても漢文を読めるように、今から基本を身に付けておいてほしいと私は思った。男児立志出郷関、学若無成死不還。
2011年2月15日 村田茂太郎
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