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9/01/2018

寺子屋的教育志向の中から - その14 「言語と文化」をめぐる考察

寺子屋的教育志向の中から - その14言語と文化」

第二章言語と文化」をめぐる考察

 これは私にとっては大事な文章で、海外に住んで海外在住の日本人と接する中で芽生えた意識を展開したものです。

 私の海外子女・補習校教育の大事な視点を生み出したもので、日本語と日本文化との関係を考え、補習校教育の中で生かすことができました。

 日本での高校までの国語教育がいかに大切かということを私が実感した場所であり、私自身の日本での国語教育の体験を振り返らせたものでした。

 このあと、国語教育あるいは日本語に関する一連の文章を書きあげて、海外子女の中に国語意識を育てようとしました。

 中学生の中には日本語の日常会話ができるだけで日本語をマスターしたと考えて、補習校の高等部に行かない生徒もおり、(あとで、補習校の高等部が遊びの場と化して、まじめに高校国語を学ぶ場ではなくなっていたことを体験的に知り、これではいけないと特に私は漢文教育に力を入れることになりましたが、)、日本語力がどれほど必要かを子供だけでなく親たちにもわかってもらおうと努力したのが私のそれぞれの文章といえます。

村田茂太郎 2018年8月29日



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“言語と文化”   
                                                              

  私たち夫婦は1986年8月9日夕刻、リトル東京 文化会館前広場での反核集会に参加した。集会のあと、市庁 City Hall前まで、ローソクを灯して静かな行進を行った。


 それほど多くはなかった参加者の大多数はアメリカ人で、日本人はあまり参加していなかったことが、私たちにとっては印象的であった。子供連れの家族で反核のプラカードを自分で作って参加しているアメリカ人たちが何組か居て、私はひそかに感嘆した。このようなつつましいデモでも、それに参加するには、その夜のすべてのスケジュールを無にして、事前にプラカードを作るといったある種のコミットメントが要求されるからである。


 暗いCity Hall 前の広場で、私たちは“西川”と名乗る日系青年と知り合った。私の高校時代の旧友を思わせる好青年で、彼は流暢な美しい日本語をしゃべった。日本が好きで、何度か日本に行ったことがあると語った。そして同時に、サミットでレーガンに手玉に取られたようなナカソネの態度への不満を洩らした。彼は自分たちは三世であるとも言った。私は二世三世にはめずらしい、積極的な世界情勢や日本情勢への関心に感心して聞いていた。なによりも、日系人にはめずらしく、ハキハキとしていた。彼は美しい日本語で私たちと話せることを楽しんでいる様子であった。


 二世三世四世と世代が下がるに連れて日本語力が低下し、読み・書き・話し・聞く能力がほとんど退化し、喪失していく傾向があることを深刻な問題として受け止めていた私にとって、彼のように美しい日本語を話す三世がいたことは、ひとつの驚異であった。


 海外で日本語力が維持発展されるためには、最低三つのことが満たされねばならず、世代が下るにつれて、ますます困難になっていくのが現実の姿といえる。三つとは、家庭環境、本人の日本語と日本文化・歴史への関心、そして本人の努力である。


 私は海外日本人の母国語喪失と日本文化と個人の意識の在り方との関係について、かねてから考えていたことを、彼と語り合いたいと思ったが、つい失念して連絡方法も聞かないで分かれてしまった。残念である。


 私は海外における日本人の日本語力の問題を1.余裕、2.同化、3.言語意識 という三つの面から捉える。


 “余裕”とは、簡単に言えば、外国に出てきた日本人にとっては、それがアメリカであれ、ブラジルであれ、まず、生存が問題となるため、必然的に、経済的、社会的、精神的余裕のどれかが欠ける傾向にあるということである。


 “同化”の問題とは、それぞれの国に出来るだけ早く同化し、土着化することに懸命になるということ、つまり、アメリカの場合、出来るだけ早く英語をマスターして、アメリカ人、アメリカ社会に溶け込み、完全なアメリカ人になろうと努力する傾向があるということである。


