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9/21/2018

寺子屋的教育志向の中から - その37 “郷愁” (原田泰治の世界)

寺子屋的教育志向の中から - その37 “郷愁” (原田泰治の世界)



“郷愁” (原田泰治の世界)

                            

 ある時、リトル東京 紀伊国屋書店で文庫本の一部が1ドル・セールになっていた。そこで、私は講談社文庫“泰治が歩く”(原田泰治の物語)という本を見つけた。その中にある彼の絵が、とても素朴で親しみやすいものであったからである。それまで、この優れたイラストレーター、グラフィック・デザイナーの名前は知らなかった。私がLAに住むようになってから、彼の絵画集が日本で出版され始めたのだから無理もない。


 この本は父親が、その生涯の間に書き溜めておいた日記を手がかりとして、小児麻痺・身体障害児であった原田泰治が、さまざまの苦難を経て、独り立ちし、生涯の伴侶を得、素朴画家として日本国中に名前が知れ渡るまでの半生(約40年)を伝記にまとめあげたもので、挿入された28枚の作品の内容とうまく調和して、なかなかすばらしい本となっている。


 泰治の絵は、特に私の気に入ったものであり、文庫本の一つの欠点として、その立派な絵があまりにも小さいため、私はもう少し、大きな画集をほしいと思った。昔、タヒチの画家ゴーギャンは、1メートル平方の“赤”は、10センチメートル平方の“赤”よりも“あかい”というような意味のことを言ったといわれていて、私はそれを本当だと思っている。大きければ大きいほど良いというわけではないが、同じものでも、大きいもので眺めた場合、感動が異なるということは誰も体験しているはずである。そういうわけで、私はこの原田泰治という、すこぶる郷愁をそそる画家の立派な画集を手に入れたいと思い、日本の友人に探してもらったが、なかなか見つからないらしく、いまだに手に入らないのは残念である。仕方なく、この小さな本の絵を眺めて満足している次第である。(2008年 補記、その後、友人は、苦労して手に入れ、送ってくれた。)


 この絵本がどうして、これほどの郷愁をそそるのか。


 私は大阪も府下ではなく、大阪市の東住吉区というところで育った。都会である大阪市の一部であるとはいえ、家のすぐ近くを二つの小川が流れ、今川小学校が出来たころは、あたり一帯は田園風景であった。水田やキャベツ畑が広がり、春ともなれば蝶が舞い、夏にはトンボがいっぱい行き交った。すぐ向かいにあった大きな家の庭ではセミが美しく鳴き騒いだ。そういう中で育った私は、小学時代をトンボを追い、フナをすくってすごした。中学校もやはり田園の中にあり、今、考えると、幸せなことに、私は小中と田んぼの景色を眺めながら学校に通っていたことになる。小3の時から、自転車に乗り始めた私は、中2のときには、理科の実験観察用にと、随分遠くの大きな池までクロモをとりにゆき、理科の女の先生に差し上げたりした。小学校高学年の頃には、友人と、よく大阪と堺を分岐している大和川まで自転車で出かけた。金ぶんぶんをとったり、糸うなぎをとったりして過ごした。そういう風にして、大阪というかなり発展していたはずの都会に育ったにもかかわらず、私自身の成長は比較的、自然の中で、自然と親しみ、楽しむ中で過ごすことが出来たのは、今思うと、とてもラッキーであった。そしてまた、大阪市の一部でさえ、そういう状態であったので、ちょっと郊外へでると、一層、自然な生活が営まれていたのは当然で、家族でのハイキングやピクニックをとおして、或いは、学校の遠足や冬のウサギ狩りをとおして、素朴な日本を知っていった。そして、大阪は京都や奈良と史跡に富む場所に近く、日本国中史跡に富んでいるとはいえ、その最も集中して保存されている街の近くにいるわけであったので、“自然”と”歴史“とが、子供の頃から、私の関心の的となったのは当然であった。


 今、この原田泰治の素朴な絵本を見つめていて、郷愁の思いにかられるのは、私自身は山に育ったわけでもなく、農家に育ったわけでもないけれど、私自身の成長の過程で、いつも、どこかで、眺めてきて、いつのまにか心にしみこんでしまっている景色だからである。


 18歳の春には、岡寺から石舞台へ家族で歩いたし、19歳の春には、一人で奈良のお寺めぐりをやって、あるときには一日中歩いて七つのお寺を訪問したりした。昔そのままの白壁の塀を辿り、農家を横に見ながら歩き回った思い出が、いつのまにか心に深く刻まれていたのだ。ある時期は、父と二人で毎年、春に、二上山へ登って、大津皇子の墓を訪れ、その帰途、当麻寺へ立ち寄り、山村の農家のたたずまいを心に味わって、満足して帰ってきた。


 熱中して眺めたもの、体験したことは、どれも心の奥深く、その印象がきざまれていて、忘れることがない。旅行をいつも楽しんだ私は、すべての光景をむさぼるように眺め味わった。美しい自然に囲まれた日本では、いたるところ、のどかで、落ち着いた風景があった。自然の中での生活の営みは厳しいものであったに違いないが、そこに展開される景物は、アラブ世界のドライな光景とは異なり、大人をも、子供をも楽しませ、心和ませてくれるものであった。


 今、この泰治の画を見ていくと、どれも、どこかで私が目撃したり、眺めて過ごした光景であり、それがクールベやドービニー風の写実主義のタッチではなくて、まさに郷愁にふさわしいファンタジーのタッチ、切り絵的な素朴なタッチでみごとに描出されているのだ。


 解説によると、原田泰治は、朝日新聞日曜版に連載のため、日本全国をとびまわって、取材し、日本の素朴で、消失寸前の風物を、童話風な彼のタッチで絵にまとめあげているという。すばらしい仕事であり、やり甲斐のある仕事である。生活様式や風習は、いったん失われてしまえば、もう元に返せない。戦後、おそろしい勢いですすんだ、都会化の波は、素朴な山村の生活をも巻き込んでいった。便利になったのは事実だが、大切なものが次々となくなっていったのも事実である。そして、原田の絵は、写真では伝わらないムードと郷愁を私たちに伝えてくれる。


(完) 1985年9月20日 執筆   村田茂太郎

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