私にとっての問題は、第三の“言語意識”というものである。ここで、“言語と文化”というテーマがあらわれる。


 その国の文化というものが、いかに言語を土台として出来ているかという認識が不幸にして欠如していたのが、日本人の場合であった。日本民族は歴史的には征服者・侵略者として存在してきたため、ある国の言語を奪おうとした経験(アイヌ、朝鮮、台湾)はあるが、日本本土において母国語を奪われた経験は皆無である。これは世界史的に見ても、まれなといえる幸運であったが、そのため、逆に、皮肉にも、新たな移民の時代に入った時点において、その不幸が結果的に露呈することになった。


 どのような民族も、どのような困難な状況に陥っても、母国語を子孫に伝えていくものである。流浪の民ともいえたユダヤ人はいうまでもなく、各国の移民は、みな、自国の言語と文化に愛着と誇りをもち、子々孫々に言語と文化を伝えていくことをひとつの聖なる任務とみなしていた。ドーデーの“最後の授業”のように、母国語を奪われようとした人間は、いかに言語がその国の生活と文化とに、密接につながっているかを体験としてつかんでいた。


 不幸にして、日本人には、日本語こそ、日本文化を根底から支えているものだという認識が欠如していたため、余裕と同化の問題が先にたって、異国の地における日本語教育がおろそかになった。それが海外移民の間で起きた悲劇である。


 日本語力を喪失することは、ほとんどそのまま、日本文化や文化意識の喪失であり、日本民族の心の故郷を、ルートを喪失することになる。二世や三世がバナナと呼ばれたり(黄色人種で心は白人並み)、二世・三世がアメリカ人にもなりきれず、かといって日本人でもないという中途半端なルート喪失の意識状態におかれていることは、よく指摘されるが、言語と文化との問題に一度も体験的にめぐりあえなかった日本民族のひとつの悲劇のあらわれと言えるのではないだろうか。


 私はたとえば日本を代表する文化人として松尾芭蕉を考えるが、芭蕉の有名な “古池や 蛙飛び込む 水のをと”を聞いて、説明抜きで何かを感じない人がいたら、私はその人は、少なくとも日本文化の理解者だとは思わないだろう。そして、それが、現に、日本人移民の間で起きたことであり、最近の永住組みにも起きようとしていることなのである。


 日本語など充分にわからなくても、アメリカでは充分やっていけるとか、日本文化などアメリカで生活するのに関係がないと思う人が居るかもしれない。しかし、誰も、歴史を離れた抽象的な世界に住んでいるのではない。日本人がアメリカに住んでいようと、アジア系黄色人種であることをやめることができないように、日本の文化と歴史を完全に喪失したところに日本人がいるわけではない。海外の日本人にとって、日本語と日本文化は、自己の根源を形造るルートであり、それを失ったものは自己のIdentity(身元)を喪失した宙ぶらりんの人間といえる。


 日本人として、日本語と日本文化を充分理解しつつ、同時に、アメリカ人として活躍していける人間こそ、自らの出自をわきまえ、ルートを踏まえた力強い世界市民といえるのではないだろうか。そして、それは、日本に居る日本人に劣らぬほど、日本語力を全領域においてマスターし、日本民族の意識の根源を形造る日本文化を理解し、鑑賞しえて、はじめて成立しうるのではないだろうか。そうすれば、トーマス・マン がかって叫んだように、誰もが自分の居るところに日本文化があるといえるはずである。そこではじめて、まともな国際文化交流が成立することになる。ひとりひとりの日本人が、過去の日本文化とその伝統の重みを踏まえて、世界の超一流の文化人の間に立ち交じって、堂々と対等に交流を行うことは可能であり、日本語と日本文化はそれだけの重みと偉大さを兼ね備えているのである。 
(完)(私の論は大和魂とかとは無縁である。誤解を恐れて、あえて付記しておく。)

1986年12月9日執筆。村田茂太郎




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